日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

栄力丸の17人の救助

太平洋を漂流していた栄力丸の17人がアメリカの帆船・オークランド号に救助され、サンフランシスコ港に着いた記事が、サンフランシスコの「デイリー・アルタ・カリフォルニア紙」で複数回に渡り報道された。

このデイリー・アルタ・カリフォルニア(Daily Alta California)紙は、サンフランシスコで1849年の1月からカリフォルニア州最初の日刊紙として活動が始まったが、その前身のカリフォルニア・スター紙は、1848年1月に近くのコロマにあったサッターズミルで金の発見が知られ、従業員が全員で金鉱探しに行ってしまい、発行中止になったというエピソードがあるという。

♦ 1851年3月5日の朝刊に載った記事

日本人の救助を伝えるデイリー・アルタ・カリフォルニア紙の記事いわく、

支那と日本
支那から70日がかりで昨日入港したバーク型帆船・オークランド号のジェニングス船長からの情報によれば、日本沿岸から500マイルほど離れた海域で、完全に浸水した日本の帆船に遭遇した。17人の乗組員はジェニングス船長に救われ、今ジェニングス船長の船に乗っている。彼らは50日も難破船状態で非常な緊迫下にあり、食料も尽きていた。勿論、乗っていた人々とは手真似以上に話は通じなかったが、船長から受けた援助と親切な扱いに非常に喜んで居る様子だった。陸地に向かうと、はっきりと喜びと信心の心とを表した。彼らは持っていた箱をジェニングス船長に差し出したが、その中には船の登録書類等々であろう物や、非常に変わった代物に見える一枚の地図、我々が使う物から比べれば全く違ったコンパス、そして日本の金貨や銀貨が入っていた。

この出来事は、日本と通商を開こうとするには良い機会になろうと思われる。こんな人々は適切に扱い、日本政府に提案する権限を与えられた司令官が乗り組む、我が軍艦に乗せて送り返すべきである。

この様な短い記事ではあるが、幸運にも栄力丸の17人が救助され、サンフランシスコ港に着いた事を知らせ、すでに日本の開港に役立てようとする意見を表明していた。

♦ 1851年3月17日の朝刊に載った記事

前述の記事に引き続き、しばらくして救助された栄力丸の日本人たちに面会した記事が掲載された。この記事いわく、

日本人と1時間の面会
税関の検査官、C. C. P. パーカー氏の厚意により、昨日の午後、バーク型帆船・オークランド号を訪れ、故国からほぼ500マイルも離れた海上でオークランド号に救助された17人の日本の住民と会った。彼らは元気そうに見える人達で、最も年長者は70才だった。W. F. ジェニングス船長とオークランド号航海士のH. S. サルターズ氏からの情報では、2月22日、北緯31度54分、東経105度14分(筆者注:東経165度14分か)の海上で帆柱を失った帆船を発見し、救助を試みた。漂流船の人達は彼らの小舟に乗り、オークランド号に乗り移り救助された。遭難者達は暴風で吹き流され、帆柱を失い、転覆しかかっていたのだ。この船はおよそ600トン積で、大切な積荷を満載していた。手まねで、彼らが救助された時はほとんど50日も海上を漂流していて、全く疲労困憊していたと聞いた。難破船から持って来た物は、公式文書や医薬品、日本沿岸地図、コンパス、そして金貨、銀貨、銅銭等々の一包みだった。彼らはオークランド号のジェニングス船長や士官、乗組員から非常に手厚く待遇されていた。我々は、遭難者達が毎朝、日の出と共に起き、冷水で体を洗ったと聞いた。彼らは太陽や月や風を崇拝し、毎日定期的に太陽に祈った。彼らの一人は、満帆で走る乗っていた船の絵を描いた。

救助された日本人は、ワシントンの政府から彼らに対する指示が届くまで、明日あるいはその次の日に武装税関警備船・ポーク号に乗組むと理解している。税関長のキング氏はすでに大統領に事実関係を報告済みで、軍艦がこの救助された船員たちを故国へ送り返すため派遣される様子である。蒸気軍艦・サバンナ号が現在ニューヨークからサンフランシスコへ航行中で、サンフランシスコ港から日本に向かう予定であると言われる。この人たちを故国に送還する効果は、確実には予想できない。彼らは昨日初めて上陸したばかりで、目にするものを非常に楽しんで居る様子である。我々は、この人達がアメリカ大陸に初めて足を踏み入れた日本人だと信じる。我々は、アメリカ政府が出来るだけ早急に彼らを日本へ送還する手段を準備する事を期待し、キング氏は彼らに必要なもの全てが用意されるよう見届ける事を期待する。

日本との通信の結果は、次回の記事の主題になるだろう。

この様に難破し漂流した栄力丸の17人の乗組員と面会し、手まねで情報収集をしたが、すでに税関長から大統領に報告書が出され、実際に実行されることになる軍艦で日本に送還しながら日本開国を模索する計画が出来つつあった様だ。

♦ 1851年3月23日の朝刊に載った記事

救助された栄力丸に乗組んでいた日本人の中の最年少の少年について、興味ある記事がデイリー・アルタ・カリフォルニア紙に載った。記事いわく、

日本人の少年
バーク型帆船・オークランド号に救助され、この港に連れて来られた遭難した日本人の中に、14才ばかりのサコ( Saco )という名前の少年がいる。彼は、どこの国でもよく見かける様な、聡明で知的な小さい子供で、その澄んだ黒い瞳は、彼にとって異国であるここで見たもの全てを飲み込んだように見える。彼は非常に丁寧で、アメリカ人に話しかけられると非常に低い声でうなずく。この町のある紳士は、若しサコがここに留まりたいのなら、ぜひ自分の使用人にしたいと思っているようだ。きのどくで素朴なこの少年は多分、この開けた国に何ヵ月か留まって、彼の異国風で異教徒風な観念を振り払えれば、ロングワーフ埠頭でトランプのフレンチモンテやサイコロ投げチャックアラックの札を配る事も出来る程スマートになるだろう。アメリカの良い特徴を多く学んだら、返すのが良いだろう。その故国で彼の前途は長く、そして多分有用であろうし、日本人の中では、ここから送り出す最善の親善大使になるだろう。

昨日オークランド号を訪れた中の誰かが、多分誤って、日本人の持ち物でただ一つしかない日本沿岸の地図を持ち出してしまった事が判明した。誰かが持って居たら、直ちに返却すべきである。

短い記事ではあるが、中でも目を引く最年少の少年を取り上げたものだ。この救助された17人の中に、ペリー提督と結ばれた日米和親条約の後、開国以降の歴史に名前が登場する「ジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵」、「サム・パッチこと仙太郎」、「ダン・ケッチこと伝吉」等がいたが、ここに出て来るサコ(Saco)とは、将にジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵である。

一旦帆走軍艦・セント・メリーズ号(筆者注USS St. Mary's、ジョセフ・ヒコ自伝には St. Mary と出て来る)で香港に送られたヒコは、仲間数人とまたアメリカに戻り、アメリカで教育を受け、市民権を取り、ジョーン・ブルック大尉指揮の測量船・フェニモア・クーパー号でサンフランシスコからハワイに渡った。更に香港に行き、たまたま出合ったタウンゼント・ハリス公使に見込まれ、横浜領事館の日本語通訳に雇われ、アメリカ人として1859年に横浜に着任し、帰国を果たした。ジョセフ・ヒコは、自伝「The Narrative of a Japanese, by Joseph Heco. edited by James Murdoch, M.A., Vol I and II」を残している。

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11/30/2018, (Original since 11/30/2018)