日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

日米和親条約付録、下田追加条約
    
下記は、日米和親條約締結後の嘉永7年5月22日、下田・了仙寺でペリー提督と締結・調印した13ヶ條からなる付録條約で、「日米和親条約付録」あるいは、「下田追加条約」と呼ばれる。
筆者注:これは、12月に使節・アダムス中佐と取り交わした批准書の方ではない。批准書の内容は調印時と同一であるが、批准書には阿部伊勢守、牧野備前守、松平和泉守、松平伊賀守、久世大和守、内藤紀伊守が夫々の花押を入れ、その旨の前書き、後書きを入れてある。)
いわく、

日本國へ合衆國よりの使節提督ペルリと、日本大君の全権林大學頭、井戸對馬守、伊澤美作守、都筑駿河守、鵜殿民部少輔、竹内清太郎、松崎満太郎、両國政府の為、取極置く條約附録。

  第一ヶ條
一 下田鎮臺支配所の境を定めんが為、關所を設るは其意の儘たるべし。然れども、亜墨利加人も亦、既に約せし日本里數七里の境關所出入するに障ある事なし。但日本法度に悖るものあらば、番兵是を捕へ其舩に送るべし。

  第二ヶ條
一 此港に来る商舩鯨漁舩の為、上陸場三ヶ所を定置き、其一は下田、其一は柿崎、其一は港内の中央にある小嶋の東南に當る澤辺に設くべし。合衆國の人民必日本官吏に對し叮嚀を尽すべし。

  第三ヶ條
一 上陸の亜墨利加人、免許を請ずして武家町家に一切立寄べからず。但寺院市店見ゆるは勝手たるべし。

  第四ヶ條
一 徘徊の者休息所は、追て其為旅店設くるまで、下田了仙寺、柿崎玉泉寺二ヶ寺を定置べし。

  第五ヶ條
一 柿崎玉泉寺境内に亜墨利加人埋葬所を設け、麁略ある事なし。

  第六ヶ條
一 神奈川にての條約に、箱館において石炭を得べきとあれども、其地にて渡し難き趣は提督ペルリ承諾いたし、箱館にて石炭用意に及ばざる様、其政府に告べし。

  第七ヶ條
一 向後両國政府において、公顕の示告に、蘭語譯司居合ざる時の外は、漢文譯書を取用る事なし。

  第八ヶ條
一 港取締役壱人、港内案内者三人、定置べし。

  第九ヶ條
一 市店の品を撰むに、買主の名と品の價とを記し御用所に送り、其價は同所にて日本官吏に辨じ、品は官吏より渡すべし。

  第十ヶ條
一 鳥獣遊猟は却て日本において禁ずる処なれば、亜墨利加人も亦此制度に伏すべし。

  第十一ヶ條
一 此度箱館の境、日本里數五里を定置き、其地の作法は此條約第一ヶ條に載す處の規則に倣ふべし。

  第十二ヶ條
一 神奈川にての條約取極の書翰を得、是に答ふるは、日本君主において誰に委任あるとも意の儘たるべし。

  第十三ヶ條
一 茲に取極置く處の規定は、何事に依らず若し神奈川の條約に違ふ事あるとも、また是を變る事なし。

右條約附録、エゲレス語日本語に取認め、名判致し、蘭語に翻譯して其書面を合衆國と日本全権双方取替すもの也。

  暦數千八百五十四年第六月十八日、下田において名判いたす。

ペルリ      
  日本嘉永七年五月二十二日
林 大學頭    
井戸對馬守    
伊澤美作守    
都筑駿河守    
鵜殿民部少輔   
竹内清太郎    
松崎満太郎    

右真譯いたし候。
ポットメン    

右之通和解 差上申候。 以上
  寅
    五月
本木昌造 印   
堀達之助 印   


なお、上述追加條約末尾の西暦と和暦の日にちに矛盾がある。この日本語条約文は、東京大学史料編纂所の維新史料綱要データベースを参照したものであるが、「暦數千八百五十四年第六月十八日」は安政一年五月二十二日、即ちここで言う「日本嘉永七年五月二十二日」ではなく、五月二十三日に当たる。ペリー提督の海軍長官に宛てたこの取り決めを報告する1854年7月18日付け書簡(33d Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No. 34.)には条約取決め日を「Shimoda, Japan, June 17, 1854」と明記しているので、データベース史料への転写時に「十七日」を「十八日」と筆写誤りをした可能性もある。

また、日本文の「第十三ヶ條」は英文には無く第十二条までで、日本文第十三条の内容は英文では条約本文の形で記述されている。

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12/15/2019, (Original since 02/12/2011)