日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

パル・マル・ガゼット紙上の議論(ペル・メル・ガゼット又はポール・モール・ガゼットとも)

エドワード・ハウスがパリから大隈重信宛に送った1881年6月13日付けの書簡に述べられた 「パル・マル・ガゼット」紙( ペル・メル・ガゼット又はポール・モール・ガゼットとも)上の議論は、筆者の調べ得た範囲では、ガゼット紙の編集者宛に送られた幾つかの投書書簡の紹介形式で進み、ハウスのパリからの長文の書簡も投書され掲載された。何れも「日本に於けるイギリス政府代表者」という見出しである。1881年5月11日付けで、「ASIATICUS」と名乗る人物の投書が最初と見られるが、いわく、

拝啓、最近の国会議論の中で首相 (筆者注:グラッドストーン)は、イギリスは、我が国民がよって立つ権利と同等な権利であらゆる国の人々を一様に遇し、我が国益遂行の熱意に於いて、他国の平等な権利及び要求を忘れてはならないという点に関し、謙虚であり傲慢過ぎてはならないと述べました。私は、グラッドストーン氏への感謝の念と共に、我国が関係する極東の人々の中でこれらの言葉を読み聞かせないと言うのなら驚くべき事で、この言葉は更に現地の − 海軍、外交官、領事といった − 我が代表者たちの態度に影響するだろう事に疑いを持ちません。我が極東外交に於いて、より踏み込めば日本に於いて、グランヴィル卿 (筆者注:外務大臣)の手を通じた調査の必要性がある事は明らかであります。「アトランティック・マンスリー」誌の最新号の中、何かセンセーショナルに「帝国の苦難」と題する、日本に10年住んだという高名なニューヨークのジャーナリストの手になる記事は、強力で怒りに満ちた文体で、日本に於ける我が外交方針のみならず、あるいは主として外交方針と、その方針を遂行する態度とを告発しています。その記事中のイギリス政府代表者に向けた非難の要点を繰り返す必要はありませんが、暴力、傲慢さ、権利侵害、そして悪行、と言えばそれで充分でしょう。 − 事実これはグラッドストーン氏が強く咎めた過ちの全てですが − こういった点が我々に向けられた非難です。その主張に於いてこの著者が全て正しいかどうかと云う点に関し、私はここで問う積もりはありませんがしかし、知識があり経験を積んだ著者が述べていて、有名な雑誌に載り、我国の名前に於いて定常的に監督するには遠く離れすぎている国に居るイギリス政府役人に対するこう記述された告発であると言うことから、私は調査対象であるべきだと提案するものでありす。多くの独立国家の間で自分達の居場所を確保しようと勇敢に奮闘し、西洋の大国が指摘した進歩の過程に向かっている時代遅れで興味深い国民が、我が代表者達の行為に悩まされ又は阻止されている事は、英国人としての気持ちに全く調和できません。更にこれが、「アトランティック・マンスリー」誌の中で著者が明言している事で、それが行われて来ているわけです。敬具。
ASIATICUS    
    5月11日。

と云うものだ。この投書に対し、5月16日付けで、「An Eight Years’ Resident in Japan」と名乗る人物の書いた反対意見の投書が掲載された。いわく、

拝啓、貴殿は、「アトランティック・マンスリー」誌の最新号に 「帝国の苦難」という題名で掲載された、江戸に於ける我が代表者であるハリー・パークス卿に向けられたハウス氏による一連の非難について言及し、そしてハリー・パークス卿を公平に評するため、これら非難は論破されるべきだと述べています。このハウス氏は、かってロンドンの劇場の賃借人で − それは恐らく彼の文学的快楽主義の嗜好に基ずく状況下のものでしょう − 、また何年も前には「トーキョー・タイムス」紙の経営者、編集者、記者であり − その新聞は最近廃刊になってしまいましたが − 、ここで言う非難を何百回も繰り返し、更に日本人へのコレラ感染蔓延の非難に乗り出してその新聞を救い − 付け加えて言わせて貰えれば、日本でコレラが完全に安定した後の何ヶ月間も非難を続けましたが − 、それはたった1、2年前のことでありました。こんな非難の一つ一つについて − 日本に居る外国住人にとっては不必要ですが − その誤りと全くのばからしさ加減が横浜の英国新聞紙面で繰り返し明らかになっています。しかしその最良の反証事実は 「ブルーブック」 (筆者注:英国議会議事録)上で判明するでしょうが、最近私が試みた注意深い吟味では、ハウス氏が英国公使に対し、へとへとになる程の年数をかけ、毎週毎週猛烈な非難を行ったり、更にE・リード卿 (筆者注:「日本:その歴史、伝統、宗教」の著者)が日本に関する著述で複写した、その一つの非難にも当る、ほんの少しの色合いやもっともらしさは、一語、一文節にも発見できませんでした。追加させてもらえば、最後に述べた著者は、日本人編集者や名も無い下っ端役人や政府の取り巻き連中のだらしない無責任な話を載せたと言う以外、「クオータリー」誌1880年10月号に提供された彼の本のレビューに出た、こんな(日本に於けるイギリスの方針と外交を非難する)如何なるどんな正当性を示すための挑戦も、取り上げるに値しないものです。敬具。
An Eight Years’ Resident in Japan    
    リンカーン・インにて  5月16日。

この反論に対し、前出の「ASIATICUS」と署名する人物は5月30日付けで、反論への反論を書いて投書した。いわく、

編集者殿へ。
拝啓、「アトランティック・マンスリー」誌に載った日本駐在の我が代表者に対する一連の非難記事に目を向けるよう促した、5月13日付けの私の書簡で呼び起こされた、貴紙に掲載された投書書簡をもっと早めに見る事が出来ませんでした。
「An Eight Years’ Resident in Japan」氏は、これらの非難は誤りで全くばかげた事だと証明されたと言明し、その最善の反証として、彼が最近吟味した「ブルーブック」の中には何の言及も発見できなかったと言っています。例えそんな出来事が外務省へ報告されていたとしても、この問題以外の例を見ても、そこには 「ブルーブック」へ記載される道はまずなく、貴紙読者は驚かれるはずですが、年間貿易額の領事報告書以外、過去10年間、日本の出来事に関する報告は議会に何も提出されていません。私には、エドワード・リード卿がそんな事を訴えているように見えますが、しかし、それらが報告されない限り、検疫法や狩猟法、条約の改正、郵便局設置、その他多くの諸問題に関するどんな公式情報も入手は出来ません。従って、「An Eight Years’ Resident」氏が「注意深く吟味した」公式書類中に、非難に関係するどんな情報もなかった事は驚きではありません。更に言わせて頂けば、注意深く構成された一連の明言をするという全面的な一般的否定は、不満足以外の何物でもありません。
貴紙宛てに送った私の趣旨には、我が代表者に向けられたどんな非難に対する真実の証明をもして居ませんが、しかし、貴紙への投書者は全く回答になっていない事を示しています。非難は日本で何年もの間行われ、合衆国のある主要紙で繰り返され、更に私が余り間違っていなければ、それ以来数年 「パル・マル・ガゼット」紙そのものにも引用されて載っています。エドワード・リード卿は、最近の日本に関する注意深く価値有る本でそれらを述べていますが、その後、その正確なることをまた「タイムス」紙にも明らかにしています。「名も無い下っ端役人や政府の取り巻き連中」と言う代わりに、エドワード卿は、それらは「良く知らされた人々の見解で、私がその件を話したくなる程その公使に確証を与えられた事だ」と明白に断言しています。
この記述の要点は、断じて、言い過ぎではなく、厳格な調査が必要だという事です。幸運にも、大臣として居るチャールス・ディルク卿 (筆者注:英国外務副大臣)は極東とその政体が良く分からない訳ではなく、更に、これらの件が卿に報告されれば、疑いもなく、優れた記述もあり、二つの大きな東方の帝国に於いて真に我等の立場で、卿は公人として行動するでしょう。敬具。
ASIATICUS    
    5月30日。

「ASIATICUS」と名乗る人物は、この様に重ねて、日本駐在公使・ハリー・パークス卿の行為は英国外務省で調査対象になるべきだと投書したのだ。これに続いて、6月7日付け書簡で、パリに滞在するハウスから、「アトランティック・マンスリー誌掲載記事の著者、E・H・ハウス」という実名入りの投書書簡が掲載された。これは相当な長文であり、その短縮のため所々、筋が分かるように()内に筆者が概要を記述した。いわく、

編集者殿へ。
拝啓、英国に滞在していないため本日まで、貴紙掲載の、私が「アトランティック・マンスリー」誌でその態度と振る舞いを非難する理由があった、日本駐在英国公使の行為に関する投書書簡欄に気付かずに居ました。現在でも私は投書の一部しか見てはいませんが、しかし私の明白な陳述が、主として一般的で根拠の無い、否定的見解に遭遇していると認識できます。まずごく単純な正義として、私の最初の主張の正確さを弁護することを許可願い、それと同時に、どんな誤解や彼の擁護者となる一部の人のどんな言い逃れも出さない様に、正確に、この問題ある役人の振る舞いを述べさせて貰いたいと思います。「アトランティック・マンスリー」誌の中の彼に対する言及は付随的で、記事の広範な目的に沿ったものですから、従って、若し彼が疑惑の主要人物とすれば、実際の姿より厳密性に欠けた記述です。私はこれから、そんな公的な精密調査を促進させるため、また私の主張が真実なのか虚偽なのかはっきりさせて満足したいと思う全ての人達のために、特定な行為の細部まで提供しようと思います。
私は「アトランティック・マンスリー」の中で、この公使が、「指定された税関ではなく、船から何処へでも勝手に上陸する英国人を保護すると公言し、外国軍隊をもって主要港の海岸線を占領するという正式な威嚇を行った」と書きました。以下がその事実です。(筆者:英国民保護のため横浜に駐留する英国軍隊の撤収直前、大規模な船荷の違法陸揚げが税関役人に発見された。日本政府が違法陸揚げ禁止の通達を出そうとした。)しかしこれを知った英国公使は、 − 日本の外務大臣宛てではなく、首相へ宛てた − 書簡で、若しそんな通達が出され、何処へでも上陸する英国人が干渉を受ければ、それを防御するため英国兵を海岸に並べると告知しました。この様に、外務省ではなく首相に告知するという状況は、言う必要も有りませんが、それ自体が確立された外交慣例違反であり、そしてしかしそれは、より重大な事態が含まれるという視点が見落とされているようです。この脅しには効果が在りました。日本政府はその告知の苦々しい恥辱にちじみ上がり、通達はありませんでした。避けえない事実として、密輸入はチェックされずに続き、今日まで続いていると思われます。この件の経過は注意深く記録され、英国外務省での検討のため日本から送付されました。かってそんな検討が為されたかどうかに付いては、私が言及は出来ません。
私は、大規模な英国貿易業者を石炭の正規輸出関税の支払いから免れさせる、認められていない公使布告について述べましたが、その結果は、日本歳入の大損失であったのです。以下がその詳細であります。(筆者:この公使は1869年の暮れ、蒸気船に積み込む石炭は全てその船の使用分と見なすという合意が出来たという布告を出したが、日本は認めず、合意文書も無かった。無いものは証拠として出せなかったのだ。)
私は、日本人に物理的な攻撃が加えられ、特にそれは日本の高官の一人だったという件について触れました。この件は何年か前、神戸の海岸で起きたものです。こんな目に遭った日本の紳士は現在、帝国議会議員の「参議」で、二人居る天皇直属顧問 (筆者注:太政大臣と右大臣の意か)の位のその直下に位する人物であります。この事件の時、彼がこの位に就いていたと誤解しないで欲しいと思います。傍観者達がそれを説明出きる事ではなく、 − 更に言えば推測さえも出来ませんが − イギリス公使に捕まり、地面に投げ飛ばされ、頭を地面に擦り付けられたのです。この攻撃を多くの人が見ていましたが、あえて言えばその中に、当時イギリス軍士官で現在は日本で傑出して名声の高い法廷弁護士のF・ローダー氏も居ました。
私は「アトランティック・マンスリー」で言及した他の出来事の明細にも触れたいのですが、貴紙の紙面を使い過ぎる事は意に沿わないし、有罪宣告には代表的なこれら三つの事例で当面の目的には充分であります。若し要求があれば、私は更なる詳細を何時でも提示できますが、若し望む結果がより簡単に達成出来るなら、一連の苦痛に満ちた詳しい陳述を長引かせたくは無いのです。望む結果が何であるかは、私にとっては誠に明白であります。それは、過去25年間に渡り日本で彼らを統制してきた後見人としての責任に於いて、英国の真の利益が安全であるかどうかと云う問題に完全に決着をつけるべく、厳しさを持って調査する事であります。そして全く、真の友情の回復が何世代にも渡り不可能だという所まで、日本の統治者が増加させ強烈にすることに耐え忍ぶような待遇により引き起こされた、そんな憎悪を許す事が賢明であるかどうかであります。時は時宜を得ています。この公使は現在英国に居て、彼の職に戻るにふさわしい信頼性と道徳的正義を証明する、全ての証言を提出する事は彼の手中にあります。そして調査の遂行に於いて − その結果として − 双方とも (この件に関する貴紙への一人の投書者の言葉を借りれば)「名も無い下っ端役人のだらしない無責任な話」や、またお座なりな或いは強要された日本人自身からの賛辞の言葉を頼みにするのではない事を願い、また、 − グラント将軍やジョーン・ヘネシー卿のような人物が招かれ、日本に於ける彼らの観察や経験が参考にされるといった、その証拠が信頼性を疑うことの出来ない様な源から来る事を心から願うものです。そうなれば、それ以前でなければ必ずや、公職に反するとも言われず、H・パークス卿が苦情を無視しながら永きに渡って務めてきた地位にふさわしい人物かどうか、充分判明することになりましょう。敬具。
E・H・ハウス           
「アトランティック・マンスリー」掲載記事の著者。
    パリにて、6月7日。

このエドワード・ハウスのこの投書書簡を読めば明らかな如く、事実を列挙し、ハウスらしい鋭い批判と共に、日本に於けるハリー・パークス公使の蛮行を暴き立てる証拠提出といった趣の内容である。

筆者注:上記の四つの書簡はロンドンの夕刊紙 「パル・マル・ガゼット」紙に掲載されたものであるが、筆者が参照できたものは、週刊の「パル・マル・バジェット」誌(THE PALL MALL BUDGET, Being a Weekly Collection of Articles, Printed in the PALL MALL GAZETTE from day to day: With Summary of News.)に収録されたものである。この「パル・マル・バジェット」誌は「パル・マル・ガゼット」紙の週刊ダイジェスト版であるが、筆者には、このダイジェスト版はおそらく夕刊紙の主要記事の抜粋と思われるから、上述以外の投書や関連記事もあった可能性が大きいと推察する。事実、1881年5月20までの1週間分をまとめた部分の「時事のノート」と題する欄には、ハウスの「アトランティック・マンスリー」誌の英国公使非難記事が波紋を広げていると述べた記事も見られる。

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07/04/2015, (Original since 11/20/2014)