日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ペリー提督と黒船艦隊が集めた、日本の動植物標本

「地誌を調べ、物産のサンプルを入手すること」 というアメリカ政府の遠征指令書に基づき、ペリー提督は有能な艦隊士官の手助けを得て、特別に乗り組んだ絵師・ハイネ、国務省派遣の剥製造りや植物収集にあたったモロー博士、艦隊付きのグリーン軍医やファース軍医、ウィリアムス主任通訳官等が中心になり、横浜近辺や下田や箱館で動植物の標本を収集した。

ペリー提督が帰国後作成した遠征報告書の第2巻は、こんな地誌や博物誌を中心にした驚くほど精巧な地形図や標本の挿絵もちりばめた報告書である。その中の「Natural History(博物誌)」 の項目中のペリー提督自身の紹介文の中に、次のような記述がある。曰く、

私自身が確信を持ちかつ政府に報告したいことは、艦隊に所属する何隻にも上る艦船に乗り組んだ士官諸君の中に、もしその学識才能が科学探求のために適切に成熟発展されれば、海軍活動と外交活動のために組織される遠征に期待される科学者として十分通用する人たちがいます。そしてその中の何人かは、直接責任のある職務だけでなく、ここに報告されている標本収集の重要な手助けをしまた。
ウィリアム・ハイネ氏は、主として鳥類の標本収集に貢献しました。魚貝類標本の収集は、私自身の監督下で行われました。植物関係の標本は、その収集と保存処理が、主任通訳官のS・ウェルズ・ウィリアムズ氏、グリーン軍医、ファース軍医、モロー博士により行われました。

何が起こるかわからない全く未知の日本行き遠征のため、ペリー提督の判断で、我こそはと押し寄せる科学者や旅行記作家などの一般人は全て拒否し、軍隊としての厳しい指揮に従える軍事関係者のみに絞った遠征隊だった。

 
遠征報告書第2巻の挿絵、キジとカサゴ
Image credit: Courtesy of "33rd Congress, 2d Session. SENATE. Ex. Doc. No. 79"

これらペリー艦隊により収集された貴重な標本類は、モロー博士の監督の下に別船で丁寧にアメリカに送られ、夫々の専門家である鳥類学者のジョーン・カッシン、魚類はジェームス・ブレブート、貝類はジョーン・C・ジェイ、植物学者のエイサ・グレー等による観察報告が遠征報告書の第2巻に収録されている。

しかし、この遠征報告書の第2巻を開いてすぐ判明することは、各種チャートや、収集された鳥類、魚類、貝類標本の驚くほど奇麗な挿絵が幾つか掲載されていても、当時著名な植物学者のエイサ・グレーの報告文は載っているが植物に関する挿絵が全くない事実である。

これに関し、ペリー提督自身が記述した前述の紹介文の中に、ペリーの強い不満が記されている。いわく、

しかし、主として日本と琉球で採集された非常に興味深いこれら植物標本が、当然そうあるべきと私が意図していたことに反し、この報告書に詳述され記載され得なかったことは、非常に残念なことであります。ある誤りにより、これらの植物標本は我が国の著名なある植物学者の所有となり、かの学者から私宛にその原因が満足できる程明確に説明されませんでしたが、彼が約束した通りに標本が詳述されず、度重なる遅延のため、この出版までに私が、別途望ましい詳述と挿絵の準備をすることができなかったのであります。

直接にジェームス・モローやエイサ・グレーと言う名前こそ出さなかったが、ペリー提督の怒りにも似た強烈な不満が載った遠征報告書の第2巻の博物誌報告部分は、収集された標本をめぐり当時重大な行き違いがあった事実を垣間見せている。ハーバード大学の著名な植物学教授だったエイサ・グレーにより報告された標本は、その詳細解説と挿絵がペリーに提出されなかったのだ。その後、植物標本がニューヨーク植物園で保管され、海藻標本がハーバード大学で保管されていたが、1995年ころ日本に里帰りし展示もされている。(「黒船が採集した箱館の植物標本里帰り展」、図書裡会・函館日米協会・函館植物研究会、平成7年6月)

ちなみに、この時採集された植物標本のうちアメリカで新種と認定されたものの中で、1854年4月20日(A. Gray報告書)に下田で採集された「シロバナノハンショウズル」には、採集者の通訳官・ウィリアムスを記念してその新しい学名に「Clematis Williamsii  A. Gray」、1854年5月(Journal of Dr. Morrow)に箱館で採集された「キンギンボク」には、採集者のモロー博士を記念してその新学名に「Lonicera Morrowii  A. Gray」等、夫々採集者の名前を冠したものがある。


遠征報告書第2巻の挿絵、鮭類
Image credit: Courtesy of "33rd Congress,
2d Session. SENATE. Ex. Doc. No. 79"

また魚貝類の採集はペリー提督自身の監督の下に成され、箱館やその他の場所で採集されたものの中にペリー提督を記念して命名された魚類の幾つかがある。右図の上の箱館で採集された鮭は後に新種と同定され、学名「Hucho Perryi」、即ちイトウ(サケ目サケ科イトウ属)がその一例である。

日米和親条約を結んだこの第2回目のペリー艦隊の日本出発直後に、捕鯨船などの海洋安全航行・操業のため 「ロジャーズ ・ リングゴールド探検隊(Rodgers - Ringgold Expedition, 1853-1856)」と呼ばれる、1853年6月11日に本国を出発したアメリカ政府の「北太平洋調査探検隊」を香港で引き継いだジョーン・ロジャーズ大尉が、九州から北上し日本沿岸を探検・測量し、ベーリング海まで北上した。この探検隊にも植物学者のチャールス・ライト(Charles Wright)と助手のジェームス・スモール(当時軍人、James Small)という2人の科学者が乗り組み、支那や日本からカムチャッカ半島の植物採集をしている。何れも品種同定に植物学者のハーバード大学教授エイサ・グレーが関わったので、時にペリー艦隊の実績とロジャーズ・リングゴールド探検隊の実績が混同されることがある。

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04/23/2020, (Original since 10/20/2016)