日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

富士山艦と甲鉄軍艦・ストーンウォール(東艦)の購入

♦ 軍艦発注とその背景

富士山艦と共にアメリカから購入した甲鉄軍艦すなわち鉄板で装甲した軍艦はストーンウォール号で、日本で東艦と呼ばれたものだ。富士山艦やストーンウォールというアメリカ軍艦の購入は、もともと幕府がタウンゼント・ハリスと締結した、安政5年の日米修好通商条約の第10条にルーツがある。この第10条いわく、

日本政府、合衆國より軍艦、蒸氣船、商船、鯨漁船、大炮、軍用器并に兵器の類、其他要需の諸物を買入れ、又は製作を誂へ、或は其国の学者、海陸軍法の士、諸科の職人并に船夫を雇ふ事意のまゝたるへし。

というものだ。ハリスと条約交渉をした当時、イギリスやフランスが多数の軍艦を引き連れ条約交渉にやって来るぞというハリスの強い警告に基ずき、日本側が危機感を持って挿入した条項だろう。戦争になりそうになったら、軍艦や兵器をアメリカから買い、要員まで雇おうとしたようだ。こんな背景もあり、文久1(1861)年7月9日、幕閣の中心だった安藤信正や久世広周(ひろちか)が、ハリス公使にアメリカでの軍艦建造と留学生の受け入れを依頼したのだ。

当時の幕府は、オランダから贈られたた観光丸やイギリスから送られた蟠龍丸、オランダに発注した咸臨丸や朝陽丸などの軍艦を所有していたが、すべて小型軍艦だった。当時、孝明天皇から一旦拒否された和宮の降嫁要請を再度実現させるため幕府は、軍備を増強し10年以内の攘夷を約束し、やっと和宮降嫁勅許のお沙汰が出たから、海軍力増強は最重要課題の一つだった。萬延元(1860)年5月中旬に咸臨丸がアメリカから帰国し、9月末には遣米使節一行も無事帰国し、帰国した使節・新見正興(まさおき)や村垣範正(のりまさ)からアメリカの生々しい状況報告を聞いている幕閣は、11月17日、「先般はオランダから軍艦を購入しているが、今回アメリカとイギリスから軍艦を購入する事はどうか」と外国奉行に諮問した。アメリカから帰国した外国奉行・新見正興と村垣範正、そして西丸留守居・水野忠徳(ただのり)などが早速、

軍艦の建造には18ヶ月から3ヵ年は必要だから発注は直ちに実行する必要があるが、外国から購入するだけでなく、高炉や反射炉、蒸気槌を備えた造船所を設立し、日本で軍艦建造を始める必要もある。

と評議答申した。この「造船所設立の必要性」は、その後、紆余曲折を経て実現して行く項目だ。

この当時は、大老・井伊直弼が殺害された8ヶ月後くらいだったが、井伊直弼の後を引き継いだ幕閣・安藤信正や久世広周が朝廷との関係修復に腐心し、和宮の降嫁実現は公武一和の切り札だし、その後先鋭的になる長州も一時、「航海遠略」の藩是を定め朝廷と幕府間の斡旋に乗り出すなど小康状態にあった。そこで幕閣もいよいよ軍事力の強化と増強を目的に「海陸御備え並びに軍制取調御用」委員会を置いて軍制改革を目指し、7ヶ月ほど前に外国奉行から答申のあった軍艦建造を決定する余裕も出たのだろう。タウンゼント・ハリスと親交もあり外交担当も兼ねた安藤信正は、アメリカで軍艦を造り、留学生もアメリカへ派遣し、その製造工程も習得させるべく話を煮詰め、留学生の人選も終えたのだ。

そのあと幕府は、兵庫・新潟の開港や江戸・大阪開市を5ヵ年延期してくれるよう文久1年12月22日に遣欧使節を派遣するなど外交関係にも手を打ち始めたがしかし、こんどは翌文久2年1月15日に安藤信正自身が坂下門外で水戸藩士に襲われて負傷する事態になり、その後長州は藩論を一気に変えて先鋭的になり、急速に国内政治が混沌として行くと云う直前の軍艦発注だった。

♦ 発注軍艦と建造計画の頓挫

安藤と久世が文久1年7月9日にハリスに発注した軍艦は次のようなものだ。

  • フレガット  一艘
    スクリュータイプ蒸気機関付き、350馬力程度
    大砲適宜、総督・船将部屋各1つ、士官部屋多数、全船に必要な諸具、最新式の砲・銃・測量機器等予備品付き
  • コルベット  一艘
    スクリュータイプ蒸気機関付き、150馬力程度
    大砲適宜、総督・船将部屋各1つ、士官部屋多数、全船に必要な諸具、最新式の砲・銃・測量機器等予備品付き
  • 以上を基本線に、詳細はアメリカ政府に任すが、最新式装備を施した軍艦を購入したいと要求していた。

    ハリスは早速本国政府に報告したようだが、折り返しアメリカ政府は、日本には良質な木材も多いというから船大工を送るので日本で造れ、と推奨してきた。この当時のアメリカではすでに南北戦争が勃発し、リンカーン大統領は全ての軍艦を動員し南軍の港を海上封鎖し始めていたから、日本に売る軍艦など造るくらいなら自分で使いたいほど余裕がなくなっていたのだ。実際、リンカーンのこの海上封鎖作戦は、南部経済を手ひどく痛めつけ、半年も経つと南部経済をになう綿花の輸出が完全にストップするほど有効な作戦になった。またその後ハリスも退職帰国を決めてしまい、それ以上具体的な交渉が出来ず、アメリカとは新公使赴任後に改めて交渉ということになった。

    こんな中で安藤自身にも坂下門外の災難が降りかかったのだが、それにもかかわらず幕府は朝廷と約束した軍備増強の軍艦購入を諦ず、こんどは文久2年3月22日、安藤信正は負傷の傷をおしても久世と図り、アメリカの代わりにオランダに350馬力のフレガット型蒸気軍艦を発注し、日本からの留学生の教育も依頼した。これがオランダで造った、後の開陽丸発注の経緯でもある。この後しかし安藤信正は、1月もしないうちに老中を罷免されてしまう。

    ♦ プルーイン公使に改めて発注

    しばらくして、すでに南北戦争が始まり日本に於ける外交方針を180度転換したアメリカ政府から、新任の米国公使・プルーインが日本に派遣され、文久2(1862)年4月19日に登営し、将軍・徳川家茂に謁見し、リンカーン大統領の信任状を提出した。一方、朝廷ではこの頃薩摩藩の島津久光の建言を受け入れ、勅使・大原重徳(しげとみ)を江戸に送り、将軍上洛、国防強化、一橋慶喜を将軍後見役に、松平慶永を大老とするなどの実行を幕府に迫ってきた。幕府はそこでこの直後に、国防、特に海軍の強化に更なる力を注ぐためアメリカと軍艦購入交渉を再開した。これは、前幕閣・安藤と久世がオランダに軍艦を発注してから5ヶ月目のことだ。

    この年の8月29日、老中・板倉勝静(かつきよ)と水野忠精(ただきよ)がプルーイン公使と会い、「軍艦を発注したいが、軍艦の事は全く不案内だが出来るだろうか」と、先ずアメリカ政府の方針に探りを入れた。ところがプルーインの答えは意外に前向きで、先頃ニューヨークでロシアのため軍艦一艘を造り、イタリアにも同じものを造る予定だといった。州議会出身の政治家から日本駐在公使に転進したプルーインが、ニューヨーク州兵法務局長や准将を務めたとはいえ、法律には詳しくとも、どのくらい軍艦の専門家だったか筆者には分からない。しかしプルーインは、「大きな軍艦を数艘持つよりは、大きくても1千トン程度の小型軍艦を多く持つほうが良い」と薀蓄を傾けた。そして、これはいわゆる「ガンボート(Gunboat)」と呼ぶもので、200から300馬力の蒸気エンジンを備え、長さ220フィートくらいの軍艦で、取り回しも良く費用も安い。本国には、条約批准に渡米した日本使節も送った4千トンもあるナイヤガラ号と呼ぶ軍艦もあるが、水夫も多く必要で、この軍艦の1ヶ月の運用経費で小型軍艦を1年間も運用できると説明した。確かにこの7、8ヶ月ほど前にアメリカ政府、すなわち北軍の海軍は、プルーインの説明したいわゆるガンボート・初代マイアミ号(USS Miami)を実戦配備し、ミシシッピー河の南軍攻撃に威力を発揮したから、こんな情報を伝えたのだろう。

    プルーインは種々説明の後、軍艦は商船と違って気に入らないから返すということは出来ないが、まず代金の半額を先に支払い、出来上がったら残りを支払って欲しい。この条件ならアメリカ政府で建造を引き受ける。ハリス公使が話した頃より南北戦争も落ち着いてきたと説明した。2人の幕閣は、とりあえず22、3間の長さで適切な形の軍艦やガンボートをを2、3艘建造して欲しいと頼み、詳細は外国奉行と決めて欲しいと発注の約束をした。プルーインは、その他最新式の砲身中ぐり盤、ライフルキャノン、鍛造砲身のパロット砲など新発明の武器も説明し、幕府はその1ヵ月後の閏8月21日、最終的にコルベット型を2艘、ガンボートを1艘の合計3艘の軍艦と、蒸気機関駆動の砲身中ぐり盤をアメリカに発注した。これは後で判明することだが、例え日米通商条約にその旨合意してあっても、プルーインは自国政府との根回し不十分のまま請合ったようで、後にリンカーン大統領との意見に差が生じ、後々まで個人的責任が生じている。

    ♦ プルーイン公使の不思議な行動とリンカーン大統領の決定

    最初に納入された軍艦は、アメリカでガンボートと呼ぶ1千トン、350馬力、186フィート、砲備12門の富士山艦だが、なんと発注から3年3ヶ月も経った慶応1年12月7日(1866年1月23日)、やっと横浜に到着した。これは、この1年3ヵ月後にオランダから開陽丸・2590トンが到着するまで、当時幕府の所有する最大級の軍艦になったが、この1番艦の納入遅延だけでなく、同時に発注した2番艦、3番艦や銃砲・兵器納入を日本側からキャンセルするという問題が発生する。

    これは、文久3(1863)年5月10日から26日にかけて起った長州のアメリカ商船、フランス軍艦、オランダ軍艦への砲撃事件と、その懲罰行動としてイギリス、フランス、オランダ、アメリカ4カ国連合艦隊が元治元(1864)年8月5日から長州を砲撃した、いわゆる「下関戦争」の影響だった。1番艦の富士山艦が1864年6月(元治元年5月)ニューヨークで完成し、いよいよ日本に向けて出航する段階で、下関砲撃事件とそれに対する4カ国の懲罰戦争の情報に接したリンカーン大統領は、不透明な日本の政治情勢と外国への戦争行為の可能性のため、富士山艦の出航を差し止め、その他の軍艦の製造も中止してしまったのだ。またプルーインは公使でありながら、この軍艦の製造業者として身内を使った疑惑も浮上し、こんな事も問題がすっきり解決しなかった一原因だと見る歴史家もいる(「Spoilsmen in a "Flowery Fairyland"」)。

    このリンカーン大統領による差し止めに関しプルーイン公使からの通告は何もなく、幕府が納入を何回も催促し、やっとリンカーンの決定が判明してゆく事になる。更にこんなゴタゴタの最中に、肝心のプルーインは病気を理由に帰国してしまい、ほとんど同時期にリンカーン大統領も暗殺されてしまった。痺れを切らした幕府はついに慶応1年4月26日、代理公使・ポートマンに、建造を依頼していたコルベット型蒸気軍艦2艘の解約を通告し、頭金として支払った代金の返還を求め、すでに完成したというガンボート・富士山艦を早く納入するよう迫っている。

    ♦ ポートマン代理公使ももてあます

    プルーインの後任公使が着任するまで書記官・ポートマンが代理公使となったが、当初は経緯の詳細を知らないポートマンは、幕府の督促にしどろもどろだった。慶応1(1865)年8月12日に善福寺で外国奉行・田村直廉と会い、軍艦の件はどうなったと聞かれたポートマンは、

    その話が出る都度私も不快になります。プルーインの出航後度々問い合わせているが、今もって返事がない。元々彼の性質は、いったん金を握ったら出すことを嫌う人だ。幕府が支払った頭金も大金だから、いったん渡した後がどうなる事かと懸念します。

    と云って、自国の元上司を公然と非難するほどだった。

    その後5日ほどして、ロンドンに滞在するというプルーインからやっと連絡が来たようだ。別の外国奉行・江連堯則がポートマンと会い、キャンセル、返金を交渉する席上で江連は、「貴国の南北戦争はお察し申し上げるが、軍艦の発注は日本政府からアメリカ政府に出したもので、プルーイン公使個人に出したものではない。だから60万ドルもの前金を受け取ってそのまま放っておくなどとは理解できない。戦争のため遅延しているのなら、アメリカ政府から何とか言ってくるのが筋ではないか」と突っ込んだ。ポートマンは、「大統領といえども、議会の承認なしに決定は出来ない」と苦しい答弁をした。江連は、「アメリカ政府から正式に残り2艘の遅延の状況を連絡してきたら考慮の余地もあるが、すでに残り2艘のキャンセルを通告してある通り、富士山艦が到着したら、60万ドルの前金から富士山艦の費用を差し引いた残金を返してもらいたい」と強く要求した。ポートマンは、

    2艘目、3艘目は戦争中の新発明も有りその結果を見るため一時中断したが、その後長州の一件すなわち外国船砲撃事件があり、イギリス公使・オールコックの長文の手紙で日本に武器を売ることへの抗議が来て、アメリカ政府の決定で中止されたのだ。

    と、やっとアメリカ政府とヨーロッパ各国との外交問題が絡む背景の真相を伝えた。だから、当時リンカーン大統領が差し止めた、という事だった。これを聞いた江連は、「オランダにも軍艦を発注してあるが、オランダからは何も聞いていない。イギリスはアメリカにだけ抗議するはずがないから、今の話は信用できない。プルーインの怠慢と南北戦争のゴタゴタが絡み合っているのだ」と、とどめを刺した。

    しかし筆者は、この江連の「オランダからは何も聞いていない。イギリスはアメリカにだけ抗議するはずがないから、云々」というコメントには、何か少し違和感を覚える。イギリスから同様に抗議を受けたオランダは、日本へ遅延の通告もせず、ダンマリを決めていたように思えるからだ。確かにこの南北戦争が始まると、リンカーンの海上封鎖に対抗し、南軍はフランスやイギリスにまで秘密裏に軍艦を発注した。イギリス政府自体は、アメリカの北軍政府も南軍政府もその有効性を認め、少なくともアメリカの内戦には中立の立場を取っていた。しかしリバプールの造船所は上手くイギリス政府の規則を迂回し、船体をイギリスで造り武装は外国で行うという形で、フロリダ号とかアラバマ号という強力な軍艦を南軍に供給した。これらのイギリス製軍艦は北軍の商船を攻撃し、略奪破壊し、大被害をもたらした。当時これを知ったアメリカのスーワード国務長官はイギリス政府に厳重抗議し、イギリス国内で裁判にまで持ち込んだ経緯がある(「The Life of William H. Seward」)。こんな経緯もあったため、リンカーンは、イギリスから抗議を受けると中立政策として幕府発注軍艦の出航と建造継続を差し止めたのだが、当時の日本は、アメリカとヨーロッパとの外交関係にも強く左右されていたのだ。また一方のオランダに発注された蒸気軍艦・開陽丸について詳しく見ると、文久2(1862)年3月22日に発注され、3年8ヶ月も経った慶応1(1865)年11月9日に進水が日本に報じられ、慶応3(1867)年3月26日に横浜に着いているから、都合、建造と回航に丸5年もかかっている。筆者の手元に何も史料はないが、この異常に長い納入期間を見れば、アメリカと同様一時的に製造が中断された可能性が非常に濃い。しかしこの間には榎本武揚一行もオランダに留学していたわけだが、オランダに着いた後2年ほどして「留学資金がなくなる」と幕府にSOSを発しているから、彼ら一行は何か遅延を知らされ、滞在延長を決めていたのかもしれないが、筆者にはよく分かっていない。

    アメリカからの富士山艦が慶応1年12月7日やっと横浜に到着し、軍艦受け取りを済ませ諸費用の清算を済ませたが、その合計は約27万1千百ドルになった。最初に渡した60万ドルの頭金はまだ32万8千9百ドルの残があり、代理公使・ポートマンを通じこれを返却して欲しいと要求する幕府へは、アメリカ政府から何の返答もなかった。

    ♦ 小野友五郎の渡米と返金交渉

    一方幕府は、名義がない戦争だと反対する藩が多い中、慶応2(1866)年6月7日第2次長州征伐に踏み切り、半年前にアメリカから納入されたばかりの富士山艦も参加した幕府艦隊が、周防大島辺りの砲撃を開始した。しかしこの戦争で幕府側が苦戦する中、突然将軍・徳川家茂が病死し、小倉で参戦していた幕閣・小笠原長行が富士山艦に乗って長崎に脱出するほど戦況が悪化した。こんな中で海軍奉行と軍艦奉行から7月25日、

    もっと軍艦が必要になるが、国内の造船所では手に負えない。アメリカは今南北戦争も終わり、軍艦が余っているはずだから発注したい。そして代金は前回渡してある頭金の残りで決済できるはずです。

    と稟議が出された。これは確かに良い着眼点だったのだろう。3ヶ月ほど後に勘定吟味役・小野友五郎と開成所頭取並・松本寿太夫(じゅだゆう)に、過払いの頭金取り返しと軍艦購入のため米国に出張せよとの命令が出されたのだ。これはもちろん新任のバン・バルケンバーグ公使の了解の下で、アメリカ政府にも通知がなされていた。

    ちなみに小野友五郎は、この6年10ヶ月ほど前に咸臨丸でアメリカに渡った優秀な航海士官の1人で、サンフランシスコはへは2度目の旅になる。そして通訳には、これも咸臨丸で始めてアメリカに渡った福沢諭吉が選ばれた。「福翁自伝」によれば福沢が小野に頼んで実現したと書いているが、その通りに小野より申請が出され、幕府から許可されている。

    さて小野友五郎一行は慶応3(1867)年1月23日、アメリカ政府国務長官宛の、「大君殿下は、貴国において軍艦武器譲受その外のため、小野友五郎と松本寿太夫を特撰して全権を任せられたり」という書状と、「今回その方共をアメリカに派遣するに当たり、日本在留同国先任公使・ロバート・H・プルーインへ軍艦建造その他の目的で金子を渡したものの内、日本政府に返還すべき分を同人と談判し、それを受領し、領収書を与えるべし。この交渉は前もってその方共へ委任するものである」という老中命令書とを持って横浜を出航した。第一の目的は、過払いの頭金の取戻しであった。サンフランシスコで小野は、日本領事・ブルックス、咸臨丸で初渡米の時軍艦修理で世話になったマクデューガル提督(昔はキャプテン)、かって北海道に招聘された鉱物地質学者・ウィリアム・ブレイクなど昔の顔なじみに再会した。そしてパナマ経由でニューヨクに向かった。

    一行は3月18日ニューヨークに着いたが、翌日さっそく国務省の代表者と面会し、ニューヨークの海軍造船所を見学の後、数日後にワシントンに行く確認を取った。しかし、その日突然に元公使・プルーインがホテルにやって来て、南北戦争も済み諸物価も下がったから船の建造を始めようと思っていた折だが、日本使節が来たことを新聞で知ったので面会に来たと云い、過去のいきさつは改めて説明したいといった。そこで小野が、代理公使・ポートマンへ通告した軍艦キャンセルの件は知っているだろうというと、そのため3番目の船は中止したという。それなら何故ポートマンへ何も連絡をよこさなかったのか、全くけしからぬ、と気色ばむ小野へ、プルーインは2回も手紙を出してあるといった。そこで不毛な水掛け論は避けたい小野は、長い間何の連絡もなく疑いが生じたのでアメリカ政府へ談判に来たが、図らずも面会ができたので詳細を聞きたいとプルーインを促した。プルーインは、聞くところによれば明日海軍造船所に行くようだが、そこでどんな船形にするか実物を見ながら話したいと水を向けてきたので小野は、「造船はキャンセルといったはずだ」と更にいわねばならないほどプルーインは金を返したがらなかった。しかしついにプルーインは、いずれワシントンで詳しく話すが、造船業者に現金は預けてあるので、現金を返却してもよいとしぶしぶ同意した。数年前までアメリカ政府の公使であったプルーインも、政府を巻き込んだ返金交渉というスキャンダルめいた扱いにはしたくなかったはずだから、アメリカ政府に掛け合おうとする小野友五郎の要求を呑まざるを得なかったのだ。

    60万ドルという大金を個人のビジネスとして預かったプルーインは、これから生じた金利だけでも相当儲けたはずだと後世の歴史家からも指摘されているが(「Spoilsmen in a "Flowery Fairyland"」)、小野友五郎自身が日記に記録した上記の様な会話を読んで、何たる外交官だと首を傾げたくなるのは筆者だけではあるまい。

    その後、プルーインとワシントンで最終的な返金内訳の確認を終えたが、まだ自分の取引のあるニューヨークの金融業者を通じ返金したいというプルーインの要求を拒否した小野は、アメリカ政府の金庫へ送金し、日本はそこから受け取るという個人ビジネスをはさまない方法を取った。いずれにしても、この返金交渉はプルーイン個人と日本政府代表の小野友五郎とのやり取りで、アメリカ政府は一切関知していない。これから見ても、プルーイン個人が自分のビジネス仲間とやった取引で、幕府が思っていたようなアメリカ政府と日本政府の取引ではなかったのだ。

    ♦ ストーンウォールの買い付け


    小野友五郎が見たであろう、当時ワシントンの
    海軍造船所に係留される ストーンウォール

    Image credit:Courtesy of
    Naval Historical Center, Washington, D.C.,
    http://www.history.navy.mil

    アメリカ国内を二分した南北戦争は、純粋にアメリカ合衆国の内戦である。しかしすでにヨーロッパ各国とアメリカは国際貿易で強く結ばれた関係にあったから、リンカーン大統領が海上封鎖を行うと、アメリカ南部の綿製品に強く依存するヨーロッパ諸国の繊維工業も、綿製品不足で大きな打撃を受けた。こんな経済事情は一大政治問題だから、イギリスもフランスもアメリカの北軍政府と南軍政府の双方を認め、中立ではあるが貿易確保に努めている。こんな隙間を縫って、両国の造船業者の暗躍が顕著になった。上述の如くイギリス政府は局外不干渉の中立政策を取ったが、リバプールの造船業者は規則をすり抜け、南軍向けに強力な軍艦を造り売却した。フランスも大同小異だったが、特に1863年、ナポレオン政府の承認で南軍向けに軍艦を造船したとする情報が暴露され、アメリカ北軍政府公使の強硬な抗議に、ナポレオン三世は慌てて南軍向けの輸出禁止処置を取るというスキャンダルも有ったくらいだ。フランスの造船業者も、表向き支那やアジア諸国向けの軍艦と云ったようだが、その実アメリカの南軍向けだったのだ。

    こんな中の1艘が1863年、フランスのボルドーで秘密裏に南軍向けに建造されたユニークな戦艦・ストーンウォールだった。これはフランスでスフィンクスという船名で姉妹艦・ケオプスと共に造船されたが、この船は前方を厚さ4インチ鉄板で装甲し、喫水部分も3インチ装甲、船体は鉄・木・鉄のいわゆるアイアン・クラッド構造*、蒸気釜・エンジン2基、シリンダー直径30.5インチ、エンジン300馬力*、2組のスクリュー駆動*、巡航速度7.25ノット、最大速度13ノット、船体長さ52m*、幅10m*、排水量900トン*、11インチ砲1基*、5.5インチ砲2基*という仕様で、その上、船首の水中に長さ6m*の「ラム」と呼ばれる衝角を持った戦闘艦だった。まだほとんどの軍艦も木造船だった当時、大砲を撃ちながら敵艦に舳先から体当たりし、水面下にある衝角で相手の船腹に大穴を開け沈没させる戦闘艦だ。2組あるスクリューは夫々反対方向に回転し、且つ方向舵と共に独立して運転できたから、操船能力が格段に高く、敵艦に突っ込む操船を容易にする構造だった。海上封鎖突破には最適で、軽武装した商船でも、これに狙われたら最後100%沈没させられたはずだ。これは昔のローマやギリシャ時代の海戦で活躍した同じラム方式の戦闘艦の血を引く軍艦だが、軍艦方も同行した小野友五郎一行が、どこまでこの「ラム」の利点を理解してこの軍艦を選んだのか、「小野友五郎日記」にも見当たらず、筆者はまだ知らない。(筆者注:船の仕様・装備には諸説がある。上記中、無印は「小野友五郎日記」、*印は「Encyclopedia of the American Civil War」による。)

    この軍艦・スフィンクスすなわち後のストーンウォールは、ナポレオン三世の南軍向け輸出禁止処置により、1864年にステアコッダーという船名でデンマーク海軍所有になったが、その直後にフランスに返された後、また秘密裏に南軍所有となった。ストーンウォールは南北戦争の終結と共にキューバでスペイン政府に投降し、その後勝利した北軍すなわちアメリカ政府に引き渡され、ワシントンの海軍造船所に係留されていた。小野はこの現物を見て、備え付けの11インチ・アームストロング主砲をより大型の15インチ砲に置き換えたかったようだが、構造上困難なことが分かり諦めた経緯がある。アメリカ政府と商談が進み、海軍造船所責任者は、フランス製で自国製でないから性能確認の実働試験と修復を行うことを提案した。そして試験や手入れの後に買い取る合意が出来た。

    アメリカから帰国した小野は慶応3年6月28日、幕閣に会いアメリカでの顛末を報告したが、この頃はすでに薩摩、長州、芸の討幕挙兵三藩同盟が結ばれる頃で、2ヵ月後には朝廷から倒幕の蜜勅が出され、徳川慶喜が大政奉還を上表したから、政変の起る前夜だった。約束通り試験と修復が終わったストーンウォールはワシントンの海軍造船所を出発し、明治1(1868)年4月2日横浜に着いた。しかしこの時は、徳川慶喜はすでに謹慎して水戸に居て、江戸城も開放され、新政府軍が東北地方の鎮撫に向かう時だった。しかし未だ内戦の状況は不透明で、新政府から外国公使に中立解除要請を出した後だったが、アメリカのバン・バルケンバーグ公使は中立解除を受け入れず、横浜に到着したストーンウォールをどちらにも引き渡さなかった。なかなか中立を解かない外国公使たちに困った新政府は、10月も押し迫った頃岩倉具視が直接東北の平定を説明し、ようやく公使たちも状況を理解し中立解除を受け入れた。

    その後やっとストーンウォールが新政府の手に引き渡されたのは、明治2(1869)年の1月になってからだった。しかし、政府が入れ替わったゴタゴタで正式な引継ぎもなく、ストーンウォールが新政府に引き渡されると明治政府はアメリカの請求通りその経費の支払いをしている。小野友五郎の交渉・合意した上記の60万ドルがどうなったのか、筆者には分からない。

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    07/04/2015, (Original since March 2009)