日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

アメリカにも伝わっていた「天保の薪水給与令」

 オランダ駐米代理公使から国務長官宛ての書簡
(典拠:32d Congress, 1st Session, SENATE., Ex. Doc. No. 59.)

江戸幕府の法令をまとめた『徳川禁令考』によれば、天保13(1842)年7月23日、江戸幕府は文政8(1825)年に発した「外国船打払令」を緩くし、文化3(1806)年の「文化の薪水給与令」に復し、警備を厳しくすると同時に食料薪水が欠乏した者にはこれを与えて帰帆させるよう、「異国船打払之儀停止御書付」という件名で新規法令を出した。これは一般に「天保の薪水給与令」と呼ばれるが、日本がこの様に規則を変えたという情報は、1851(嘉永4)年4月30日付けの駐米オランダ代理公使・テスタ男爵からウェブスター国務長官宛に出された外交「口上書」によりアメリカ政府に知らされた。この書簡と口上書いわく、

フィラデルフィア、1851年4月30日
国務長官閣下、
拝啓、我が政府から受領した命令により、合衆国政府に対する、日本から外国人を排除する制度の継続に関する口上書を同封申上げます。
この機会に私自身が国務長官閣下のお役に立てる事を熱望し、私の最高度の敬意を再確認しつつ。敬具。
FLS・テスタ
ダニエル・ウェブスター閣下
      国務長官、ワシントン
「口上書翻訳」

日本帝国政府により日本から外国船が排除される事は悪評高い公知の事実でありす。それにもかかわらず1842年に、若しその様な船が嵐により日本の海岸に吹き寄せられたり、水や燃料用の薪などの品々を求め、供給を必要としてそこに上陸した場合、要求次第そんな物品は給与されると決定されました。
しかしながら、人道的信念に鼓舞されたこの決定が何か間違った解釈をされないかと言う恐れから、日本政府はオランダ政府に、上述の決定が違反しないよう、即ち、日本政府により二世紀以上も前に導入され、導入以来如何なる外国船も日本沿岸を探索する事を禁止し、常に実施されて来た隔離と排除にどんな変更も意味しないよう、その他の国にも伝える様に懇請して来ました。
殊に日本政府がこの種の通達に他のいかなる手段も持ち合わせていない事から、オランダ政府はこの要求に応えるに何の異議もなく、オランダ公使館はヘーグの内閣からの指示に従い、貴国政府への情報として、名誉を持って上記の事実を合衆国国務長官閣下へお伝え致します。
1851年4月30日

江戸幕府の通達後ほぼ9年弱も経ってアメリカ政府に伝えられたこの「天保の薪水給与令」は、幕府の発令後しばらくして幕府からオランダ出島のカピタンへ通達されたものだ。後にこれが上のオランダ政府からアメリカ政府への「口上書」につながったものだが、いわく、

カピタンへ申し渡すべき旨書付(筆者注:日付け不明。天保13年8月頃か)

異国船日本の沖合へ渡り来るの時、打払い方の儀おごそかに取り計らふにつき、阿蘭陀船も長崎のほかへ乗りよする事あるまじきにもこれなく、船の形似寄り候へば、かねてその旨相心得、不慮の過失これなき様心掛け通船いたすべき旨、文政八年申し渡し置きしところ、当今何事によらず御仁恵を施されたしとのありがたき思召しにつき、外国のものにても、難風に逢ひ漂流等にて食物、薪水を乞ふまでに渡り来り候を、その事情にかかはらず一図に弓、鉄砲等を打放ち候ては、外国へ対し信義を失はれ候御処置につき、今より以後は、異国人渡り来り候とも、食物、薪水等を乞ふの類は打払はず、乞ふる旨にまかせ帰帆いたすべき事に取り計らふの間、よっては、阿蘭陀人ども心易く通船いたすべく候。外国の者たりとも、かほどまでに信義を厚く思召し、ありがたき儀をよくよく相わきまへべく候。

幕府からオランダへ通達されたこの「天保の薪水給与令」への方針変更は、1842(天保13)年、出島の商館長からオランダ領ジャワ総督経由オランダ本国に送られたはずである。しかし当時のアメリカ政府には、オランダ政府に知れるほどの積極的な日本開国政策はなかったためか、この変更に関するオランダ政府からアメリカ政府への接触は無かった。しかしその後アメリカ政府は1851(嘉永4)年2月11日、ジョーン・H・オーリック提督をアメリカ東インド艦隊司令官に任命し日本遠征を命じたから、オランダ政府はこんな情報に触発され、その2ヵ月後、上記の如く急遽アメリカ政府への接触を図った様に見える。

しかしここで興味ある事実は、意図的か偶然かは筆者に取ってまだ不明ながら、オランダ政府のアメリカ政府への日本情報の伝え方に一貫性が無い点である。実はこの天保13(1842)年7月23日の「天保の薪水給与令」通達の翌年、天保14(1843)年8月6日、幕府は「外国漂流之者連越候節受取方之事」という件名で新しい指示を出した。これは、海外で救助された日本人漂流者は、清国船かオランダ船による送還以外は受取るなと言う指示であり、外国へも伝える様にオランダ商館のカピタンへ通達された。この情報は4年後の1847(弘化4)年4月14日付けの口上書で、オランダ政府からアメリカ政府のブキャナン国務長官へ連絡されていた事実がある(典拠:上記の上院文書)。そして更に弘化4(1847)年6月、オランダから出された「風説書」を長崎奉行所に伝える席上で商館長・レフィスゾーンは、口頭で、「日本人漂流者を送還するこの新規則をアメリカ政府に伝えたが、オランダ本国からジャワに向けた船が出帆する時点で、アメリカからはまだ何の返事も無かった」とまで日本側に報告している。即ちレフィスゾーンは、オランダ政府はアメリカ政府に確かに伝えたと言う事実が分っていた訳である。

上述の如く、1年先に出された薪水給与令の情報が、後に出された漂流者受け取り方法の情報より更に4年も遅れてアメリカに連絡されたのだ。これは、薪水食料を求めどんな国でも日本に来れば、その内に日本ではオランダ以外の国と通商をする機会が生ずるかも知れない。そこでオランダは日本との貿易上の優位さを失わない様に考慮しながら、外交的にはアメリカとの問題が生じない様に情報操作をしたとも見える局面である。

さてまたこのオランダからの「薪水食料を求めて日本に来た遭難者にはそれを与える、即ち、薪水給与令」の情報がペリー提督にも伝えられたかどうか、という点に興味がわくが、筆者はまだそんな情報を確認できていない。ペリー提督が日本派遣使節に任命された1852年2月頃はまだウェブスター国務長官はその任にあり、ワシントンに居た。しかしこれは10月24日に肝硬変で亡くなる半年ほど前の事であり、業務にも差し支えるほど健康悪化が進んでいた様だから、この様な細部に渡る日本の情報をペリーに伝えるための十分な余裕があったかどうかについて、大きな疑問が残る。1852(嘉永5)年11月5日付けのペリー提督へ与えられた「日本遠征指令書」は、短期間だけ代理を務めたコンラッド国務長官代理が書いているが、その指令書中にこの情報は全く記述されていない。筆者は、恐らくペリー提督は知らなかったと考える。

更に興味ある事実は、このオランダ政府からからアメリカ政府に大幅に遅れて連絡された日本の薪水給与令の発令情報が、暫らくして民間にも知られていた事実がある。当時1846年から20年近くアメリカ南部で廣く発行されていた『 DeBow's Review (デボウ評論) 』という農業・商業・工業関係雑誌の1852年12月号に、1851(嘉永4)年4月30日付けの、前述した駐米オランダ代理公使・テスタ男爵からウェブスター国務長官宛に出された外交「口上書」の全文が掲載された。ペリー提督がミシシッピー号に乗りノーフォーク軍港を出港したのは1852(嘉永5)年11月24日であるから、ペリーはこの雑誌の内容は知らなかったはずである。

 天保の薪水給与令の原文と決定の背景

この薪水給与令の原文は次の様なものである。いわく、

天保十三寅年七月二十三日、異国船打払いの儀停止御書付

異国船渡来の節、二念無く打払い申すべき旨、文政八年仰せ出され候。然る処当時万事御改正にて、享保寛政の御政事に復せられ、何事によらず御仁政を施され度との有難き思召に候。右については、外国のものにても難風に逢ひ、漂流にて食物薪水を乞候迄に渡来候を、其の事情相分らざるに、一図に打払い候ては、万国に対せられ候御処置とも思召されず候。これに依って文化三年異国船渡来の節、取計方の儀につき仰せ出され候趣相復し候様仰せ出され候間、異国船と見受け候はば、得と様子相糺し、食料薪水等乏しく帰帆成り難き趣候はば、望みの品相応に与へ、帰帆致すべき旨申し諭し、尤上陸は致させ間敷候。併し此の通り仰出され候に付ては、海岸防禦の手当ゆるがせにいたし置き、時宜など心得違ひ、又は猥に異国人に親み候儀等はいたす間敷筋に付、警衛向の儀は弥々厳重に致し、人数共武器手当等の儀は、是よりは一段手厚く、聊にても心弛みこれ無き様相心得申すべく候。若し異国船より海岸様子を伺ひ、其の場所人心の動静を試し候ためなどに、鉄砲を打懸け候類これ有るべき哉も計り難く候得共、夫等の事に動揺致さず、渡来の事実能々相分り、御憐恤の御主意貫き候様取計い申すべく候。され共 彼方より乱妨の始末これ有り候歟、望の品相与へ候ても帰帆致さず、異儀に及び候はば速に打払ひ、臨機の取計は勿論の事に候。備向手当の儀は猶追て相達し候次第もこれ有るべき哉に候。文化三年相触れ候紙面はこれ有るべく候得共、心得の為、別紙写し相達すべく候。
   七月
右の通り相触れべく候。
   文化三年寅年相触れ候趣(省略)

この政策変更の背景は天保8(1837)年、漂流して救助された音吉など7人の日本人を乗せ、日本に送り届け通商を願おうと浦賀に接近したアメリカの商船・モリソン号が日本側砲台から砲撃され、薩摩に接近しても再度砲撃され、仕方なくマカオに帰った。このモリソン号事件の実情は翌天保9(1838)年6月、オランダ出島のカピタンから長崎奉行・久世伊勢守広周に知らされ、その内情を幕閣に報告している。その後民間にも打払いに対する批判が出て、天保10(1839)年5月の「蛮社の獄」につながった。処罰者が出る程に民間識者の危機意識が高まった後も、その批判風潮は底流を流れ続けていた。こんな中で天保11(1840)年5月29日、支那とイギリスとのアヘン戦争が始まり、天保13年7月9日、即ち1842年8月14日、支那はイギリスに降伏しその後南京条約が締結された。

こんな内外の状況を注視する幕閣はそれまでの外国船打払い政策に危機感を抱き、その処置を評議した。海防掛老中・真田幸貫は「有無を問わずに砲撃する事は理不尽である。理由を尋問し、外国船に欠乏品があれば与え、日本の至誠を知らしむべし」と強く主張した。そこで意見の分かれる老中は、決裁を将軍・徳川家慶に仰いだ。将軍・家慶の結論は、老中・真田幸貫の主張通りの決裁を下し、薪水給与令へ移行する方針変更が決定したのだ。後に日本側とペリー提督との交渉の場でペリーは、「非人道的な日本のやり方は許されない。敵国として戦争をする事になる。」と脅しを掛けて来たが、冷静に事実を説明する林大学頭の言葉に矛を治めざるを得なかった。信濃松代藩主・真田幸貫の至誠を貫こうとする姿勢が、12年後の横浜で真価を発揮する事になったわけである。ペリー提督とのやり取りに付いては 林大学頭の説明 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)  を参照して下さい。

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11/20/2020, (Original since 05/24/2019)