日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

高川文筌、ペリー使節団のスケッチ

高川文筌は信濃松代藩の絵師であり、ペリー艦隊の来航時に幾つもの情景描写や人物画を描き、現在までも貴重な情報を提供した人物である。高川文筌は嘉永3(1850)年に松代藩医・高川泰順の養子になり、嘉永5(1852)年の泰順の死去により文筌が家督を継ぎ、信濃松代藩の御側医師になったという。文筌は武蔵国・所沢に生まれ、旧姓は三上、名は森嶺、諱は惟文、画号は文筌であり、通称が半蔵であったという。

文筌の絵は谷文晁について学び、その昔長崎奉行を務めた旗本・伊沢政義の家来として天保13(1842)年頃から長崎にも行った様である。伊沢美作守政義は浦賀奉行として第2回目のペリー提督来航時の日本側交渉団の1人であり、この旧主従としてのつながりが、高川文筌が樋畑翁輔(ひばたおうすけ)と共にペリーとの交渉の現場近くまで入り絵を描く事ができた第1の要因である。第2の要因は、松代藩が日本とペリー提督との交渉を行った応接所の警備を小倉藩と共に担当したという事実がある。こんな背景で伊沢美作守の医師として横浜応接所に自由に出入りする事が出来、林大学頭とペリー提督との交渉の席の近くまで行き、身近に観察し、スケッチをし、蒸気軍艦・ポーハタン号の機関室迄見せてもらい、画稿の作成が出来たのである。これに付き当時松代藩の軍議役として横浜応接所の警備に出ていた佐久間象山は、安政1(1854)年2月10日付けの手紙で、「浦賀奉行伊沢公より御頼みにて、御手医師頼み度き旨申し越され候に付き、文筌大悦び致し候」と書いているから、伊沢美作守から高川文筌を直属医師として派遣してくれる様に正式依頼があった訳である。日本側の首席代表・林大学頭もこれを了解していたという。

一方の樋畑翁輔は松代藩の能役者で、高川文筌とも親しく、絵は歌川国芳に学んでいた。横浜応接所の警備担当であった松代藩主・真田幸教の内命で藩医・高川文筌の薬篭持ちとして横浜応接所に入り、文筌と2人で画稿を作り、また松代藩の調役助として常時警衛の中にも出役していた。

更にこの時佐久間象山もまた藩主・真田幸教の内命で、高川文筌と樋畑翁輔や伊沢美作守の近習の仲間に加わり、応接所の広間に入り、象山いわく「図どり」を行った。これに付いては改めて、横浜に於ける 佐久間象山 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)の項目で記述する。

 日本食について、『ペリー提督日本遠征記』の表現とウィリアムズの記述
(典拠:「Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, etc., By Francis L. Hawks, D. D. L .L. D., Washington: A. O. P. Nicholson, Printer, 1856. (Vol. I)」、「A journal of the Perry Expedition to Japan (1853 - 1854) by S. Wells Williams, First Interpreter of the Expedition. Edited by his son F. W. Williams, 1910」

ペリー提督と日本側との第一回目の交渉が、安政1年2月10日、即ち1854年3月8日、横浜応接所で始まった。林大学頭は最初から、通商は出来ないが薪水石炭の供給はするし遭難者は救助すると言った。ペリー提督はこれに答えず、ミシシッピー号に死者が一人出たので埋葬地を購入したいと言い出した。日本側はこの希望にどう対処するか別室で協議に入ったが、このタイミングで大学頭は酒、果物とケーキ、スープと魚、等の食事の提供を提案した。すると、「ペリー提督日本遠征記」の表現いわく、

若し代表委員たちが提督と士官達と一緒になってパンをちぎりながら食べるのであれば、多くの他国と同様に合衆国では、友好の証拠だと考えるというのがアメリカの歓待という観念により良く合っている、とのコメントと共にこの招待は受け入れられた。日本人は、外国の習慣を知らないが、喜んで一緒に食べようと答えた。いったん彼等は全員が引き取ったが、しばらく後に二番目と三番目の位の人が戻って来て、すでに始まっていた食事に社交的な態度で参加した。高官の一人はコップに一杯の酒を注ぎ、一滴も残さず飲み干し、底を上向きに逆さまにし、招待主が始めに飲むのが日本の習慣だと言った。・・・
もっと暖かくなり次第日本の高官たちを喜んで自分の船に招きたいと言いながら、提督は出発の準備が出来た。日本側は喜んでその招待を受ける事を慎重に述べ、お辞儀をして退出した。交渉中に下位のアメリカ士官達は外側の大きな広間で飲食物を出して歓待され、江戸から派遣され、彼等の肖像画を描く日本人画家の遠慮もない力作を楽しんでいた。

この「江戸から派遣された画家」は勿論上述の高川文筌である。これに対し主席通訳官・ウィリアムズは次の様に記述している。いわく、

我々は他の高官が書類を検討している間、二人の高官にもてなされた。それぞれ異ったやり方で調理され、茹でた海藻で囲んだ二皿に盛られた魚とクルミ、細長く刻まれたニンジン、卵などが酒や茶、醤油、酢と共に出された。琉球の料理人が料理した物と同様に塩味だったが、料理は悪い味ではなく、私にとって新鮮なクルミの味が非常に満足だった。疑いも無くオランダ人から手に入れたマデイラ・ワインの入ったガラス瓶とグラスが出された。若しこの歓待が標準なら、今日の歓待費用は大きな出費ではなかったが、日本人の側から見れば良い気分だった事は明白だったし、去年の夏の会見に照らしてみれば非常な前進だった。
他の高官達が戻って来ると食事の席に誘われ、機械装置を彼等に向けて動かすとほのめかされるやいなや、終に招待を受け入れた。

以上の二史料を読む限りは、2月10日のこの食事は日本で最初に出された食事であり、しかも日本側はまだ別室でペリーから出された死者の埋葬と言う件に関する対応策を協議中と言う交渉中の食事であった。「ペリー提督日本遠征記」では情景描写だけで献立内容には触れもせず、むしろ「仕事中の食事はこんなものか」と言う感じで自然に受け止められたかの様に響く。しかし後日、和親条約を調印した日に出された日本側の饗応に付いては少し様子が違った。

最初の応接日から23日後の3月3日、和親条約の合意が出来て調印が行われた日、日本側は応接所で食事を提供した。この饗宴に付いて「ペリー提督日本遠征記」の表現いわく、

日本の交渉委員達は、この機会に提督と随行士官達を特別に準備した饗宴で食事を共にするため招待した。
応接所の大きな部屋にテーブルが準備された。それは腰掛に使われた物に似ていて広めの寝椅子程の幅で、同じ高さだった。テーブルは赤い縮み紗が掛けられ、招待客と主催者側の位に応じ、上席のテーブルは提督や上級士官と交渉委員達に相応しく、他の物より少しばかり高くしつらえられていた。全員が着席すると、従者達が素早く次々に、主に新鮮な魚が主要食材である濃く、むしろシチューの様なスープ料理を運び込んだ。これは小型のカップ状の焼き物の椀に入り、ほゞ14インチ角で10インチの高さの漆塗りのお膳に載せてあり、夫々の客の前のテーブルに出された。各料理と一緒に醤油か薬味が付き、独特な容れ物に入った日本の国酒とも言える米から蒸留したウィスキーの様な沢山の酒が食事中ずっと出されていた。各種の甘い菓子や多様なケーキ類が、テーブルの色々な物の間に自由に置かれていた。宴の終わりころ、焼きあがったイセエビ、何かの魚の揚げ物、二、三の焼いた海老、小さく四角い何かで作ったブラン・マンジェの様な硬さのプディング等が入り、招待客達が船への帰りに持って帰れるかの如くにした一人前の包みが各人の前に置かれ、帰ってから船に届けられ、確かに受け取った。
交渉委員達の饗宴は、招待客達に著しい好印象は与えなかったが、しかし客達は主催者側の好意に大いに満足させられ、その上品さと行き届いた配慮は、丁寧な扱いについてそれ以上望む事は何も無かった。しかしながら認めねばならないのは、招待客達は彼等の前に並べられた変わった献立のために、食欲の貧弱な満足しかなく退席して行った。ところで陳謝は彼等の宴会の習慣的な特色だと判明したが、食事の貧弱さの理由は神奈川で最高食材を入手する困難のためであると、陳謝の気持ちを述べられた事は事実である。ポーハタン号上で交渉委員達に提供された晩餐は、今回日本人により提供されたものの様な理由で、少なくともその量に於て勝っていただろう。これを一言で言うならば、一般的に日本の宴会は親切なもてなしに満ちていても、彼等の調理技術が好ましくない印象しか残さなかった。明らかに琉球人の方が、良い暮らし向きにおいて日本人より勝っている。

この様に、当日の日本食は満足できなかったと明確に書いているが、ウィリアムズはどう見たのか。以下にいわく、

条約は調印され正餐が我々に提供されたが、とても我々の期待に沿う物ではなかった。第一のコースは茶、結んだ砂糖菓子、スポンジケーキ。第二は生カキ、きのこスープ、茹で梨、茹でた後でケーキ状に押し固め帯状に切られた卵、砂糖で調理された海藻、生ショウガ、茹でたクルミときのこ、好みに応じたお燗付きと冷の酒。第三は煮た鯛、大型イセエビ、海老、魚の刺身、青野菜入り豆スープ、刻みのり、野菜、茹で筍と玉ねぎ、長芋と見た事もない野菜。第四は魚スープ、長芋、赤い文字で長寿と入れたブラン・マンジェ、茹で栗、更に良く分からない物が一つ二つあった。全体的に首里で出された正餐には比べようもなく、疑いも無く江戸か神奈川ならもっと良かっただろう。

ウィリアムズも日本の食事は期待以下で、首里で出された琉球料理の方が遥かに、比べ様もないほど良かったと書いている。筆者は当時の料理を見た事も食べた事も無いから何とも言いようがない。伝統的な本膳料理には料理を並べる位置や食べる順序にまで形式を重んずる文化があったと聞くが、旨いと思う料理で満腹になりたいアメリカ側とは、食文化に大きな違いもあった様だ。しかし、当時の食材や味付けや調理法が今も日本料理の伝統に残っているとすれば、現在の日本食が世界中で歓迎されている事実から見て、世界の食文化の移り変わりを感慨深く思わざるを得ない。

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01/01/2021, (Original since 01/01/2021)