日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

オランダ国王の言葉の筆記

新任の出島商館長として嘉永5(1852)年6月に来日したドンケル・クルチウスは、着任早々、オランダ領東インド総督・バン・トゥイストがオランダ国王・ウィレム三世の言葉を筆記したという名目の書翰を日本政府に提出したいと、大いに努力した。長崎奉行は幕閣に受け取りの可否を上申し、「別段風説書受け取りの手続きでなら受け取る」 との条件で、即ち日本から公式な返事のいらない情報としてクルチウスから受取った。

これは、8年前の弘化元年7月2日、即ち1844年8月14日、オランダ軍艦・パレンバン号が国王ウイレムニ世の日本開国を勧告する国書を持って長崎に来航したが、これに対し当時、オランダとは「通商」はしても「通信」はしないと拒絶した。今回阿部伊勢守は、弘化元年の様なオランダ国王の正式書簡は引続き当然受け取れないが、別段風説書の様な、返事もいらない単なる情報としてなら受け取ると決めたのだ。

その後、下記筆記にある通り、その詳細に関しドンケル・クルチウスが説明書翰を提出し、若しアメリカ使節を乗せた軍艦が来て強く通商を求めた場合、その要求を全く拒否するのではなく、緊急救難用に薪水食料や船修繕用の材料は供給し、決定的な確執を生じさせないための 「方便」 としての 「通商条約素案」 をも説明した。このクルチウスが提出した「オランダ国王の言葉の筆記」の口語記述いわく、

  咬𠺕吧都督職の者筆記和解

御内密
  暦数千八百五十二年第六月廿五日(嘉永五子年五月八日)於咬𠺕吧

大尊君長崎御奉行へ

和蘭陀国王は欧羅巴洲中で専ら風聞がある事を聞きましたが、北アメリカ共和政治司(筆者注:アメリカ合衆国大統領)が軍船を日本に差越し、商売を遂げたいという考えがあるという事です。
北アメリカ洲共和政治(筆者注:アメリカ合衆国)は、欧羅巴洲中の強勇の国と其の勢威が異なる事はありません。右に申上げた軍船は数が多く、その船は或いは蒸気仕掛け、或いは尋常の帆前の船であります。この様な構成ではありますが、殺罰(伐)の行為におよばず従順な願い振りにならないかは何とも申上げ難い事です。

一、右の次第でありますが、和蘭陀国王が考えるに、日本は往々(ゆくゆく)の御煩いには御用心専一の御事と存じ上げます。

一、数百年来日本より蒙っている御寵遇(ちょうぐう)は、阿蘭陀国王は兼々忘却し難い事だと存ずる事であります。既に暦数千八百四十四年(弘化元辰年)に当国王の前代が日本の君(筆者注:将軍家慶)に申上げてありますが、幸福な日本の御患いを除く為、外国人の事に付いて御趣意を御緩宥に相成さる様にとの事でありました。この度当国王もこの事を省考し、先年の前見の様に、差当り、この節の御煩いは遠からずあろうかと懸念し、何分黙止し難く申上げる事であります。右に付いては、日本の御官府は篤と御用心なされ、御危患御防ぎの御趣向は専要の御事と存じ上げます。

一、阿蘭陀領印度都督に阿蘭陀国王より申付け、書面を相仕立て、新かぴたんの者を以て差出しました。是は究めて、此の次第は日本摂政(筆者注:老中方)の御聴に達している事と存じ上げます。

一、右の次第を申上げる訳でありますが、国王の志意を十分に申上げ尽くし難く、是迄永く御寵遇蒙り感荷申上げる処より、一の方便を考え出した事があり、勿論此の事に付き、御威勢の強い日本国家にて立て置かされた御法度に聊かも響かぬ御安全の御策の事であります。

一、右の一件に付き、是迄阿蘭陀領印度の大裁断所評定役を相務めて、至極實貞、政事向に事馴れているドンクル・キユルシユスをかぴたん職に申付けました。此の新かぴたんは阿蘭陀国王よりの命令を受け、自然(筆者注:若し)日本御官府向御用の事があれば、前條に申上げた御策の方便を申上げ、阿蘭陀国王より申含めた趣意を申上げ、何卒御弁利に相成る様希い上げる事であります。

一、日本御官府向にて阿蘭陀国王の志意を御聴き下さる事が相協(かな)う時は、御身柄、御忠勤の御方に御掛出来し(筆者注:任命し)、其御方に右一件を、阿蘭陀国王より申付けた新かぴたんが御応対申上げ、此の御大切な一件の取扱いを相務めさせ申したく希い上げます。

一、阿蘭陀国王が右一件に付き申立てるのは、聊かも自己の利を貪る事ではなく、全く実意を盡し申上げたい事であります。自然(筆者注:若し)此度も此れ以前の通り、此の実意が通じ難き様の事に成行く時は、阿蘭陀国王は誠に以て深く嘆息仕る事と存じ上げます。右の様に厚く申上げるのは、至極大切な事であり、黙止し難い所より斯くの如くであります。

一、世上の記説、往昔よりの説にも、天の然らしめる所は、地上遠隔の所といえども、此の所の足らざる所の物、欠けたる所の礼、互に習い、或いは索(もと)め、双方の弁利を旨とするという事があります。然りと言えども日本の御国は御威勢盛んにして、聊かも是等の説に御泥(なず)み成される様な事はありませんが、諸方の国々より湊(つど)い来り、強いて望みを達せんとする時に至りて、御国のみ世界の列を御離れ、他に御関係なく首尾よく御防ぎは出来ても、甚だ以て御煩わしき事やに存じ上げます。

一、右様の始末に至る時は、窮(きわ)めて兵器の沙汰におよび、永々血戦の患い免れずしては相鎮まり申す間敷くと存じ上げます。自然右様御混雑の事ども相起こる様な事が万一有る時は、右御混雑のため阿蘭陀人までも日本に罷り出でる事は、譬(たと)え暫(しば)しの間たりとも協(かない)難き様の場合に赴く事に成行く様な事にも至っては、実に以て嘆かわしき次第と存じ上げます。

阿蘭陀領印度都督 どいまある・ふあん・とういすと     
此書面一覧の命を受け候          
諸般公用方              
あ・ふぷりんす        

右の通和解差上申候。 以上。
    子八月
西 吉兵衛 印
森山栄之助 印

この様に述べる筆記は、新商館長・ドンケル・クルチウスに細かく指示された一つの「方便」、即ちオランダの推奨する「通商條約素案」の説明と、その受け入れを日本側に求めたものであった。

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07/10/2020, (Original since 07/10/2020)