日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ペリー提督の江戸見物
本稿は、「ペリー艦隊の下田来航」から独立させたものです

 ペリー提督の執念、江戸見物
(典拠:The Japan Expedition, 1852-1854: The Personal Journal of Commodore Matthew C. Perry, ed by Roger Pineau, Smithsonian Institution Press, Washington, 1968. P. 198

安政1年3月3日、即ち1854年3月31日、日米双方の合意による「和親条約十二ヵ条」が締結され、ペリー提督は日米和親条約の調印を本国政府に報告するため、調印書を託した艦隊参謀長・アダムズ中佐を帆走軍艦・サラトガ号でサンフランシスコ、パナマ経由、ワシントンDCに向け帰国させた。そして3月13日(4月10日)、ペリー艦隊の全ての軍艦は下田港と箱館港の下見に行くため横浜沖から小柴沖の停泊地に引き上げる事にしたが、ペリーの心中には、まだ完遂していない一つの命題があった。それはペリーが国務省から受けた遠征指令書の初めにある 「艦隊の全軍事力を持って日本の適切な地に赴き、皇帝と面接し国書を手渡すこと」 と命ぜられた「皇帝」にまだ会っていない事である。しかし皇帝に会わなくとも、首府・江戸の町だけでも見なければ気が済まなかったのだ。ペリーは遠征中に個人的にも日誌を書いていたが、是非とも江戸の町を見たかったペリー提督は、この江戸湾退去の前後の出来事を次の様に書いている。いわく、

9日に、しきりに止めてくれと言った全権達の忠告にもかかわらず、主席通詞に、明日この蒸気船で水深が許す限り江戸の近くまで行くと伝えた。そして10日に全艦隊が出発した。ポーハタン号とミシシッピー号は江戸の南郊外にある品川の街のずっと近くまで回航し、この非常に有名な首府、江戸の全貌が見える位置にまで来た。しかし不幸にも、この辺りでいつも発生する霧やもやがかかって物がはっきり確認できなかった。しかし江戸の街の外形と、浦賀やほかの町々で見えたと同じような建物の特徴は区別できた。幾つかの急ごしらえの台場が見え、陸上で江戸の街を防御している城郭の様に見えたものは、普通の住居より背が高い寺院の建物がより目立っていて、遠くから砦の様に見えた物を見間違えていたようだ。・・・江戸の全ての海岸沿いの海の中にかなりの高さの柵がずらっと造られていたが、ボートによる町への攻撃を防ぐ目的か、日本人たちの上陸地点を海からの攻撃から守る目的かはっきりしなかった。多分、若し我々が武力をもって上陸する場合を想定し、武装したボートを防ごうと我々の到着前に造られたのかも知れなかった。はっきりしている事は、喫水が浅く大口径の大砲を装備した蒸気軍艦を数艘持って来れば、江戸の街は完全に破壊できる。ちょうど引き潮の時刻で、水深を測定しながら砂州の間を先行するボートは、漕ぎ手の疲労でなかなか前進できず、その後ろを潮に逆らって進む蒸気軍艦も速度が遅すぎて舵が利きにくくなった。帆船の方はすでに遥か後方で錨を入れていたし、蒸気軍艦も江戸間近では錨を入れない約束がある。最初に考えていた様に、江戸間近かに停泊し皇帝に祝砲を打つ事で、万一破局的な騒動にでもなれば、本当に切腹する必要があるのか少し疑わしくもあるが、全て自分達の責任になると言っていた友好的な全権達のために、ここで止めた方が賢明だと判断した。

と書いている。ペリーは、蒸気軍艦に乗り組む指揮官達にも江戸の街を見せたし、すでに友好関係を築いた林大学頭の顔も立て、更なる侵入を止めたのだ。これがペリー艦隊の下田来航の直前に行った、ペリー提督の江戸見物だった。

このペリー提督の江戸見物について他の日本側の記録も参考にすれば、ペリーの乗る蒸気軍艦は、少なくとも現在の羽田国際空港の東側、C・滑走路の真横辺りまでは来た様だ。ここから北側に位置する、ペリーの言う 「急ごしらえの台場」 の一つである第3台場や品川の町までほぼ8qを切る。ペリーは乗り込んでいた通詞・森山栄之助を呼び、西側に見える羽田燈明台を指さして、向こうの燈明台の辺りは江戸かと聞いた。栄之助は、「あの辺りはもはや江戸である。その先に日本船の帆柱が多く見えるのは、全て江戸に入っている船である」と答えた。当時、羽田弁天の高燈篭すなわち燈明台は羽田弁天の社の近くにあったが、砂州が堆積し延伸するに従い船から見えにくくなり、嘉永3(1850)年に少し沖の方へ移されて居たと聞く。とにかく六郷川すなわち多摩川の北岸であり、ここは確かに江戸に入った境目である。

射程距離の詳細は不明ながら、ここからポーハタン号やミシシッピー号の口径10インチや8インチの大口径滑腔砲(Paixhan gun)で炸裂弾を撃てば、品川宿の南へ5qほどの、麦わら細工で有名な大森辺りを通る東海道の近くには届いたかも知れない距離だ。ペリーが 「喫水が浅く大口径の大砲を装備した蒸気軍艦を数艘持って来れば、江戸の街は完全に破壊できる」 と書いた様に、幕閣老中達の 「若し戦争になったら勝ち目はない」 という危惧の念は、ペリーの認識にも近かった。喫水の浅い蒸気軍艦で当時の浜御殿、すなわち浜離宮前まで侵入すれば、3.5qほど先の江戸城はほぼ射程内であったろう。「若しペリーがそれに不服を鳴らし戦端を開いたら、心力を尽くして戦うのみ」 と言った前水戸藩主・徳川斉昭の精神論では、実際に軍艦の上から炸裂弾を撃たれたら、到底対処できなかった。従って戦争には持ち込まないという幕府の方針は、非常に屈辱的ではあっても、現実的に一種の正解であった訳だ。

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11/25/2020, (Original since 09/20/2018)