日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

新商館長・ドンケル・クルチウス提出の『別段風説書』抜粋、(嘉永5年6月)

バタビアから新任の出島商館長として嘉永5(1852)年6月に来日したドンケル・クルチウスは、恒例の『別段風説書』を長崎奉行に提出し、奉行配下のオランダ通詞たちが和訳した。この中で、オランダ国内外の情勢に続き、10万人を集めた英国の博覧会、英仏間を長さ24マイル・重さ200トンの海底電線で結んだ電信の敷設、オーストラリアでカリフォルニアを超える規模の金鉱発見、フランス第二共和政混乱と第二帝政の始り、カリフォルニア州金鉱の更なる隆盛と人口流入、サンフランシスコの大火、サンフランシスコ近辺の農業・牧畜の発展、米国と支那・印度・欧州間貿易の大発展など、多くのヨーロッパや北アメリカ情報を述べた後、最後にペリー提督に関連する情報を載せている。ここでは、この最後のペリー提督に関連する情報部分を口語訳で抜粋する。いわく、

一、ここにまた一情報が有ります。北アメリカ共和政治(筆者注:アメリカ合衆国)の政府は日本国に使節を送り、日本国と通商を行いたいということです。

一、この件は、次の通りであります。

一、この使節は、共和政治のプレジデント(共和政治の司)より日本ケイスル(帝の義)への書翰ならびに日本漂民を送って寄こすとのことです。

一、この使節は、日本の湊のうち二、三ヶ所を北アメリカ人の交易のために開きたく、且つ日本の湊のうちの都合の良い所に石炭を貯め置いて、カリフォルニー(筆者注:カリフォルニア)と唐国との蒸気船の通路に用いたい、と願い立てるということです。

一、北アメリカの蒸気仕掛けの軍船はシュスクガンナ(船号)、その船将・アウリッキ(人名)であり、ならびにコルベット船四艘、すなわちサラトカ(船号)、プレイモウト(同上)、シントマレイス(同上)、ファンタリヤ(同上)は当時唐国海に展開していました。

一、一説には、これらの船々が使節を江戸に送るべき命令を受けたとのことです。

一、当時の説では、船将・アウリッキ(人名)は使節の任を船将・ペルレイ(人名)に譲り、且つ唐国海にいたアメリカ海軍の数艘の蒸気船は、次の通り増強されたということです。
一、ミスシッピー(船号)、船司・キリンネイ(人名)。ただし、この船に船将・ペルレイ(人名)が乗船しています。
一、プリンセトウン(船号)、船司・シッドネイスミット(人名)。
一、ブリッキ船・ペルレイ(船号)、船司・ファイルファクス(人名)。
一、兵糧運搬船・シュプレイ(船号)、船司・アルトヒュルシントカライル(人名)。
一、風聞書(筆者注:新聞)によれば、上陸囲み軍の用意もし(筆者注:海兵隊も乗船し)、諸道具(筆者注:武器類)を積み入れてあるとのことです。そしてこれらの船々は、第四月下旬(当三月初旬に当たる)以前には出航が難しく、あるいはもう少し延期になるかも知れないということです。

古カピタン                      
フレデイキ・コルネヘリス・ロフセ
新カピタン                      
ドンクル・キユルシユス     

右の通り、和訳を提出いたします。以上。
    子 六月
西 吉兵衛 印
森山榮之助 印
西 慶太郎 印
本木 昌造 印
楢林榮七郎 印

この様にペリー艦隊が浦賀に現れるちょうど1年も前から、阿部伊勢守はじめ幕閣たちには、アメリカ艦隊の来航がオランダ情報としてはっきり知らされていたのだった。ちなみに、日本側で当時の関係者が認識したかどうかは別にして、ペリー提督が指揮する艦隊の日本派遣を決定したミラード・フィルモア大統領が、副大統領から大統領に就任したというオランダからの情報は、前年・嘉永4年の「別段風説書」で伝えられている。

しかし、当時・嘉永5年は本文に書いたごとく、長崎奉行と幕閣の間では、新商館長・ドンケル・クルチウスがそれまで幕府が堅持してきた 「オランダとの通信はしない」 と云う 「弘化2年6月の申諭」 を知りながら、オランダ領東インド総督・バン・トゥイストがオランダ国王・ウィレム三世の言葉を筆記したという名目の重要書簡を提出したいと、必死に頼んできた事態に対処することに忙殺されていたのだ。そして結局江戸での評議を経て、幕府はこの筆記を日本から返事のいらない 「風説書同様の品と見据え」、即ち 「別段風説書」 と同等書類として長崎奉行に受け取らせ、旧カピタン・ローゼの帰国にあたり口頭で礼を述べさせている。従って、ヨーロッパ諸国と肩を並べる強国になったアメリカから、蒸気軍艦を含む多数の軍艦が 「通商をしたい」 と言って日本にやって来るという情報は、この総督・バン・トゥイストの筆記に明記されていて、同時に、戦争にならないためのオランダの 「方策」 をも提言した。即ちこれは、オランダ国王からの緊急情報と献策であったわけだ。そこで、ペリー艦隊がアメリカから派遣され日本にやって来るという情報を含んだこの 「嘉永5年の別段風説書」 の内容は、筆者の想像では、その緊急性において二次的な情報になっていたのではないかとも思われる。

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05/20/2018, (Original since 03/20/2011)