日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

王政復古の国書

明治1年1月15日、外国事務取調掛・東久世通禧(みちとみ)はイギリス、フランス、アメリカなど六カ国の公使たちと兵庫で会見し、王政復古を告知する国書を伝えた。いわく、

日本国天皇は各国帝王及びその臣人に告ぐ。さきに将軍徳川慶喜は政権を帰さんことを請う。めいじてこれをゆるし、内外の政事はこれを親裁す。すなわちいわく、従前の條約は大君の名称を用いるといえども、今より後は天皇のとなえをもって当換すべし。しこうして各国交際の職は、専ら有司等に命ず。各国公使、その旨諒知せよ。 慶応四年戊辰正月十日
天皇名 国璽
(外務省大日本外交文書、第一巻第一冊、文書九九(明治元年一月十五日)の付属文書。筆者注:原文の漢文を読み下しにした。)

この東久世通禧が六カ国公使に国書を伝えた1ヶ月ほど前、大久保一蔵が起草し朝議にかけられ、一応合意された王政復古布告の国書素案があった。いわく、

朕は大日本天皇にして、同盟列藩の主なり。この誥を承くべき諸外国帝王とその臣民に対し祝辞を宣ぶ。朕、将軍の権を朕に帰さんことを許可し、列藩会議を興し、汝に告ぐること左のごとし。
第一 朕、国政を委任せる将軍職を廃するなり
第二 大日本の総政治は、内外の事、共に皆同盟列藩の会議を経て後、有司の奏する所をもって朕これを決すべし
第三 條約は大君の名をもって結ぶといえども、以降、朕が名に換うべし。是が為に、朕が有司に命じ外国の有司と応接せしめん。その未定の間は旧の條約に従うべし
(同、文書九九。)

この大久保案は、文章が違うだけで実際に通知されたものとほぼ同じ内容である。しかし「朕は大日本天皇にして、同盟列藩の主なり」などの語句があり、真の「日本国天皇」にも「日本国政府」にもなりきっていない。「同盟列藩の主なり」などという語句は、それまで山のように立ちはだかった幕府を追い詰めた大久保の勝ち誇った雄叫びであったにしても、国家間の布告に国内事情を書くという稚拙なあやまちをおかしている。その正式布告までにこれは上の本文のように修正されたわけだが、そこまで判断できる人物が居たことを示している。しかしこの素案と本文をみると、当時いかに変化が急であり、時々刻々物事が修正され、思考内容も変わって行ったかその変遷をほうふつとさせる歴史資料である。

元のページに戻る


コメントは 筆者 までお願いします。
(このサイトの記述及びイメージの全てに著作権が適用されます。)
07/04/2015, (Original since 02/15/2009)