エアロン・H・パーマー (Aaron H. Palmer) の大統領宛書簡
1829年12月7日付
パーマー法律事務所
(Pine St., N.Y.)開所通知
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US Library of Congress.
エアロン・パーマー(アーロン・パーマーとも)はニューヨークの弁護士で、1825−26年には当時のニューヨーク州知事・デウィット・クリントンやその他の有力出資者などと組み、ニカラグア・ルートで大西洋・太平洋を結ぶ運河企画・建設会社を創立したりと精力的に活動していたが、これはしかし、資金難で中止になった。パーマーはその後1829年12月から、ニューヨークで自身の法律事務所 「アメリカ国内・国外請求権法律事務所 (The American and Foreign Agency for Claims, &c.)」を開いていたが、「1837年恐慌」と呼ばれた当時のアメリカ金融危機では、イギリスの投資銀行、「N・M・ロスチャイルド・アンド・サンズ」と契約しアメリカの金融情報を提供したりもしていた。パーマーはまた、1830年から1847年頃にかけてヨーロッパの有力な人脈を通じ、アジアからインドネシアやオーストラリア、アフリカやインド、シベリアから樺太や千島列島、カムチャッカやアリューシャン列島などの政治情勢・経済活動・産物・航路情報などを地政学的に細かく調査研究し、アメリカとの貿易拡大の可能性をまとめている。特に日本についても、1839(天保10)年、ロスチャイルド銀行の紹介でオランダに行き、オランダ政府の協力で、長崎のオランダ商館長の報告書やエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』なども入手して読み、深く日本を研究している (Letter to The Hon. Charles J. Ingersoll, 1846)。その後パーマーは連邦最高裁判所の法廷専門弁護士 (Counselor of the Supreme Court of the U.S.)としてその立場を充分に活用し、自身で集めた情報を駆使し、「アメリカ政府は、大西洋と太平洋を結ぶ運河や大陸横断鉄道の建設も含め、大西洋から太平洋にかけた世界貿易の基本政策を策定すべきである。また、アフリカや中東およびアジアの新興国地域に使節を送り、貿易拡大の実現を図るべきだ」 とする計画案を、数次に渡り、ポーク大統領やテイラー大統領、ここに述べるフィルモア大統領宛て等、アメリカ政府や議会にも建策している。また1852年6月9日付けの「ニューヨークタイムス」紙に、「大統領は以下の通り外国領事を承認した」と述べる記事の中に、「エクアドル共和国米国駐在総領事:エアロン・H・パーマー」と云う記述もある。これは、エクアドル政府の委嘱を受け同国の駐米総領事に就任した訳だが、以降ほぼ10年間、84歳でこの世を去るまでこの職にあった。
また1846年8月、ニューヨークで発行されていた「Fisher's National Magazine and Industrial Record, Vol. III, No. 3」誌に、パーマーから下院外交委員会・インガソル委員長に宛てた、1846年3月27日付けの「日本を含む東洋独立諸国の現状と、条約締結のための政府特別使節派遣に関する推奨案」の概要が掲載された。パーマーはこの推奨案書簡の冒頭で、インガソル委員長に対し自身の法律事務所の業務を「私は過去15年間、この市の代理業者として代理業と委任業務取扱い、及び、特に蒸気船や蒸気機関や機械一般の建造といった、アメリカ工業界における最も卓越した分野における、我が機械技術や機械技師と製造業者の優れた技術や能力とを外国諸国に向け紹介する事に限定し、経営をして来ました」と自己紹介している。またこの雑誌は、当時のエアロン・H・パーマーの肩書を、連邦最高裁判所法廷専門弁護士(Counsellor of the Supreme Court of the United States)、アメリカ国内国外請求権法律事務所支配人(Director of the American and Foreign Agency, New-York)、ニューヨーク歴史学会会員(Member of the New-York Historical Society)、ワシントン国立科学振興協会通信会員(Corresponding Member of the National Institute for the Promotion of Science, Washington)、リオ・デ・ジャネイロ国家工業促進王立ブラジル学会会員(Member of the Imperial Brazilian Society for the advancement of the National Industry, Rio de Janeiro)、と紹介している。
♦ フィルモア大統領に宛てた直接書簡
(33D Congress, 2d Session. SENATE Mis. Doc. No. 10, APPENDIX B より訳出)
こんな中で、アメリカ捕鯨船員の日本での虐待問題が伝わると早速政府に建言し、更にまたこの解決と日本開国・貿易拡大をにらみ、1851年1月6日フィルモア大統領に直接書簡を送り、ずっと自身で提案し続けてきた計画の実現を再び強く働き掛けた。いわく、
1851年1月6日、ワシントンにて、
拝啓、
我が政府が選ぶ価値のある、東アジアやインド諸島の海洋独立国との外交関係、通商関係、蒸気船航路の確立等を考慮し、この重要課題に向けた、大統領閣下の速やかなる配慮を求めたいと思います。
如何なる東洋向け使節の特別支出予算も無い現在、支那の国民が東方及び南方アジア諸国に向け、自国を「中華国」と謳い、支那皇帝が日本を除くそんな国々の上に立つ宗主と位置づけられる支那の立場を考慮すれば、こんな国々の統治者たる支那に向けた、合衆国を代表する使節の早急な派遣が必要であり、同様にこの使節を、これら地域のアメリカ貿易統括長官として任命すべきであります。
この海域の合衆国艦隊をこの使節の統括下に配置する事により、支那への使節としての業務を阻害しないよう、使節はその蒸気軍艦に乗り、短期間だけ日本やその属領、朝鮮、コーチ支那(筆者注:ベトナム南部、メコン川下流地方)、シャム、ビルマ、東インド諸島などに行き、特に日本政府とは交易を開き通商条約を結びます。そして、この東方地域の貿易活動が増加し、我が政府による駐在公使や領事が任命できるほどになるまで、この方法を継続します。
地理学的、政治的、商業的、水路学的な各種重要情報はそんな短期的訪問で取得できますが、それは、我が国がこうして訪問した国々と近い将来交易活動を行うに際し、特にサンフランシスコからその地域への蒸気船連絡網を確立するに当たり、石炭補給基地の選定や、不可欠な暫定的準備を行う上で非常に有用で有利な情報となります。
この包括的で、効率的、経済的な組織のもと、我が国の支那との正当な通商は、(公式には禁止されている)アヘン取引量を含まないイギリスのちょうど半分の量で、利益の見込める取引量は更に巨大ですが、支那とその近辺の国々との貿易拡大と管理監督に要する年間費用は、たとえこの使節を、1849年2月24日付けでテイラー将軍(筆者注:ザカリー・テイラー大統領)に提出したニューヨークからの建白書で推奨したような、全権が伴う公使に格上げしてみたとしても、イギリスの支那貿易の監督官とその確立した五ヶ所の特権的貿易港の領事体制で発生した、1848年3月31日現在の年間経費である、英国貨幣・33,326ポンド10シリングの10分の1にも満たないでしょう。
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一般的に、日本国民は外国人に対し友好的で親切であると云われていて、外国人と交流し貿易したいという気持ちを例外なくはっきり示していますが、彼らの統治者とその国法への恐れの念から、公然とそうする事は妨げられています。この国の政府は、やがて周囲の状況の力で、また特に太平洋へ進出している我が国民の存在により、益々強まるこの時代の商業精神に屈服することになります。
1811年(筆者注:文化8年)には、当時蝦夷と千島列島諸領の奉行(筆者注:松前奉行)だったよく名の知れた日本の政治家・荒尾但馬守(筆者注:成章・しげあきら。文化8年夏、国後島で捕縛されたロシア軍艦ディアナ号艦長・ゴローニンの尋問にあたった)は、帝国の諸港を外国貿易に開く事に賛意を持っていましたが、松前から江戸の老中に宛てた公式報告で、「創造主の創った、太陽、月、そして多くの星々は夫々の経路を自由に経巡るが、外国船が長崎以外の如何なる港にも入ることを禁じた人手による日本の国法は、永遠ではあり得ない」と述べています。この人物は最終的に江戸幕府の上席奉行に昇格し、政務上の大事に参画する職に連なりました(筆者注:文政3(1820)年、江戸町奉行になり三奉行の一角を占め、幕政にも参与する立場になった)。
私は過去5年間に、種々な機会を捉え、日本で野蛮で侮辱的な取り扱いにあった遭難アメリカ人水夫たちに関する我が政府の注意を何時も繰り返し促してきたし、そんな暴力行為に対する満足のいく償いと賠償金を江戸幕府に支払わせ、日本沿岸で不幸にも船が難破したり、悪天候時や救助を求めて、あるいは修理のために、彼らの如何なる港へも避難を余儀なくされるこれら我が同胞に、寛大な厚遇と友好裏の保護を受ける権利を保証させるべく、何らかの有効で強力な、国家の対策が採られる必要性と緊急性を示してきました。
前の国務長官・ジョーン・M・クレイトン氏宛ての1849年9月17日付けの書簡の中に、これは国務省にある私の記述書類のファイルにありますが、アメリカの捕鯨船・ラゴダ号乗組員の日本に於ける拘留と受難、そしてそこからアメリカ軍艦・プレブル号の艦長・グリン中佐により長崎で救い出された詳細記述が報告されていますし、私は昨年の4月、上に述べた重要事項を完遂すべき計画を提出し、クレイトン氏の賛同を得ています。それはあらゆる局面と、特に日本人の国民性と智謀に関し再度十分に考慮しているので、彼らが我が同胞に加えた不法行為に対する賠償を即座に要求し、その再発がないよう十分な保証を取り付ける事は、我が政府が威厳をもって採用できるただ一つ実現可能なものだと、私自身満足に思うものであります。必要な気転、精力、そして確固たる目的を持つ使節に委ねられ、堂々たる合衆国艦隊に支援され、提案の如き性格を持つ使節団は、確信を持って予言できますが、高慢で強情な将軍、その「老中」、精神的な「帝」たちを、何らかの満足できる解決策へと速やかに引き込み、その帝国に我々との通商の道を開かせるでしょう。
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大いなる尊敬と共に誠実と謙譲の念を込め、敬具、 エアロン・H・パーマー
ミラード・フィルモア大統領閣下
この様な正確な情報と共に、パーマーは確信に満ちた書簡をフィルモア大統領に送った。殊に筆者は、ペリー提督が日本に来る以前に、幕府内部の一旗本である荒尾但馬守・成章に関する、これほど正確な経歴情報がアメリカに有ったという事実に大きな感銘を受ける。しかし筆者は、ここでパーマーが言う、荒尾成章が上申したという内容の事実や典拠をよく知らない。
この書簡を受け取ったフィルモア大統領は、この約1年ほど前に自身がまだ副大統領だった1850(嘉永3)年の始め頃から、上院議会で日本に於ける 「難船したアメリカ船員へ向けた日本帝国や地方当局による強制収用、投獄、野蛮行為」などが厳しく議論されていた。このため7月9日に新大統領に就任後、その年の12月の自身の上下両院向にけた大統領教書で 「海軍は引き続き世界各地の我が通商と国家利益の保護を行い、・・・太平洋沿岸の安全保障と東アジアに於ける我が通商の保護と拡大に関する海軍の新方針と共に、海軍編成と軍事力を強化する」 と宣言した(Millard Fillmore, First Annual Message, December 2, 1850)。従ってパーマーは、このフィルモア大統領の教書を見て、「機が熟した」 と悟り上記の直接書翰を大統領に送ったようにも見える。フィルモア大統領はパーマーからこの書簡を受け取ると、以降の4、5ヶ月の間、ウェブスター国務長官と共に何回も直接パーマーと会い、日本遠征の基本計画を練っている。
フィルモア大統領は、このパーマー書簡の4ヵ月後にオーリック提督に全権を委譲し、蒸気軍艦を引き連れた東インド艦隊の日本派遣を命令したのだ。また翌1852年2月、全権を委譲し日本開国交渉へ向けた新たな命令をペリー提督に出したわけだ。このペリー提督の任命の前から、パーマーとペリーはアジアに関する情報交換をしていたが、特にその任命後は直接頻繁に会い、より精密な日本とその近隣諸国に関する情報交換が為されている。
♦ エアロン・パーマーの意図
上述の如く、フィルモア大統領に直接書簡を送った当時、パーマーはアメリカの連邦最高裁判所の名誉ある法廷専門弁護士でもあった。ニューヨークで自身の法律事務所を開設した頃から、即ちラゴダ号船員の日本での虐待が伝えられるはるか以前から、パーマーをこの様に熱心に東洋貿易の可能性調査とその実現のためポーク大統領や、テイラー大統領への献策に駆り立てた意図は、特定のグループに利益誘導をというあからさまなロビー活動よりは、真に国家的利益を実現したいとの思いだったように見える。あるいはもっと単純に、自身の法律事務所の得意分野にしたかったのかも知れないが、しかし、「パーマーのオランダ商館長・レフィスゾーン宛ての手紙」にも書いた様に、パーマー自身は「愛国的気持ちから書いた」と言っている如く、愛国心の強さからの行動と解釈する方が自然に思える。
しかしその後、若しパーマーが何か特別な意図を持ったとしたら、1849年9月にクレイトン国務長官宛に出した「日本を開国させる計画書」に、「充分な賠償金を請求する」とある如く、あるいは虐待を受けたというラゴダ号船員たちに、日本から賠償金を取ってやろうとの意図を強く持ったのかも知れない。このプレブル号艦長・グリン中佐による長崎でのラゴダ号遭難船員救助成功の情報は、当時 S・ウェルズ・ウィリアムズが編集責任者として広東で発行していた「チャイニーズ・レポジトリー(The Chinese Repository)」の1849年6月号に載った遭難船員救助の実態を報じたもので、グリン中佐がアメリカに帰国し報告するほぼ半年も前にパーマーが入手したものであった。この情報に接するや否やパーマーは、「日本を開国させる計画書」を当時の国務長官・クレイトン宛に出したものである。しかしパーマーに、確実にそんな個人的利益誘導のロビー活動という他意が有ったかどうかと云う辺りは、筆者にとっていまだ歴史の闇の中にある。ちなみにこの S・ウェルズ・ウィリアムズはペリー提督の主任通訳官として、ペリーと共に日本に来た人である。
♦ 上下両院、エアロン・パーマーの貢献を認定
パーマーはそして、ペリー提督が日本との日米和親条約の調印成功の後、1855年1月頃から政府や議会に強く働きかけ、上記のような多くの情報を何年にも渡りアメリカ政府や議会向けに調査・建策し、ペリー提督の日本遠征や、主として太平洋調査をしたリングゴールド海洋調査隊に陰ながら影響を及ぼし、結果的に日本を開国させ、日米和親条約の調印に成功し、その後の貿易発展に貢献したと、自身の功績をも認めるよう要請している。
事実、1860年3月の上院・請求事項審査委員会の議事録に依れば、パーマー自身が政府や議会の要請で1848年と1850年にニューヨークからワシントンまで出張して来たり、特に1852年には、海軍長官の要請で日本に行く直前のペリー提督とワシントンで何度も面談し、パーマー自身が作成した「日本開国計画書」をも提案し、日本遠征に有用で重要な情報を提供したと云う。上下両院も最終的にこのエアロン・パーマーの貢献と要請を受け入れ、上院では1860年3月30日、下院では同年4月20日を以て、パーマーの貢献と努力に対する3千ドルの報酬支払いを決定している(The Congressional Globe, March 30, 1860。36th Congress, 1st Session, Senate Act S.111)。ちなみにペリー提督には、日本遠征を成功させて帰国した当時、上下両院議会の賛同により2万ドルの報奨金が支給されている。
引き続き書くように、200年以上にも渡り頑固に鎖国を続けた江戸幕府の国防の弱点を突いた門戸開放は、黒船艦隊を率いたペリー提督による「日米和親条約」締結により終結した。ペリー提督はその意味におけるアメリカ側の中心人物に変わりはないが、この国家プロジェクトを決断し実行した当時のミラード・フィルモア大統領、更にアメリカ政府に東アジアへ向けた組織的なアプローチを建策し続けたこのエアロン・H・パーマー、この3人が深く関わる出来事であったのだ。