日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

日米和親条約批准の経緯

♦ アメリカ政府の日米和親条約の批准

ペリー提督は横浜で日米和親条約を締結した後、直ちに艦隊参謀長・アダムス海軍大佐に命じ、調印した日米和親条約書をアメリカ政府に届けさせた。これは、外国との条約はアメリカ上院議会で出席議員の3分の2以上の賛成の下に承認を得て、大統領の署名と共に発効するアメリカ憲法の規定によるものであり、外国政府と交わす取決めに関する必要不可欠の手続きである。

アダムス大佐は1854年4月4日、即ち安政1年3月7日、早速横浜から帆走軍艦・サラトガ号に乗り、ハワイ、サンフランシスコ、パナマを経由し大西洋に出て、首府・ワシントンに向かうルートを取った。当時はまだパナマ運河などなく、パナマ地峡を横断する鉄道は工事中だったから、ほぼ80qほどもある地峡横断は、小船やその他の運送手段による過酷な旅だった。当時アメリカで発行されていた新聞記事によれば、アダムス大佐は日本を出発後25日かかってハワイに着き(4月29日頃か)、6月8日サンフランシスコに到着した。日本を出てから約2ヵ月後の事だ。ホノルルでは帆走軍艦・サラトガ号の修理や補給も必要であったのだろうが、思ったより時間がかかった様だ。サンフランシスコからパナマまでは既に太平洋郵便蒸気船会社による定期運航がなされていたので、16日サンフランシスコからこの蒸気船に乗り、パナマ地峡を超え、大西洋岸のアスピンウォール港に着いた。7月1日、アスピンウォール港から更にU.S.郵便蒸気船会社運航の蒸気郵便船・ジョージ・ロー号に乗り替え、7月9日、ニューヨーク港への入り口、サンディーフックに到着している。サンディーフックは、ロウアー・ニューヨーク湾の南にある、長さほぼ10qほど南北に続く砂州に守られた湾で、多くの商船などがニューヨーク港に入る前に一時停泊した歴史的な場所である。日本を出てから約3ヵ月後の事であった。

1854年7月14日付けの ニューヨーク・ヘラルド紙 によれば、アダムス大佐のもたらした日米和親条約の調印書は、7月13日に上院議会に提出された。筆者はこの条約審議に関する上院議会議事録を探すことは出来なかったが、7月17日付けの ニューヨーク・ヘラルド紙 の朝刊第一面トップ記事に、「7月16日ワシントン発、神奈川条約」と題し、「以下が7月13日に上院議会に提出された日本条約書(a copy of the Japan Treaty)である」と述べて、日米和親条約の全文が掲載されている。そして第四面には、次のような編集者のコメントを載せている。いわく、

日本条約
本紙は時に応じ、我が情報提供者からの手紙、記録されている歴史やその他の情報源から、読者に対し日本の地理や貿易、風習や習慣、特質、そしてその住民についてなど多くの事を充分に報知してきたが、また、日本向け遠征隊の動向に関する全ての情報も掲載してきた事は、読者の良く知るところである。ここでまた、世界から隔離した単一民族の指導者により指名された帝国代表者とペリー提督により交渉された条約あるいは協定の基本事項について公開するが、今や我が国民一般は、本紙の第一面に掲載してある本条約そのものを精読する事により、我々が国家として、我が政府の努力の結果入手する事の出来る日本との貿易と船舶往来の振興が出来る利点に関し、英知ある意見を形成する事が出来る様になった。また非常に興味深いはずだが、日本の北方領土に関する紙面も同様に参照願いたい。
上院議会では早速審議の後8月1日、提出された条約書を賛成多数で承認し、大統領に送付した。ピアース大統領は1854年8月17日、日米和親条約の批准書に署名し発効した。

ここでまたアダムス大佐の出番になった。1854年10月3日付けの「ワシントン・センチネル紙」の報道によれば、アダムスはこの日米和親条約の批准書を携帯し、9月30日、ニューヨークからアメリカのコリンズライン運航の定期蒸気船・パシフィック号に乗り、英国のリバプール経由で日本に向かった。その後アダムスがリバプールからどのような経路を取り香港に着いたのか筆者には不明ながら、おそらくは、蒸気船でフランスに渡り、マルセーユから地中海経由エジプトのアレクサンドリアに航海し、陸路でスエズ地峡経由、紅海側のスエズに出たのであろう。そこから香港まではまた蒸気船の航海であったろうと思われる。

香港基地に到着したアダムス大佐は、懐かしのポーハタン号に乗り組み、1855年1月26日、即ち安政1年12月9日、再び下田港に入港した。これは、1854(安政1)年4月4日に横浜を出て以来、9ヵ月と20日余りで地球を一周し、アメリカの日米和親条約の批准書をもたらしたのだ。

♦ 和親条約の第12条をめぐる日米の議論

安政1(1855)年12月9日の午後2時頃、下田の南に約10qほど沖にある神子元島の沖合に「異船一艘確認」の報告が下田奉行所にあったが、この異船は2時半頃には早くも下田港に入港して来た。奉行所ではすぐさま応接役の与力や目付、通詞を派遣したが、これはアメリカの蒸気軍艦・ポーハタン号だった。乗船者はアダムス大佐で、前回の来航で日本遠征艦隊参謀長の肩書であったアダムスは、今回は日米和親条約の批准書交換という新しい使命を受けた全権使節であった。3ヵ月ほど前にワシントンを出発し、イギリス経由で香港に着き、下田にやって来た事が分かった。

アダムス大佐は入港すると日本側に書簡を送り、ペリー提督と日本側全権・林大学頭との間で調印された条約の第十二条の規定に、「調印の日より十八ヵ月以内に批准書を取り交わす」という取り決めがある。その規定により、ここに合衆国大統領が署名した日米和親条約の批准書を持参したので、日本側からも同様に、日本語の条約批准書に皇帝が署名したものを受け取りたいと述べた。また、自分は全権であるが、日本からも全権に任じられた高官から受け取りたいと要望し、これは万国の習慣であると伝えた。そして全権同士が、批准された条約書は調印された条約書と違いが無いという批准書交換証書にも調印すべきものであるとも伝えた。

下田奉行・井沢美作守は早速12月12日、ペリー提督との会談以来旧知のアダムス大佐と会見すべく長楽寺で会談を持った。井沢美作守はアダムス大佐に、我が方の條約書では調印後18ヶ月以降に、即ち来年7月以降に批准書交換の使節が来るものと信じ準備中であるが、何故こんなに早い時期に来たのかと尋ねた。アダムスは、条約第12条に「調印後18ヵ月以内に批准書交換」と書いてあると答え、すぐにこの行き違いを正すべく主張した。そこで伊沢は交渉時の首席全権であった林大学頭を始め井戸対馬守や関係者に日米の主張が異なる状況を書き送り、指示を求めた。

これを受けた江戸の老中は12月20日、下田奉行側の要望も入れ、前回ペリー提督と交渉時の全権の1人であった町奉行・井戸対馬守を加え、下田奉行・井沢美作守と都築駿河守と共に交渉役に任じた。そして、アダムスの持ってきた英語版条約書とこちらの日本語版条約書を比較すべく、箕作阮甫、宇田川興斎と通詞を交え比較せよと指示を出した。そしてロシアとの和親条約交渉で下田に居る露使応接掛・筒井政憲と川路聖謨へも比較の結果を見せて確認の上、アダムスの言う通りならば批准書交換を進めよと指示した。

この幕閣指示により下田では26日、井戸対馬守が下田に持ってきた条約の蘭語版と日本語版を使い、箕作阮甫、宇田川興斎、通詞・堀達之助が早速確認作業を始めた。箕作阮甫は既に書いた様に、ペリー提督の持ってきたフィルモア大統領の国書の翻訳にも貢献した津山藩出身の蘭学者であり、宇田川興斎は美濃大垣出身の蘭学者であるが、2人とも当時、露使・プチャーチンとの交渉で下田に滞在していた人だ。堀達之助は下田の通詞として、アダムス大佐側との通訳を担当をしていた。この3人の読み合わせの結果、12月26日の日付で箕作阮甫と宇田川興斎から提出された報告書は次の様なものだった。いわく、

  • 第5条:下田港の徘徊区域は中の島から諸方に向かい「日本里数の7里」である。
  • 第11条:下田に置くコンシュルは、「両政府の一つより必要と思われる時」は、合衆国より派遣する。
  • 第12条:批准書は條約調印の日から「18ヵ月以内」に交換する。
  • 附録第13条(筆者注:「下田追加条約」の中のもの。英文版では第13条は無く、結言に述べられている):「下田の條約に反す事あれば、神奈川の條約を変改すべし」。
    筆者注:この報告書は『水戸藩史料』から転載されたとする史料だが、転載に誤りが無いから、明らかに条約蘭文が誤っていたか、箕作阮甫と宇田川興斎の解釈の誤りである。ペリー提督の「遠征報告書」中の P. 481 にある調印文書の英文では、「この追加条約と矛盾があっても、神奈川条約は不変である」と記載されている。これは当然で、批准を得るため調印された神奈川条約がアメリカに送られた後で合意した下田追加条約は、その優先度に於て神奈川条約より低位のはずである)。
    箕作阮甫 
    宇田川興斎
  • この様に、第十二条は明らかに日本文が間違っていたのだ。

    ♦ 下田での日米和親条約の批准書交換

    問題点がはっきりしたのち批准書交換に進んだが、このアダムス大佐がもたらし、堀達之助が訳した合衆国大統領・ピアースの批准書は次の様なものだ。いわく、

      合衆国條約前文跋文和解
    亜墨利加合衆國フレシテント、フランクリン、ピールス、諸人へ、就中(特に)この條約を附する人に。
    日本帝國とアメリカ合衆國と和親を取り結び、條約約書に日本全権我が暦数一千八百五十四年第三月三十一日、神奈川に於て花押せり。其の條約は即ち如斯(かくのごとし)。
      條約跋文
    合衆國の執事、其員三分の二、去月一日會合の上評議一定し、右の條約を取り極めり。因りて我其の條約を見究し、執事の評議一定に因りて是の書を以て條約の毎件毎詞を定む。
    右の條約取り究めの為、我が亜墨利加合衆國の印を是に添う。
    我が暦数一千八百五十四年、興國より七十九年、第八月十七日、ワシントン府において自ら附す。
    フランクリン、ピールス 
    書記官           
    ウエ、エル、マルセイエ書

      右の通り和解仕り候。
    堀達之助

    この批准書交換に当たり日本側は、前回の条約交渉で林大学頭と共に交渉に当たった井戸対馬守と現地下田奉行・井沢美作守と都築駿河守が出席した。交渉後双方の条約内容確認と合意が得られ、下田の交渉場所である長楽寺に於て、1855年2月21日即ち安政2年1月5日、アメリカ側全権・アダムス大佐と日本側全権・井戸対馬守との間で日米批准書交換が終わった。アダムス大佐が批准書交換のため長楽寺に向かいポーハタン号を出発する時には、マストに日本の旗を掲げ、祝砲17発が撃たれている。この日本文の批准証書いわく、

     北亜墨利加合衆國約條
       約條
    亜墨利加合衆國と帝國日本両國之人民、誠實不朽之親睦を取り結ひ、両國人民の交親を旨とし、向後可守个條相立て候為め、合衆國より全権マテユ、カルブレト、ペルリを日本に差越し、日本君主よりは全権林大學頭、井戸對馬守、伊澤美作守、鵜殿民部少輔を差遣し、敕論を信して雙方左の通取決め候。
    右の條々日本亜墨利加両國之全権調印せしむるもの也。
    右の條約本文十二个條は、帝國日本全権林大學頭、井戸對馬守、伊澤美作守、鵜殿民部少輔と、亜墨利加合衆國全権マテユ、カルブレト、ペルリと嘉永七年甲寅三月三日、武州横濱村に於て取替せ候事相違之無、此度既定之書面、豆州下田港に於て為取替の儀は、井戸對馬守へ委任せしめ、以後両國互に條約急度相守可申事。尤追て下田に於て取極候條約附録は、別紙に是をしるす。右
    大君之命を以て。
       安政元年甲寅十二月
    阿部伊勢守 花押   
                牧野備前守 同    
                松平和泉守 同    
                松平伊賀守 同    
                久世大和守 同    
                内藤紀伊守 同    

       (附属別紙は略す)

    この批准書交換が下田の長楽寺で終わると、アダムス大佐は日本側関係者をポーハタン号に招き、艦長室や士官室でもてなし、船内を案内した。日本側の記録に、「九ッ時過ぎ(正午過ぎ)頃、役々始め支配向き一同彼の船へ罷り越し、使節アーダムス部屋へ対馬守初めより御徒目付迄罷り越し、其の外は士官部屋に罷り在候。席上頻りに御取替し相済み、私共は申すに及ばず本国大統領に於てもさぞさぞ大慶に存づべき旨しばしば申し出で、船中一同大悦、音楽など奏し候」 と、アメリカ側の喜ぶ様を記している。この当時のアメリカ側の「喜びと誇り」が如何に大きなものであったかは、上記のピアース大統領の文面の日付の記述にも表れている。それは、暦数一千八百五十四年、興國より七十九年、第八月十七日と、特に「興國より七十九年」すなわち「建国79年」と記述しているものだ。歴史あるヨーロッパ勢力に負けず、建国後たったの79年で、それまで誰も出来なかった日本を開国させたのだと誇り顔であった。

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    10/30/2018, (Original since 10/30/2018)