日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

将軍・徳川家茂の直書、「両都・両港の開市・開港の延期」

♦ アメリカ大統領への書翰

文久1年3月24日の日付けで出された、アメリカ合衆国大統領宛の将軍・家茂の直書は次のようなものだ。いわく、

恭(うやうや)しくアメリカ合衆国大統領のもとに申す。我国と貴国と條約を取結びしよりこのかた、数々の事務漸(ようや)くについてを得て、条約の書に載せる処、大方は是を施すに至りぬ。しかるに彼の条約の中、兵庫および新潟の港を開き、また江戸大阪の市町にて、外国の人ものを商う業を営むべき條は、契りし如く行わんとすれども、かずかず障りの事あれば、暫く開くべき期を延べんとす。その細やかなる事柄は、外国の事務に関われる我老中久世大和守、安藤對馬守より、貴国外国事務大臣に申し入るべし。こは親しく懇ろなる意をもて、むべ(諾、=いかにもと肯定する)ならんことを求む。且つ、貴国の平安をこれ祈る也。
        文久元年辛酉三月二十四日
                源家茂 朱印

この徳川家茂書翰には、老中・久世広周と老中・安藤信正の更に詳しい添え書があり、スーワード国務長官宛に出された。このアメリカ大統領宛とほぼ同様の直書が、ロシア、イギリス、フランス、オランダの元首に宛てても出された。また、日本側が要請した「7年」という延期期間は、将軍・家茂の直書と合わせ国務長官宛に出した老中・久世大和守と安藤對馬守の連名の別書に、「故に先ず七年の間を延引し・・・貴国暦数千八百六十八年に至りこれを開く事を治定致したく・・・」と表明されている。

リンカーン大統領から将軍・徳川家茂の直書への返書

♦ アメリカ大統領からの返書
(典拠:37TH Congress, 3rd Session. House of Representatives. Ex. Doc No. 1.

上記の文久1(1861)年3月24日の日付けで出された書翰への、アメリカ大統領・リンカーンから将軍・家茂宛ての返書は次のようなものだ。いわく、

日本国大君殿下、
偉大なる善き友へ、条約に規定された日本の開港及び開市時期の延期を希望する件に関しての、殿下が本職へ当てた書翰を受領した。論題は、多くの困難に見舞われている事である。それにも拘らず、合衆国の利益が考慮されねばならない事を思いやりを持って述べている殿下の道理をわきまえた希望に対し、殿下の便宜のために熟慮し、当国が出来る限りの同意をしたいという事が当職の真剣な希望である。殿下の近くに駐在するタウンゼント・ハリス公使へ本政府の見解を伝え、その概要を殿下に説明する様、詳細に指示を出す。この見解は、我国の繁栄と名誉に対する考慮と同様に、貴帝国の利益と繁栄に対しても至当な観点から行うものであるので、疑いもなく殿下の希望に沿うものと思う。
殿下統括の偉大な国家へ、多くの繁栄と長久のあらんことを願い、殿下に常に神のご加護のあらんことを祈念する。
  1861年8月1日、ワシントン市にて。
      殿下の善き友、
                     A・リンカーン
  大統領に侍して、
                     ウィリアム・H・スーワード、
                                 国務長官

リンカーン大統領はこの様に理解を示し、基本的に将軍・家茂の要求を入れ、詳細の決着をハリスに委ねたものだった。これが、文久1年12月22日即ち1862年1月21日に日本を出発した開市・開港の延期談判をする遣欧使節の外国奉行・竹内保徳(やすのり)一行は、ヨーロッパには向かったが、アメリカには行かなかった理由である。アメリカは後にロンドン覚書を公式に認めている。

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07/04/2014, (Original since 08/05/2011)