日米交流
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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

戸田伊豆守の浦賀防衛線強化の建議
(『ペリーを訪ねて』、中野昌彦著、東京図書出版会、2006年4月、 ISBN4-86223-017-2、P. 132-133 から引用)

久里浜でペリー提督に会い、アメリカの国書を受け取った日本側代表の浦賀奉行・戸田伊豆守は、その3年半も前の嘉永2(1850)年12月、老中首座・阿部伊勢守の諮問に答え、江戸湾入口の浦賀近辺における大幅な防衛線強化の緊急性を建議していた。いわく、

軍艦に装備された大砲は何時でも何処へでも火を吹く「活物」であるが、台場にある大砲は固定していて「死物」といってよい。弘化三年にビドル提督が乗ってきた二艘の軍艦には合計百挺以上もの大砲を装備してあったが、これに対し日本側は、相州の城ヶ島から横須賀の猿島まで七里程の重要な海岸防御地域に、最近増設したといっても七十挺程の大砲しかない。それも全て小型ばかりで貫目以上は何もない。対岸の房州の方もせいぜい四十挺程で、固定した台場で合計百十挺余りでは例え全員が討ち死にしても防ぎきれない。せいぜい「舌頭」をもってここに入って来るな、というのが関の山である。異人共は聴く耳を持たないから、無理に押し通られ、軍船で江戸に向かわれたら打つ手が無い。一大決心で大装備をしない限り、少しずつ手当てしても有効ではない。また兵糧米やその炊き出しに余裕も無いし、非常用の資金も無い。火薬や砲弾の備蓄もわずかだから撃ち合いも続かない。軍船の建造を何回も建議したが返事も無く、大砲を積める船など一艘も無い。江戸を守る要所のこの有様をぜひご検分願いたい。また、万一浦賀港に焼玉(焼夷弾)など打ち込まれたら火災になり、この三方を山に囲まれる地形では、皆が奥に逃げ込んで港口の戦が出来ない。奉行屋敷は砦構造にしてその中に兵糧や弾薬を貯蔵しておかないと戦は出来ないともいった。まだ種々建議が続くが、実戦から見て、あまりにも弱点が多すぎると非常に心配した。

しかし、その後徐々に海防が強化されたが充分ではなく、ペリー艦隊は戸田伊豆守の心配通り、奉行所の「舌頭」をもっての制止も聞かず、江戸湾内深く入ってしまったのだ。

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07/04/2015, (Original since 03/07/2011)