日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

長州藩の航海遠略策 (長井雅楽から議奏・正親町三条実愛宛の書簡主旨)

文久1年3月に長井雅楽の建策が長州藩主・毛利慶親に採用され藩是となったが、藩主の命を受けた長井は、朝廷に説き幕府に説き、公武一和を模索し東奔西走した。京都で議奏・正親町三条実愛(さねなる)に会った長井は口頭で説明し共感を得たが、話の内容を書付にして欲しいと頼まれ、書面にするか逡巡ののち、結局以下の書類を個人の意見として提出した。いわく、

近年、黠夷(かつい=夷人)の動きが猛く荒々しくなり、日に日に国威が揚がらず、当今では衰微が甚だしく、皇国未曾有の大難は眼前に迫り、その詳述も出来ない。こんな時勢になった事には理由があり、数百年の平和で武道は地に落ち武備は無くなり、いったん夷人の脅しに驚き、弱腰で恐怖の余り策も無く条約を結び、ついに今日に至った事は悔しくはあるが、これは平和のなせる業で、今さら論じても無益である。これからは無くなった武備を興し、国が覆らないうちに救う事が急務であり、これは議論を待たずにも自明である。上は天朝幕府をはじめ下は士庶民に至るまで、心を尽くし復興の策を立てねばならない事はいうまでもない。しかし策略が一致せず、鎖国・開国の意見の違いで人心の不和が生じ、無策の内に時日を重ねている中に衰微が激しくなっているのが現状で、このまま夷人の術中に落ち入る様にでもなれば、悲嘆・切歯などと云う以上の事になる。

こんな不和の生じた根源を探してみると、関東が叡慮ご決定のないまま和親交易条約を結び・・・今日に至るまで判然たる最終決定がない事だ。

・・・幕府が朝廷の要求する鎖国を決意できない理由は、鎖国に決すれば条約違約という大国難になり、開国に決すれば益々天皇の逆鱗が甚だしく、国内にどんな異変が生ずるかも知れず、異変になれば鷸蚌(いつぼう、=しぎとハマグリ)の争いになり、夷人に漁夫の利を占められかねない。・・・元来夷人と同等の和親を結んだ事は開国以来未曾有のことだから、(天皇に)例えやむを得ない程のご次策があっても寛大な処置をお願いし、今は第一に叡慮を伺い且つ将来の処置をあらかじめ決定し、その上でお沙汰を出すべきだ。

・・・万死を顧みず直言させてもらえば、(朝廷が)天下の公論万全の策とのご理解の故か、関東へしきりに破約攘夷を命ぜられているが、・・・今になっての破約攘夷を夷人共は決して承知せず、戦争になる。戦争を恐れるわけではないが、戦は国の大事存亡に拘るから、深謀遠慮なく安易には行えない。戦うのならまず利害曲直を明らかにし、我に直利が有る時にのみ勝機がある。一時の憤懣や血気に誘われ無策の戦を始め、敗走した事例は古来より限りない。・・・外夷は航海に習熟し、優れた機械器具を使って数万里の海路をたちまち疾駆し、且つ過去数十年にわたり航海を生業にする国々だから、多くの船を持ち、特に近年は皇国の海路に習熟し、戦争となれば重要な港に出没し、府城を攻撃することは明らかである。・・・こんな事態になれば帝都・京都の擁護は実に不安で、万一帝都が夷人の蹄に穢されれば、六十余州戦わずして彼等の屈辱を受ける羽目になる事を思うだけでも忌々しいかぎりだ。

・・・さてまた鎖国については三百年来の掟で、島原の乱以降特に厳しく命令された事だが、それ以前は夷人共が内地滞在を許され、且つ天朝ご隆盛の時は帝都・京都に鴻臚館(こうろかん、=外国使節接待の施設)を建てたとも聞くから、(鎖国は)全く皇国の旧法ではない。伊勢神宮のご誓宣に、天日の照臨する所は皇化を布き及ぼし賜うべしとの事だというから、夜国氷海は別としても、天日の照臨する所はことごとく知し召すべき事で、鎖国などという事は決して神慮に叶わない。その昔(天皇家祖先の)神功皇后が三韓を征伐したのも全く(この)神祖の思召しを継いだもので、・・・当今、(天皇は)五大州に幾つもの国があることをお聞きになっているのみならず、彼らから憚らずに皇国に来てその上皇威をないがしろにしているのに、鎖国で防ごうとされるのは神祖のご誓宣に相反する事になり、神慮も計り知れず誠に恐れ入る事である。・・・いたずらに海岸の峻険をたのみ鎖国をしては、鎖国は全く上手く行かない。当今においては攻撃と守備能力を高める事が第一の急務と思うので、願わくは神祖の思召しを継ぎ、鎖国という叡慮の思召しを替えられ、皇威を海外に振るい、五大州の貢ぎ物ことごとく皇国へ捧げ来たらずば赦さずという御国是を一旦立たせ賜えば、禍を転じて福となし、たちまち夷人の虚勢を張った脅しをおさえ、皇威を海外に振るう時もまた遠くないものと思われる。しかし(武備もなく)あまりにも平和に慣れた今日、神功皇后の事跡を踏むことはこれまた下策となるので、早急に航海を開き、彼等の巣穴を探り、夷人の恐れるに足らない事を士民に知らしめ、次第に皇国の御武威をもって五大州を横行するようになれば、彼等自ら皇国の強さを知り、求めなくとも貢ぎ物を皇国に捧げてくる事は年を期して待つ事になる。

また破約攘夷を今になって関東に命ぜられるのは恐れながらご威光を損なう事になり、最もしてはならない事と思われる。それというのも、関東で破約は国の為に良くないと決めているように見受けられるから、幾度天皇の命令を出しても、表で奉命しても実際に奉行はせず、行わない事を度々非難すればその度にご威光が薄れ嘆かわしく思う。しかし時勢を考えれば、命令を実行しない事が悪いとは言い切れない。

・・・願わくはこれまでの経緯をご氷解遊ばされ、改めて、早急に航海を開き、武威を海外に振るい、征夷大将軍の職務を全うすべしと関東に厳勅を仰せ出だされれば、関東は決して猶予はしないはずである。・・・そうなった時こそ国是遠略が天朝から出て幕府がこれを奉じて実行し、君臣の順序が正しくなり、容易に国内一致が達成できる。国内一致が達成され軍艦の数を増やし士気が奮い立てば、一皇国が五大州を圧倒する事は掌(たなごころ)を指すより容易で、こうあるべきである。・・・今年は辛酉革命(しんゆうかくめい、下段の注参照)の年に当たり天数もまた相応じているので、禍を転じて福となす事は天朝のご決議に懸かっている。

取るに足らない田舎者の誠意ではあっても黙視する事ができず、愚者千慮の一得が有るかもしれないと、万死を顧みず、狂迷の言論を献上いたします。

この様に、今から見れば明治維新後の政策にも通ずるような非常に近代的で、理路整然とした思考である。実際に何処まで孝明天皇がこの考えを理解し支持したのか筆者には不明だが、文久1(1861)年6月2日正親町三条は、孝明天皇に書付を差し出し口頭説明も行ったが、「叡慮嘉納あらせらる」と、天皇もこの考えに賛同されたと伝え、長州に公武一和の調停を依頼した。老中・久世広周(ひろちか)や安藤信正など幕閣の中枢とも会った長井の調停の動きが活発化したがしかし、こんな長井の活動中から長州藩内に反発と異論が拡大し、あたかもこれに呼応するかのように翌年の5月5日、朝廷からも長州へ、「(長井の書付に)朝廷の処置に対し少し謗(そし)りの言葉に似たところが有り、ご懸念もあらせられる。併せて開国航海についても、国体変更は容易ではなく安易に叡断を下せないから、天下の衆議を聞いてからの事だとお沙汰があった」と非難と強い後退論が出て、長井は謹慎せざるを得なくなり、この長井の努力は頓挫した。その後長州は急速にその藩論を過激な尊皇攘夷に変え、幕府と敵対して行く。

: 辛酉革命(しんゆうかくめい)=中国の漢王朝時代に唱えられた、干支の「辛酉」の年には王朝交代の革命が起るという予言的な考え。文久1(1861)年がこの辛酉の年に当たった。

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07/04/2015, (Original since 07/18/2010)