日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

下関、密貿易の一顛末

元治1(1864)年8月5日から7日にかけイギリス、フランス、オランダ、アメリカの4カ国連合艦隊が長州へ砲撃を加え、長州が8月14日に講和を受け入れた後、幕府も4カ国と賠償金を取決めた。

長州はしかし講和後も依然として武器の購入を加速させ、下関近辺には外国商船が集まり密貿易が見られたから、対岸の小倉藩から長州の違法取引の疑いの報告が幕府に上がった。元治1年12月24日、幕府はイギリス、フランス、アメリカ、オランダ、その他諸外国に、「門司や田ノ浦に停泊する外国商船が、長藩の者と私的に交通してはならない」と、長州との密貿易を取り締まるよう通達を出した。

♦ 幕府は上海に捜査官を派遣

しかしその後も頻繁に密貿易の噂があり、横浜では上海で新聞種にまでなっていることが噂されていた。駐日オランダ総領事からも、日本船を上海まで持って行き売り払い、その船に乗り組む日本人も上海に居るという噂があると伝えられた幕府は、早速外国奉行配下の役人を上海に派遣し詳細を調査した。おそらく日本始まって以来はじめての、警察海外派遣捜査だったろう。慶応1(1865)年3月のことだ。

上海駐在のオランダ総領事の援助を受けながらの調査で、日本船を上海に持って来て売り払ったのは「亜国、モニトール船主の所為」、すなわちアメリカ国籍のモニター号船主・ドレークの行為と判明した。上海で調査に当たる幕府役人は早速オランダ総領事の仲介で上海駐在のアメリカ総領事と面会したが、米国のオスワルド総領事は以下の事実を語った。

  1. ギンカチ丸はアメリカ商人・ドレークが長門候より売り払いを委任され上海に持ってきた。
  2. その委任状には毛利大膳大夫の臣・村田蔵六(後の大村益次郎)の署名・花押があり、委任状の真偽を確認後、アメリカ国旗の掲揚を認めた。
  3. その直後に転売され、現在はラッセル商会の所有になっている。
  4. ドレークはモニター号の船主であるが、乗り組んできた日本人士官の氏名は明かすことは出来ない。
  5. 証拠書類は今すぐ手渡すことは出来ないが、日本駐在のアメリカ公使から正式な要請が来れば写しを公使に送る事はできる。
  6. (いま日本役人から)話を聞けば、ドレークは違法行為に当たり罰すべき者のようだが、日本駐在アメリカ公使からの指図がなければ当方ではいかんともしがたい。

このオランダ総領事の助けを得ての海外捜査の報告に基づき、幕府はアメリカ代理公使・ポートマンに状況を報じ処罰を求めると、ポートマンはアメリカに帰ったプルーイン前公使はその噂を知っていたが、オランダなどと話をせずなぜ日本駐在アメリカ公使に直接問い合わせなかったのかと、逆に幕府にねじ込んだ。老中・水野忠精(ただきよ)は、勿論アメリカという情報は上海ではじめて判明したものだと報じ、ポートマンはそれは分かったが少なくともプルーインに詫びを入れてくれと食い下がった。水野は前公使・プルーインが新聞記事等であらかじめ知っていたのなら、なぜ日本政府にすぐ知らせなかったのか。驚愕のほかはないと強く抗議した。

この、上記の委任状に毛利大膳大夫の臣・村田蔵六の署名・花押があったことと、乗り組んできた日本人士官の氏名は明かすことは出来ないというオスワルド総領事の言葉から推定すれば、筆者には、当時萩藩の山口・明倫館で兵学校教授役として軍備関係の充実に取り組んでいた村田蔵六自身が、密かに上海に渡航していたように思われる。だがしかし、これは筆者の単なる推測である。

その後もこのアメリカの武装蒸気商船・モニター号(Monitor)はティーパン号(Tee-pang)と船名を変え、何度も下関に航海し、長州に武器弾薬を供給している。これは、横浜に居る外国人の間で良く知られた事実だった(「Japan through American Eyes」)。

♦ アメリカ商人だけではない

また「6、薩英戦争と下関戦争」で書いたように4カ国艦隊が下関に来て下関戦争が始まる直前に、アメリカ国旗を侮辱されたと、アメリカ軍艦・ワイオミング号が長州に来て、港に停泊中の長州蒸気軍艦・壬戌(じんじゅつ)丸のボイラーを打ち抜いて沈めた。あまり噂にはならなかったようだが、長州藩は慶応1年6月この破損した軍艦・壬戌丸をフランス商人に引き取らせ、さらに16万両上積みをして36丁もの大砲を装備した軍艦を購入した。

英国代理公使・ウィンチェスターは慶応1年閏5月2日、5ヶ月半ほど前に幕府が出した密貿易取締りの要求や、重ねて出される外国奉行の厳しい取締り要求に対し、イギリス船舶が下関附近で密貿易を行うことを厳禁する布告を出したことを幕府に報じ、実際イギリス軍艦を派遣し監視もさせたから、長州は秘密裏に長崎に藩士を派遣し、薩摩藩の助けでイギリス商人から武器や軍艦を買っている。しかしウインチェスターは同時に、現在の日本でも良くその名が知られているトーマス・グラバーなどといったイギリスの武器商人たちが船舶や武器を売って巨利を得ていることも良く知っていたから、日本の諸侯が自由に貿易できるよう改めるべきだと幕府に注文をつけることも忘れていない。イギリス政府と代理公使のこんな対応は、いかにも「ジョンブル精神」が発揮された典型のようだ。

しかし、各国外交官の意思に反し、そんな国の多くの商人たちは商機を逃すことなど決してしなかったのだが、これら長州や薩摩の最新式武器の購入が、戊辰戦争で威力を発揮することになる。

元のページに戻る


コメントは 筆者 までお願いします。
(このサイトの記述及びイメージの全てに著作権が適用されます。)
07/04/2015, (Original since 05/21/2008)