日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ペリー提督提出の日本遠征基本計画
(典拠:The Papers of William Alexander Graham, Vol. IV 1851-1856, The North Carolina Department of Archives and History, 1961, Hamilton)

前節で書いたように、1848年の捕鯨船・ラゴダ号や、1849年のトライデント号船員の日本での非人道的な扱い振りが報じられたアメリカでは、上院議会が1850年2月21日、日本で更に非道な処遇に会ったアメリカ人存在の事実が判明すれば、すぐに国際問題として取り上げる決議をしていた。また当時、米国連邦最高裁判所の法廷専門弁護士であったエアロン・H・パーマーと面識があったペリー提督は、パーマーが1849年4月米国政府に提案していた開国に向けた日本やアジア各国への特使派遣案や、長崎で捕鯨船・ラゴダ号遭難船員を引き取り1851年1月2日にニューヨーク港に帰国したプレブル号艦長・グリン中佐の報告にも触発され、海軍力を使った日本開国を真剣に模索し始めた。それは、日本近海で遭難した捕鯨船やその乗組員の救助と保護や待遇改善であり、船舶の緊急避難港の確保にあった。

多くの資料を独自に調査したペリーは、1851年1月27日付けで、グレイアム海軍長官にその日本遠征基本計画を提案した。これは、まだペリー提督がアメリカ政府から日本遠征使節に任ぜられる以前の独自案だから、その目的や手段について、本文に書く最終的な国務省や海軍省からの命令とは少し違っている。このペリー書簡には次のように書かれている。いわく、

我が国の捕鯨船の保護という特別事項に関し、捕鯨船の通常の寄港地を調査し且つ避難と補給を行える新しい港を確保するということが遠征の主目的でありますが、一般的理解に立てば、この遠征の真の目的は世界にあからさまにならないようにすべきです。
日本で外国船が入港できる唯一の港は ”長崎” ですが、そこでオランダは奸策をめぐらし、うまく影響力を行使しながら、他国の日本政府との交渉を阻み、本当に長期間、今に至るまで、「真っ先に」 商館長や使節を派遣してきました。
ビドル提督とグリン海軍中佐の二回にわたる日本寄港時には、オランダが我が国の唯一の通訳でありましたが、彼らは通訳をしながら明らかに彼らに都合の良いように取り計らい、過去二世紀にわたってもずっと同様にしてきました(筆者注:ビドル提督は直接浦賀に来て堀達之助が通詞を務めたから、ビドル提督についてはペリーの誤解)。
この明らかな理由から、将来のいかなる遠征もこの港は避けるべきで、オランダやその他の国が全く手を出せないような日本の地域、例えば ”松前” か ”箱館” 又はその両方が良さそうですが、日本のほとんど反対側にあり、且つ ”江戸” との連絡に便利な場所を選ぶことです。
この二港(筆者注:松前と箱館)はあまり離れていませんが、艦隊がこの中の一港に突然現れ、正当な理由による公的港湾設備として且つ世界各国の権利として、アメリカ船への補給や修理のため一港又は二港への自由寄港を要求することです。今までかって見たこともない程恐ろしく強力な海軍力が沿岸に現れれば、疑いもなく大きな驚きと混乱を引き起こしますが、(日本人は利口で抜け目がないから)必ずや彼らはだまし、裏切り、策略をめぐらしながら、あらゆる方法で補給品を与えず侵入者を追い払う工夫をするでしょう。けしからぬ侮辱に対しては直ちに対応しますが、彼らが力に訴える時は、アメリカ側は我慢と忍耐と賢明な判断で常に守勢の立場を堅持すれば、この企画にとって有利な結果が期待できるに違いありません。
アメリカがどの程度、脅迫に対する脅迫や武力に対する武力行使を正当化できるかは勿論その時の状況から派生する事態によりますが、事前に予測できるものではありません。飲料水や他の補給品を求めての上陸は、彼らが補給品を出さない場合の武力的上陸でさえも、そして病人が必要とする時にも、常に対価を払いあるいは支払いを提案し、その他いずれにせよこのように必要とする場合、必ず正当化されるはずです。

この様に書き始め、箱館と江戸の関係をアイルランドとイングランドに比喩して作戦を述べた。そして、
本企画の成功を目途の必要軍事力は、4艘の武装軍艦が必要で、3艘の1級蒸気軍艦と1艘のスループ型砲艦です。多くの理由がありますが蒸気軍艦は必要不可欠で、ごくわずかな日本人で、中でも支那やその近辺に行った人達だけが蒸気軍艦を見たことでしょう。そんな人達は、書物を通じてより、実際に目で見ることで強い影響を受ける事がよく知られています。従って、突然に、そして彼らにとっては不思議な出現をした艦隊が音もなく動き、全体が粛々として、帆も揚げず、潮の流れに無関係に彼らの港に向かうと、非常な驚きとろうばいが巻き起こることはすぐに想像できます。この(最初の)異常な現れ方はそれ自体訳が分からないし、加えて船尾に向かって設備される機械類、大口径の大砲、榴弾砲、ロケット砲の類、各種近代的な火器類、その他船舶を構成するアメリカの発明といった陳列品の数々は、過去百年間に積み重ねられた外交使節の全成果より、はるかに彼らの恐れを増大し、彼らの友好関係を得ずにはおかないでしょう。支那人の驚きは正確に伝わっていますが、それは日本人に対しても全く同様で、 "彼らの恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点がありましょう"。

以下まだまだ長く詳細計画が記述されているが、その部分を要約すれば、不明な日本海域での蒸気船の絶対的な利点、コスト面での利点、石炭運搬や調達経費、日本との小規模な衝突があってもこの企画が正当性を持つこと、第一回の遠征は外交官は参加させず海軍力だけで行くべきこと、そして日本関連の統計的数字などからなっている。

本文に続けて書くが、ペリー艦隊が浦賀に現れ、ペリーの云う「彼らの恐怖に訴え」て横浜で和親条約の締結を終えるまで、日本側の反応は、ペリーがこの基本計画に予想した通り寸分の違いもなかった。

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07/16/2022, (Original since 04/05/2008)