日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ペリー艦隊の箱館来航

 開港地の談判

林大学頭とペリー提督は安政1(1854)年2月10日から開始された横浜応接所に於ける談判開始の冒頭から、遭難者の救助や難渋する船舶への薪水食料の供給、更に石炭や欠乏品の供給について、論争もなくスムースに基本合意に至った。しかし2月19日の談判で、ペリーから開港場所が提起されると、談判の雲行きが少々怪しくなった。ペリーは薪水等の供給地として、この応接地・横浜の外5、6か所ほども港を指定して欲しいと要請を出した。これに対し林は、薪水等の供給は、昔から外国の取扱いをしている肥前長崎港で行うから、いつでも寄港は可能であると即答した。ペリーいわく、長崎は知っているがその辺りで必要になれば、直ちに清国の定海縣(筆者注:上海の南東150q、長崎の南西800q 辺りにある、現在の舟山島か) へ馳せ込めば自由に何でも入手できる。長崎はお断りし、日本の東南に5、6か所、北海に2、3か所ほども開いて貰いたいと強気だった。林いわく、そんなに何か所も開けないが、長崎がダメと言うのなら、何れか都合の良い場所を1か所位は定めよう、と答えた。そこでペリーは更に食い下がり、1か所では不都合で、ここ神奈川(=横浜)も含め3、4か所は必要であると要求した。林は、神奈川は開けないが、何れか東南の都合の良い場所を選んで定めたいと答えると、ペリーはその場所は何処かとたたみ掛けた。これに答えて林は、新規の場所を定めるのだから良く調べてからでないと返事は出来ないと言った。ペリーは、調べるには時間が必要だろうが、場所の指定だけなら決断だけの問題ではないか。自分は全権の命を受けここに来ているから、こんな事は自分の了見だけで決定できる。貴方も全権であればこれしきの事に即答できない筈はない。今、即答を給わりたいと詰め寄った。そこで林は、それは無理な言い方だ。全体、それ程別の港が欲しいというのなら、昨年差出した書簡(筆者注:大統領親書) の中に地名を載せてあれば、当方でも塾考した。それをただ、南方に一港を開いてくれと記載されていたから長崎と決め、それで良いと思っていただけだ。それ程の緊急事項なら、なぜ地名を明記しなかったのかと逆襲した。この返答にペリーもそれ以上返す言葉もなく、確かに明記していなかった。出来るだけ早く調べ、ご返答願いたいと矛を収めた。

こんな談判の翌日、これは将来にも関わる重要事項だからと林大学頭と井戸対馬守は上府し、22日朝登城して老中及び前水戸藩主・徳川斉昭等と会議を持った。徳川斉昭は下田や箱館開港に大いに反対し、長崎しかないという意見だった。若しペリーがそれに不服を鳴らし戦端を開いたら、心力を尽くして戦うのみとまで言い切った。斉昭は更に阿部伊勢守に内書を送り、軽々しく長崎以外を考えようとペリーに約束した林大学頭と井戸対馬守には切腹を命じ、応接掛けを筒井肥前守と川路左衛門尉に換えるべきとまで進言した。しかし、最終的に幕閣の決定で下田と箱館の開港が決まり、林大学頭と井戸対馬守にその旨指示が出された。当時幕閣のほとんどが、もし戦争になったら勝ち目はないとの認識だったから、斉昭一人が精神論で心力を尽くせと息巻いても、幕閣は現実的で平和的帰結を選んだ訳だ。

林は26日の談判で、この下田と箱館の2港を開く意志をペリーに正式に伝えたがペリーは、箱館は兼ねて良い場所だと聞いているが下田は知らない。軍艦2艘を派遣し測量・調査したいと言い、林は同意した。下田に派遣した軍艦による測量・調査の結果が良く、ペリーは下田開港を受け入れた。開港日も、条約締結日に即日下田を開港し、翌安政2年3月より箱館を開港する事が合意されたのだ。こんな経緯があり、ペリー提督は現地視察の後に細部決定交渉をするため、先ず下田港と箱館港を実見したいと言い、回航する事になった。これがペリー艦隊の箱館来航の経緯である。

この地・箱館は、ペリー提督が使節に任命される以前から独自にグレイアム海軍長官に提出した日本遠征基本計画筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) の中に開港に適した場所として出て来るが、ペリーの心の中では 「してやったり」 との思いを強く持った筈の場所である。

 松前藩への通達

こんな経緯があり、ペリー提督は現地視察のため箱館港に回航する事になった。そこで老中は取り合えず、安政1(1854)年3月2日、直ちに松前港や箱館港を領内とする松前藩に、「アメリカ船より申立てがあり、場合により退帆時、直ちに松前辺りに来る可能性がある。万一渡来した時は、注意や思慮を欠く行為が無いよう全て穏便に取計らうべき旨、早々現地に伝達すべし」 とペリー艦隊の箱館来航あるいは松前来航の可能性とその取扱い方法を指示した。そしてペリー艦隊の行動予定がはっきりすると林大学頭は、応接掛け4人の名前で松前藩主・松前崇広(たかひろ)宛てにペリー艦隊の箱館来航が確定した旨の書簡をつくり、ペリーに託し、現地で齟齬が生じないよう準備をした。同時に3月6日、幕府の海防掛け勘定奉行からも、そのペリーに託した書簡の内容が松前藩の江戸詰め家来にも通達された。

これは当時の通信事情によるものだ。江戸から松前まで通達や書簡、また公儀の旅などは夏で30日、冬で37日位掛るのが普通だとペリー側に説明されていた。日本の特急便で出しても、実際に蒸気軍艦で行くと下田から箱館まで4日間で到着したので、ペリー提督のスピードの方が遥かに速く、現地では大混乱を起こす可能性が十分あったためだ。ペリーに託した応接掛けから松前藩主宛の書簡いわく、

この節神奈川沖へ渡来のアメリカ船退帆の節は、箱館湊見置き度く旨願出候に付き、見置き候までは格別上陸は相成らぬ趣申渡し置き候えども、異人の事故強いて上陸致し、且つ測量等致すべきも計難く候。右の節は何事も穏便に取計らい申されべく候。尤も御老中方よりお達し之在り候義とは存じ候えども、その前異船罷り越し候も計り難く候に付き、我ら共より心得の為申達したく、異人共へ書面相渡し置き候者也。
  寅三月。

というものだった。この書簡は、後日ペリー艦隊が箱館に着くと、松前藩の責任者に手渡されている。 また同時に3月6日、松前藩主・伊豆守の江戸詰め家来宛てに、何事も 「勝手に決めるな」 という幕府の御達書が出された。いわく、

アメリカ船、食料薪水等欠乏の品下田箱館湊にて相願い候為、箱館湊船掛り等の様子見置く為罷り越し候義に付き、測量等致し候とも相制し候に及ばず候事。
一、今度同港へ渡来の節食料薪水等相願い候えば相応に相与え、右代品差出し候とも一通り相断り受取らず方に候えども、謝物の為強いて差出し度き旨申出で候はば、当否に関らず請け候義は苦しからず候。尤も食料等遣わし候品併せて謝義として異人より差出し候品共委細書面を以て申立て、追ってその品をも江戸へ相廻し差出し候様致すべき事。
一、上陸は致さず筈に候え共、上陸の程も計り難く、余り猥りの義も候わば、通詞を以て穏かに申断り申すべく事。
一、其節若し地所借受け其外の義申出で候とも、全て伊豆守より江戸表へ伺の上ならでは何れ共挨拶及び難き旨申し、断り申すべき事。
一、右船渡来中の始末、漏らさず様相認め、日記をも相添え、退帆後委細申立つべく候事。

この 「全て伊豆守より江戸表へ伺の上ならでは何れ共挨拶及び難き旨申し、断り申すべき事」 という指示のため、後日のペリー艦隊の箱館来航時に於けるペリー提督と家老・松前勘解由との交渉では何も決まらず、ペリー側を悩まし、あきらめて下田へ帰る事になる。また、「余り猥りの義も候わば、通詞を以て穏かに申断り申すべし」という指示は、下に書く通り、後日効き目を現すことになる。

ペリー艦隊の箱館来航というこの江戸の海防掛け奉行から緊急連絡を受けた松前藩家老・松前勘解由(かげゆ)が、家来を6、7人連れただけで、松前港から箱館港まで80q 程もある海路を船に乗りっぱなし同様にして箱館に着いたのが3月22日である。上述の、幕府海防掛け奉行から松前藩の江戸詰め家来に通達された3月6日から数えると16日目の事だ。これから推定すれば、大特急便で江戸から松前宛てに出した書簡は13、4日で松前城に着いたようだ。実際にペリー艦隊の帆走軍艦・バンダリア号、マセドニアン号、サウザンプトン号が箱館港近辺に到着したのは安政1(1854)年4月15日で、蒸気軍艦・ポーハタン号、ミシシッピー号の入港は4月21日である。家老・松前勘解由が箱館に駆け付けて以来、この約1か月間に、以下に続けて書くように現地では、突然のアメリカ艦隊受け入れ準備に可成りの混乱があった様だ。

 『亜墨利加一条写』 筆者・小嶋又次郎による、ペリー艦隊の箱館来航前夜の箱館の驚きと混乱

当時、箱館内澗町二丁目で雑貨清酒類販売の店舗を営み町名主を拝命していた小嶋又次郎 (筆者注:『亜墨利加一条寫』、函館郷土文化会の「序」) が記述した『亜墨利加一条写』によれば、3月22日に松前から急遽到着した松前藩家老・松前勘解由と共侍達は、先ず26日から全ての台場を見分し、港内を小舟に乗って細かく見て回った。そして早速市中や海岸の村々へ、「アメリカ艦隊が箱館港を見るため近々当港へ渡来する旨、公儀からお達しがあった。下田では許可なく所々へ上陸した由だが、当港へ渡来しても上陸が無いとは計り難く、市中の家は残らず戸締りをし、商品は隠し、食物等も見えない様にする事。万一無心をされ出さざるを得ない時は、向こうが答礼品を差し出しても受け取るな。強いて出したら受け取って置き、町役所へ届ける事。異人共は婦人に興味を示す由だから、海岸を離れた町か山付きの村方へ非難させ、滞船中は出合わない様にせよ」 との触書が出された。

また3月29日になると、松前城下から松前藩の船・吉祥丸が警備の侍70人余りを運んで来たり、アメリカ船が近々箱館に来るという知らせに米の値段が15%以上も値上がりしたが、その内に津軽米、秋田米、加賀米などを積んだ船が入港し米相場は安定した。小嶋又次郎は 「アメリカ渡来候はば、大混乱に候」 と書いている。更に浜に面する小路には塀を建て回させたが、木材や釘が不足し、不足分を公儀の普請場から緊急支給した。

4月6日には更なる触書が出され、「アメリカ船が近々入津するかも知れず、通達してある心得を必ず守る事。アメリカ船が見えたという合図と共に、町々、在々の人足は役所や指示された場所へ駆け付ける事。市中では合図の盤木(ばんぎ、=板木)も打つ。異国船が来たら浜辺に出たり屋根の上に登ったりする見物を禁じてあるが、アメリカ船は別だ等と言って見物に出る事はならず、若しそんな不埒な者が居たら、理由に関わらず召し捕り入牢させる。アメリカ船の滞留中は、人夫以外は商用であっても小舟で漕ぎ出したり海辺を徘徊する事を禁ずる。違反者は異船に近寄らずとも取り押さえ入牢させる。当湊に停泊する船は大小に関わらず、今回より残らず沖の口役所から内湊の方へ繰り入れ相互にもやいを取り、並び良く船掛りする事。異船が退帆しない内の出帆は固く禁ずる。・・・」 などと細部に渡った指示を出し入港に備えた。

その内、15日の午前9時過ぎにアメリカ船3艘が見えると、その知らせに役所や七面山、御殿山から半鐘が打ち出され、市中でも盤木を打ち鳴らし、町中で騒々しく戸締りを始め緊張が走った。見物人が出てはいないかと1人の侍が早馬に乗って町中を走り回った。16日にはアメリカ船が港内を測量し始め、17人ほどが沖の口へ上陸したので、市中に知らせの鉄棒(かなぼう)が引き回され、それを合図に各家々は固く戸締りをした。これから20日まで3艘のアメリカ帆船は湾内に停泊していたが、時々カッターを漕ぎ出す程度で上陸はしなかった。その内、21日の午前10時頃、「火船・美士辥被(=蒸気船・ミシシッピー)と鮑丹(=ポーハタン)の両艘が湊入り」したが、最初の3艘の時と比べ、市中は静かで合図もなかった。

また小嶋又次郎は、次の様な出来事も書いている。いわく、

廿六日上陸の人数、廿五日同様。尤も陸上りの節は町内々々鉄棒を曳き候得ば、夫々戸締りを付け婦人子供等隠置き申し候え共、裏町に住居る取上げ婆之有り。右のもの宅へ戸締りを踏破り入込候。其の節右の婆娘孫と彼等の眼に掛かり候由にて驚き入り、北村様沖ノ口御役所へ達しに相成り、右のもの宅に於ても何事も之無く候え共、次第彼等の通辞へ申談じ候所、国方の制度等之有り候由。其の節彼等弐人外に両三人気荒きもの之有り、残り上陸のものは市中徘徊致し、又は買いもの致し候。

この出来事は上述した幕府の御達書にある 「余り猥りの義も候わば、通詞を以て穏かに申断り申すべし」 という通りの手続きを踏んだものだ。これが下の 「主席通訳官・ウィリアムズ」 の項で書く通り、ペリーの怒りを誘発し、ペリー艦隊の箱館来航中に断固たる処置が取られる事になる。

 主席通訳官・ウィリアムズの記述する箱館入港

S・ウェルズ・ウィリアムズは主席通訳官(Chief Interpreter)として支那からペリー提督の日本遠征に参加した人物だが、遠征中の日記をつけていた(「A Journal of the Perry Expedition To Japan (1853-1854)」 by S. Wells Williams, 1910)。このペリー艦隊の箱館来航で、1854年5月17日、即ち安政1年4月21日に箱館に到着した日の記述は次の様なものだ。いわく、

2艘の蒸気軍艦は13日の早朝下田を離れ、この港までは非常に快適な旅だった。・・・船の進行と共に強い流れあるいは潮流が沿岸まであり、海峡に入ると海流が船の進行に強く逆らい、蒸気機関によりやっと逆行する事が出来た。・・・すぐに3艘の帆走軍艦からのボートが近づいて来て蒸気軍艦に彼らの停泊地を知らせたが、港の視界が開けるに従い、その安全で広々とし、入港のし易いありさまに皆が驚いた。・・・正午に役人達が乗船して来たのでベント氏と私が彼らと一緒にマセドニアン号に行き、横浜で応接掛けがここの役人宛に書いた書簡を渡した。工藤茂五郎(Kudoō Mogoro)と名乗る奉行は、3艘の帆走軍艦が着いても(筆者注:蘭語通詞の)名村五八郎と(筆者注:徒目付の)平山謙二郎(Namura and Kenzhiro)(まだ指示を携えてここに着いていなかった)が居ない事に恐れをなし、どうやったら良いか殆ど分からず、薪と水は供給したもののアボット艦長に会うことを拒否していたのだ。我々の説明と条約の精読とが目的に向け彼らの心を開き、交易の期待に喜んで居る様だった。そして明日上陸しての奉行との会談が取り決められた。まだ条約の便りが彼らの手元に届かず、季節により長短あるが江戸からここまで30日かかるので、我々のたった4日の旅には、勿論少し驚いたようだ。

ここでウィリアムズが記述した様に、箱館の奉行達はペリー側から日米和親条約の漢文版を見せてもらい、初めてその内容を理解した訳だ。早々に幕府からの条約文書の送付を受けていればすでに松前に着いているタイミングだが、箱館はまだ幕府の直轄地になる前で松前藩の所有地であるし、条約上の箱館の正式開港日は1年先だから、出来たばかりの条約書を送る考えはなかったのだろう。更に幕府の理解では、ペリー艦隊の箱館行きは現地調査が目的だったから、江戸での議論や理解が進んでいない新条約文書を送る意思は更々なかったのであろう。

ここで筆者に1つの疑問と想像がある。上でウィリアムズが記した様に、ペリー側の理解では、来る事になっていた蘭語通詞の名村五八郎と徒目付の平山謙二郎が来なかった。そこでどんな方法で意思疎通をしたかである。この主席通訳官・ウィリアムズは広東語が出来、多少の訛りの強い日本語を話した。また艦隊には羅森と呼ぶ、ウィリアムズの助手を務める広東人も乗組んでいて、小嶋又次郎の言う「通理師」即ち支那語・英語通詞であった。従って、いわゆる「漢文」の筆記で会話をし意思疎通をしたのだろうが、簡単なものはウィリアムズも日本語で参加したかも知れない。正式な回答としては、次に書くように、日本側から常に漢文の書簡を出した様だ。

 通訳官・ウィリアムズの記述するアメリカ人の態度の改善

ウィリアムスはまた5月22日、即ち4月26日、次のように書いた。いわく、

・・・(松前勘解由から)夕方、歩行区域の限界は決められないと言う同じ回答が寄せられ、また昨日上陸したアメリカ人の品行に付いて長々しい苦情の手紙も一緒だった ━ 異教徒の上級役人から、安息日に、この町でのキリスト教徒の悪行についての苦情だが、寺で賭け事をし、塀を乗り越え民家や庭に入り込み、店から品物を持ち去り、狂人のような振る舞いだったと言う! 悪行を働いたという人間は人並みに道徳を心得た者達だが、社会の拘束が無くなった時に素が出たのだ。

キリスト教徒の重要な安息日に、キリスト教徒のアメリカ人が心ならずも働いた悪行を、事もあろうに異教徒の役人から指摘された事が誠に残念だった様だ。翌日の5月23日、即ち4月27日には、

今日はこの苦情の結果として全士官が船に留まり、事実をはっきりさせるため、上陸時にどんな借りがあった事も全ての士官や下士官に報告させ、また特に苦情のあった全ての刀剣類を返却させた。・・・調査が行われ、支払わなかった物は返却するか、全額を支払う様にさせた。これは疑いもなく(筆者注:日本の)役人や一般人の記憶に刻まれ、この悪印象は時間のみが消すことが出来るだろう。

ペリー提督はこの様に厳然たる態度で、ペリー艦隊の箱館来航中に部下が起こした醜態につき、日本側から乗組員たちへの苦情を処理したのだ。しかしまたペリーは、乗組員たちの珍しい買い物をしたいという熱い願望を無視する事もなかった。更に翌日の5月24日、即ち4月28日のウィリアムズの日記にこの事実が出て来る。いわく、

多くの商品を乗組み士官達のために用意しようという事になった。3時までにはベント氏と私とで、望んだほど多くとまでは行かないが、かなり多くの商品を仲買人達に持参させる事が出来たが、これははっきりと購買者達を喜ばせ、また私は、満足させ喜ばせられない事を心配していたので、同様に嬉しかった、・・・この買い物即売会が行われている雰囲気から、双方に満足感が見られ、もうこれ以上問題が起こる事はないと思われる。

そしてウィリアムズは、これ以降、アメリカ人達が上陸し市内の店を訪ねても、態度に節度を持つようになり、多くの更に良い商品が店頭に並んだと書いている。これはペリー提督の部下掌握術の一つで、違反については厳罰で臨むが、人間味ある処置も忘れない指揮官だったわけだ。

 ペリー艦隊の出港

上述のごとく、幕府から 「其節若し地所借受け其外の義申出で候とも、全て伊豆守より江戸表へ伺の上ならでは何れ共挨拶及び難き旨申し、断り申すべき事」 という明確な指示があったから、その後ペリー提督と会談した松前藩家老・松前勘解由は、ペリーからの 「箱館における自由行動範囲を決めたい」 という提案に対し、繰り返し拒否をした。そこでペリーは、箱館港を見て測量を完了するという初期の目的は達成したので、1854年6月3日、即ち安政1年5月8日、蒸気軍艦・ポーハタン号とミシシッピー号を率いて箱館を後にし、下田に向かった。

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09/20/2018, (Original since 09/20/2018)