日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ハリス公使の退官願い

♦ スーワード国務長官宛の退官依願書簡
(典拠:37TH Congress, 3rd Session. House of Representatives. Ex. Doc No. 1.

1861(文久1)年7月10日の日付けで出された、ハリス公使からスーワード国務長官宛の退官依願書は次のようなものだ。いわく、

拝啓、
日本駐在合衆国公使の職から召喚して頂きたいと言う私の尊敬を込めた願いを、是非大統領にご提示頂きたいとお願い申上げます。
私が最初に受けたこの国への合衆国代表者と言う任務は1855年8月4日まで遡りますが、その全期間にわたり、私はこの職務任務を一度欠勤したのみです。それは病気診断によるもので、全欠勤期間は只の51日間のみです。
先導せざるを得ない全くの孤立状態の生活が著しく私の健康を害し、それに先立つ年月も合わせ、この健康悪化が全ての公職から身を引く時期であると私に警告しています。
帰国に当たり3月中には紅海を通過できる様、来年1月の早い時期に退任出来る事を願っております。
尊敬の念を込め、敬具。
タウンゼント・ハリス  
駐在公使
ウィリアム・H・スーワード閣下
      国務長官、ワシントン

この様に「全くの孤立状態の生活が著しく私の健康を害した」と述べる如く、1856(安政3)年8月21日、蒸気軍艦・サン・ジャシント号でヒュースケンと共に下田に着任以来孤軍奮闘が続いた。その1年後にアメリカの帆走軍艦・ポーツマス号が下田に来るまでは、露国使節・ポシエットと下田で会った以外は全くの孤立状態で、殆ど西洋人の顔も見なかった。その後粘りに粘って1857(安政4)年12月7日、終に将軍・徳川家定に謁見し、翌(安政5)年7月29日、日米修好通商条約を締結した。そして開港後は諸外国公使の中の先任公使としてリーダー的存在であったが、日本で多くの攘夷殺人事件に見舞われ、1860(万延1)年3月24日に外国人のみならず幕府の大老・井伊直弼まで倒され、更に1861(万延1)年1月14日にはヒュースケンまでも失う不幸に遭った。そして収まる気配のない攘夷殺人の嵐はその半年後の7月5日、東禅寺に居たイギリス公使・オールコックの命まで狙った。身近に迫りくる攘夷殺人の嵐に、終にハリスの気持ちまでも折れてしまったのだろうか。

♦ スーワード国務長官からハリス公使宛の退官許可と、大統領から将軍宛の公使召喚状
(典拠:37TH Congress, 3rd Session. House of Representatives. Ex. Doc No. 1.

ハリスから退官したいので召喚して欲しいと述べる書簡を受取ったスーワード国務長官は、早速1861(文久1)年10月21日付けの書簡でハリスの退官依願書受領を確認し、ハリスの素晴らしい仕事を称賛した。更に大統領は非常に残念に思うがハリスの希望を許可したと伝え、後任人事はロバート・プルーインである事を伝えた。

この当時のアメリカ国内では既に南北戦争が始まり、当初は短期決戦になろうと予想された戦いが、南軍の予想以上の抵抗にあい、北軍即ち連邦政府軍が1861(万延1)年7月21日から始まった最初の大規模戦闘「第一次ブルランの戦い」で総退却を余儀なくされる程の非常事態にあった。そこでリンカーン大統領は、北軍の組織を大幅にテコ入れせざるを得ない繁忙期にあったのだ。

そんな背景もあった為であろう。ハリスからの退官依願書受領を確認し後、更に1ヵ月程も経った後に初めて、スーワード国務長官はアメリカ大統領・リンカーンから将軍・徳川家茂宛ての公使召喚状を添えた1861(文久1)年11月19日付けの書簡をハリス宛に送った。いわく、

国務省、ワシントン、    
1861年11月19日
拝啓、
貴君の要請による公使召喚を伝達する、日本国・大君に宛てた大統領からの公式書簡を同封します。これと同内容の書状を、近く任地へ出発する貴君の後任公使・プルーイン氏の信任状にもしますが、貴君が彼の江戸到着まで待てれば非常に望ましい事です。
大君の元を去るに当たり、勿論貴君は適切な言辞を以て、大君政府に対する大統領と合衆国国民の友好的所感を伝え、二国間が和親と相互理解により更に緊密な関係になりたいと言う希望を述べるべきであります。
   敬具
ウィリアム・H・スーワード
 タウンゼント・ハリス殿、江戸。

この書簡を受け取ったハリスは文久2年3月28日、即ち1862年4月26日に登城し将軍・家茂に謁見し、リンカーン大統領からの公使召喚状を提出した。日本側で翻訳したその召喚状いわく、

亜米利加合衆國大統領    
アブラハム・リンコルン
日本 大君殿下に呈す
大良友
合衆國ミニストルレジデントの職となして數年の間、殿下の許に差置けるトウンゼント・ハルリス氏本國に歸り度願ひ出しに由て、余其願の如く許容して、殿下と別離を為すことを命ぜり。日本政府と尤も懇切なる交を大切になし遂るを在留中の職分とせるハルリス氏に、江戸を退去する時、方今両國の間に幸ひ相結たる懇切の交を堅固にし及び廣大にせんとの我等が正直なる志願を殿下に証し、且此交より生じ来る恩澤の永續することを両國の人民に証することを命ぜり。右ハルリス氏以前よりの職分を精勤せしに由て、余望むらくは、同人此度の命を殿下の悦び給う様に務むべし。
耶蘇降世后千八百六十一年第十一月十四日華盛頓に於て書す 
殿下の良友たる                     
アブラハム・リンコルン手記      
大統領の命にて                     
外国事務ミニストル                  
ウイリヤム・エッチ・シウアルト調印  

ハリスはこの様に公使召喚状を提出したが、この約2ヵ月前にはまたまた、ハリスと親しかった老中・安藤信正が坂下門外で水戸藩の暴漢の襲撃を受け傷ついた事件があったばかりだった。ハリスの伝記『Townsend Harris, first American envoy in Japan』を書いたウィリアム・E・グリフィスは、当時ハリスが直面した困難を「あらゆる恐れにもかかわらず、ハリス氏は ”彼の義務は江戸に居る事だと言わんばかりに、焼け始めたデッキに立ち続けた”」と表現している。しかしそんな義務感だけだったのだろうか。挫折感は無かったのか。残念ながら筆者は、帰国当時ハリスがまだ続けて書いていたであろう自身の日誌の存在や内容を知らないが、どの様な気持ちで帰国したかぜひ知りたいものである。

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07/06/2019, (Original since 07/06/2019)