日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

大山遠征、フランシス・ホールの記述

(「Japan Through American Eyes」、1862年4月2日から4日の記述の要約。)

「昨日、郊外へ遠足に行こうとの約束で、日本政府に派遣された鉱物学者のブレイク氏と鉱山技師のパンペリー氏、そしてブローワー氏、ロバートソン氏などと自分が仲間になった。今朝ブローワー氏は急用で参加できず、馬や別当を集めたりで手間取り、出発は11時頃だった」と云う。

保土ヶ谷を通り郊外に出ると菜の花が咲き乱れ、桑畑が広がり、神社があり、木陰で休息中の着飾った少女達の中に一段と目を引く知的な顔立ちの少女が居たり、養蚕の盛んな鶴間村の辺りでは一面に桑畑が広がり、更に行けば白壁の土蔵のある広大な農家があり、大きな造り酒屋の脇を通り、多摩丘陵を北に越え、絹糸の集散地で月に6回の市も立つ八王子の街に入って泊った。横浜を出発し、保土ヶ谷で東海道を横切り、八王子道を進んだようだ。役人の付かない私的旅行で先触れもなく、突然4人の外国人が外観は立派な「山亀」という旅籠に泊ったが、うさんくさそうに見られ、あまり歓迎されなかったようだ。横浜開港後まだ3年も経たない頃だから、甲州街道の宿場町だとはいえ、八王子にまで来た外国人はほとんど居なかった事だろう。

翌朝一行を送り出す番頭は、一言「さようなら」とは言ったが「またぞうぞと」とは言わず、4人で一泊二食付きに13分半、すなわち5ドル払ったというが、普通の日本人の4倍くらいは取られただろうとホールは書いている。街中を通行中は「唐人!、唐人!」と囃しながら黒山の人がついて来たが、横浜での様に「バカ!、バカ!」と囃し立てる者は居なかった。日本も支那も農村の住民は外国人に対しても素朴だ、とパンペリーは言っている。

また丘陵を南に下り、橋本村から上溝、溝、と座間まで相模川の東側を通り、座間から渡しで川の西側に進んだ。当時この辺りまで来る外国人はほとんど居なかったようで、渡しを通してもらえないことを覚悟していたが、何事もなく通行できたという。更に西側にある支流の中津川も、水かさもなく仮橋で渡る事ができた。昼食に立ち寄った小奇麗な茶屋では、日本流に丁寧に迎えられた。大山に行くというと、「アー、あれは霊山だから霊験あらたかだ」と歓迎され、横浜辺りではもう見られなくなった三田(さんだ)村の昔風な日本流の応対に、ブレイクとパンペリーは大喜びだったとホールは書いている。辺りは桑、麦、大麦の畑が延々と続き、大規模農家が散見され、貧富の差が大きかった。日向(ひなた)村から子易(こやす)にかかると急な登りになり、大山の山頂に向かうまっすぐな谷道は家々の間を通るハイウェーのようだった。その中の「海老や」と云う旅籠に泊る事にしたが一旦断られ、その上の「かみや」に行ったがまた断られ、再度「海老や」に何とか頼み込み泊る事ができた。恐らくこんな山の中まで外国人など来た事がなかったから、夫々に理由をつけて断ったのだろう。「海老や」では日本流の風呂にロバートソンが入り、その後、別当(=馬丁)たちも続いて入ったが、ロバートソンにしても初めての経験だったのではなかろうか。

翌朝の雨もやんだので山頂を目指し旅籠を出ると、村の外れに2人の役人が登山の身ごしらえをして待っていて、一緒に登り始めた。おそらく「海老や」からの通報で、準備をしていたのだろう。驚く事にはそれから3kmも登る内に同様の役人が次々と加わり、12人もの役人集団が出来た。やがて茶屋で一休みしようと役人たちが言い、皆で一緒に休んだ。役人たちは一斉に煙草をふかし始めたが、ブレイクはそんな役人たちをスケッチして楽しんだという。

ここで役人たちはホールに、子易が道路上の外国人自由行動区域の限界だからこれ以上は進めないといい、ホールは持参した地図上で、限界は直線距離で10里だから山頂まで行けるはずだといい、見解の相違が明らかになった。しかし一応役人と妥協が出来て、少し登った見晴台から相模湾や江戸湾を見通せたので引き返す事に決めた。また、大山山頂への最後の道には扉付きの神社の鳥居があり、聖なる山頂に行くには、この扉が開かれる5月、6月、7月だけ可能だとも伝えられた。「海老や」の宿泊代は4人で一泊二食付きに14分、約6ドルだったが、ホールは法外な値段だと思ったがそのまま支払ったと書いているが、八王子の「山亀」に比べれば少しは愛想良く、「またお越しを」と言ってくれたとも書いている。

帰り道は伊勢原村を通り、田村で相模川を渡り、藤沢の手前で東海道に入った。夕方戸塚を過ぎる時、肥前国・佐賀藩主になった鍋島直大(なおひろ)候が九州に帰る行列に出会い、旅籠や茶屋は供回りの休息で満員だったという。この時から約4ヵ月後に東海道で生麦事件が起きたから、外国人の東海道通行は、あまり気の許せない時期だったのだ。この行列との出会いでパンペリーは、自分たちは当時の規則で道路の右側を通ったと書いている。

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07/04/2015, (Original since 11/09/2010)