日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ジョセフ・ヒコ、浜田彦蔵からビバリー・サンダース宛書簡

良くその名が知られているジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵は、万延1年12月4日、即ち1861年1月14日にアメリカ公使館通訳のヘンリー・ヒュースケンが江戸の赤羽橋で暗殺されたショッキングな出来事を、アメリカの恩人・ビバリー・サンダースに宛てた手紙で報告した。当時サンダースはメリーランド州ボルチモアに住んでいたが、日本からのニュースを伝えるこの手紙を、地元の「デイリー・エクスチェンジ紙(The Daily Exchange)」に掲載許可を与え、1861年5月18日版の第2ページに掲載されている。いわく、

日本事情
この市に住むある紳士に送られ、その本人から本紙に手渡された以下の書簡は、差出人が日本人で、難破船から救助されサンフランシスコに上陸した人物である事から、特別に興味深いものである。彼はその地に二、三年滞在し、英語を学び、読み書きを教育された。どこまで彼の教育が進歩したかは、この書簡から判断出来るであろう。

神奈川、1861年1月25日、

 拝啓、「ウィアガード(Wiagard)号」に託し、私がひと箱のプレゼントと共に貴方宛てに最後に差し上げた書簡発送以来、ヨーロッパやアメリカから何回も郵便船が到着しましたが、全く残念な事に貴方やディッキンソン氏からの何の返書もなく、昨年1月以来、私は貴方がそんなに長く返信しない事はあり得ない事を承知していますから、そちらからの手紙類は誤配に終わったと思わざるを得ません。 ―  貴方がこの手紙を受け取られ私に返信する場合は、直接私に宛てこの港に送り、誰の気付にもしなければ、安全に私宛に届くものと思います  ―  更にヨーロッパ経由でお送りください。  さて、貴方にお知らせしたい、この国の政治状況と貿易一般に関するちょっとしたニュースがあります。この業界で起っている外貨価格の引き続きの低下と、この地の政府官吏による日々に渡る介入により、貿易はずっと低調です。現在の所、最近支那から輸入された綿花の一部が$19.50@22.00ppel.―1331/3ポンドで売れた以外、輸出も輸入も皆無です。若しこの品をアメリカから混載便で持って来れれば、利益が有ると思います。

 江戸における出来事に関しては、今月16日の夜に起こった二本差しの侍たちよるアメリカ公使館通訳(ヒュースケン氏)への襲撃により、彼が受けた深い傷により殺害された事により、大きな問題がある様です(筆者注:実際には14日夜に襲撃を受け、15日未明に死亡した)。

 夕方ヒュースケン氏はプロシャの使節と一緒で、三人の政府派遣の警護の侍と四人の「別当」即ち馬丁とで家に帰る途中でした。彼と警護の侍たちは馬に乗り夫々提灯を持っていましたが、全く突然、二本差しの侍とおぼしき七、八人に襲撃され、彼が受けた傷は恐らく槍によるものの様でした。傷を受けた後落馬する前に、彼はほゞ300ヤードあまり馬を走らせました。可哀そうなヒュースケン氏が襲撃されると、彼の警護の侍たちは逃げてしまいました。この事件が起こるとイギリス公使とフランス公使は江戸を引き払い横浜に撤退し、彼らの神奈川領事たちも横浜に撤退しました。彼らは江戸に居る事は非常に危険であると考え、そして日本政府は外国人保護には弱すぎると考えています。各地の大きな「大名」は政府そのものよりもっと力があり、従って、1859年の秋以来こんな大名の家来たちは暗殺をし回っていて、恐らくご承知のごとく、2人のロシア人、1人の支那人、1人の日本人(支那人と日本人はエギリスの旗の下で働いていました)(筆者注:日本人は英国総領事館雇いの通詞・伝吉)、2人のオランダ人、1人のアメリカ人が殺害され、政府はこれらの犯人の誰をも逮捕できず、最後のケースでは、政府の警護の侍たちがヒュースケン氏に付いて居ながら、彼らは暗殺者を逃してしまいました。プロシャは最終的に条約文書を作成し(筆者注:調印は1861年1月24日)、ポルトガルは昨年10月3日に条約を発効させました(筆者注:調印は1860年8月3日)。貴方はヒュースケン氏の死亡について、ハリス氏から我が政府宛ての報告書をご覧になると思います。当地のアメリカ人の一般的な印象は、ハリス氏はその地位に値せず、当地での我が同胞のどんな活動をも決して促進しないと云うものです。彼は日本政府との取引に何の問題もないが、彼の義務を適切に行わない様に見えるという風に皆から思われています。彼の通訳のケースでは、彼はヒュースケン氏に夜は外出するなと説得しましたが、ヒュースケン氏は出掛けてしまい、切り殺されてしまったので、恐らくその落ち度をヒュースケン氏に向けるでしょう。私はもっと書きたいのですが、もう夜も遅くなり、私の眼もかなり疲れて来たので、この手紙はここで終わりにします。日本人の間の一般的な印象は、この国ではもうすぐ国内戦争が始まると云うものです。どうぞ貴方の家族の皆さんに、私から宜しくとお伝えください。近々の貴方からのご返事を期待しつつ。
    敬具。     J.H.

1861年1月28日、

 追伸、私が上の手紙を書いて以来、イギリスとフランスの両公使が江戸からやって来て、今、横浜ホテルに滞在しています。ハリス氏は依然江戸に居て、一般情報では、イギリス公使がハリス氏に、イギリス公使と一緒に横浜に非難しない事を抗議する書簡を送りましたが、ハリス氏が返信で言うには、彼は保護下にあり、江戸にはそんなに危険はないと、イギリス公使に対し江戸で彼と共に滞在しない事を抗議しました。しかし私は、こんな情報は真実ではなく、イギリス公使がそんな抗議を行ったり、ハリス氏がそう書き送る様な事はしないと思います。貿易に関しては全て停滞していますが、少々の例外として、茶がロンドンとアメリカの港に直接輸出されました。今日は朝から雪が降り  ―  この冬は雪があると見ていますが  ―  気温は非常に寒い毎日です。私はロシア政府に対し、この港の領事か貿易事務官就任の願書を出しましたので、若し貴方がワシントンでロシア公使にお会いでしたら、私が貴方と一緒の節に公使は私を良く知っていると思いますので、何卒公使に、ロシア政府に推薦状を書いてくれる様に依頼して頂けませんでしょうか。上記の願書は、私が良く顔見知りのロシア海軍・ポポフ(Pofwff=Popov, Andrei Alexandrovich)提督を通じております。提督は、1859年にロシア軍が当地で問題があった時、恐らく当時貴方はお聞きだったと思いますが、私が提供した援助に対し彼の時計をくれた人です。

 貴方がこの手紙をお受け取りになったら、是非とも、私が何度も手紙を送りましたが何の連絡もつかず、何とか連絡を貰いたいと思っているディッキンソン氏へご連絡頂きたいと、宜しくお願い申し上げます。また彼にも、H.婦人にも、J.ご夫妻にも、H.大佐ご夫妻にも、私がどうしているかと思っているその他の全ての人々にも、宜しくお伝えください  ―  貴方ご自身へも同様であります。では、またの機会まで。
    敬具。     J.H.

以上のようにジョセフ・ヒコは、横浜で知り得た情報を書き送った。文中で明らかなごとく、ヒコはまた新しい収入の道を探してもいたのだ。この様に自身の貿易ビジネスも全く低調で、攘夷殺人も更に過激になり身の危険を感じたジョセフ・ヒコは、横浜在留のアメリカ人としてもっと安全な職を求め、これから9ヵ月後にまたアメリカに戻っている。しかしアメリカで始まった南北戦争の影響で、望んでいた横浜での海軍兵站部の仕事に就くことが出来なかった。しかしスーワード国務長官の好意で、議会で認められた正式な神奈川領事館通訳の職を得て再度横浜に帰って来た。ジョセフ・ヒコはこの帰国直前にワシントンで、スーワード国務長官の紹介で、スーワード国務長官の言う「米国の大君」即ち、リンカーン大統領と面会している。

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02/05/2019, (Original since 04/08/2010)