日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ペリー提督に次ぐ、「第二の矢」 も準備したアメリカ政府
(典拠:36th congress, 1st Session. Senate. Ex. Doc. No. 39)

ここに、アメリカ政府が日本開国に如何に熱心で固い決意があったかを見ることが出きる史実がある。

ペリー提督はその第1回目の来日を終え浦賀から香港に帰る旗艦・サスケハナ号の中で、1853(嘉永6)年8月3日付けで自国のダビン海軍長官宛に、ついに久里浜で日本側代表と会見しアメリカ大統領からの国書を手渡し、再度来日の通告を与えたという状況報告書を書き、香港から本国に宛てて発送した。この書簡は同年11月始めには海軍省に着いた様で、早速ダビン長官はピアース大統領やマーシー国務長官に報告している。

一方、当時の支那はキリスト教を信仰する太平天国の乱が勃発し清朝を脅かしていたが、上海を商業拠点にする英国、仏国、米国などはその継続的な権益確保の観点から、太平天国軍とも交渉をする必要性が出てきた。そこでアメリカ政府は新公使にロバート・M・マクレインを任命し交渉の任に当たらせることにしたが、この時ちょうどペリー提督からの「大統領の国書を日本側に手渡し、来春再度日本に行く」という報告書がアメリカに届いたのだ。

ここまで成功した日本遠征は何としてもその結果を出さねばならないと思うピアース大統領とアメリカ政府は、万一ペリー提督が日本へ再来航しての交渉が成功しなくとも、それに続く第二の矢を準備することを決定した。そして、マーシー国務長官が支那に向かう新公使・マクレインに書簡を与え、太平天国軍との交渉を指示すると共に、日本に向けた通商条約交渉使節としての信任状も付与した。そしていわく、

万一ペリー提督が日本と通商の取り決めが出来なかった時は、その相当なる可能性があれば、貴君がその目的に向け努力すべし。その交渉の参考に、貴君に東方諸国と取り決めた条約の写しを与える。・・・
1852年にペリー提督が日本に派遣され、彼の国と通商を開き、通商条約を交渉すべく権限が与えられている。この提督は既に彼の島国を訪れ、皇帝に届ける目的でその帝国の高位役人にアメリカ大統領からの信任状を届けている。彼は、皇帝からの返事を受け取る目的で来春には日本に再来航するという意図を通告し、その後支那沿岸に帰着している。ペリー提督は、彼の帝国と通商を開くべく命じられこの様に日本に派遣され、条約締結に向けた第一段階(筆者注:国書の授与)を終えているので、貴君の他の目的(筆者注:太平天国軍との交渉)の不利益にならないときに提督が貴君の協力を必要としない限り、今その交渉権限を貴君に付与したり、その交渉に貴君が参加したりすることを命ずるものではない。
万一何らかの理由により提督が日本との交渉を完結出来ないときは、貴君に更なる日本との交渉に対する指示を与える。

この様に、万一ペリー提督の成功が無い場合に備え、支那への新公使・マクレインに与えた日本との再交渉の可能性を指示する書簡は、アメリカ政府の日本開国へ向けた期待と決意の大きさが良く分かる史実である。

日本一国の開国に向けて、戦時下でも無い遠征に10艘の軍艦を投入するほど費用をかけたプロジェクトが、結果的に 「失敗に終わった」などと云う報告を出せないことは誰の目にも明らかである。従って行政府の責任者として、マーシー国務長官が第二の矢をも準備しておくことは当然といえば当然な策だったと言えよう。

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07/04/2015, (Original since 01/10/2015)