日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

兵庫開港不可の勅旨と幕府回答の矛盾

注意深く読まれた読者は、前文の朝廷の勅旨と幕府回答の内容が違うと思われたであろう。すなわち、朝廷は特に「兵庫を開港するな」と命じたが、幕府のイギリスへの回答は、ロンドン協約の期日通り開港すると回答した。筆者はここに疑問を持ちで、老中の回答とこの時のイギリスの理解、その他を調べてみた。要点は、「兵庫の件は止めること」と云う解釈だ。

♦ 前頁に記載のごとく、朝廷の勅許は下記である。

条約について。ご許容あらせられたので、適切な処置を取ること。家茂へ。
{別紙}これまでの条約面で種々不都合がありお考えに会わないので、新たに取調べ伺い、諸藩に命じ衆議の上取り決めること。兵庫の件は止めること

♦ 老中・松平伯耆守宗秀、松平周防守康直、小笠原壱岐守長行が連名でイギリス特派全権公使・ハリー・パークスへ宛てた慶応1(1865)年10月7日付け回答書は下記である。

過日中よりたびたび書簡を出され、その都度回答すべきところ、我が国の状況が複雑で多方面にわたり、遅延になり、お気の毒であった。その回答は次の通りであり、しかるべく了解してもらいたい。
  1. 条約の件は大君の特別な尽力で朝廷へ申請し、別紙の通りご許容された。
  2. 兵庫開港の件はすぐには交渉いたしかねるが、当然ロンドン協約で取決めた期日に開くつもりだが、万一事情により早く開けるときは開く。この件は早急に定めがたいので、我等より江戸へ申渡し、下関償金について三度目の支払いは約定の通り日本の12月中に支払うよう命じる。残りは1864年10月22日の約定の通り支払う。
  3. 改税の件は委細承諾した。そのことを早速水野和泉守と酒井飛騨守へ申渡し、江戸において真剣に交渉に入るよう取りはからう。
以上のごとく申し入れる。
         慶応元年乙丑十月七日
                松平伯耆守 花押
                松平周防守 花押
                小笠原壱岐守 花押

♦ イギリス公使館の理解:アーネスト・サトウの記述("A Diplomat in Japan")

最後の日に当たる24日(筆者注:慶応1年10月7日)、艦隊は明日幕府からの回答を待つため大阪に移動する、との通告が兵庫の奉行に出された。奉行から、明日小笠原閣老が必ず回答を持ってくると聞かされたが、この交渉の間すでに何回もあったことだが、彼(筆者注:小笠原)は病気になり、松平伯耆守が代わりにやって来た。外交団との会見は数時間にも及んだが、その要点は、もし天皇が不承知の場合切腹するとまで決心した(と言われる)親戚筋の一橋のうしろだてを得て、大君は自身で熱心に申立て、条約に関する天皇の了承を得たとのことだ。とうとう天皇が譲歩し、「その件は太閤始めと話すように」と言ったのだ。しかし兵庫の開港は1868年1月1日まで延ばされたままだが、関税は改定され、残りの賠償金は予定通り支払われる。従って外国外交団は何も失わず、3つの条件のうち最も重要な2つまでを勝ち取ったのだ。

♦ 山階宮の松平慶永宛の書簡

翌慶応2年5月20日、山階宮からこの間の状況を記した書簡が松平慶永宛に出されているが、いわく、

極蜜ながら、尹宮(朝彦親王)始め国事掛り一同、議伝、両役辺りも、兵庫の鎖港は夷人も幕府も全く不服だから、是非開港せねばと思われても、何分公卿や殿上人の中にも藩士の中にも鎖港を望む人が居て、公然と只今より兵庫を開港と言い出されれば、たちまち尹宮ご自身にどんな災いが降り懸かるか分からず、先々厳に兵庫は是非とも鎖港と唱えられたが、実はその時になって夷人や幕府から是非とも開港と願い出れば、許可しようとお思いになっていたと拝察します。

と当時の内情が書かれている(「続再夢紀事」)。この事実から、表向き、「兵庫は永久に鎖港」と云うのが朝廷の意図だったのだ。

♦ 筆者の結論

以上の如く、兵庫開港は止めるようにとの天皇の決定にもかかわらず、いったんは幕府限りで兵庫開港を決めた時のように、今回もまた幕府限りでロンドン協約通りの兵庫開港を再度確認して約束し、条約国もそれを受け入れた。すなわち、4カ国は兵庫を早く開けと言ったわけだが、幕閣は開く事は開くが早く開く事は難しいと言ったことになる。勿論この時、日本が孝明天皇や朝廷が意図したように兵庫開港を取りやめれば、条約不履行・放棄になり、戦争にもなった可能性もある。この時の幕閣の意思決定基準は、条約について朝廷と話すより、命令を無視し既成事実を突きつけるやり方だったのだ。幕閣と孝明天皇あるいは朝廷との主張がこれほど乖離していれば、どこかで武力解決をするか、一方を無視し続ける以外方策がなかったのだろう。一橋慶喜はあくまで朝廷と会話しようとしたが、幕閣は全く違っていたようだ。

次の章に書くが、後に一橋慶喜が15代将軍になると強引に朝廷に迫り、兵庫開港を正式に認めさせる。この慶応1年10月の時点で、慶喜がどの程度この松平宗秀、松平康直、小笠原長行が連名で条約国へ出した回答書の詳細を知っていたか筆者は知らない。しかし慶喜自身は、孝明天皇の兵庫開港を止めよとの言葉をその通り理解し、受け入れていた事は明らかだ。だから後に渋る朝廷に迫り、改めて兵庫開港を認めさせ、公式の許可事項としたのだ。

♦ 慶応1年10月7日付け回答書について、田辺太一の記述 −松平伯耆守と山口駿河守の独断だった−

上述した老中・松平伯耆守(宮津藩主・本荘宗秀)、松平周防守(棚倉藩主・松井康直)、小笠原壱岐守(唐津藩世子・長行)が連名でイギリス公使・ハリー・パークスへ宛てた慶応1年10月7日付けの回答書に関し、これが実は苦肉の策で、老中・松平伯耆守と当時大目付兼外国奉行・山口駿河守の2人が独断で書き、老中・松平周防守と小笠原壱岐守の花押は祐筆が偽造したものだという記述がある。

朝廷の言う「條約は勅許したが兵庫を開港しない」という回答になれば、イギリスやフランスはそのまま京都まで入り天皇に直談判しようとしていた。何とかこれを避けたい松平伯耆守と山口駿河守がパークス公使やロッシュ公使に必死に掛け合うと、若し老中の連名で、「とにかく兵庫は開く」という書簡を出せば妥協しようと云うことになった。しかし京都まで引き返し議論をする時間が残っていないので、松平周防守と小笠原壱岐守の花押を偽造し、外国公使たちには3老中の連名で、「条約は勅許。兵庫は開港。」と回答したというのだ。この花押偽造話は、田辺太一(蓮舟)の著作で富山房の明治31年6月発行、「幕末外交談」に”山口駿河守の回想”として載っている記述だが、著者の田辺太一は幕府に仕官してから外交畑を歩き、文久3年12月、横浜鎖港談判使節に任命された外国奉行・池田長発(ながおき)に随行しフランスにも行った、当時外国奉行支配組頭を勤めた幕府役人だったし、明治政府になってからも1872年の岩倉使節団に一等書記官・外務少丞として同行しているから、かなり信用が出来る。

断定するには更なる裏付けを取る必要もあろうが、幕政大混乱の当時、こんな事は大いにありそうなことだ。

しかし本件を調べていて更に興味深い事は、東京大学史料編纂所の維新史料綱要データベースにある記述、「慶応1年10月7日:老中本荘宗秀・外国奉行山口直毅「駿河守」・大坂町奉行井上義斐「主水正」等、兵庫に到りて英・仏・米・蘭四国使臣と会し、条約允許及兵庫先期開港不許可の朝裁を告げ、別に兵庫は期日に開き「時宜に依ては先期開港」下関償金は全額を支払ひ、税則改訂の談判は江戸に於て行ふ旨を約す・・・」という項目が、通常はリンクしているはずの「大日本維新史料稿本」のデジタル画像データに何故かリンクしていない。本来ならここに、上述の慶応1年10月7日付け回答書のイメージが出てきて当然な場所である。偶然の手違いでリンクしていないのか、この史料がデーターベースに含まれていないための意図的なものなのか、筆者には今のところ不明である。

なお、ここに記載した上述の慶応1年10月7日付けの回答書内容は、「伊国使節アルミニョン、幕末日本記」の編者・松崎實氏の文中の注による。松崎實氏は、文部省維新資料編纂事務嘱託、明治大学教授等歴任の歴史学者。

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07/04/2015, (Original since 09/01/2008)