日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

孝明天皇の決断(朝彦親王の後日談)

前年外夷渡航以来、幕府へ攘夷のお沙汰があったが、幕府は躊躇して実行しないから、(天皇が)督促をされたがすぐ実行する決意がなく、空しく時日を遅延するだけだった。公家以下諸藩がこのまま差置いては皇国の体面を乱し、外国に膝を屈し、外国の言いなりになるのは鏡に掛けてみるほど明白だ。一日も猶予ならないから、ご親征行幸をし、まず幕府に対し勅旨を守らない責任を問い、その後全国の人民を率いて攘夷を行えば、どんな強力な外夷でもこれを破る事は決して難しくはないといって公家たちが毎日次々に奏上してきた。(天皇は)止むを得ずご親征を命ぜられ、大和の国に行幸される決定をされた。しかし一橋中納言慶喜、松平肥後守容保、松平越中守定敬などは、幕府は攘夷の命をお受けしたが皇国は未だ武器に乏しく、武備なくして外国と戦えば必ずしも勝算があるわけでもない。従って武器の調達を待ち、そのため遅延しているので、ただ攘夷をしないのではない。こんな状況にもかかわらずこの度ご親征行幸を命ぜられ、はたして攘夷の戦略はどのようなものなのか。必勝を期す算段なくして簡単に戦端を開く事は、かえって皇威を失いかねない。皇国が武器の整備を完了するまでは暫くご親征行幸を延期されたく、と奏上した。ここで朝彦に(天皇より)詔書が降り、先月来公家諸侯より、幕府は勅旨を守らず未だに攘夷を実行しない。従って朕の親征を請うといってきたが、徳川には先帝の皇女親子内親王が降嫁している。今こちらから徳川を討伐すれば、親子内親王を討たざるをえない。そんなことにでもなれば、先帝に対しても肉親としても全く忍びない。そうはいっても皇国のため止むを得ないときは討伐するが、深く現状を考えれば、慶喜、容保、定敬などが奏上したごとく、未だ武器が備わっていないときに開戦する事は時期が早い。従って期日が迫った朕の親征は暫く延ばし、征幕のことも中止する。お前は朕の意を受けて、しかるべく事を図れと命ぜられた。このため、以後公家諸侯がどんなにご親征倒幕を論じても、朝彦の命のある限りその説に反対し、佐幕の議を唱えますと言上した。以後、ご宸翰をもってその計画を質問された。8月16日、近衛忠熙、二条斉敬を召されて、朝彦と同様の勅命があった。二人とも命を受けて佐幕の議を唱えた。

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07/04/2015, (Original since 04/29/2008)