日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

島津久光、朝廷の命で勅使・大原重徳を護衛し上府

島津久光は薩摩藩主・島津茂久(もちひさ)の実父であり、前藩主・島津斉彬(なりあきら)の異母弟である。斉彬急逝の後、斉彬の遺言により藩主の座にはつかず、実子・茂久が藩主になりその後見人として実質的な最高実力者であった。

徳川幕府はアメリカのペリー提督と日米和親条約を締結したが、引き続き総領事として来日したタウンゼント・ハリスから、イギリスやフランスとの軍事力を背景にした日本が不利になる押付け通商条約の可能性を指摘され、ハリスの望み通りアメリカと日米修好通商条約原案を作成した。 しかし幕府の通商条約勅許の強い願いにかかわらず、孝明天皇の徹底的な夷人嫌いに端を発する朝廷の条約拒否につながった。イギリスの支那とのアヘン戦争終結が引き金となり、タウンゼント・ハリスは、「いよいよ大艦隊を率いたイギリスが不条理な條約を突きつけに来ますぞ」と幕府の危機感を煽り、ついに幕府大老・井伊直弼は朝廷の勅許なしの日米修好通商条約調印にまで踏み込んだ。 このように幕府内外で外交問題を発端に国論が分れ、将軍・家定の後継問題も絡み、幕府の権威を押し通そうと安政の大獄を強行した井伊は桜田門外で暗殺され、京都では朝廷の周りに集まる長州藩士や浪士が尊皇攘夷を更に強く叫び始めた。

薩摩藩は斉彬の時代から、混乱する国政に大藩として参加する強い望みがあったから、ほころびの広がった幕府と朝廷の関係改善に向け、公武合体推進に動き始めた。 京都の公家・近衛家と姻戚関係にある島津家の実力者として、久光は朝廷に関係改善の献策を行なうため上洛し、文久2年4月16日権大納言・近衛忠房を通じた朝幕関係改善の献策を行なった。また朝廷の要請により、粗暴になり始めた京都周辺の過激な尊皇攘夷派の浪士を鎮圧した。

久光の献策は9ヵ条からなる建議の形をとったが、まず安政の大獄で慎んでいる公家や幕臣の罪を解き、世間の評判が悪いからとの理由で、幕府と協調路線をとる関白・九条尚忠や幕府京都所司代の更迭を求め、関白に近衛忠煕(ただひろ)を推挙した。 また当時の将軍後見職・田安慶頼(よしより)や老中・安藤対馬守を免じ、松平慶永を大老にし一橋慶喜を将軍後見職に任ずるなど、朝廷や幕府の人事まで口にし献策とした。

腰の重い幕府の関係改善行動に我慢ならない久光は、再度朝廷に勅使の東下を献策した。これを受け入れた朝廷は、大原重徳を勅使に選任し久光をその護衛とし、天皇よりの「三事策」と呼ばれる三か条の勅命を幕府へ伝達するため、勅使・大原を任命し東下を命じた。その三事策とは、

  1. 将軍・徳川家茂の上洛。
  2. 沿海五大藩を五大老とし、国防に当らせる。
  3. 一橋慶喜を将軍後見役に、松平慶永を大老職あるいは政事総裁とする。

であったが、もともと一橋慶喜や松平慶永の推挙は久光の献策である。

こうして文久2年5月22日に京都を出発した勅使・大原重徳と共に江戸に着いた久光は、朝廷と幕府間を取り持とうと画策した。しかし、藩主でもない「やっかい」が朝廷の信頼を得て勅使護衛になっていることや、久光上府の理由を造ろうと自藩で江戸の薩摩藩邸を焼き払った疑惑がくすぶり、幕閣からはむしろ冷たい扱いを受けた。 結果的に朝廷より下った三事策の内、松平慶永や一橋慶喜の登用はすでに実行途中であり、将軍上洛も紆余曲折があったが実行された。

生麦事件は、この勅使を護衛した帰り道に、島津久光一行が引き起したイギリス人殺害事件である。

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07/04/2015, (Original since 02/21/2008)