日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

「横浜焼き討ち計画」と、神奈川・横浜の在留外国人の緊急避難

文久2(1862)年の後半から文久3(1863)年の前半は、幕府と朝廷の主導権争いで忙しく火花を散らした期間だった。安政の大獄や大老・井伊直弼の暗殺、そのショックの隙間で自藩の政治活動の影響力を強化しようと、長州や薩摩の幕朝間斡旋の活動が活発化した。そして朝廷は幕府に、将軍後見・徳川慶喜や政事総裁・松平慶永を任命させ、それまで幕府から強制されて来た、朝廷首脳人事の「幕府の事前合意」を中止させて人事権を取り戻し、京都警備強化のため、幕府に京都守護職を置かせた。幕府は朝廷の要求する攘夷に抗しきれずついに将軍・家茂が上洛し、「文久3年5月10日」と攘夷日を約束してしまった。また朝廷の活動には、尊皇攘夷を唱える浪士たちも活発に参加し、階級に無関係に、草莽微賤(そうもうびせん、=民間の地位の低い人々)の者でも誰をも学習院で忠言を述べさせるなど、多くの政治変化が起った期間だ。更に生麦事件の賠償が絡み、イギリスとの戦争が目前に迫り、幕府は止むを得ず賠償金を支払うという時期だった。

♦ 清川八郎の浪士組と横浜焼き討ち計画

こんな中で将軍・家茂の上洛に絡み、政事総裁・松平慶永に「攘夷断行、大赦発令、英材教育」の三項目を基に浪士を募集し警護隊を組織する建言をし、攘夷断行の名の下に参加する浪士のそれまでの罪を許し、文武の実力主義で登用した「浪士組」を組織させ、文久3(1863)年2月6日、自らこれを率いて上京した清川八郎がいた。2月23日に上洛するや、早速清川始め浪士組の118人は学習院に出頭し、

今般私共が上京した目的は、いよいよ大樹公が上洛し、皇命を受け夷狄を攘斥するという大義をご勇断遊ばされたので、民間で国事を周旋していた者のみならず、尽忠報国の者は皆その過去の忌諱(きい)にかかわらず広く取り立て才力を活用し、尊攘の道を主張されるご趣意で私共始めをお召しになり、尊攘の道を達したいという赤心からであります。・・・幕府のお世話で上京したが、禄位等は更に受けず、ただただ尊攘の大義を期すのみだから、万一皇命を妨げ私意を企む輩がある時は、例え役人であろうともかまわず刺捨て譴責する事が我々一統の決心であります。

と、朝廷周辺の守護と尊皇攘夷の目的遂行を述べた上申書を提出した。この中には清川八郎を始め、近藤勇、芹沢鴨、沖田惣八、土方歳三などの署名もある。

ちょうどこの頃イギリス代理公使・ニールは2月19日、生麦事件に対する賠償として幕府に三ヶ条を提示し、二十日間の期限付きで回答を求めて来た。これを受け入れなければ、戦争になると警告したのだ。上洛した清川八郎と浪士組は、横浜で発生したイギリスとの戦争の可能性を議論し、清川を中心に「直ちに関東に帰り攘夷体制を取るべし」と云う意見と、近藤勇などの「京都で将軍を警護すべし」と云う意見に二分し鋭く対立した。しかしこの紛議は京都にいる幕閣の決済で、各自の判断で帰東組みと滞京組みが許可される事になった。そこで清川は3月13日、200人余りを率いて江戸に向け京都を離れたが、意見を異にする近藤勇、芹沢鴨、土方歳三などの20数人は京都守護職の配下に入り、後に新撰組が組織されてゆく。

清川八郎は滞京中の20日余りのうちに、「横浜始め諸夷館を速やかに引払わせ、断然一戦争の手当てをすべし」、あるいは「ご執権方、永々ご在京であるが尊攘の事実に発展がなく」、また「全て尊王の処置は会津侯に任せるべき」などと、幕府や学習院に宛てて何通もの建白書を出し過激になっていったが、滞京する幕閣はこんな行動と思想とを大いに危惧したようだ。これは、4月13日の清川殺害につながる線だ。この様な経過の中で清川には、江戸に帰り横浜焼き討ちをし攘夷を始めようとの計画が出来、この横浜焼き討ちを契機に再度上洛し、在京の浪士共々長州勢と合流しようとの密約も出来たように見える。

この「4月15日横浜焼き討ち」秘密計画は幕府の知るところとなり、京都在住の老中・板倉勝静の指示で清川を付け狙っていた幕府の浪士取締・速見又四郎と佐々木只三郎が、4月13日、麻布一ノ橋で清川を殺害しこの横浜焼き討ち計画は頓挫した。しかし14日には、江戸でこの浪士組の暴徒が攘夷先鋒と称し、府内の富豪商人から資金として金や米などを「強制的に借用」、すなわち略奪している。強要された富豪商人たちは急に五百両、千両などと云う大金は手元にないと、殆どが約束手形を出している。

こんな200人もの浪士による横浜焼き討ち計画は、神奈川に在留する外国人も含め、実行されていれば生麦事件どころではない国際的大事件になったろうが、幕府は幸運にも未然に防止する事ができた。そして旧浪士組の真っ当な人物を選んで「新徴組」を再組織し、主として江戸市中の警戒を任務とさせ、間もなく「庄内藩お預かり」として幕府の制御下でその活動の統制を取り戻している。

♦ 神奈川在留バラ牧師婦人、マーガレット・バラの手紙

上述の「4月15日横浜焼き討ち」計画を知った幕府から、神奈川奉行を通し、神奈川の街に在留する外国人に緊急避難命令が出たが、以下はその間の事情を綴ったマーガレット・バラの証言である。

文久3年4月13日、1863年5月30日 : 静かで心休まる大好きな住み慣れた古い寺の我が家を後にしなければならなんて、本当にいやな事です。行くのだけれど、どこへ行くか分からないのです。私たちに対する日本政府のやり方は、なんてズルイのでしょう。でも、真っ正直でないやり方の人達から何が期待できるのでしょうか。率直な質問にまっすぐ答えないよう、数え切れないほどクネクネした筋書きを並べ立て、こんどは私たちに卑怯なやり方を隠すため、卑劣な言い逃れまでして来ました。「浪人」と呼ぶ無法者の集団が外国人を襲撃するため山からやって来るから、私たちの身の安全を期すには横浜に行くほうがはるかに良い方法だと述べ立てました。私たちの安全の為に、大げさな心遣いをするふりをするというの?宣教師たちは、これは単に私たちを神奈川から横浜に追い立てる計略だと考えています。横浜は完全に運河に囲まれ、従って本土から分離されていて、そして勿論、暫く経ったら私たちを兵糧攻めにするか、応援が来る前に町を焼き払ってしまうこともできますから。これはしかし、一部の外国人が危険だと云う心配があるのではなく、その目的が、自由な商品の動きを統制すると云う事です。
この場所に関しては、日本政府は我が国領事の不安を大いに掻き立て、領事が避難を決め、若し領事が行くのなら勿論私たちも従うと云うことです。噂を聞いたばかりですが、江戸に駐在する我が国公使館がある寺が焼け出され、公使は江戸を離れるということです。若し私たちが横浜に行く事を拒否した時、これが彼らが考えているやり方かも知れませんが、しかし明日は安息日の日曜で、彼らはその日だけは私たちの邪魔をしないで自由にさせてくれることを期待します。

文久3年4月14日、1863年5月31日、日曜日、午後4時 : 今日は驚くべき、忙しい日でした。昨夜の夜中ごろ、門を叩く大きな物音に起こされました。そして門を開くと我が国の公使自身が多くの侍に守られて門の前に来ていて、私たちに起きてすぐ身支度をし、ここから避難するように言いました。今朝早朝、再び門を叩く大きな物音に出てみると、侍の一隊と役人が一緒に門前に来て、大急ぎで避難の準備をするようにと云う奉行からの通達を示し、街からあまり遠くないところまで「浪人」の一隊が来ているから、ここに危険が迫っていると言いました。しかし宣教師たちは静かに、安息日が終わるまではここに居させてもらいたいと頼み、自己責任として許可されました。神に祈りを捧げた後、我々は静かに、どうしても避難しなければならない場合に備えその準備をしました。庭にはすでに日本政府から派遣され、私たちの夜の警護をする100人余りの侍たちが来ていましたが、それは我々の希望と宗教上の信念とをよく考慮したものでした。私は少しの恐怖も感じませんでしたが、私たちの公使と領事がここまでやってくれるべきだと怒りを感じました。かわいそうなキャリーだこと!彼女の面倒を見る乳母は今朝家から出て行きました。我が家の他の使用人たちはまだ家に居ます。これからは、横浜からミルクを手に入れるまで、私が赤ちゃんにご飯とお茶を与えなければなりません。

文久3年4月18日、1863年6月4日 : 横浜にて。日本側は我が家から私たちを追い出した後は何も支給してくれないので、私たちはヘップバーン博士の家に心地よく身を落ち着かせました。博士はご自分でしたように、我々がずっと前からこんな緊急時をよく考え、それに備えてこなかったと非難することを知りながら、この人の良い博士の家に押しかける事はしたくなかったのです。我々はしかし、少し違った立場でした。我が教会の役員会は、ここの土地がまだ安かった時にも私たちに土地購入を許可せず、私たちも活動にもっと都合が良いと思っていた今の場所に期待していたのです。今や(横浜の)土地の値段は高騰し、教会の役員会は購入できないと考えています。ヘップバーン博士はご自分の資金で土地を購入し、教会の役員会に教会が博士から購入するかどうかの選択権を与えています。数日後にはアメリカ領事館で部屋を確保できると期待していますが、領事館は黒い塀で囲まれた二つ三つの小さな日本家屋がベランダで繋がっていますから、恐らく住み難いだろうと思います。ヘップバーン博士の家族は大変親切で、私たちを元気付けようと努めています。ヘップバーン婦人は、領事館などと云う公共施設に行くのは羨ましいとは思わないと言いますが、それが私たちの最善策なのです。

♦ 横浜在留フランシス・ホールの日記

このサイトに時々登場させているアメリカ人のフランシス・ホールは、1859年11月に横浜に来たニューヨーク・トリビューン紙の記者だが、その後横浜でウォルシュ商会に参加し、出資をし、「ウォルシュ・ホール商会」のパートナーになった人だ。横浜で7年弱に渡り記述し続けた日記は、幕末史を補完する貴重な史料になっている。このフランシス・ホールは、横浜焼き討ちの疑心暗鬼と混乱を次のように書いている。

文久3年4月14日、1863年5月31日 : 我々に関係する出来事が多くなって来た。今日、1時に地元の神奈川奉行に面会すべく、各国領事たちが集められた。奉行が言うには、多くの浪人たちが近くまで来て居る事が判明したので、領事は自国の住民たちに15日から20日間は東海道に出歩くのは危険だと通達するようにと云うことだ。そして、日本政府は全ての不法者の動きを押さえるべく最善の努力をし、30日以内に正常に戻す約束をすると云うことだ。従って、その旨の通達が出された。
午後遅く横浜に居る副奉行がアメリカ領事の許に来て、直ちに遅滞なく神奈川から領事の家族を避難させ、宣教師たちの家族も同様に避難させるよう緊急要請をした。この要請は本当に緊急でしつこかったので、領事は一家の女子供を蒸気軍艦・ワイオミング号に避難させた。避難先もない宣教師の家族たちは、行く事を拒んだ。領事館の男性たちもまた居残った。しかし夜に入ると、再三に渡って彼らも避難すべく要請が出された。

文久3年4月15日、1863年6月1日 : 今日の早朝、(アメリカ公使の)プルーイン将軍、息子、そして秘書一行が江戸から到着していた事を知った。そして、公使は昨日の午後、意思の有無にかかわらないほどの全くの緊急事態として、江戸から避難するよう要請されたようだ。公使付き警護武士団の士官が、700人もの浪人がその夜彼を殺害しようとしている謀議が発覚したが、公使は直ちに避難すべしと伝えた。従って彼は日本蒸気軍艦・咸臨丸に乗り、夜中に横浜に着き、そのまま船内で夜を明かした。今日早朝、宣教師たちの家族が避難を始め、今では江戸と神奈川はついに避難が終わった。一大軍団の警護武士たちが神奈川に居る家族たちの夜を警護するため江戸から下ってきて、護衛なしには誰も動く許可が出なかった。
今日、マスケット銃や刀や槍で武装した幕府の兵士たちが横浜の通りを行軍し、各所で関所の衛についた。小型大砲が街につながる神奈川堤防道りに据えつけられ、そしてその奥の崖近くには弾薬類が配置された。日本政府は我々を守るため真剣にこんな準備をしているのか、我々に向けたテロリズムの仕組みを大規模に作っているのかのどちらかだ。湾内にいる艦隊は我々の防御の為に守備隊を上陸させないから、彼ら日本人を不審に思っている時でも、こういった日本の警備を信じねばならない。
今日、プルーイン将軍が手に持つ書簡を見たが、江戸の幕府首脳に向けた日本語書類の翻訳で天皇から出たものだ。天皇が言うには、全国の大名は都から自藩に退出し、天皇に忠実な将軍または征夷大将軍が遂行しようとする攘夷に向け、あらゆる準備をするものと理解している、ということだ。
私は、若し将軍がこの攘夷に失敗したら切腹をするという他の書類も見た。プルーイン将軍が頻繁に接触する日本の役人に見せられたこれらの書類について、彼らは、まずこれは本物だが、こんな事については何も知らないと断言した。
我々が策略に長けた敵や裏切りに満ちた友人たちに囲まれているのか、また17世紀のポルトガル人の運命が待ち構えているのか、今は誰にも判らない。

文久3年4月16日、1863年6月2日 : 江戸からの情報が来たが、日本政府は、江戸の人命と財産を略奪し、政府の大いなる不満をかきたてるほどまでになった浪人を押さえ込むという約束の行動を取り始めた。三藩の、ある筋では五藩の、大名が選ばれ、これら無法者を押さえ込む役割に任命された。昨日、これらの捕り方と浪人側との捕り物情報が流れてきたが、捕り方は苦労したが、何人かの浪人が逮捕されたという。五百から七百人に上る大群がある小さな大名の屋敷に集まったが、政府側の軍隊に包囲されてしまった。
これは、政府が真摯に約束通りの対策を取ったようで、江戸や神奈川からの脱出行には、その理由があったのだ。

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07/04/2015, (Original since 07/18/2010)