日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

香山栄左衛門、会見場所を横浜に合意
(『ペリーを訪ねて』、中野昌彦著、東京図書出版会、2006年4月、 ISBN4-86223-017-2、P. 115-116 から引用)

香山が船にやって来て、会見場所を横浜に決める場面にウイリアムスも立ち会っていた。少し長くなるがウイリアムスの日誌の記述を見てみよう。 

またしても浦賀に来てもらえないかという質問が(香山から)出され、拒否された。『それはよわりましたナ。ではこれからでもこの近くの岸辺に上がって、適当な場所を探しに行けますか?』、と彼はアダムス艦隊司令官に聞いた。ついにこのような本音が出て来たが、これは疑いもなく、艦隊が江戸湾深く入っている事実を聞かされた浦賀の代表者が決めたことだ。この筋書きから見て、我々がもっと江戸に近づく前に会見場所について決着を図ろうと、栄左衛門が派遣されたことは明らかだ。しかしそれ(香山の妥協案)は、絶望的な所にまで追い込まれ、起死回生を図ろうとしたように、一連の会話の中で出てきた。その場所は、彼が良い場所がありそうだと思うと指差さし、もう三時十五分前にもなっていたが直ぐ行こうと決められた。栄左衛門の乗る舟にブキャナン艦長とアダムス司令官が乗る船が続いて、南西に向かい、水深を確かめ、艦隊から五マイル程も来た神奈川のはずれの横浜村に上陸した。提督は、上陸ボートで輸送できる場所を望んでいる。村の近くの小麦が良く育っている空き地が、会見場所に適当だと選ばれた。この場所は、ここに着く前に簡単に提案されたが、会見に必要な新しい建物を建てるには村の三、四軒の家を取り壊さなければならない。栄左衛門は、そんな村の家のことなど全然問題にしていない様子であった。刀も帯びず、着ている物や惨めな住居から明らかに下層階級とわかる村人は、何時でもひざまずいて彼と話をした。畑は良く手入れされていたが生活は楽ではなさそうであった。そして村中が、小道の脇に並べた無数の大桶や、わら屋根を掛けて尿を貯めた肥え桶や、堆肥や肥料から立ち上るくさい臭いに満ちていた。

ウイリアムスも書くように、「粘りに粘ったが、大幅な妥協以外もうどうにも方法が無い」という雰囲気を作っての香山の提案は、ペリーをうまく妥協に引き込んだ。

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07/04/2015, (Original since 04/07/2008)