当初、ペリー提督に与えられた軍艦と技術的問題
当初海軍長官から東インド艦隊所属としてペリー提督に与えられた軍艦は次のような12隻の艦船だったが、ここの述べる技術問題がペリー提督の出発遅延の一つの原因を作った。
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当初、ペリー提督に与えられた艦船と種類
船名 | 種類 | 大砲 | 建造 | 定員 | 積載トン |
1. ミシシッピー号 | 側輪駆動蒸気軍艦 | 12 | 1841年 | 268人 | 1692 |
2. プリンストン・II号 (注1) | スクリュー駆動蒸気軍艦 | 8 | 1852年 | (不明) | 1385 (排水トン) |
3. アレゲニー号 | スクリュー駆動蒸気軍艦 | 10 | 1847年 | 190人 | 1020 (排水トン) |
4. サスケハナ号 (注2) | 側輪駆動蒸気軍艦 | 9 | 1850年 | 300人 | 2450 |
5. ヴァーモント号・74門砲艦(バーモント号とも) | 帆走戦列砲艦 | 72 | 1848年 | 820人 | 2633 |
6. バンダリア号 | 帆走軍艦 | 24 | 1828年 | 190人 | 770 |
7. マセドニアン号 | 帆走軍艦 | 22 | 1832年 | 380人 | 1726 |
8. サラトガ号 (注2) | 帆走軍艦 | 22 | 1843年 | 210人 | 882 |
9. プリマス号 (注2) | 帆走軍艦 | 22 | 1844年 | 210人 | 989 |
10. サプライ号 | 帆走武装補給艦 | 4 | 1846年 | 37人 | 547 |
11. レキシントン号 (注3) | 帆走武装補給艦 | 2 | 1826年 | 45人 | 691 |
12. サウザンプトン号 | 帆走武装補給艦 | 2 | 1845年 | 45人 | 567 |
(注1)ノーフォーク軍港で、側輪駆動蒸気軍艦・ポーハタン号が、故障したプリンストン・II号に替わり艦隊所属になった。
(注2)既に、米国の東インド・支那海艦隊に所属し、オーリック提督の指揮下にあったが、ペリー提督が引き継いだ。
(注3)レキシントン号は、ケネディー海軍長官の1852年11月13日付けペリー提督宛指令書簡(33d Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No. 34.)に船名が無いが、後日、将軍宛のプレゼントを積載して横浜に着いた。 |
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この内、スクリュー駆動のプリンストン・II号は1852年に新規配備された新造蒸気軍艦だ。一代目のプリンストン号は、ミシシッピー号などのそれまでの側輪駆動方式から、初めてスクリュー駆動方式を取り入れた最初の蒸気軍艦だったが、木造船体が傷み解体され、その材料を使って新造された二代目のスクリュー駆動軍艦である。ペリー提督は1852年11月18日、ワシントンDCの東50kmのアナポリス軍港でフィルモア大統領や政府首脳に祝福され、ミシシッピー号に乗りこのプリンストン・II号を伴ってチェサピーク湾を南下し、日本に向けた最終出発地のノーフォーク軍港に向け出航した。しかしプリンストン・II号は途中でボイラー故障で運行不能に陥り、その後の修理でも思わしくなく、ついに通常艦隊指定から外されている。
この時たまたまノーフォーク軍港に西インド諸島任務を完了した側輪駆動蒸気軍艦・ポーハタン号が入港したので、ペリー提督はこのポーハタン号をプリンストン・II号の代わりに艦隊に加え、ペリー提督の乗るミシシッピー号の出発より少し遅れて準備完了し、香港に向かう事になる。
また、アレゲニー号の建造当初の設計は、水中で水平方向に回転する側輪駆動の鉄製蒸気軍艦だった。従来のミシシッピー号のように垂直方向に回転する側輪は、荒海で船体がロールすると時に空中に出て空回りになるが、これを改良しようとしたもののようだ。しかしこの水平側輪機構や蒸気機関の故障が続き、ついに海軍は、1851年に通常のスクリュー駆動方式に改造し航海テストを実施した。しかし改造したアレゲニー号はこのテストに合格せず、後日仕方なくペリー艦隊から外された。
この様な経緯から、スクリュー駆動の2隻の軍艦は、ついに日本に来ていないが、スクリューは側輪と違い動きが外から見えないから、帆も揚げず、側輪もなく、風上にスルスル動く黒船は、日本人にもっと強いインパクトを与えたに違いない。
ヴァーモント号・74門砲艦は蒸気軍艦ではなく、大型で古い形態の帆走戦列砲艦である。これは一昔前の、砲艦が砲撃対象に横一列に向かって並び、一斉射撃をするための大型戦略砲艦である。名前の通り、1818年の建造計画時の標準は74門の大砲を装備する仕様だったので、「74門砲艦」と呼ばれた。1846(弘化3)年7月20日に浦賀に来たビドル提督の旗艦・コロンバス号は、この型の砲艦である。ヴァーモント号の建造計画後には、ヨーロッパと違い、アメリカが参戦するそんな海戦は極端に少なくなり、遅れに遅れて1848年に完成はした。しかしあまりにも大型で、準備や操船も大変で、乗組員も通常の蒸気駆動フリゲート艦の2、3倍にもなり、膨大な費用が掛かるため予備船列に入っていた。海軍省により東インド艦隊所属の候補艦に指定されはしたがしかし、当時議会が平和時の海軍維持として設けていた 「海軍に於いて当面、新規補充は合計7,500人まで」という法律に規制され、800人を越える人員補充が不可能になり、この820人乗りのヴァーモント号・74門砲艦への完全な人員補充が出来なかったのだ。このため日本には来ていない。この情報は1853年4月11日付け「ニューヨーク・タイムス」紙に掲載されたが、元記事がまだ外にありそうなので最近(2018年12月)調べたところ、ワシントンDCの「デイリー・ユニオン」紙に見付かったので下に追加する。
結果的に、当初計画の12隻から蒸気軍艦2隻と帆走戦列砲艦1隻が抜け、蒸気軍艦・ポーハタン号が加わったから、最終的に合計10隻の軍艦が日本に来たわけである。ただし、プリマス号は1回目のみで、2回目の日本遠征には参加していない。
ヴァーモント号とアレゲニー号の除籍理由
1853年4月8日付けでワシントンDCの「デイリー・ユニオン」紙に下記のような記事が載った。すでに記述した如く、ペリー提督は1852(嘉永5)年11月24日、単独で蒸気軍艦・ミシシッピー号に乗りノーフォーク軍港を出発したが、後を追うはずであった74門帆走戦列砲艦・ヴァーモント号とスクリュー駆動蒸気軍艦・アレゲニー号は、ペリー艦隊から除籍された。それを報ずる「デイリー・ユニオン」紙の記事いわく、
日本遠征
最近、人々の関心を引くこの遠征が、現海軍長官により撤回されたか或いはほゞ撤回されるという事が一部新聞 界で噂されている。最も信頼できる権威筋によれば、そんな噂は全て事実無根である事が判明した。それどころ か海軍省幹部は、遠征に関わる重要な物事を成し遂げるため全く適切な援助を与えようとし、遠征に関する大衆 の期待に沿えるよう努力中である。
前海軍省幹部は、ペリー提督の熟慮された日本行きへの期待と共に、次の様な軍艦即ち、一艘の戦列砲艦・ヴァ ーモント号、三艘の蒸気フリゲート艦・サスケハナ号、ミシシッピー号、ポーハタン号、一艘の一級蒸気軍艦・ アレゲニー号、四艘の帆走スループ軍艦・マセドニアン号、サラトガ号、プリマス号、バンダリア号、更に二艘 の補給船・サプライ号、サウザンプトン号等々を東インドとシナ海に於ける合衆国海軍艦隊司令官であるM・C・ ペリー提督の指揮下に置く事を意図していた事は明らかである。
ヴァーモント号、マセドニアン号、アレゲニー号を除くこの艦隊は現在マカオに集結している。アレゲニー 号は現在修理中で、何時その準備が整うか不明である。ヴァーモント号は乗組員の集結を待っているが、それは 船員募集部門の状況に掛かっていて、800人の乗組員の確保は、出来たとしても何時になるかを述べる事は全 く不可能である。この他に、全階級の乗組員を船員募集部門で確保するには7,500人を限度とするいう法の制 限があり、議会が前回の会期中に海軍省にその人員増加の要望に対する権限を付与する事が出来ず、そのための 充当手段もなく、すでに就航している艦船へ追加するには、今や法で定められた乗組員数を超過する事なくヴァ ーモント号への人員配置が不可能になり、ペリー提督の艦隊からヴァーモント号を除籍せざるを得なくなった。 更に、アレゲニー号を航海可能にする必要な修理の遅延で、おそらく、遠征隊への参加が出来なくなりそうであ る。しかしこれは、充分な軍事力で且つ提督の使命の完遂に向け申し分なく準備されているから、熟慮されたペ リー提督の日本訪問に悪影響を与えないであろう。
この様に、明確な除籍理由を報じている。