日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

蒸気軍艦・咸臨丸と朝陽丸の購入

日本初のスクリュー推進型蒸気軍艦・咸臨丸と朝陽丸は、江戸幕府がオランダに注文し購入した軍艦である。特にこの咸臨丸は、日米修好通商条約の批准書交換のため、初めてアメリカに派遣された遣米使節筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用 の乗るアメリカ軍艦・ポーハタン号の随伴船として、自力でサンフランシスコまで太平洋を渡りハワイ経由で帰国した船である。その購入に至る経緯を書いてみたい。

 折に触れた国防議論 ・・・「無策」の「策

軍艦製造や大砲鋳造により国防を強化する必要性についての献策や意見の上申は、ペリー艦隊が浦賀に現れる何年も前から幾つも幕閣に出されている。弘化年間(1845−1848)から嘉永年間(1848−1854)にかけては、琉球に外国船が来たり長崎や浦賀近辺に外国船が頻繁に接近した。幕府が支那とイギリスの第1次アヘン戦争での支那の敗戦を検討し、それまでの武力排撃策を改めた天保13(1842)年7月24日に出した「天保の薪水給与令」以来、幸運にも外国船との武力摩擦はなかったから、こんな献策や上申書が出されても幕閣首座・阿部伊勢守の国防強化に対する対応は危機感に欠けるものだった様に見える。

弘化3(1846)年閏5月にアメリカのビドル提督指揮の大砲を満載した2艘の軍艦が浦賀に来て通商を求めたが、幕府の「通商はしない」という回答に、ビドル提督はアメリカ本国からの指令書に基づき、多少の行き違いもあったが事を荒立てずおとなしく退帆した。しかしこの出来事を契機に、現場を預かる浦賀奉行からは海防の問題点が緊急報告され、前水戸藩主・徳川斉昭からは軍艦製造や海防の献策がなされた。また観音崎から猿島まで重要な海岸警備を命じられた川越藩主・松平斉典(なりつね)は、幕閣に、若し打ち払いの命令が出された場合、海岸に弾除けの土手や柵等の構築を提起した。中でも徳川斉昭の国防意見は積極策で、軍艦を製造し多くの大砲を備えて浦賀や松前、琉球を防御すべきと建策した。そしてこの軍艦建造は、幕府や海岸警備のある大名のみでは数が知れているから、諸国の船持ち共にも命じ、外国には渡航するなとの条件で、軍艦でなくても堅牢でマストが何本でもある船を造れと許可を出すべきである、とまで献策していたほどだ。その時の阿部伊勢守の基本意見も、徳川斉昭への弘化3年7月8日付け書簡で、

第一軍艦製造之無き候ては実に永久守衛存分に戦争は相成り間敷くと存じ奉り候。浦賀、長崎、松前、薩州等へは堅牢之船建造御免に相成り、公儀御船も製造仰せ付けられ、其れより様子に寄り外々へも製造仰せ出だされ然るべきと致す評議、当時取り調べ中に御座候。

と述べていたが、しかし史実は、評議だけして何も行動に移されなかった訳だ。

また、嘉永2(1849)年にはアメリカ軍艦・プレブル号が漂流者救出のため長崎に突然入港したり、英国の測量船・マリナー号が浦賀水道や下田辺りの測量を行うため近海に10日ほども滞在した。マリナー号艦長は浦賀に上陸しての奉行との会見を強く願ったり、測量用ボートを使って浦賀近くのアシカ島に上陸し測量をした。また下田では、下田港内を測量したり乗員が湾内の柿崎村に上陸たりもした。こんな行動に危機感を持つ御固四家の一藩、会津藩主・松平容敬(かたたか)は、緊急時の手続きが明白でなく情報も非常に少ないとの観点から、浦賀防備に付き阿部伊勢守と直接会って話したり、韮山代官・江川太郎左衛門が日本を強国にする三策、即ち「砲術・船艦・城制」の改革を幕府に建白したり、再度浦賀奉行が江戸湾防備の増強を求めたりと、幕府の対処方針をめぐり役人や在野の処士も含んだ国防論が活発になった。しかし海防の御固藩を四藩にはしたが、活発になった議論に反し、「海岸防備を厳重にするが、渡来の事情を尋察し、臨機の処置あるべきこと」という指示は出しても、幕府自ら実効性ある具体策や行動は殆ど何も無いに等しかった。幾つかの雄藩は別にして、幕府内で議論の末に唯一実行された目に見えるものは、嘉永2(1849)年2月に浦賀奉行・戸田氏栄等の強い願いで実現した、西洋型スループ帆船・蒼隼丸(そうしゅんまる)の新造のみであったようだ。

またこれとは別に、すでに書いた様にオランダからは、アメリカ使節が通商を求めてやって来ることや、その対応策なども極秘情報として示唆されていた。しかしそれでも幕閣は、徳川斉昭が言う「小田原評定」を繰り返すのみで、実際にペリー艦隊の黒船を目にするまでその海岸防備の「無策」行動は変わらなかった。

 軍艦購入の決断

百聞は一見に如かずと言うことわざの通り、嘉永6(1853)年6月3日にペリー艦隊が浦賀に来ると、民衆は言うに及ばず幕府全体がその威力に動転し、それまでの国防危機に対する緩慢な対応が一変した。幕閣はペリー提督のもたらしたアメリカ国書を受け取る羽目になり、来年また回答を求め再来すると言って退帆したペリー艦隊の後を追うように、ロシア海軍のプチャーチン提督も3艘の軍艦を率いて長崎にやって来る。

こんな慌ただしさの中、黒船4艘のペリー艦隊を見てから10日も経つ頃には、幕閣内で役人も巻き込み、早くも軍艦製造の必要性が議論されだした。先ずはオランダから蒸気船を購入し、国内でも造船を開始しようとの議論だった。この計画はまず内々に、天保年間から軍艦建造の推奨者だった徳川斉昭の意見を聞こうと、幕閣首座・阿部伊勢守の内命を受けた筒井政憲と川路聖謨(としあきら)が6月14日、斉昭邸を訪ね内々に意見交換をしている。そして更に、新しく長崎奉行に任ぜられた水野忠徳は伊勢守の「オランダから大船、蒸気船等購入」の指示を受け、7月21日長崎に向け江戸を出発した。伊勢守はこの旅先に向け、オランダから軍艦と蒸気船を大量に購入せよとの緊急指示を出したが、これに付き阿部伊勢守が7月25日に徳川斉昭宛に出した書翰いわく、

先達って長崎奉行へ談じ遣わし候和蘭陀の大船、蒸気船等御取寄せの儀、七、八艘、十艘ばかりと(上様に)申上げ置き候処、・・・長崎奉行へ軍艦、蒸気船共、五、六十艘取揃え差出し候様カピタンへ申達し候様、巨細旅中へ直書にて申遣わし置き候え共、如何之在るべき哉。

と伝え意見を求めている。さらに阿部正弘の考えは拡大し、翌月8月、正弘自身の側用人・石川和介を内々に斉昭のもとに送り、これほど大量の船舶購入には、日本人を何人かジャガタラに派遣すべきだとの考えをも諮問し、人選も内々に進めていたようだ。

 長崎奉行、オランダ商館長・クルチウスと軍艦購入交渉

長崎に到着した長崎奉行・水野忠徳は、阿部伊勢守から直々に命じられた「オランダから大船、蒸気船等購入」の交渉を始めた。当時の史料によれば、このように伊勢守から命じられたのか、あるいは、利に聡いというオランダに足元を見透かされないようにと言う水野の作戦かは不明ながら、先ずオランダ通詞・森山栄之助をクルチウスのもとに送り、口頭で探りを入れさせた。いわく、

今回フレガット船や蒸気コルベット船等を取寄せたい内意は、日本国に軍艦(即ち海軍)を開興する趣旨ではなく、元来日本船の操船は便利でなく、暴風に遭えば難破の危険が高く、溺死や米穀を始め諸荷物の損失が莫大である。これは兼ねて我が政府の深く思慮するところであるが、今夏に浦賀に来たアメリカ船やこの度長崎に来たロシア船等を見て、蒸気船を始めとする軍艦製造の巧妙さが良く分かった。わが国でも造船方法を西洋流に改良し、転覆や溺死を無くしたい。直ぐそんな船を製作できる訳ではないので先ずオランダから取寄せ、その後順次製造に移行したいという趣旨である。従って、船による運搬と用弁が第1の目的であり、海軍を開設するものでは無い。何とか骨折り協力を願いたい。

と言うものだった。後の咸臨丸や朝陽丸と言う蒸気軍艦購入は、こんな会話から始まっている。

一方のクルチウスの方は、あれほどアメリカ使節が蒸気軍艦を連ねて日本にやってくる。その対処を誤れば戦争の可能性もあると危機感を持って日本側に伝えていたわけだから、森山のこの話は、国防のため海軍を造る軍艦購入だと思うのが自然である。嘉永6(1853)年9月13日から始まるこの史料は、そんな双方の思惑の違いが良く分かるもので、面白い史料である。

元々ジャワでオランダ・インド領の最高裁判所判事を務めていた文官であるクルチウスには、船の事は全く分からず、入港している恒例の交易船の船長に問い合わせ、日本側に蒸気商船の大きさやその概略値段など出来るだけの情報を提供した。日本側もその高額さは理解していても、昔はオランダ交易に銀素材や銅素材を出して商売したが、既に銅素材すら底をつきかけている現状から、ましてや金貨や銀貨で支払う事も出来ず、その支払い方法に非常に頭を痛めたようだ。物品払いにしたい日本に対し、そのためには専用の商船を何十艘も持ってこねばならず、非現実的だというのがオランダの見解だった。更にこんな交渉や問い合わせは、オランダ本国に直ぐ通ずるわけでもなく、ジャワを経由しオランダ本国迄の往復だから非常に長い時間がかかる。従って納期短縮のため、交渉の過程では、ジャワでの造船も検討している。

 長崎奉行からクルチウスへ軍艦の発注

その後徐々に意思疎通ができ双方で内容の理解が進むにつれ、長崎会所役人が細部の具体化を担当した。軍艦の購入であるから、クルチウスとしてはジャワ総督の理解を得て本国に伝え、国王政府の許可を得る手続きがあるため、この理解を求めた上で日本側の購入案を受け入れ、嘉永6(1853)年10月15日、クルチウスの請書の翻訳が奉行所に出されている。日本側の船舶注文書の内容は次のようなものだ。

  1. 蒸気コルベット型軍艦、中型、3千石積みほど、大砲装備、1艘。
  2. 帆走コルベット型軍艦、大砲22挺から30挺位の装備、3、4艘。
  3. 帆走ブリッグ型軍艦、大砲14、5挺以上装備、1、2艘。
  4. カノンネール・ボート、長さ10間以上、大砲5、6挺以上据え付け、1、2艘。
  5. 蒸気商船、長さ14、5間から20間位、2、3艘。
  6. 船々の装置はオランダの標準仕様、大砲や端艇等の付属用具は夫々の船の規格に準じ全備する事。大砲類は出来るだけ銅製の事。
  7. 蒸気船は中型小型とも、スクリュー駆動と外輪駆動の夫々の方式を造る事。
  8. 注文船の長崎までの航海に必要な人員は最小限にする事。バラストには土俵を使う事。長崎入港手続きは通常商船に倣う事。火薬類は入港後も船に格納しておく事。士官や水夫の出島への上陸は自由だが、届出後は係員を伴い各船装備の端艇を用いる事。士官の出島宿泊は自由だが、水夫は船に帰る事。士官の帯刀と身元改めは免除するが、水夫は規則に従う事。士官や水夫のうち蒸気軍艦運転を教授する者を残し、全員商船で帰国する事。軍艦運用教授の者には出島内に住居を用意するか、住居として役所や寺院を用意するが、教授が終われば商船で帰国の事。士官・水夫の市内への外出は他のオランダ人に倣い、届け出の上係りの者を付ける事。船々の日本への輸送諸費用は、購入価格以外に別途支払う事。購入代金や諸雑費は国禁の品を除く代物で支払うが、納入分については損失の無い様に取り計らう事。船の士官への指示は、何事によらずカピタンを通じて行う事。

この様に、細部まで非常に細かく気を使っていることが分かるものだったが、後年実際に納入された咸臨丸や朝陽丸とは、かなり懸離れたイメージだった。購入品は、これら船舶以外に剣付銃(歩兵銃)3千挺や大砲各種、陸軍兵書や造船技術書などあるがここでは省略する。以上のごとく確定した注文書を携帯し、10月15日、恒例の交易船がジャワに向け長崎を出帆した。

 オランダ政府の用心:ヨーロッパでの中立性が最重要

この注文内容は、ジャワ総督宛てのクルチウスからの書翰と共に翌月の1853(嘉永6)年12月にジャワ総督・バン・トゥイストが受け取り、翌年の1854(安政1)年3月にオランダ政府内で検討されている。ジャワ総督の心配は、日本が発注した軍艦を性急に数多く日本に送る事により、他国からオランダによる日本への軍事的肩入れと解釈され、オランダとの摩擦が増大し、ヨーロッパに於けるオランダの中立性を損ねる事だった。非常にデリケートな問題である。総督は、アメリカと日本の交渉の進捗状況を注意深く観察する事にし、発注された軍艦類については、とりあえず軍艦1艘をオランダ国王から将軍への贈り物とする事を提案した。本国政府の結論は、日本の状況を注視・観察するが、日本が通商条約を締結する時は、オランダだけでなく、多くの国々と更なる貿易をする事を強く望んだ。これは、世界情勢を考慮し、10年前の1844(弘化1)年8月にオランダ軍艦・パレンバン号を長崎に派遣した時からほぼ一貫した考えだった。また日本からの軍艦等の注文に対しては、軍艦ではなく、先ず蒸気商船を探す事にした。そしてとりあえず、先端技術である電信機1式を贈り物にする事を決めた。そこで本国政府はジャワ総督に宛て書翰を発し、以上の決定を伝え、日本に居るクルチウスに、アメリカやロシアに先を越され、オランダより有利な条約を締結される事態は絶対に避けねばならない旨努力させるべく命じた。しかしジャワと長崎の間は年1回の交易船しか往復せず、クルチウスから直ぐに連絡が入らない。そこでオランダ政府は早急に明確な情報を入手するため、急遽オランダ海軍軍艦の日本派遣を決め、ジャワ総督に命じた。こうして突然、オランダ蒸気軍艦が長崎に来ることになる。(「CROSSROADS, NUMBER 5, THE CONCLUSION OF THE FIRST DUTCH TREATY WITH JAPAN」, by Herman J. Moeshart, Crossroads Inc., Autumn 1997

 オランダからの返事とオランダ政府の関心事

再び恒例の貿易商船、サラ・リディア号が安政元(1854)年7月5日ジャワから長崎に着いたが、ジャワ総督より長崎奉行・水野筑後守宛ての書翰や別段風説書等をもたらした。クルチウスが伝えるジャワ総督のメッセージや本国政府の状況は、

  • 日本政府からの帆船と蒸気船の注文はオランダ国王政府が承知した。
  • 別段風説書の情報通り、今ヨーロッパでクリミア戦争が始まり、何処の国の政府も軍艦や武器を堅持するため、商用帆船や蒸気商船すら手に入らない。
  • 国王の命令で蒸気商船を探しているが、何時入手できるか不明である。そのため先ず、日本側に蒸気船の仕組みや操船・指揮方法を伝えたい。
  • アメリカとロシアの軍艦が日本に来航したと云う事だが、オランダ国王は出島商館長・クルチウスから最新情報を入手したく、ジャワ総督に命じオランダ蒸気軍艦・スームビング号(ファビウス艦長)の長崎派遣を決定した。遠からず長崎に入港すると思われる。
  • 長崎到着後は出島商館長が世話をする予定で、情報収集後はジャワに帰帆する予定である。
  • 注文した船々が日本に到着するまでに、準備段階として、長崎滞船中は造船や蒸気船航海方法などを伝授できる。
  • オランダ政府はまた、日本とアメリカ合衆国やロシアとの取り決めがどうなったか知りたく、若し日本における外国人の取扱いが数百年来日本に渡来のオランダ人より良くなった場合は、オランダ人にも同等の条件を与えて貰いたい。
  • 蒸気軍艦・スームビング号が到着次第、出来るだけ早期に出港できるよう、日本側の外国人取り扱いの情報を頂きたく、出来るだけ早く江戸政府と連絡をお取りいただきたい。

この様に当時のオランダ政府の最大の関心事は、むしろ日本とアメリカの条約の行方だった。軍艦の買い付けに関して承知はしたが、クリミア戦争を理由に、発注された軍艦の件は一息入れた、という姿だ。日本がアメリカと結んだ条約の情報収集のために急遽、わざわざ蒸気軍艦・スームビング号を長崎に派遣する事になったのだ。

ジャワ総督より長崎奉行・水野筑後守宛て書翰の翻訳を読んだ水野忠徳は、7月8日早速老中宛ての書面で、アメリカとの条約に照らし、オランダの取扱い振りに付き指示を仰いだ。この長崎奉行からの伺い書に対し、老中からの指示が出されたが、8月7日付けの阿部伊勢守からの指令書いわく、

  長崎奉行に相達し候趣
此度亜墨利加国へ約定致し候條約書併せて附録写し差遣わし候間、和蘭陀甲比丹へ相渡し、別冊の通り亜墨利加へ約定致し候に付いては、和蘭陀の儀は従来通商御免しの国柄に付き、以後下田箱館両港に於いて亜墨利加へ差許され候程の儀は勿論和蘭陀へも御差許し相成り候旨、加比丹へ相達されべく候。

と言うものだった。幕閣は和蘭陀からの使節を待たずに、最恵国待遇を適用したわけだ。従ってこの時点ではオランダにだけ長崎を含めた3港が開かれ、オランダ貿易も従来通りだから、長期に亘って信義を保ってきたオランダの優位性が保たれたものだった。しかし、全てのオランダ人が自由に出島から出られる権利も含めた正式文書による「日蘭和親条約」締結は、この時点から1年4か月後の安政2年12月23日、即ち1856年1月30日になる。

 オランダ蒸気軍艦・スームビング号の入港とファビウス艦長の推奨案

ジャワからの恒例の貿易商船が20日ほど前にもたらした情報通り、安政元(1854)年7月28日、オランダ政府派遣の蒸気軍艦・スームビング号が長崎に入港した。既に書いた様に、スームビング号来航の目的は日本とアメリカとの条約情報の入手であったが、オランダ国王はジャワ総督に命じ日本のためジャワで蒸気船が購入できないか調査せよとの事であり、ジャワ総督はジャワで日本のために蒸気船を造ろうと考えている、などの情報をもたらした。

同時にまたスームビング号のファビウス艦長(中佐)は、日本が軍艦を購入し海軍を創設するにはどう考えるべきか推奨案を提出した。いわく、

  • アメリカ合衆国が優勢な独立国になった理由は、強力な海軍があることによる。進退が敏速なフレガット軍艦や商船は世界の海を航海し、イギリスの商売をも破壊する勢いである。この傾向はヨーロッパやアメリカに限らず、海軍整備に疎かった国々も、海と港がある所には軍艦を備えている。
  • 従って、島国ではあるが多くの藩があり、人民も強勇盛んな日本に於いても聞捨てにはできない事と思われる。ただ、鎖国を是として今は都合が良くても、後年不穏な災いが起こる事を懸念する。
  • 日本には素晴らしい港が多くあるのみならず、船を造るための木材、鉄、銅、その他必要な素材が豊富にある、殊に海辺に住み風雨の中でも船を操れる人々を訓練すれば、優秀な航海者にすることが出来る。
  • 以上の状況に鑑み、日本に海軍を造るためにはどんな船が最適かを述べたい。
    • 地図によれば、日本には多くの入り江や港が方々にあり、夫々の場所に特有の風筋があると思われる。そんな状況を考えれば、帆走軍艦は用をなさず、海軍を持つには必ず蒸気推進軍艦とすべきである。
    • 帆走軍艦では必要な時に直ぐ使う訳には行かない場合がある。時に逆風が吹き、時に無風になり、数か月待つ事もあり、何時でも艦隊を動かす訳には行かない。
    • 従って蒸気軍艦が最適である。近来ヨーロッパでは、軍艦建造に際して帆走軍艦は決して造らず、全て蒸気推進軍艦にしている。既にある帆走も、出来る限り蒸気推進に改造している程である。
  • 蒸気推進が発明されて以来、その船にボンベカノン(筆者注:ペキサンス砲とも呼ばれ、炸裂砲弾用の大砲。榴弾砲)を艤装してあれば、国防において敵を退けるには最適な組み合わせである。無益な帆走軍艦に資金を投入しないように願いたい。
  • 蒸気駆動には2方式あり、日本政府もご存知の通り、外輪推進方式とスクリュー推進方式である。スクリューは新しい発明であり、外輪より優れている。イギリスとフランスで2方式の比較テストを行ったが、スクリュー推進が勝り、推進力でも優勢であった。スクリュー駆動の諸機構や蒸気釜は喫水線より下に設置するので、砲撃を受けた場合でもより安全である。外輪駆動は大掛りな駆動機構が船体の中央付近にあり、勝手が悪く、大砲などは前方か後方にしか置けないが、スクリュー駆動はその制約がなく、諸方向への防備に優れる。スクリュー駆動は速度も速く、進退等操船の勝手が良い。
  • 日本に推奨する蒸気軍艦は、100馬力のスクリュー推進コルベット船で、10挺あるいは12挺の大砲を装備し、2段総甲板のものである。最初の船の運用について、艦長、士官、蒸気機関方等の任はオランダ人を採用すべきである。この組織で試用を済ませた上で、日本の奉行所で航海熱心な人を選び、軍艦の運用を覚えさせ、その後造船の方向に進むべきである。
  • この仕様の軍艦を造る場所は、造船設備があり、必要な木材も豊富にあり、造船技術者も居るジャワに勝る場所はない。ジャワのスラバヤでは、蒸気機関の製造所の建設最中である。このスクリュー推進コルベット型蒸気軍艦は、大砲などの武器を除き総仕上げの後、1艘当り2千5百貫目ほどになる。この軍艦2艘ほどの造船には1年半ほどかかる。但し、艤装する大砲などはヨーロッパのクリミア戦争の影響で、今入手が困難であろうと思われる。
  • 船体材料について、日本にはまだ船底の錆や付着物落としのための修復用摺動式船台設備や乾ドック設備が無いため、鉄製は止め木製にすべきである。
  • 最初の軍艦が日本に届いた後、おそらく日本でも造船する事になろう。この要害の地長崎は、潮の干満が大きく防御にも適しているので、造船所を建設するには最適地である。蒸気船の造船には、先に述べたドック類、大仕掛けの鍛冶工場、鋳物工場、蒸気仕掛けの製材所等が必要になる。
  • どんな素晴らしい軍艦があっても、それを運用する熟練した指揮者が必要となる。以上、自分は海軍で三十有余年船上で練磨してきたが、その経験から述べたものである。如何に素晴らしく造船し、如何に素晴らしい装備が施され、如何に素晴らしい武器を備え、如何に素晴らしい蒸気機関を設置した軍艦であっても、未熟な人の手にかかっては全く無益であることは自明である。
  • 自分が長崎に滞在する間は、何事によらずお伝えしたい。250年以上繁栄している日本と通信を始めたわけで、いささか日本のためになる事に力を尽くしたいと思う。

この様に、実際の運用現場で経験を積んできた専門家のファビウス艦長の推奨案は、その後日本海軍の幕を開ける初めての蒸気軍艦選定に決定的な貢献をしている。

 長崎奉行・水野筑後守の再度の軍艦購入伺い

ファビウス艦長の推奨案を読んだ長崎奉行・水野忠徳は、安政元年閏7月20日その合理性を認め、早速幕閣宛てに新しく軍艦購入伺い書を提出した。老中に宛て、「先般オランダに発注した軍艦や蒸気船等を直ぐに持って来れないが、国王がなんとか日本のために調達せねばならないと命じている様子については、カピタンの書翰を翻訳し、お送りしてある通りであります。然る處、本件につき尚また中佐である蒸気軍艦の艦長から推奨案が出され、質疑等を含めた合計4冊の翻訳をお届けいたします」と述べ、続けて、奉行としての推奨案に対する意見と共に、蒸気軍艦の購入を改めて申請した。いわく、

  • 帆走軍艦とスクリュー推進コルベット型蒸気軍艦の利害得失を述べ、スクリュー蒸気軍艦にすべきと推奨している内容は尤もであります。
  • 先般奉行所付きの役人を選び軍艦運用の説明を受けさせたところ、通訳の不足分は絵図面を使い親切に説明したが、その心情は疑う所もなく、日本の為を思っている事が良く分かった。従って、推奨案の採用がしかるべきと思う。
  • そこで、兼ねて注文してある船々に付いては艦長が帰帆する時、スクリュー推進コルベット型蒸気軍艦に改め、数艘分の発注としたいと思う。
  • 今回艦長より、ジャワでの造船の申出でが有った事は誠に幸いで、1ヵ年半に2艘の割合で同所で10艘ほども新規造船を発注すれば、堅実な軍艦を速やかに調達できる。武器の大砲類は除き、帆、錨、その他船具1式の備え付きで、1艘当たり4万両程になる。
  • いよいよこの軍艦が完成しても、運用、進退の技術が無ければ、堅牢完好の軍艦も無用の備えになってしまうので、蘭人を呼寄せ技術習得を行わせるべきと思う。
  • いよいよ伝習が始まれば各種学術の習得になるが、この伝習生はオランダ語が話せる様にしたいので、蘭語学校を設立した方が良いとの事で、その手続きは推奨の通りとしたい。これにはしかし多々問題もあろうと思われるので、学校設立を待たずとも今すぐ人選にかかり、蘭語稽古を始めれば何とかなろうと思う。
  • しかし、この軍艦購入と伝習のための蘭人呼寄せには多額の費用が発生する。火事で焼けた禁裏の造営や、台場の築立て、その他の費用が一時に集中する中、勿論費用削減には努める所存である。しかし、昨年のロシアやアメリカの渡来時に、江戸近海までにも侵入し、勝手な行動をし、ほぼその願意を達成した事実は、詰まりは、軍艦、大砲の備えがなかったので、拠無き取扱いになってしまったものと思われる。恐れ入る事態ではあるが、当今の時勢は、例え海岸だけ防備が充実しても海軍が無ければ、永久に外夷の兵鉾を押さえ国威拡張の機会も無くなる。是非ともオランダ艦長の推奨案を採用され、この軍艦の新調と蘭人教師の呼び寄せをオランダにご指示願いたい。そうなれば国威挽回の趣意が貫徹し、航海術が開け、古来よりの義勇の風習が一層奮起し、威徳が海外に伸び、夷賊は影を潜め、万世ご安心の基となるので、あえて費用を厭う筋ではないと思われる。オランダ艦長が日本を離れる時に注文できれば、本国にもすぐ届き好都合である。早々のご下知を頂きたい。

こんな長崎奉行の新規伺い書を受けた老中首座・阿部伊勢守は、早速前水戸藩主・徳川斉昭に回し意見を求めた。安政元年8月11日付けの阿部正弘宛て返書で斉昭いわく、「長崎奉行の申請通り、伝習のため人を海外に派遣するよりは、蘭人教師の招請が良い。船は帆前より蒸気スクリュー推進が良い」との意見だった。取りも直さず、ファビウス艦長の推奨案がほぼ支持されたれた訳である。

 スクリュー推進コルベット型蒸気軍艦2艘の発注

種々の評議を済ませた幕閣は、長崎奉行宛ての指示を出し、長崎奉行から、オランダ商館のカピタンと購入の細部手続を任されている会所調べ役に宛て、2艘のスクリュー推進コルベット型蒸気軍艦の購入指示が出されたのは、ファビウス艦長が長崎を出発し10日以上も経った、安政元(1854)年9月20日付けの申渡しであった。いわく、

軍艦蒸気船類御用に付き持渡り方、去丑年申渡し候処、欧羅巴州中戦争之有り、当商売船渡来の頃迄調達行き届き兼ね候趣の處、蒸気船将より爪哇(ジャワ)に於て新規打建ての儀、委細書面を以て申立て候に付き、江府へ伺いの上、右申立て候捻仕掛け蒸気コルフェット船貳艘、先ず試みの為新規打立申付け候。尤も鉄砲玉薬は相除き、端船其の外右船に附属致すべき分は雑具迄も残らず取揃え、一艘に付き代銀凡そ貳千五百貫目迄の積りを以て早々製造、来夏商売船渡来の砌相違なく持渡り申すべく候。・・・
軍艦製造併せて運用其の外共、熟練の者連れ渡り方の義に付き、蒸気船将申立て候手当筋、類例も之無き處、右は昨年中申立て置き、本国政府に於いて委細相心得候事故、その意に任し申すべく旨、龍太、栄七郎を以て申立て候趣も之有る間、改めて申達せず候。尤も捻仕掛け蒸気船類併せて軍艦製造方、且つ運用法等熟練にて、鉄製併せて砲術をも兼て相心得候者に候えば、宜しく究理度学の類を相弁ぜず候とも苦しからず候まま、士分等の内にて相撰び連れ渡るべく、且つ船具、水夫の類も塾業の者を一両人宛て留置き候積り相心得、乗組まされ連渡るべく候事。
右の趣其の意を得、精々入念堅牢に打建て持渡り申すべく候。若し麁略(そりゃく、=粗略)の義等之有るに於ては積戻し申付け候儘、惣て御為筋厚く相心掛け取計らい申すべき事。
  寅九月

この様にして、スクリュー推進コルベット型蒸気軍艦・咸臨丸と朝陽丸の購入が決まった。この発注文書の中で特に興味がわく事は、「若し麁略の義等之有るに於ては積戻し申付け候儘」と、万一不良物件があれば返品する事を明記している点である。

以降、実際の造船場所はジャワではなくオランダ本国のロッテルダム近郊のキンダーダイクで行われたのだが、筆者は未だその経緯の詳細を知らない。しかし、上記ファビウス艦長の推奨案中に「大砲などはヨーロッパのクリミア戦争の影響で、今入手が困難であろうと思われる」と言っている所から推察すれば、軍艦本体だけジャワで造っても、重量のある24挺もの大砲をオランダからジャワに運ぶのも大変であるし、製造納期もそれなりに長いはずだから、全てオランダ本国での製造になったのかも知れない。この方式の方が、効率的だと思われるからだ。

さて、この日から2年11ヶ月後の安政4(1857)年8月5日、カッテンディーケ艦長指揮のオランダからの3本マスト蒸気軍艦・ヤーパン号、即ち咸臨丸と命名される船が長崎に入港した。ここからまた、前任者のペルス・ライケンに替わり、カッテンディーケ艦長を中心にした新しい教師陣のもとで海軍伝習が始まる事になる。また2艘目の、朝陽丸と命名される3本マスト蒸気軍艦・エド号は、安政5(1858)年5月3日長崎に入港している。

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04/01/2021, (Original since 08/05/2018)