日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

高島秋帆の嘉永上書
(嘉永6年10月、江川太郎左衛門宛)

 高島秋帆

長崎の町年寄りの家系に生まれた高島喜平・秋帆は、文化5(1808)年の「フェートン号事件」以来出島砲台の受け持ちを命ぜられていた父の代から続く荻野流砲術師範になり、他の流儀の事情も研究していた。長崎は、豊臣秀吉が天正16(1588)年4月2日にイエズス会の支配を排して直轄地にし、長崎代官の後に長崎奉行を置き、徳川家康の江戸幕府に継承された。当時長崎奉行は5組の地役人を支配し、長崎市政は町年寄りに責任を持たせ自治を行わせた。町年寄りの自治は合議勤番制で、各町の乙名以下通詞を含め諸役を支配した。従って長崎の町年寄り達が、町の自治を始め出島のオランダ貿易や支那貿易まで実質的に支配していた様である。町年寄り達はこれらの遂行責任と共に、町人ではあるが名字帯刀を許され、家禄として貿易利益の配分を受け、扶持とお役料が支払われたという。

文化5(1808)年の「フェートン号事件」の後、幕府派遣の与力等が長崎に来て大砲を鋳立てたが試射で割れてしまった。そこで高島家に新規に唐金(筆者注:青銅)鋳立てが命じられ、完成した大小数挺の大砲を設置した事があった。文化8(1811)年には長崎奉行により組の者の鉄砲稽古が命ぜられ、翌年には希望者に荻野流砲術を指南するよう命ぜられている。そこで高島家では的を目がけた鉄砲の角打ち、春秋の大砲玉打ち、火矢打ち(筆者注:周囲の溝に火薬を埋めた樫棒に鉄製の矢じりと矢羽を付けた矢を大筒で発射する火器)、陣形を作って発砲する備え打ち、等を毎年稽古した。また文政6(1823)年には唐人屋敷(筆者注:長崎の支那人住居地区)前の砲台も高島家に預けられている。

出島出役であった高島秋帆は、毎年オランダ船が長崎に到着すると、役目上その滞船中は毎日自由に出島に出入りしていた。そして高島家は出島砲台の受け持ちでもあったから、出島に入ると何時もオランダ人との接触があった。こんな背景から、「外国防禦には外国の仕法で」と考える高島秋帆は、機会あるごとに出島でオランダ人から西洋流大砲やその運用についての話を聞き、小銃などもその打方、取扱い方、隊伍編成、等を実際に見せてもらった。

この様に自ら荻野流砲術師範であり、出島や唐人屋敷砲台を任された責任者であり、長崎港守備の一部の責任を持ち定期的な稽古をする秋帆は、西洋流砲術や大砲や小銃を扱う人員の西洋流運用などの情報を出島のオランダ人から聞き、私財を投じて専門書をオランダから取寄せて考究し、何門かの大砲もオランダから取寄せ運用の研鑽を重ねていた。特に文政6(1823)年7月6日に医者のシーボルトを連れて赴任した新商館長・スチュルレルは本来陸軍大佐で、砲手として陸軍に入った砲術専門家であった。秋帆はこの西洋流大砲の権威者から多くの教えを受けた事は間違いなかろう。

 高島秋帆の中追放

この様にして収集蓄積した西洋流に自己の工夫も交え、天保6(1835)年には荻野流と西洋銃陣が含まれた「高島流砲術」が完成したという。その後に高島流と西洋銃陣と呼ぶようになったというが、その流儀の趣旨は、「砲術は人を多く殺すというのを貴しとする。即ち多殺の術を以て不殺の用をなさんとするものである。これを神武という。予の術を学ぶものは宜しく重厚慎勤にして、切に問い深く思い、未だ危うからざるに習い、未だ乱れざるに備え、常に以て軍威を張り、寇(あだ)をして萎縮せしめ来り侵すを得ざらしむべきである。」(『高島秋帆』、有馬成甫、吉川弘文館)というものであった。

そのような中で天保11(1840)年6月オランダ船が長崎に入港し、広東においてイギリスと清朝の武力争いが始まり、清朝の劣勢と言う情報を伝えた。これはイギリスの大砲28門と大砲18門を備えた帆走軍艦2艘と清朝の多数のジャンク船との2回に渡る戦闘で、九竜沖と珠江口(川鼻)における海戦である。何れもイギリス砲艦の一方的な勝利で、大半のジャンク船が損傷を受けたり沈没したりした。同じ情報を唐船からも確認できた秋帆は、オランダ人から聞いていた西洋式砲術の大発展の様子や自らの経験から危機感を募らせた。殊に大国の清に比べれば全くの小国であるイギリス側には1人の死者もなかったこの海戦は、「全く平生所持の武備による」もので、イギリスは勝利を確信し簡単に軍艦を出したが、これに比べて清の砲術は児戯に等しいとオランダ人から聞いていた通りだと思ったのだ。日本も清とあまり違わない貧弱な状況に多大な危機感を抱くと共に秋帆は、天保11(1840)年9月、新式砲術の採用と沿岸警備体制の改革を、長崎奉行を通じ幕府に建策した。「何卒モルチール筒ならびに近来発明の筒これあり候に付き、これらは急度御備えにも相成り申すべく存じ奉り候間、江戸表へ御備え等に成し置かれ候ては如何御座あるべく候や。かつまた諸国海岸の御備え向、長崎表御両家御備えの様子にて、粗(あらまし)推量仕り満腹の愚意御座候へども・・・」と新技術の大砲を紹介し、設置を推奨している。

この建策書を見た幕閣は目付に廻し諮問したが、「唐国敗亡の事は、敢えて火砲の利鈍によるばかりとも存ぜられず候。・・・元微賤の者、褊小の見識より出づるところにて、一切御採用には相成らず候」と、評議した目付の代表者・鳥居耀蔵は、唐国は火砲の貧弱さばかりで負けたとも思えず、この身分の低い者の狭い見識から出た建策は相手にもならないと幕閣宛に答申し、或いは火砲に新しい発展もあるかも知れず専門家に見分させた方が良いと推奨した。これに依りその所有の鉄砲や大砲を含めて高島秋帆を江戸へ呼び出し、天保12(1841)年5月9日、武州徳丸原で見分のため、高島秋帆の実演が行われた。この際幕閣は、秋帆の長崎貿易会所の運営改善等への功績としてその身一代限り七人扶持を与え、高島秋帆を諸組与力格として新規に召し抱えた。そして会所調べ役頭取にも任命した。秋帆の江戸に持って来た大砲2挺は幕府が買い上げ、実演手当として銀子二百枚を与え、幕臣1人に砲術を伝授せよと命じた。

こうしてすでに秋帆に入門し免許皆伝になっていた韮山代官・江川太郎左衛門なども中心の1人になり、入門者も増え「高島流砲術」が注目を集めるが、恐らく秋帆にとっては青天の霹靂ともいう災難が降りかかる。天保改革を行う老中首座・水野忠邦の下、南町奉行に昇進していた元目付・鳥居耀蔵は、天保13(1842)年初めに5カ条の罪状を以て高島秋帆を告発した。水野忠邦の諮問に評定所は、鳥居の申し立ての如く直ぐに秋帆を吟味すべしと答申したが、この5カ条の罪とは、永年私財を投じた西洋銃器購入と訓練は謀反の下心に基づく、秋帆の長崎住居は城郭である、会所の金で兵糧米を購入し貯蔵している、密貿易を行っている、密貿易用に早舟を所有する、というものだった。同年9月新しく長崎奉行として赴任した伊沢義政は検挙を開始し、10月初め高島秋帆やその息子、手代や関係する通詞を拘束し、秋帆は江戸・伝馬町の牢獄に収監された。

老中・水野忠邦が大名や旗本の上地令反対など困難な天保改革に行き詰まる中、鳥居耀蔵の意図的な機密情報流出に足をすくわれたと言われる水野忠邦は、天保14(1843)年閏9月13日に罷免され失脚した。しかしその後将軍・家慶は自ら罷免した水野忠邦を国際外交問題に対処するためと称し、9ヵ月後の弘化1(1844)年6月21日、再度老中首座に再任した。老中主座に返り咲いた水野忠邦は早速、自分を裏切り、その後も南町奉行であり続け勘定奉行も兼任していた鳥居耀蔵を職務怠慢と不正を理由に9月に解任した。その後老中首座・阿部正弘の下での吟味で鳥居は有罪とされ、全財産没収の上、最終的に讃岐丸亀藩主京極高朗に永預けになったという。

さて一方の高島秋帆は、天保14(1843)年2月に江戸・伝馬町の牢獄に収監されて以来鳥居耀蔵による厳しい直接の取り調べを受けたりもしていたが、上述した幕閣内の政治的混迷の中、最終判決には至らなかった。再度老中首座に再任されていた水野忠邦も弘化2(1845)年2月辞任し、2月22日、老中首座は阿部正弘になった。この頃から再度阿部正弘体制の下で広範囲に及ぶ高島秋帆の再吟味が始まり、弘化3(1846)年7月25日判決が言い渡された。判決の老中申渡し書曰く、「遠島申すべき處、牢屋敷近辺出火の節放ち遣り、立帰り候に付き、中追放申し付け、安部虎之助(武蔵国岡部藩主)家来に引き渡し遣わす。」というものだった。出火の際に解放したが、その後自ら牢獄に戻ったので罪一等を減じ、中追放にするというものだ。判決理由は、当初鳥居耀蔵が謀反の罪で告発した5カ条の罪状は何もなく、身分の異なる婚姻、会所内の指示間違い、内願と贈賄、人事上の黙認、等むしろ軽微な罪状によるものだった。南町奉行・鳥居耀蔵の告発に始まるこの一連の長崎事件の判決で、一番の重罪は鳥居耀蔵自身へ下された「永預け」即ち讃岐丸亀藩での終身禁固刑である事実は非常に示唆に富むものではある。しかし高島秋帆もまた罪を受けた理由は、或いは長崎貿易と長崎会所の引き締めと言う意味も込められたのかも知れないが、筆者には良く分からない。

 高島秋帆の赦免

嘉永5(1852)年8月17日に新商館長・クルチウスから提出されたオランダ国王の言葉を筆記したと言うジャワ東印度総督の公簡や、嘉永5(1852)年の別段風説書等によってオランダから伝えられていた様に、嘉永6(1853)年6月3日、終にアメリカのペリー艦隊が浦賀に来航した。両方の情報が伝えた通り、2艘の蒸気軍艦を含む大砲を満載した4艘の黒船艦隊だった。ペリー提督は久里浜に上陸してアメリカの国書を日本側に渡し、来春また返事を受け取りに来ると伝え、6月12日にいったん退去したが、その後ほぼ1ヵ月も経った7月18日、今度はロシヤのプチャーチン提督も通商を求めて長崎に来た。

次々と日本に押し寄せる大砲満載の黒船に老中首座・阿部正弘と幕閣は大いに慌て対応策を協議したが、過去に例を見ないほど急速に、嘉永6年8月と9月の2ヵ月ほどの間に大砲の鋳造、内海台場の建造、大船建造の許可、洋式火技の奨励、オランダへの兵器と軍艦の発注等々、矢継ぎ早に幾つもの方策を決定した。この中でも最も早い時期の対応策の一つとして、嘉永6(1853)年8月6日、幕閣の指示で大目付・堀伊豆守宅へ高島秋帆を呼び出し、中追放を赦免し、江川太郎左衛門の配下とし、砲術御用を仰せ付けると通告したのだ。7年前の弘化3(1846)年7月25日、自らの体制下で高島秋帆に中追放・岡部藩預けという追放拘束罪を着せた老中首座・阿部正弘が、秋帆が警告していた事態が発生するや、手の平を返した如くに無罪放免にしたわけである。嘉永6(1853)年6月22日に病のため薨去した将軍・徳川家慶の大赦を見込み、秋帆の門人である韮山代官・江川太郎左衛門が8月4日、若しも高島秋帆赦免の場合は引き取りたいと老中宛てに内願書を出したが、それが幕閣に届いた時には既に高島秋帆の赦免と行き先、待遇が決まっていたのである。それ程に幕閣は、炸裂弾をも発射できる10インチ口径のペキザン砲等の新型大砲をも満載した4艘のペリー艦隊の黒船を見て、高島秋帆の研究した洋式砲術の必要性を痛感したのだった。

ペリー艦隊が退去して1ヵ月半も経つ頃の8月2日、幕閣による江戸内海の砲台築造案が決定され、勘定奉行や海防掛けに詳細計画の立案が指示された。勘定吟味役格になっていた韮山代官・江川太郎左衛門が技術的中心になり、台場は品川に11か所を造り、設置する大砲も江戸近辺で鋳造する内容が決まった。赦免され江川太郎左衛門の配下になった高島秋帆も当然、江川の下でこの緊急大計画の実行に従事する事になった。

時間的に少し先走る事になるが、その後秋帆は安政2(1855)年に普請役になり、御鉄砲方手附教授方頭取になった。やがて安政3(1856)年3月に講武所が出来ると講武所砲術教授になり、更に同年11月25日、老中・阿部正弘は秋帆に次の様な賞辞を与えた。いわく、

高島喜兵衛、
右喜兵衛儀、壮年の節より西洋炮の利辨を発明いたし、格別執心熟達におよび、下曽根金三郎、江川故太郎左衛門へ伝授いたし、夫々教授方行届き候より、当節一般に相開け候段、全流祖とも申すべく格別の功業に付き、格別を以て新規召抱えされ、御扶持方拾人扶持下され、諸組与力格、太郎左衛門手附申渡され候。尤も務方の儀、諸事是迄の通り相心得成され、御手当も其の儘下され候。右は阿部伊勢守仰せ渡され候間、之を申し渡す。

これで過去の苦労が全て清算され、特に「当節一般に相開け候段、全流祖とも申すべく格別の功業に付き・・・」と、「火技中興洋兵開基」と称される様になったのだ。

 高島秋帆から、嘉永6年10月、江川太郎左衛門に宛てた上書
筆者注:熟語はそのままに口語体に直し、歴史記述その他に省略部分あり。)

こんな背景で、天保13(1842)年10月初めに長崎で拘束されて以来11年ぶりに自由の身になり、江戸の江川太郎左衛門邸に落ちついた高島秋帆は、嘉永6(1853)年10月、江川太郎左衛門に宛てた上書を提出した。いわく、

去る卯年(筆者注:天保14年、1843年)以来度々異国船が渡来し交易を願い、当年もアメリカ、ロシヤ等が浦賀や長崎に来て何れも交易を願ったと言う風説があります。公辺に於いても憂慮され、台場の築造や大砲の鋳造を始め海岸防御掛りを命ぜられた事等は誠に有難く、誠忠を盡すのはこの時と思っています。微賤の私共が愚見を申し上げるのは身分に出すぎた事で、殊に多年幽閉の身で世間の事情や当時の形勢をも理解せず、勿論機密情報など窺い知るべくもありませんが、風説では春二、三月頃戦闘が始まる等と聞きます。これは国家の安危に係り、心中の不安をそのままにする事も出来ず、ご採用願える良案を申し上げる事も出来ません。ただ多年オランダ人を応接した中で西俗の情態を聞いていて、普通の談話ではありますが、その中に玩味する事もあるかも知れず、お伝え致します。交易願だけなら干戈を動かさないとは思われますが、一旦兵端が開かれると必ず国内でも混乱になりますので、彼を我が方のペースに巻き込み、国民が糜斕(びらん=非常な疲弊)の禍を免れる様に致したく、若し忌憚に触れる事があれば是非お許しを願い、心中を残らず申し上げます。

一、天保年間に出島商館長になったニイマンに新しい世界地図の前で聞いたが、支那は大国で土地は豊腴(ほうゆ=豊かに肥えている)であるが、人は遅鈍であると言う。ヨーロッパが唐国を3年弱で侵伐(しんばつ=他国の領地に攻め込む)し我有するは易き事であるが、大きすぎて一国で永久に保持する事は出来ないとも言った。その後三、四年でアヘン戦争が起こり、その後長崎に来た唐人共が言うには、水陸とも一戦の勝ちもなく全て敗衂(はいじく=戦いにやぶれる)のみだと言う。この原因は、全て火器の貧弱さで敗衂(はいじく)を被ったのである。
明国を併呑した清国は康凞帝(こうきてい=康熙帝)が造った大砲を戦闘に使用し勝利したが、その後太平になり研究を止め、イギリスの砲陣に敵対できなかった。遂に和を乞い、金を出し、国を削られ、居ながらに降を乞う事になった。然るに我が国の火砲の術は文禄の朝鮮の役(筆者注:天正20(1592)年〜文禄2(1593)年)で伝わり、その後の昇平の中に開発されたので未だに戦場実地の経験が無く、戦場の便否には貪着していない。
ニイマンが話した時はアヘン戦争の前だったが、アヘン戦争の結果は、兵事の専門家でもない彼が話した事と違う事は何もなく、非常に不思議である。しかし西洋の習俗(=風習)は無事の時にも常に勝利する理を考究していると聞いているから、ニイマンでも言下に答えられたのだ。
これは日本に対してもどんな工夫をしているかも知れず、短兵接戦に長じていると見れば必ず砲陣や陣制も改め、勝算を握る事を第一に考えているだろう。敗衂(はいじく)は油断から生まれる。刺撃の術に長じ火縄銃で掛け金を撃ち落とせても夷狄の砲戦に対して万全ではなく、砲陣や大隊に対し勝算がある所まで詳明にした上でなければ合戦にならない。

一、日本は独立国であるが、彼を防ぐにはそれなりの防具を設け、彼の十倍の兵力が無くては安心できない。命を捨てる事は容易であるが、それで勝軍に成れると言う保証はない。戦艦諸器が整った上では十分鏖戦(おうせん=激戦)をすればよいが、台場のみの陸地に長蛇の陣を敷き四芸に長じた勇者が守っても、異船よりの砲撃がその堅陣を打ち砕く時は全力を出しても全く敵わず、勇士が空しく拳を握るだけである。水軍の戦器が十分でない今重要な急務は大砲であるが、大砲を造っても熟練者が甚だ少ない。ヨーロッパ人とは未だ一戦の経験もなく、今我が太平不錬の時に西洋の水陸戦法に長けた彼等と戦っても勝ち目は無く、どうか四、五年の間は戦いをお見合わせ願いたい。

一、オランダ人が酔ったり怒ったりした時に見せる態度から諸国が憤怒を抱いて居る様にも聞こえ、兵端が一度開かれると諸国が加勢の兵を出す事は彼等の習いだから、兵端が開かれることを願っている様にも聞こえる時がある。どうか慎重にお願い致したい。

一、来年渡来のアメリカ船を一戦にして殲滅し捷軍(しょうぐん=勝軍)になり、そのご武威に畏縮し、再度の覬覦(きゆ=野心)を断てれば良いが、アメリカが負けても諸国から加勢の兵を出す事にでもなり、アメリカ一州だけでも広くイギリスを凌ぐ大変な強国であり、ロシヤやイギリスから軍艦を出し本邦の諸所を衝く時は手に余る。そして必ず長期戦になるから、鉄砲や大砲があっても日本の火薬は一年と持たない。火薬は海防上第一に必要な品で、オランダでは平常から多量の蓄積がある。急いで硝石丘を造らせ、二、三年分でも硝石を蓄える事が急務である。

一、一戦もしなければ彼の兵威を懼(おそ)れ、弱みを見せ、国威が衰え、恥辱になるという意見もあるが、兵道はただ最終的に勝つ事を要道とする訳であり、そこに至る曲折は時によるもので、戦いの時期を延ばす事も籌畫(ちゅうかく=計略)の一つである。いわゆる、「避其鋭気撃其惰歸、不戦而屈人兵者也(その鋭気を避けてその惰歸(だき=昼の気と暮れの気)を撃つ、戦わずして人を屈す、兵者也)」(筆者注:前半は「武経七書・孫子」にある)は古い事ではあるが、今適用すべき時である。
清国の敗北に意を強くして我が国の好まない交易を願い、その成否に従い、或いは我より兵端を開く事を希望して遂に戦争に及び、略奪しようとしている。その憎しみに堪えられず我より手を出せば彼等の術中に陥る。一度合戦が始まればそれで決着すると思いがちだが、そうではなく、早くとも四、五年は休息できない。そうなれば硝石は勿論食料もどうなる事か、三年の貯えがある所は無いであろう。夷狄は夷狄を防ぐ術が無くてはならず、水戦になれば城攻めとは違い空しく我が兵を失う可能性がある。何卒全備が整うまで対戦を延して頂きたい。
一戦の後に兵を紓る(ゆるめる=引く)様な事になれば国体を失う以外の何物でもない。彼ら西夷の砲術、陣列、戦法は皆一流で、戦闘の都度その後で反省をし非を改めるから、命令も良く行き届き、万人一心とも言える状況にある。神武の御国では国家の安危に係る時は別にして、ただ自己の門戸を争い、身の利害で可否を決め、見解も種々あり、諸事研究は行き届いていない。本邦の陣営は数百の旗を立て夜は数千の灯篭を懸け軍威を示し、軍艦には旗や吹貫き弓鉄砲槍などを備え付けた列船厳整の形勢をオランダ人に言わせれば、表では感心するとは言うが、裏では、旗や灯篭は大砲放射の照準の便になり、列船陣形をなす船に一発の玉を受ければ全員が沈没してしまうし、弓や火縄銃は未開の国だと嘲笑している。台場の製や大礟(砲)台の製について見聞きすると本邦は有用を捨て無用を飾り、実用に力を尽くしていない等と、秘かに冷笑している。旗灯篭で勢衆を示し軍威を張るのは、孫子や呉子の時代の火器のない時の策である。只今では遠く隔てていても砲丸が飛んで来たり、遠眼鏡一本あれば敵の虚実や衆寡が分かるから、刺撃の術に優れて勇猛であっても水戦になれば勝算を定め難い。彼の軍艦には猛烈な大砲を数十門備えているが、我が水戦法は百石積の船に五百目筒が限度などと教え、これで異船の厚薄も分からない胴を貫く力を試しもせず、ただ術者の考えだけである。何時でも合戦が出来る用意があれば、たとえ交易を許しても、何時でも差し止める事が出来る。何分兵端は開かずに取扱い、合戦の準備は四、五年待ち、その上でご英断を下される様に致したい。

一、蕃夷が交易をするのは彼の国の習俗であり、各国民を撫育するためで問題はないと手軽に考えるべきである。わが国の詳細を知らず、ただ有る物を与えない様に思って憤怒を抱く。遠洋を乗り渡って交易するには、利益が出る品との交換が無ければ出来ない。オランダには銅を渡すから来航するのであって、渡さなければ来なくなる。
しかしアメリカやロシアに交易を許すか許さないかは本邦の治乱の両端にかかっている。現在は昔の夷狄ではないから、小事から大事になり、大変な事になると密かに心配している。若し彼の願いの通りに許さなければ、恐らくそのままでは済まず、必ず兵端を開き永遠に手当てせねばならず、不辜(ふこ=罪もない)の生霊を水火の中に陥れ、国家の安危に係る。
交易は利潤の出ない品だけでは引き合わず、先方から撤退する。我が国にはこういう品しか無いと伝えた後に、それでも交易したいと言うのであれば先ず仮に許し、三年ほど商売をして見れば損益も分かり、先方から撤退する。本邦に於て国内の諸国が交易を好まないという事は無いが、日本は小さく舶来の貨物が国中で使われる量も限られ、日本の産物も限りがあり、交易縮小以外に無くなる。まず仮に三年許すと伝え、その間には海備も整うから交易差し止めも出来る。しかし、夷狄と合戦を行う事は国家の損害で、長期的にも上策ではない。

一、この様に仮に交易を一国に許せばその他の国も願い出て許さざるを得なくなり、そうなれば際限も無く、本邦の膏腴(こうゆ=肥えた土地)は彼に絞り上げられてしまうと言う意見もあるがそうではない。一国に許せば諸国から願い出る事は当然であり、そうなれば尚更良い事であるが、これで外国から来る莫大な荷物を国中で使う事が出来なくなる。買う人がいなくなれば潰荷(つぶれに=売れない荷物)となり、値段が下がり引き合わず、持ち帰る品もなくなる。彼がこの状況を合点すれば、渡来せよと言っても来なくなる。商売は取締まり方法如何であり、それを定めて置けば懸念する事もない。

一、異国互市については識者の議論もあるが、商売の方法も理解せず、ただ銅を渡さねばならないから我が有用の品を無用の品に変えるものだと思っている。銅を渡すのはオランダに対し本方荷(もとかたに=会社荷物、筆者注:オランダ貿易の脇荷に対する本方荷)と呼ぶものにたいして渡すのであって、時計、ガラス器、玩物の類は脇荷と呼ぶ加比丹始めの私商売で、無用の品を渡している。人命を救う薬種類は専ら脇荷の中にある。唐国とは本売(もとうり)と呼ぶ国の必要とする薬種等で、珊瑚、時計、玩物は別段売りと呼び、唐人の私商売で、我が無用の品を渡している。オランダは交易主になったわけではなく、彼の地方の動静を申し上げるのが(筆者注:風説書の提出)第一のご趣意であり、銅を海外に出すのも本邦を大切に思召され万民を救う有難い仁政の為である。どうか干戈を汚さず長く平穏になる様致したいものである。

一、唐、オランダへ渡すものは銅を除けば全て無用の品である。彼の国(筆者注:アメリカやロシヤ)より持って来る諸品が判明すればその中には必ず国益になる品も有ると思われるので、国用になる品を持ってこさせ無用の品を渡せれば良い交易になる。三年ほど試しに交易を許し、彼の方から渡来を止めるまで許していても害にはならない。アメリカ、ロシヤの交易で持って来る品によっては国益も増し、国中の融通にもなり、国中で産出する諸品を渡せば庶民の生計の基も増加する。殊に薬種類は舶来の数量が少なく格別に高価であるから、貧民は容易に服用も出来ず、空しく生命を失う事も少なくないので、万民を救う御仁沢ともなる。聊かも通親を好むわけではなく、一応明細に商法に取り組んでみるのも国家の盤石の安定を保つ事になろう。若しまた知術で彼等を欺けば、言語も通じない夷狄の事だからどの様にも出来ようが、それは一時の術であり、かえって憤怒を増し、必ず兵を使って怨に報いる様になり、騒擾になる。府内近くと言えども恐れ憚る事もなくなり、兵端を開く事は容易ならない事である。

一、米穀を密かに夷邦へ売っている商人がいると言う風説が先年より絶えず、今もってその噂があるが、その事実の詳細は不明である。内密であっても表向きであっても国内の米穀が減ずることには変わりがない。表向き異国に売れば密売は自然になくなり、取り締まりも出来る。若し米穀を買いたいと願うなら、一、二艘に積める石数は高が知れているから国用に差し支える程でもなく、渡しても差し支えないと思われる。蒸気船等の敏捷な船をお造製になるのなら、万一凶作で国用の不足をきたせば、唐国へ派遣し購入する事も出来ましょう。

一、風説では石炭を懇望するとも聞くが、欲しい数量が不明でその量にもよるが、九州やその他の地方で出産する。本邦で蒸気船を製造するからには石炭は必要品であり、惜しいとは思うが、交易方法を最初から取り決めて置けば何時でも差し止められる。是非にも欲しいと言うのなら、当分の間渡しても差し支えないと思われる。こんな貴重品を渡すのなら、彼から取り寄せる品も国用第一の品を取寄せるべきである。

一、外夷との交易に付いては後殃(こうおう=後の禍)計り難い等と言う懸念を示す者も居るが、二百年前には本邦でも開明期ではなく、高貴の人にも耶蘇宗門の信仰があり、所謂上の好みで、愚民が迷うのは当然であった。その上愚民を扇惑し兵を用いずに併呑を図ったのは彼(筆者注:16世紀当時のポルトガルやスペインを指す)の上策から出たもので、我が知恵不足、我が不調法であった。イスパニヤ人が呂床国と通商をし、現地の兵が弱いので奪い取ろうと計り、黄金を貢じて牛革の覆う程の地を借り、終に国を奪った事などを指して異国通商を嫌う説もある。これは結局その国が愚かで弱兵だったのであって、この様に欺罔(ぎもう=欺き騙す)されても本邦は武勇多智であり、彼の謀計に陥る事はない。
先年より兎角妖法妖術などを恐れる事も耳にするが、一つもその実績は無く、妖術を使って勝ちを制し人の国を奪う事が自在に出来るものなら、戦艦や火器に億万の資財を費やし護衛の術を撰び、武備を怠らない様にする必要はない。有用の銅を海外に捨てて来た様に見えても、異国通商をして来たので昔に比べ医術その他諸物が開け国益になっている事も少なくない。蘭学は全て芸術に係る書だけであり、術に関するものは昔より華夷の差別なく善いものは取り入れて来たが、城堡陣営の製もこんな群芸の一部である。外夷の諸術が本邦に開ける事は第一の国益になる。
外寇防御は現在だけでなく億万年の将来共懈怠(けたい=怠惰)なく忘れてはならない事である。戦艦の製、火器の術、陣制、戦法も彼と同じなら、彼らが資金を投じ、遠洋を凌いで来襲する事は彼等の損になり、彼らに覬覦(きゆ=分不相応な事を希望する)の気持ちは無くなるから、これが防御の秘訣である。
本邦の人情は他に学ぶ事を恥とするが、彼らは他に学ぶ事は国家に尽力する者として感賞(=感心し褒めたたえる)される。彼らは諸国を航海し、良いものがあれば取り入れ自国の不足するところを補う。交易の利潤をむさぼるのも富国強兵のためが主意で、旧習に固着する習俗ではなく、他に学ぶ事は少しも恥と思わず、かえって他に学ばない事を固陋(ころう=古い習慣や考えに固執し、新しいものを好まない)と侮るくらいである。未聞用夏変於夷(筆者注:夏をもって、未だ夷に変ぜらるを聞かず。孟子・滕文公上の「吾聞用夏變夷者,未聞變於夷者也」からの、夷を意味するための省略引用)の夷語を良く話す者もあり、夷語を話すのは諸国の武備に係る事は勿論、何事も廣く探索し聞いて置きたいと言う意味である。
本邦で不慮の場合の備えさえ整っていれば、どんな異船が渡来し商売を許しても後年の患はなく、我の寛大を示し彼を容れ、試しに三年ばかり仮に交易を許し、若し不都合なら何時でもその時に差し止める。無用の品を渡し有用の品を取り入れ、殊に彼の強弱を知る一術ともなり、なお交易に利益が出て少しでも海防の必要経費に追加できれば、警衛はいよいよ手厚く行き届く様になる。
交易を許したとしても御国体に係る様な事は無いが、万一兵端を開く様な事態にでもなれば全く不容易な事で、これらに関しては多年密かに憂懼(ゆうく=心配し恐れる)を抱いて居た事であり、身分を顧みず心に浮かぶまま書付を以て申上げます。以上。
   丑十月
高島喜平      

以上の様に、今の時点で戦争をすれば勝ち目はない。アメリカの要求通り三年ばかり仮に通商を許し、開国をして様子を見るべきである。その間に武備を整備し、彼等と同等の武力を持ってから貿易の方向を定めるべきであると上書したのだ。戦争に勝ち目はないから開国以外に無いと、堂々の正論であった。更に、「なお交易に利益が出て少しでも海防の必要経費に追加できれば、警衛はいよいよ手厚く行き届く様になる。」とさえ述べている。当時、貿易から出る利益で防衛力を高めよう等という発想があったのだ !!

本文の「3、通商条約と内政混乱」以降に引き続き記述する様に、開国後に徳川幕府は日本国内の世論を統一できず、尊王攘夷の嵐の中で自ら大政奉還をし、政権が入れ替わって行く事になる。高島秋帆が上書の中で、「兵端が一度開かれると諸国が加勢の兵を出す事は彼等の習いだから・・・」と繰り返す様に、朝廷にすり寄ろうと一旦幕府が考えた「横浜鎖港」に対抗するイギリスを中心とする条約国は、連合した4カ国軍艦で元治1(1864)年8月5日に下関砲撃を始めたり、慶応1(1865)年9月16日に連合した4カ国の軍艦を兵庫沖へ派遣し朝廷の条約勅許を求めたりと、軍事力を使った連携行動で幕府を苦しめた。10年以上も前に高島秋帆は、実際に日本に対して行われたこんな外国の連携行動まで見通していた訳である。

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08/15/2020, (Original since 08/15/2020)