日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ペリー提督は林子平の書いた「三国通覧図説」をも読んでいた

ペリー提督は日本への第1回来航の直前、琉球の那覇から小笠原諸島の父島に行き、島々を調査し、当時のアメリカやヨーロッパでポート・ロイドと呼ばれた現在の父島の二見港で石炭貯蔵に最適な土地を購入した。この小笠原諸島行きの経緯を報告するため、ペリー提督は非常に長文な報告書簡を本国の海軍長官へ宛てて発送した。

♦ 那覇から海軍長官へ宛てたペリー提督の書簡
(典拠:33d Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No. 34.

この書簡の中でペリー提督は、自身の日誌からの抜粋を添付し、日本本土からの「無人嶋(むにんじま)」即ち小笠原諸島への航海経路や距離、産物や地誌などを天明5(1785)年に林子平が書いた地理書「三国通覧図説」の翻訳版「SAN KOKF TSOU RAN TO SETS.」から転載した記述を載せている。この翻訳版は1832(天保3)年にハインリヒ・ユリウス・クラプロート(Heinrich Julius Klaproth)が林子平の「三国通覧図説」をフランス語に翻訳し解説を付けパリで発表したものだが、その中に述べられている如くに、またペリー提督が別資料として読んだエンゲルベルト・ケンペルの「日本誌(The History of Japan)」の中にも記述される如くに、「小笠原島の最初の発見者は日本人」としている。このペリー提督の海軍長官宛の長文書簡いわく、

1853年6月25日、
琉球島、那覇、US蒸気フリゲート艦・サスケハナ号にて。

 拝啓、石炭調達と(ウィリアム氏が広東から連れて来た人物は重い病気で臨終を迎えつつあるため)有能な支那人通訳を雇うため上海に向け派遣した石炭補給船の帰港を待たざるを得ないと言う避け得ない艦隊の当地滞船の期間を利用し、この夏にボニン諸島(筆者注:小笠原諸島)を訪れるのは、これ以上無い好機会であると思いました。従ってミシシッピー号とサプライ号を那覇に残し、本官はサラトガ号を牽引しピール島(筆者注:父島)に向け航海し、当月14日の朝ポート・ロイドに停泊しました。
 この様な遠隔地に航海する船舶の避難と補給のための港を探し確立すべしと言う本官への命令により、我々が現在停泊し且つボニン諸島の主要港であり、その上航海航路網を形成する上で通常の寄港に便利である、即ち、非常に切望されている事で、若し達成されれば傑出した出来事になり、近年の目覚ましい発展の時代の歴史に於てさえも合衆国と世界の通商上最重要な出来事になる、近々確立されると信ずる我が国の太平洋岸の港の一つと支那を結ぶ郵便蒸気船の適当な寄港地になるであろうこの港を、本官は航海の初めから常に心に留めて来ました。

この様に書き出した後ペリー提督は、合衆国やヨーロッパへの上海から東回りと西回りの郵便輸送に関し、必要になろう日数と航海・輸送距離を考察し、太平洋航路はその商業活動上に貢献が大きい事を述べている。更に唯一の問題点として、この様にその重要さが急速に増すであろうボニン諸島は国際間の帰属権が確立していない事実を挙げ、このままでは合衆国の投資に問題が出る点を指摘した。ボニン諸島は1827年にイギリス海軍の測量船・ブロッサム号のビーチ―艦長の測量がなされ、領有が宣言され、島々に英語の名前が付けられた事実を記述し、その後ロシア海軍も同様に行動し、アメリカの捕鯨船と思われるコッフィン船長も来て島の一つに自分の名前を付けた事実を述べた。更にまた、間違いなくこれらの島々の第一発見者は日本人であり、一時期住んだ事もあり、その後スペインやポルトガル、オランダなども島の存在を知ったであろう。この様に発見の歴史を記述した後ペリーは、この島々の公式使用のため、合衆国政府と英国政府の話し合いを提案した。また海軍省が望むなら、アメリカ合衆国の名の下に領有すべき処置を取るとも提案している。更に述べて、これから日本との交渉がどう展開するか不明ながら、最悪でもこのポート・ロイドと那覇港は確保できるので、琉球の人々と更なる関係強化策を講ずるとも述べている。しかし未だ合衆国からの日本遠征艦隊に予定された艦船が到着せず、現在指揮下にある士官や船員も不足している現状では、これから日本に行くが、出来る事は江戸湾の測量調査と日本側の出方を探る位が精一杯かも知れませんと述べた。

この後に続けて、ペリー提督が自身で記録していた1853年6月14日から18日にかけた日誌の抜き書きの写しを添えて、この島の細かい状況を報告している。いわく、

 ボニン諸島はほぼ南北方向に北緯26度30分と27度45分の間に広がり、諸島の中心線の経度は東経142度15分であります。
 中心をなす島々は、全くその総ての島々は、女王海軍軍艦・ブロッサム号のビーチー艦長により命名されました。北側の集団をパリー群島と呼び、大きな3島からなる中央集団の島々を夫々に ”ピール”、 ”バック・ランド ”、 ”ステイプルトン” と名付け、南側の集団を ”ベイリーズ・アイランズ”と呼んでいます。
 南側の集団は、明らかに1823年コッフィン氏指揮の捕鯨船が停泊し、その位置情報を最初に合衆国に知らせ、停泊地に彼の名前を付けました。しかしながらその諸島はどんな特徴的な呼称も付けられていなかったので、天文学協会の前会長フランシス・ベイリー氏を記念し命名しました。

そして更に詳細なボニン諸島の地形、水資源、産物、農園拡張の可能性、豚、ヤギ、鹿、牛、羊、アオウミガメなどを調査して列挙している。この中に、エンゲルベルト・ケンペルの「日本誌」からの引用や、ハインリヒ・ユリウス・クラプロートが翻訳した林子平の「三国通覧図説」の中にある「無人嶋」の項目の引用がある。ペリーのこの「Extracts from Klaproth's translation of San Kokf Tsou Ran To Setsクラプロート翻訳の San Kokf Tsou Ran To Sets からの抜粋)」と典拠を明記して記述した引用文いわく、

 これら島々の元の名前は小笠原島であるが、それは通常無人島(Mon-nin-sima)、(支那語では Wu-jin-ton)と呼ばれ、即ち人の居ない島の意味であり、これが当著者がその記述に使用するものである。その小笠原島(O-gasa-wara-sima)即ち小笠原-諸島(O-gasa-wara Islands)は、航海者がそこに最初に航海し、その地図を造った事から名付けられたものである。新世界の南部分が(マジェラン(Magellan)により)200年ほど前に発見されマガラニヤ(Magalania)と呼ばれるものと同様である。・・・

これは即ち林子平の「三国通覧図説」、「無人嶋」部分の著述内容、即ち、

此島 本名小笠原嶋ト云ドモ 世挙テ無人嶋ト称スル故、称ニ随テ無人嶋ト表スル(ナリ)、小笠原嶋ト名ツケシヿ(コト)ハ昔時小笠原某此嶋ヲ見出シテ地図ヲ持皈(モチカエリ)シ故、名付シ也。二百年前、伊太里亜人、メガラニユス ト云者南方ニ新世界ヲ見付タルヲ直ニ メガラニカ ト名ツケタルガ如シ。・・・

からの翻訳文である事が分かる。

♦ 小笠原諸島の発見と調査

この林子平の書いた「三国通覧図説」、「無人嶋」部分に記述される、この諸島を調査確認する記述にいわく、

此無人嶋ハ延宝三年肥前国長崎ニ於テ唐船仕立ノ舩ヲ造営有テ其舩ヲ伊豆国へ廻シ長崎ノ住人嶋谷市左衛門、中尾庄左衛門嶋谷太郎左衛門、此三人ハ学術有テ天文地理ヲ知者也、江戸小網町ノ大工八兵衛等ヲ首立トシテ惣人数三十余人、御印ノ旗ヲ賜テ同年閏四月五日伊豆ノ下田ヲ出帆シ先ツ八丈ニ至テソレヨリ段々東南ノ洋中ヲ探テ終ニ八十余嶋ヲ見定メ、嶋ノ大小天度ノ高下、草木産物等ヲ詳ニシテ同年六月二十日再ヒ伊豆ノ下田ヘ皈帆スト云リ。此ニ記ス所ハ彼ノ嶋谷家ノ記録ニ攄(ノベル)モノ也。
と出て来る。延宝3(1675)年当時の幕府はどんな経緯で嶋谷市左衛門他30数名乗組みの「唐船仕立」の調査船を「無人嶋」に送ったのだろうか。

そもそも小笠原諸島の発見については明治の初期頃まで、林子平の言う「小笠原嶋ト名ツケシヿ(コト)ハ昔時小笠原某此嶋ヲ見出シテ地図ヲ持皈(モチカエリ)シ故、名付シ也」という記述通り、小笠原貞頼の発見と言う著述も見かけるが、確実な史実が不明だという。しかしこの延宝3(1675)年の調査より5年前の寛文10(1670)年には実際小笠原島への漂流者がいて、伊豆に生還した事実があった。この漂流・生還の経緯については、当時幕府が調査した漂流者の「口書」即ち聞き取り調査の記録がある。これは、独立行政法人国立公文書館・内閣文庫に「寛文無人島漂流記、無人島漂流記、辰巳無人島書留、延宝無人島順見記」([請求番号]185−0167)と題する和綴じ筆写本がある。この中の「寛文無人島漂流記」は漂流後に無人島即ち小笠原島に漂着し、伊豆に帰って来た漂流者の申し立てであり、事実を伝えるもので、この事件が幕府の調査船派遣のきっかけである。その漂流者の「口書」いわく、
紀州藤代
 長左衛門口書
一、紀州藤代商船酉極月(ごくづき=12月)六日、勢州阿のり浦にて大風にあゐ申候。夫より当正月迄東へ流され、正月中旬より東北風吹申、当二月廿日時分彼島へ流れ着申候。此島は八丈嶋より三百里程南に当り候様に覚申候。右之嶋人無御座候。
一、乗参候舩破損仕り候に付右之船板にて小船を造り、四月に右之島出船、昼夜八日北の方へ走り候得ば八丈島へ着申候。
一、当五月五日に八城嶋出船仕、同七日に伊豆下田浦へ参着仕候。

と述べ、船の漂着した周りの島々を探索した。その結果、島々の大きさと数、生えている木々、十七、八里ある大きな島の平地、この島の沢から流れ出る清流水、その川にある岩石、そこに獣は居ないが魚や鳥が多い事、大船の停泊できる湾がある事、その他の観察事項を報告している。この結果が上述「三国通覧図説」にある嶋谷市左衛門の調査船派遣につながったのである。

♦ 小笠原諸島に関するオランダ商館長の知識

上記ペリー提督の書簡の中の小笠原諸島に関する歴史の説明に、「その後スペインやポルトガル、オランダなども島の存在を知ったであろう」との記述がある。これに関して林子平著述の「三国通覧図説」の「無人嶋」の部の最後に、長崎に行き「和蘭人アヽレントウェルレヘイト」に会ったと出て来る。いわく、

安永年中小子肥前ノ鎮臺館ニ遊事シテ崎陽ニ至リ和蘭人アヽレントウェルレヘイト ニ會ス。其地理書ゼオガラーヒ ノ説ヲ談ジテ、日本ノ辰巳二百余里ニ嶋アリ。ウ―スト、エーランド、ト名ズク。ウ―スト ハ荒地、エーランド ハ嶋ノヿ也ト語レリ。又言テ曰此嶋、無人ナレドモ草木多キヲ見レバ不毛トハ言難シ。日本ヨリ人ヲ蒔キテ一州ノ地ト為テ五穀産物等ヲ仕立バ海遠カラザル故、大利アルベシ。和蘭ヨリ、コンハンヤヲ立ルニハ海遠ク国小ニシテ費ニアタラズ ト云リ。小子ヘイト ガ言ヲ然リトス。仍(ヨリ)テ亦復参考ノ為ニ此ニ記耳。無人嶋略説大尾

ここで林子平が言う「和蘭人アヽレントウェルレヘイト」とは、長崎出島商館長・アレント・ウィレム・フェイトのことで、1771年11月10日から1781年11月23日までの約10年間に合計5回来日し商館長を務めた知日家である。「安永」年間は1772年12月10日の安永改元から1781年4月25日の天明改元までほぼこのヘイトの任期と重なる。林子平が何時このフェイトに会ったかは不明ながら、出島のオランダ商館長までも小笠原諸島と思われる島を知っていた訳で興味深い事実である。

林子平の言うこの「地理書ゼオガラーヒ」即ちドイツ人のヨハン・ヒューブナー(Johann Hübner)原著のオランダ語訳「ゼオガラヒー」は、日本の蘭学者にもよく知られたものだと言う。また当時、林子平がフェイトに会えたのは、特別なつながりや紹介があった様に見える。即ち、長崎の学問に長じたオランダ通詞達との交流があったのであろう。

この小笠原諸島は勿論上述のエンゲルベルト・ケンペルの「日本誌」の中に出て来る。いわく、

ほぼ1675年ころ日本人が偶然にも非常に大きな島を発見した。1艘の帆船が嵐で八丈島からその島に吹き寄せられ、彼等の計算では八丈島から300マイルの東方であると言う。そこは誰も住んで居なかったが非常に快適で果物が実る土地で、充分な清流が流れ、多くの草木があり、特にヤシの木が多く、これからの想像では、ヤシの木は熱帯にのみ育つので、その島は日本の東方ではなく南方であろう。その日本人達はその島をブネシマ(Buneshima)、即ち、ブネ島(Island Bune)で、そこには誰も住人が居ず、人の住まない島と言う文字を宛てたのである。海岸には大量の魚とカニがいて、あるカニは4から6フィートもの長さであった。

このケンペルは1690(元禄3)年にオランダ商館付の医師として2年間ほど出島に滞在し、元禄4年と5年に続けて江戸参府を経験し、将軍・徳川綱吉にも謁見した。帰国後の1727年「日本誌」はロンドンで出版され、大評判になったと言うから、商館長・フェイトも良く知っていたのだろう。

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10/20/2019, (Original since 10/20/2019)