日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

将軍・徳川家茂の辞表に付けた、条約勅許申請書

兵庫遠征を決めたイギリス、フランス、オランダ、アメリカの条約4カ国は、イギリス軍艦5隻、フランス3隻、オランダ1隻の合計9隻もの艦隊を整え、夫々の公使たちが乗り込み、9月16日に兵庫沖に現れた。そして早期兵庫開港と天皇の通商条約勅許を求め、朝廷と交渉のため、上陸し直接京都に行くと通告した。この強硬策に、長州征伐で大阪に出張している幕閣は独断で「早期兵庫開港」をする回答を決めたが、これを知り怒った朝廷は、それを主導した幕閣・阿部正外(まさとう)と松前崇廣(たかひろ)の官位を剥ぎ、藩地での謹慎を命じた。朝廷のこんな幕府人事への介入は一橋慶喜と朝廷のたくらみだと反発し、将軍・徳川家茂は朝廷宛の将軍辞表を提出したが、その辞表に添付し朝廷へ提出した条約勅許申請書は次のようなものである。

臣家茂が世界の形勢を熟考するに、近頃次第に変化し、和親を結び、一方にあって他方にないものを互いに融通し合い、富強を図る風習に推移している。これは天地自然の流れで、止むを得ないものである。そんな中で皇国だけが外交をしなければ、それは恐れ退く姿になり、国体や国威も立たない。すでに先年下田のアメリカ使節と和親条約を結んだのも、これらのことを斟酌の上奏聞し、ご許容になったものである。

それ以来、徐々に鎖国の古い仕来りも変え富強の基がしだいに開けて来たところ、天皇が外交拒絶を仰せ出だされたので、出来るだけ聖意尊奉をしたいという志願ではあるが、無謀の掃攘はするなとのご命令もあることなので、富国強兵の策が立った上でなければ征伐し懲らしめることも出来ない。従って彼らの長所を取り、貿易の利益で多くの船舶を設備し、夷をもって夷を制する事こそ今第一に成すべきことである。

今までいろいろ苦心をして来たが、防長の件が始まり、ついに大阪城まで出張して来たが思いがけず夷船が兵庫港に渡来し、あらためて条約勅許を求め、若し自分が処理できなければ直に天皇のご前に出て交渉すると申し立て、種々交渉したが少しも承諾しない。さりながら、無謀に武力を動かしては必勝もおぼつかず、例え一時的に勝算があるにしても四方を海に囲まれた国柄、東西南北から朝晩攻撃を受けての戦争を始めては、国民の困窮がこの時から始まり、全く思いやりも情けもない仕打ちになる。

自分達一家の存亡は差し置き、これは皇位の安危にもかかわる容易ならぬ事柄である。陛下が万民を守り育てるご仁徳にも反し、臣家茂の職掌も立たないから、これらの事をとくとお考えになり、人民の動揺がないよう断然と卓識をもって、条約の虚像をはなれ現実的で適切な談判をすべく、明確な勅許をいただきたい。そうなればどの様にも尽力し、国外に向けては外夷制覇の有効的設備を構築し、国内では防長追討を成功させ、天皇の心を安んじ、万民を安堵させ、自分は祖先の志に報いる志願である。

皇国がどの様に武勇に優れていようと、万一内乱と外冦が同時に起り西洋万国を敵に回せば、ついには聖体のご安危にも関わり、万民は塗炭の苦しみに陥るのは必然だから、痛哭と慨嘆の極みである。仮にも治国安民の任を負う職務において、どの様なお沙汰があるにしろ、この様な戦争を始める事はしのび難い。よって前文で申し上げた通り、速やかに勅許を下される事は皇位の永続と万民の大幸に最重要で、千々万々懇願致します。まことに不任、悲嘆、号泣の至りであります。

もっとも外夷が天皇のご前に現れでもしたら一大事であり、最大限の努力で談判をし、来る7日まで兵庫港に差し控えさせてあるので、なるたけ早くお沙汰を下されるよう奏上致します。

以上のように、今までになく理論的に明確に現状を訴え、早急に条約勅許を願ったものだ。勿論歴史は変えようもないが、孝明天皇と将軍・家茂の間にこんな率直で真剣な会話や情報交換がもっと早くからあれば、幕府の存続も長引いたかもしれない。しかしその延命が吉凶いずれに出たかは誰にも分からない。

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07/04/2015, (Original since 04/08/2010)