日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ペリー提督への遠征指令書
(典拠:33d Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No. 34.)

ペリー提督の日本遠征に当たり、フィルモア大統領は国務長官に命じ、海軍長官経由でペリー提督に宛てた詳細な遠征指令書を出している。これには遠征の理由やその目的、軍事力を背景にした交渉方法、ペリー提督への広大な権限委譲など、アメリカ政府の日本開国に向けた基本方針が盛り込まれたものである。フィルモア大統領の外交基本方針の一つとして、1850年12月の上下両院向にけた大統領教書で 「海軍は引き続き世界各地の我が通商と国家利益の保護を行い、・・・太平洋沿岸の安全保障と東アジアに於ける我が通商の保護と拡大に関する海軍の新方針と共に、海軍編成と軍事力を強化する」 と宣言していた(Millard Fillmore, First Annual Message, December 2, 1850)。こんな基本方針が色濃く反映された日本開国へ向けた遠征であったから、ペリー提督を全面的に信頼し、万全を期した遠征指令書である。1852(嘉永5)年11月5日付けで、当時のコンラッド国務長官代理からケネディー海軍長官宛ての書簡として出された、ペリー提督に対する日本遠征指令書いわく、

国務省、ワシントン、1852年11月5日

拝啓、
 日本派遣予定の艦隊が間もなく出港準備を完了するので、大統領の命令で、私から遠征の目的を説明し、この目的を達成するための一般方針を申し述べます。

 日本列島に最初にヨーロッパの国々から人が訪れて以来、多くの人口を抱え裕福だという評判の高さが商人達に強い誘惑の種を持ち続けさせる、この国と通商を確立したいという努力が常に幾多の海洋国家によりなされて来ました。ポルトガルが先ずそれを試み、その先例にオランダ、イギリス、スペイン、ロシアが続き、そして終に合衆国の出番です。しかしながらその全ての試みは今に至るまで成功せず、ポルトガルが短期間この島国との通商許可を得て、それはオランダが年に一隻だけ長崎に商船を送る許可になりましたが、この件の例外とするにも値しません。

 支那がこの島国と少なからぬ通商を続けて来た唯一の国です。

 この鎖国は非常に厳格に保持され、外国船のその港への避難のための入港や、彼の国の自国民への親切行為での入港さえ認られません。1831年に日本船が海上で吹き流され、更に何ヵ月も漂流後、オレゴン州のコロンビア河河口付近に漂着しました。アメリカ船・モリソン号が生き残った乗組員を彼らの国へ送還しようとしましたがしかし、江戸湾に着くと近くの岸から砲撃されました。モリソン号は日本の別の場所へ行き上陸しようとしましたが、しかしそこでも同様な目に遭い、日本人を乗せたままアメリカに帰りました(筆者注:モリソン号はアメリカにではなく、出港地のマカオに帰った。1837年7月4日マカオ出航、8月29日マカオ帰着)。

 船舶が日本で難破したり漂着したりした時、その乗組員は最も残酷な目に合う事から逃れ得ません。最近この種の二つの事例が起こりました。1846年に、二艘のアメリカ捕鯨船のラゴダ号とローレンス号でありますが、日本列島で遭難し、その乗組員が捕縛され全く野蛮な扱いを受け、彼らの命は長崎のオランダ商館長の仲裁でやっと助けられました ――(上院文書番号第59号、第32議会、第1会期。本文書の写しを添付。筆者注:即ち、32d Congress, 1st Session, SENATE., Ex. Doc. No. 59)。

 疑いもなくどの国も、その国が他国と、どの程度の通商をするかを決める権利があります。しかしながら、この権利を行使する国を保護するその国際法は、正当に無視できない当然の義務をも課しています。この義務の中で、海上の危難でその国に漂着した人々を救助し救援する必要性以上に緊急な事はありません。この義務は、法律家により公法と呼ばれるものの中で、不完全である事は事実ですが、他の諸国に彼等の行為を強要するどんな権利も与えはしません。それにも関わらず、一国が習慣的にまた組織的にそれを無視するだけでなく、そんな不幸な人々をあたかも最も残虐な犯罪者であるかの如く扱うのなら、そんな国々は正当に人類共通の敵とみなされるべきであります。

この様に書き始め、最後に
 大統領は戦争を宣言する権限はないので、提督の使命は必ず友好的な性格のものであり、指揮下にある軍艦と乗組員の防衛や、又は提督自身やその士官に向けたけしからぬ個人的暴力に対する以外、軍事力に訴えない事を提督は肝に銘じておくべきであります。

と結んでいる。

この遠征指令書簡を国務省から受け取った海軍長官は、1852(嘉永5)年11月13日付けでペリー提督に宛てた東インド艦隊への赴任出発命令書に添付し、「同封の、国務長官から本省に宛てた書簡に記載された提言を貴官への指針と見なし、我が政府の訓令としてそれに従う事」と書き送っている。

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07/16/2022, (Original since 04/24/2019)