日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

オーリック提督の日本派遣

 オーリック提督の提案と日本派遣
(ウェブスター国務長官書簡:The Papers of William Alexander Graham, Vol. IV 1851-1856, The North Carolina Department of Archives and History, 1961, Hamilton)

アメリカ海軍省は1851(嘉永4)年2月11日、ジョーン・H・オーリック(ジョンとも)をアメリカ東インド艦隊司令長官に任命し、赴任を命じた。新しく提督になったオーリックは、早速出発の準備と情報収集を始めたはずだ。当時海軍長官を務めたウィリアム・A・グレイアムの書簡集(典拠:上記)によれば、当時のダニエル・ウェブスター国務長官からグレイアム海軍長官が受け取った 1851年5月9日付けの書簡にいわく、

おそらく公報でご存知の如く、一群の日本人が、日本から6百マイルも離れた洋上でジェニング船長の帆船・オークランド号に救助され、親切に面倒を見てもらい、サンフランシスコ港に移送されて以来、税関の船・ポーク号に乗り組み、故国に帰る機会を待っています。
オーリック海軍大佐が私に提案し、私も全く同感ですが、この状況は、帝国・日本と通商関係を開く好機会をもたらすか、少なくとも彼の列島と交渉を始める容易な足掛かりになる可能性があります。
こんな状況下でお問い合わせをしたい事は、公用の妨げにならず、サンフランシスコでこの不幸な日本人を乗せ、香港まで移送できる小型の公用船が合衆国の西海岸にあるかどうかと云う事です。オーリック提督は、日本国皇帝に宛てた合衆国大統領からの国書を届ける責任を委託されます。そして、この日本人水夫達がこうして香港まで移送され提督の到着を待っていれば、提督指揮下の軍艦の一艘に乗せ、彼等の故国に戻します。提督はおそらくこの職務に於いてそうする事になりましょうが、威圧的な海軍力に伴われ、この不幸な日本人達を無事に帰郷させると云う行為で皇帝の心中に本政府に対する親切な意向を惹起すれば、更に重要なオーリック提督の使命達成の幸先のよい出来事になると確信します。

このウェブスター国務長官の書簡が伝えるように、オーリック提督の提案により、ペリー提督派遣以前に、日本にフィルモア大統領の国書を届け、通商条約を結ぶ指令が、全権を与えられたオーリック提督に出されたのだ。

これまでに書いたが、脱走したラゴダ号船員が蝦夷地で日本側に保護され長崎に送られると、この情報が長崎のオランダ商館から広東のオランダ領事を経由し、広東のアメリカ公使館に伝えられた。アメリカ政府は早速軍艦・プレブル号を長崎に派遣し、1849(嘉永2)年4月、保護された遭難船員を救助させた。その後更に幾つかの任務を終了した軍艦・プレブル号は、1850(嘉永3)年11月、アメリカ東海岸の母港に帰還した。艦長であるジェームス・グリン海軍中佐は当然、その後少なくとも1、2ヵ月以内には海軍省に出頭し、公式な帰国報告を済ませたはずだ。筆者は、当然その詳細な報告を海軍首脳部のオーリック提督も聞き、ペリー提督も聞いたと考える。このグリン海軍中佐は、日本とは直ちに条約を締結する事が是非必要だとの強い意見を持っていたから、ラゴダ号船員が日本で手酷い待遇を受けたというアメリカ政府にとって緊急性の高い問題に対し、上記書簡の如く、オーリック提督もウェブスター国務長官に対策を提案し、ペリー提督も独自の日本遠征基本計画筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) を1851年1月(嘉永3年12月)、グレイアム海軍長官に提出したのだろう。

 オーリック提督に与えた、フィルモア大統領の日本向け国書
(オーリック提督に委ねた国書:32d Congress, 1st Session, SENATE., Ex. Doc. No. 59)

ミラード・フィルモア大統領は1851(嘉永4)年5月10日付けの国書をしたためた後、オーリック提督に全権を与え、日本との通商条約締結を命じ、国書を委ねた。この国書いわく、

日本国皇帝陛下へ、アメリカ合衆国大統領 ミラード・フィルモア

偉大なる善き友へ。

私はこの書翰を、我が国の高官であり、宗教伝道者ではない、私自身の任命による全権使節に託し陛下に送る。使節は私の指示により、陛下に宛てた私の挨拶と善き祈念を携え、二国間の友好と通商促進のため、貴国に赴く。
ご存知の通り、アメリカ合衆国は今や海洋から海洋に広がり、素晴らしいオレゴンとカリフォルニア地域は合衆国の一部であり、我が蒸気船は、金、銀、宝石を多く産出するこれらの地域から貴国の平安の地に20日以内に到達できる。
今や多くの我が船舶がカリフォルニアと支那の間を毎年、あるものは多分毎週運航し、こんな船舶は貴帝国の沿岸を通過するに違いなく、嵐や暴風で貴国海岸に遭難するかも知れないが、貴国の友情とその偉大さをもって、我が国民への親切な取扱いと我が財産を保護する事とを願い且望む。我が国民が貴国民と貿易することが許される事を望むが、彼等が貴帝国の法に触れる事は許さない。
我が目的は友好的な通商貿易で、それ以外の何物でもない。貴国には、我々が喜んで購入したい多くの産物があり、我々にも、貴国民に適当と思われる産物がある。
貴帝国には多量の石炭が産出し、それが、カリフォルニアから支那に行く我が蒸気船が是非必要とする物である。貴帝国に石炭が搬入できる一港が指定され、常にそこで購入する事が出来れば、喜ばしい事である。
その他の多くの物事についても、貴帝国と我国との通商は双方にとって有益である。我々二国間を非常に近づけた最近の出来事から、如何なる新しい有益なものが出てくるか、そして双方の国家統治者の胸中に、友情と和親と通商のどんな決意を奮い立たせるべきか、互によく考えようではないか。ごきげんよう!
自らの署名と印璽の下、ワシントン市に於いて、1851年5月10日、合衆国独立75周年。   ミラード・フィルモア。
   大統領に侍して、D・ウェブスター、国務長官。

この国書の中で、最初の文章にある 「我が国の高官であり、宗教伝道者ではない」 は、ジェームス・グリン中佐提出の日本開国に関する意見書筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) の中にある 「彼等の宗教につき立ち入る意思は全くない事を明確に保障する」 という意見を反映したものであり、最後の文章にある 「我々二国間を非常に近づけた最近の出来事」 とは、軍艦・プレブル号を長崎に派遣し保護された遭難船員を救助させた一連の出来事を指すものである。従ってこの文面は、グリン中佐のフィルモア大統領に宛てた上記意見書を色濃く反映している事が良く分かる。また宗教に関しては、ペリー提督に与えた国書にも反映されている。

この様に基本的な内容は、次回の、ペリー提督がもたらした国書筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) と近似しているものだった。、全体的にはほぼ同じ内容ながら、このオーリック提督に与えた国書とペリー提督に与えた国書から筆者が受ける印象は、後者はより多く説明する親切さと、日本の立場と日本のためをも思う誠実さも感じられるものである。

 ウェブスター国務長官からオーリック提督に与えた日本遠征指令書
(オーリック提督への日本遠征指令書:32d Congress, 1st Session, SENATE., Ex. Doc. No. 59)

ウェブスター国務長官は、この大統領の国書と共に、詳細な1851年6月10日付けの日本遠征指令書をオーリック提督に送り、日本行きを命じた。いわく、

海洋を結ぶ蒸気船航路の最後の鎖の輪が完成すべき時期が間近に迫っている。支那と東インドからエジプトを通り、そこから地中海と大西洋を横切りイギリスに渡り、更にそこから我が幸福なる海岸に至り、またこの偉大な大陸の反対側の岸まで連結していて、我国の港から二つの西側大陸(筆者注:南北アメリカ大陸)をつなぐ最南端の地峡(筆者注:パナマ地峡)まで連結もし、その太平洋岸から文明が拡大する限り南北に向かい、他の国々と我国の運転する蒸気船が、情報や、世界の富や、沢山の旅行者を運んでいる。
そこで、カリフォルニアから支那まで蒸気船航路の早期確立により、進取の気性に富む我が商人達が、全世界の国々を連結する最後の鎖の輪を提供できるよう、直ちに地慣らしを始めるべきだと言うのが大統領の意見である。この事業を促進するため、日本の皇帝から、我が蒸気船の往復航海で必要とする石炭の必要量を、その国民から購入する許可を入手できれば好都合である。過去二世紀にわたり、帝国・日本は良く知られる通り厳重に警戒し、他国から船の入港のため日本の港を開いて欲しいという申し出でを拒否し、日本の排他的方針の新規変更努力を阻害してきた。
しかしながら、商業的利益のみならず人道的な利益に於いても、彼の国の君主に、その職人の造る製品やその農夫の努力した作物ではなく、日本列島の地下深く全能の創造主によって分け与えられたその土地の贈与物を我が蒸気船に売ってくれるよう、人類の利益のため更なる請願をすべき事が必要である。
今、大統領の指示により、(封をしない)日本皇帝宛の国書を貴官宛てに送るので、この目的のため貴官は、貴官指揮下の艦隊のできるだけ多くの軍艦を伴い、旗艦に乗り組み、この国書を皇帝の首府・江戸にもたらすべし。
・・・
大統領が貴官に全権を付与する書類を同封し、更に、必要に応じ貴官が前例として参考に出来るよう、合衆国と支那、シャム、マスカットとの条約のコピーを同封する。我が国の船が日本の一港又それ以上の港に入港し、巨額な入港税無しにその積荷を売却またはバーター取引で処分できる権利を確保する事が重要で、またそれ以上に重要な事項として、日本政府が日本の沿岸で遭難するアメリカ人水夫とその財産を保護する義務を負う事である。マスカット条約の第二条及びシャム条約の第五条がこれを含んでいる。
貴官は承知の如く、全ての条約は上院に提出し批准されねばならない。二国間の長大な距離や予期できない困難を考慮し、条約の相互批准期間を三年に固定するよう提案できれば、慎重なやり方と言えるだろう。
      ダニエル・ウェブスター
ジョーン・H・オーリック提督殿

この様に、日本開国に非常に熱心だったウェブスター国務長官らしい書き出しの指令書が、全権を付与されたオーリック提督に出された。しかし本文に引き続き記述の如く、オーリック提督は、この時からわずか5ヶ月足らずで更迭される事になる。

またこのウェブスター国務長官からオーリック提督に与えた日本遠征指令書の内容は、ペリー提督が任命され「日本遠征計画」が世間に広く知られるようになったタイミングで、ペリー提督の日本遠征計画に関連した情報として、1852年4月26日付けの「ニューヨーク・デイリー・トリビューン紙」に掲載されている。

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07/04/2016, (Original since 08/23/2014)