日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

♦ ユージン・ヴァン・リードと「元年者」移民の問題

      ヴァン・リードの来日


サトウキビ畑灌漑のため日本人移民が工夫して造った、ハワイ島北部
コハラ・マウンテンの山麓を流れ小さい渓谷を渡る灌漑用水路の一部

Image credit: 馬の背中から、筆者撮影

ユージン・ヴァン・リードは、神奈川の開港日直前にオーガスティン・ハード商会の商船・ワンダラー号に乗って横浜にやって来たハード商会のアメリカ人商人だが、横浜の商売であまりにも広くその名を知られ、また戊辰戦争初期に日本政府が入れ替わるという劇的な政治的混乱に巻き込まれ、外交畑への転進に失敗した人物だ。

ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の自伝によれば、ヴァン・リードはアメリカでジョセフ・ヒコと知り合い、ヒコから日本語も少し習ったようだ。そしてヒコが、後に咸臨丸に乗ることになるブルック大尉とフェニモア・クーパー号で日本に向かう直前、サンフランシスコでヴァン・リードとヒコの2人で記念写真を撮っているが、それほどの親友だったのだろう。ハワイのホノルルでフェニモア・クーパー号を下船しブルック大尉と別れたヒコは、そこで偶然にも、サンフランシスコから香港に向かうシー・サーペント号に乗って来た日本に向かう途中のヴァン・リードと出会い、2人は連れ立ってシー・サーペント号で香港に着いた。ヒコと別れたヴァン・リードはその後、香港でオーガスティン・ハード商会に職を得たようだ。

上海でヒコがアメリカ領事館通訳に採用され、ハリス公使やドール領事とアメリカ軍艦・ミシシッピー号で下田経由神奈川に着いたが、ヴァン・リードの乗るオーガスティン・ハード商会のワンダラー号はこのミシシッピー号と下田で出会い、東風が強いので下田から浦賀近辺までこのミシシッピー号に牽引されて来たから、横浜にはジョセフ・ヒコと同じ日に着いた事になる。そして安政6年6月5日すなわち1859年7月4日、発効した日米修好通商条約で神奈川が公式にアメリカに開港され、横浜を見下ろす神奈川の丘の上にあるアメリカ領事館・本覚寺でハリス公使、ドール領事、ミシシッピー号のニコルソン艦長や士官たち、ジョセフ・ヒコ、そしてこのヴァン・リードが出席してアメリカ国旗を掲揚し、国歌を歌い、シャンペンで乾杯し、正式な領事館開館式を行った。このように、ヴァン・リードが横浜に来たのはオーガスティン・ハード商会のワンダラー号に乗ってであり、ヒコの自伝の1859年7月6日から7月16日の間の記述に「書記・ヴァン・リード」と出てくるから、筆者には、この間にヴァン・リードも領事館書記官の職を得てそれに任命されたように見える。

その後横浜で成功しようと種々工夫するヴァン・リードは、日本文化を理解し、日本の習慣にも馴染み、日本語も良く話せるようになっていったようだし、書記官を辞し商売に集中し、機会を捉えて広く奔走したようだ。朝廷が幕府へ派遣した勅使護衛として薩摩藩の島津久光が江戸に来て、文久2(1862)年8月その帰り道の生麦で、行列を乱したとイギリス人・リチャードソンを殺害したいわゆる「生麦事件」を起こしたが、その直前に東海道でこの久光の行列に行き逢ったヴァン・リードは、馬から下りて道脇で静かに行列をやり過ごし、久光の駕籠には帽子を取って敬礼し、難なく江戸に向かった(「後は昔の記」林董述、時事新報社、明43年12月)。この様に、被害にあったイギリス人たちに比べ、柔軟に日本の習慣も受け入れることが出来る人物だったようだ。またアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4カ国が軍艦を派遣した下関戦争でも、アメリカはまだ南北戦争の最中で日本には小型帆走軍艦1隻しかなかったから、当時のプルーイン公使はオーガスティン・ハード商会から蒸気商船・ターキャン号を借り入れ、これに武装を施し帆走軍艦の海兵隊を乗組ませたが、このターキャン号の賃貸契約にもヴァン・リードが関わった。オーガスティン・ハード商会は、この4年ほど前に英仏連合軍が支那と戦い北京を占領した時も、支那で戦略物資の調達・輸送や船舶の軍事傭船契約で大きなビジネスをしたようだから、これを知る、昔アメリカ領事館の書記だったヴァン・リードがいち早くその必要性をキャッチし、このビジネスをまとめたのだろう。そして自身でもこの蒸気船に乗って下関に行き、戦記を書き、ニューヨーク・トリビューン紙と契約する横浜駐在記者・フランシス・ホールの手でトリビューン紙に掲載されている。更に下関戦争終結後には、このフランシス・ホールがパートナーでもあるウォルシュ・ホール商会の仲介で幕府が大江丸と命名することになるこのターキャン号を購入したが、この商取引にもヴァン・リードが関わり、「諸費用差し引き後、商会には6万ドルの入金になる」、とオーガスティン・ハード商会へ報告している(「Japan through American Eyes」の注)。

      ヴァン・リードへの条約締結全権使節委任と日本側の拒否

さて少し遡るが、万延1(1860)年1月18日にポーハタン号に乗船し日本を出航した遣米使節一行が、ハワイのホノルルに寄港すると大いに歓迎を受け、使節一行はハワイ国王・カメハメハ四世にも面会した。その時ハワイ側は正使・新見正興(まさおき)に、ぜひ修交通商条約を締結したいと希望を述べていた。新見は日本に帰国してから正式な返答を出すと約束し、帰国した新見の報告に基づき幕府は文久1(1861)年5月11日、アメリカ公使・ハリスを経由しハワイ国王に感謝の贈物をしたが、同時に、「やむおえない国内事情により通商条約は結べない」と伝えている。この様にハワイ側は、何年も前から日本と条約を結ぶ希望を持っていたわけだ。

ハワイは1778年にキャプテン・クックに発見されて以来、多くの白人の持ち込む疫病がその免疫を持たない原住民の間に蔓延し、1860年代には、原住民の人口が4分の1程度にまで激減していた。また以前に認められていた土地所有法により白人資本が入り込み、1850年代からサトウキビ農場が大規模に経営され始めていたが、とにかく人手が足りず、1864年暮れに制定された移民法により支那から更に多くの移民はあったものの、支那以外からの移民も要望され始めたのだ。

こんな中でヴァン・リードは、ハワイ王国のワイリー外務大臣とつながりのある自身のネットワークを通じ、日本・ハワイ通商条約の必要性や日本移民の受け入れについて話す機会があり、ヴァン・リード自身も日本に於けるハワイ王国の代表を勤めたいと、直接自身の要望をハワイに出したようだ。こうしてワイリー外務大臣が、オーガスティン・ハード商会と深いつながりのあるという横浜在住のヴァン・リードの名前を知り、日本からハワイに向けた移民の可能性やそのコストを訊ねてきている。そしてワイリー外務大臣は1865年4月6日付でヴァン・リードを日本駐在のハワイ総領事に任じ、日本との通商条約締結や移民導入を推進しようとした。しかしその後ハワイの外務大臣はワイリーからバリグニーに替わったので、ヴァン・リードは1866年の1月にハワイを訪れ、更に通商条約や日本移民受け入れについて話しをした。またこの帰り道に、ヴァン・リードの乗った船がウェーキ島で座礁沈没し、九死に一生を得て横浜に帰り着くというおまけまであった。

ハワイ総領事の肩書きを手に入れた後ハワイに渡り、バリグニー新外務大臣とも直接面会しホノルルから横浜に帰ってきたヴァン・リードは、当時のアメリカ代理公使・ポートマンの仲介で幕府と接触し、新任総領事の謁見をしてもらおうと試みた。しかし第2次長州征伐に忙しい幕府は、「今は出来ない。後日にまた」と新任総領事の謁見を断っている。この後の慶応2(1866)年5月28日、ポートマンから外国奉行宛の書簡が出されたが、いわく、

アメリカの忠告により、ハワイの新任総領事は公式に幕府に来日の目的を申し立てる事を延期するが、日本の遣米使節がハワイ国のホノルルに立ち寄った時ハワイ国王にも面会しているから、日本の老中も面会くらいしてくれても良いはずだ。ハワイはアメリカ、ロシア、フランス、イギリスなどとも条約を結んでいるから、小さな島国だといっても日本の国体に関わることも無い。今もし日本が新たな条約を結べないとしても、ハワイ国の貿易代理人を横浜に置く許可を出して欲しい。これを拒否する事は、ハワイを嫌っているようにも解釈されかねない。

と、少し脅迫めいた文章で書き送っている。しかしこの時期は、幕府の独り相撲の第2次長州征伐で将軍始め主要な幕閣は大阪に出張している時だから、新任総領事を謁見したり、新しい条約など結べる時期ではなかった。しかし7月になって将軍・徳川家茂が突然死亡したことにより、徳川慶喜は何とか朝廷から長州征伐中止の沙汰書を出してもらい、停戦に持ち込んだ。

この頃にはアメリカの新任公使・バン・バルケンバーグが日本にやって来ていたが、やっと長州征伐に区切りをつけた幕府から、日本・ハワイ通商条約交渉開始の意思を伝達されたバン・バルケンバーグ公使は、あらためてハワイ総領事・ユージン・ヴァン・リードに神奈川在留許可を出して欲しいと申請し、幕府からその合意を得た。ここで一応、「ハワイ総領事・ヴァン・リード」が幕府に受け入れられたのだ。そこでアメリカ公使館では、おそらくヴァン・リードの強い希望によったはずだが、当時日本とイタリア間で締結された通商条約写しを幕府から借り受け、これを基本に条約内容の検討を進め、日本・ハワイ通商条約原案を準備した。そしてバン・バルケンバーグ公使の12月18日の要請により、日本側でも外国奉行・江連加賀守と石野筑前守及び目付・新見正興を条約交渉全権代表に任命した。

早速、日本側全権代表の3人がハワイとの条約交渉をすべくアメリカ公使館にやって来ると、公使館には誰も正式なハワイ国王の全権委任状を持つ人はなく、提出した書状はヴァン・リードの総領事任命状だけだった。これでは何の交渉も出来ないと当然日本側は交渉拒否を伝えたが、バン・バルケンバーグ公使は、早速ハワイ王国から全権委任状を取り寄せる約束をした。こう記述している筆者にも、全権委任状なしで条約締結を試みたアメリカ公使の態度はちょっと信じられない事態だが、バン・バルケンバーグ公使は本国にアメリカ公使の仲介で日本・ハワイ通商条約を締結する許可を申請していたが、本国からは何の回答も来なかった。このため、こんなお粗末な事態になったのだろう。

その後ヴァン・リードから幕府に宛てた慶応3(1867)年8月29日付けの書簡で、「ウォルトマン(=ウォーターマン、Waterman)氏から全権使節委任状が届けられ、共同で作成した条約に調印すべく私が全権使節に任じられた。日本側の都合がつき次第、出来るだけ早急にアメリカ公使館で調印を希望する」と、1867年1月21日付けでハワイ国王・カメハメハ五世と外務大臣が署名した、日本政府宛ての全権使節委任状を提示してきた。

しかしここで思いもかけない横槍が入り、せっかく練り上げたハワイと日本の条約調印が出来なくなる。9月12日、外国奉行・江連加賀守と石野筑前守がバン・バルケンバーグ・アメリカ公使と会談し、

ハワイ国王署名のヴァン・リードを条約締結全権使節に委任するという書簡を大君、すなわち徳川慶喜に提示したところ、大君は横浜の商人・ヴァン・リードの名前を良く覚えており、条約締結はともかくも、現地商人を全権使節にするなど受け入れられないということになった。更に外国公使の間からも、例え日本政府がそんな者を全権使節として受け入れても、各国公使の列には入れないなどの噂も聞こえてくる。これではまるで日本がハワイ島政府から馬鹿にされたような有様で誠に不快である。これではどういわれようとこれ以上の交渉も調印も出来ないから、バン・バルケンバーグ公使自身がその任に当たって欲しい。

と申し入れた。更にその旨、ヴァン・リードへも書簡で通達された。

横浜で有名になりすぎた商人・ヴァン・リードが、その名前を大君・徳川慶喜にまで覚えられてしまい、条約締結が頓挫したという全く皮肉な結末だった。将軍・慶喜にしてみれば、確かにアメリカのペリー提督、イギリスのスターリング提督、ロシアのプチャーチン提督、オランダのクルチウス商館長など一流の地位にある人物と最初の条約を調印して来た過程から見ても、例え条約締結全権使節に任じられたとはいえ、日頃から顔見知りの現役の横浜商人と国家間の最初の条約を調印することなど考えられないことだったのだろう。

      ヴァン・リード主宰の日本人ハワイ移民計画

落胆したヴァン・リードの顔は想像に難くないが、しかし諦めてはいない。3ヶ月ほどしてヴァン・リードはまた江連加賀守に書簡を送り、今度は、ハワイ国王も親しく知っているし、アメリカ人としての自分のネットワークをも活用して日本とハワイとの橋渡しをし、この日本国のために尽くしたい。ついては適切な役職があれば日本政府に雇われたいと、「将軍・徳川慶喜の大政奉還に感服した」と言いながらこう提案してきた。江連は感謝しながら上層部へこれを上げているが、幕府は今や崩壊の危機に面している最中で、そんなことに関わっている暇はなかった。ヴァン・リードは何とか幕府中枢とコネを作り、まだ条約締結を推進したかったように見える。

しかし、この直後には幕府と、薩摩・長州中心の朝廷側との間に鳥羽・伏見の戦いが始まり、将軍・慶喜は江戸に待避、謹慎し、突然新政府が旧幕府に取って代わったが、この突然の政変にかかわる混乱の真っただ中に投げ込まれたのが、ヴァン・リードが主宰する日本人のハワイ移民計画だった。

ハワイ総領事に任じられて以来のヴァン・リードは、まず通商条約を結べばその後に移民計画は自然と付いて来ると考え、条約締結に全力を集中したが、上述のように土壇場で将軍・徳川慶喜の反対で完遂出来なかった。そこでヴァン・リードは移民計画の実行に注力しはじめ、おそらく親しくしていたのであろう半兵衛と呼ぶ旅籠経営者とその仲間に依頼し、ハワイ移民希望者を募り始めたようだ。そしてこの時、かって幕府がアメリカに発注した鋼鉄軍艦・ストーンウォールがハワイ経由で江戸に回航されて来たが、ハワイ政府はこのストーンウォールに託し、明治1年4月3日(1868年4月25日)、ヴァン・リードが準備を進めるハワイ移民の前金の原資としての1925ドルを届けてきた。ここに至って、それまでヴァン・リードが準備し進めてきた移民計画に拍車がかかり、急速に動き出したのだ。

新政府になった明治1(1868)年4月17日、日本駐在ハワイ国総領事・ヴァン・リードの名の下に神奈川裁判所総督・東久世通禧へ宛て、

賄いと医者の手当ては除き、給料1ヶ月4ドルで3ヵ年雇用の職人350人が出航準備を整え待っているので、速やかに印章(=パスポート)を交付いただきたい。雇用契約完了の後は、無賃で日本に送り返す事を約す。サイオト号に乗組んでいる日本人の180人に先の鎮台(=幕府・神奈川奉行所)から与えられた印章は返却するので、改めて全員の新しい印章を交付願いたい。

というパスポートの交付申請が出された。その後1週間あまりにわたり、ヴァン・リードから何回も印章発行の督促状が出されたが、4月24日、神奈川裁判所組頭・高木茂久左衛門から、

我国人350人を農業手伝いのためハワイへ連れて行きたく、免許を欲しい。その内の180人は旧幕府から免許を受けている等々、という申請は承知している。しかしハワイとは未だ条約を結んでいず、理由のいかんに関わらず許可できない。強いて連れて行きたいのなら、条約を結んだ国の公使が証人になれば許可すると判事・寺島陶蔵から提案している。また180人分はいったん免許が出ているとはいえ、旧政府の処置であり、それを採用する事は出来ない。

と、ヴァン・リードに宛てた拒否回答が来た。そこでヴァン・リードは折り返し同じ24日付けで、神奈川裁判所判事・寺島陶蔵(宗則)に宛て、

旧大君政府の処置は新政府でもこれを全て実行する旨、外国公使から聞いている。日本人180名のパスポートは12日前に発行済みであり、この180名は新政府になる3日前からサイオト号に乗船していて、もう10日になる。許可を待つ間の船の毎日の出費もかさみ、これ以上の滞留は出来ない。この船の横浜運上所の入港手続きも終わり、英国領事も(出航に)必要な書類を船長に渡したので、明朝出帆予定である。自分にはもうこれを差し止める権限はない。もし新政府が旧政府の処置を実行しないなら、これまでにかかった費用を払い戻して欲しい。そうでなければパスポートを出し船を出港させて欲しい。我がハワイ政府は、旧大君政府と同様に皇帝陛下の新政府とも親睦を望んでいる。

と、明治1年1月20日に当時の外国事務総裁・仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が各国公使宛の書簡で、「今般、天皇が自ら条約を取結ばされるので、以後も引き続き、これまでの通りの條約を全て遵守すべき旨、勅命を受けました」と伝えた言葉の通り、旧幕府政権の約束をも全て実行するよう求めてきたのだ。


ハワイ、マウイ島北岸のサーフィンの名所、ホオキパ・ビーチで水際まで栽培される
サトウキビの畑。当時、日本から来た移民たちも、こんな綺麗な景色も見たはずだ。

Image credit: 筆者撮影

当初ヴァン・リードが幕府にパスポートの申請をし許可された人数は350人分であったが、ハワイ政府から届いた原資で確保できたバーク船・リサイフ号の都合で180人に変更になり、170人分のパスポートはいったん幕府に返却した。そして今回、その理由は不明だが、ヴァン・リードはリサイフ号の代わりにサイオト号を確保し、すでに幕府から発行されたパスポートを持ち船で待っている180人分のパスポートもいったん新政府に返却し、改めて合計350人分を再申請したのだ。ヴァン・リードは4月27日の弁明書の中で、「新政府になったから、旧幕府のパスポートより新政府発行のものが適当と判断したので、180人分も再発行を願い出た」、と言っている。何でもいいからと送り出しだけを考えていたら、ヴァン・リードはこんな良心的なことをせずとも不足の170人分だけを申請すればよいわけで、ハワイ国の総領事として、明らかにハワイと日本両政府間の信義を考慮した行為に他ならない。

このハワイ行きパスポート発行を船に乗って待っている間に、180人は病気その他の理由で約150人位に減少したようだ。この150人の日本人を乗り込ませた船はイギリス船・サイオト号だったが、パスポート発行の遅れに痺れをきらせたこのイギリス船は、ヴァン・リードから寺島陶蔵への書簡の通り、4月25日パスポートも無しに出航してしまった。この出航を知った神奈川裁判所が、いったいどうなっているのだとヴァン・リードに詰問しても後の祭りだった。ハワイ総領事・ヴァン・リードは、始めから新政府首脳も、「新政府は以後も引き続き、これまでの通りの條約を全て遵守する」と約束したように、政府が変わろうと、いったん外国に約束した事は日本国として実行しなければ国際信義にもとるといい、新政府は、いずれにしても条約未締結国への渡航に印章は発行できないといい、一種の水掛け論だった。新政府は、パスポート発行の結論を待たず、印章なしで勝手に出航した事は日本政府への軽蔑だと、ヴァン・リードの行為を全く許せなかったのだ。

そこで神奈川裁判所総督・東久世通禧はヴァン・リードがアメリカ人だということで、アメリカ公使・バン・バルケンバーグにその善後策を相談した。アメリカ公使は、アメリカの法律ではその罪状が判明しない限り罰することが出来ない。そのために日本側が今回のヴァン・リードの行為を吟味する必要があるのなら、アメリカ領事館で裁判を行うのが相当だが、運送した船はイギリス船だから、船に関してはイギリスの裁判に委ねるのが相当である。しかし、ヴァン・リードがハワイ国総領事として行った行為なら、アメリカ公使の自分が深く関与する事は出来ないといってきた。これは典型的な不平等条約に基づく領事裁判であり、更に独立国のイギリスとハワイが絡み、アメリカ政府は介入できないという非常に複雑なケースだ。東久世は更に毅然とした態度をもって、不法に無断で連れ出された日本人を連れ戻すが、その費用はヴァン・リードに償わせた上で国外退去にするとアメリカ公使に伝え、合わせて各国公使にも伝え、その意見を求めた。もちろん、自国に直接関係無いことに嘴を入れる公使は誰もいなかったし、アメリカ公使は、イギリス船・サイオト号が横浜を出航する時に、何故横浜裁判所の役人は手をこまねいていてサイオト号の出航許可を出したのかと、逆にいぶかりもしている。

翌明治2年4月29日、外国官副知事・寺島宗則はアメリカ公使と話をし、公使の勧めで日本の役人をハワイに派遣する腹を決めたが、しばらくして日本人移民が不当待遇に苦しんでいるという噂をも聞き、釈然としない新政府は、その年の9月に使節のハワイ派遣を正式決定し、この明治元年にハワイに渡った、いわゆる「元年者」移民たちの中の帰国希望者40人をハワイから日本に連れ帰っている。しかし総勢150人ほどもハワイに渡った中で、帰国希望者は40人のみだったから、現地の事情は期待より悪かったとしても、言葉が通じない不便があったとしても、4分の3弱の人達はまだ頑張れるという労働環境だったのだろう。だから日本からわざわざ使節がやって来て、帰国という援助の手を差し伸べても、70%以上もの大多数は、自らハワイでの仕事を選び帰国を願わなかったのだ。もっとも、日本政府からハワイ政府と交渉のため使節・監督正(かんとくのかみ)・上野敬介が現地に来て交渉を始めると、上野の報告書によれば、現地の雇用主たちは日本人を手放したくないと、1ヶ月4ドルの給料を15ドルへと大幅に引き上げたという。恐らく勤勉な日本人を再評価しての事だったろう。これから見ると、日本政府が心配したほど搾取される劣悪環境ではなかったようだし、賃金も日本での仕事よりはるかに良くなったのだろう。

またハワイに残ったこれら移民たちのうち、3年の契約が満了した時点で、約束通りハワイ政府がヴェスタ号に乗せ日本に帰国させた人は11人だった。この3年間にハワイで死亡した不幸な人も居たが、90人が契約終了後もハワイに残ったから、サイオト号の「元年者」移民たちの内の60%がハワイを第二の故郷に選んだ事になる(「East Across The Pacific」)。

      日本駐在ハワイ総領事としてヴァン・リードを受け入れ

新政府はその後寺島宗則を全権とし、ハワイ王国の全権使節も兼任したアメリカ・デロング公使との間で、明治4(1871)年7月4日に日本・ハワイ通商条約も結んだがしかし、ヴァン・リードを処罰する事はできず、以前の如く横浜に滞在している。そして更に、このハワイ通商条約の発効により、ハワイ王国の船が頻繁に日本に入港するようになった。しかしこれを処理できる適任者も居ない事から10月12日、デロング公使は外務卿・寺島宗則に、「外交には係わらせない」条件でヴァン・リードをぜひ日本駐在のハワイ総領事に認めて欲しいと懇ろな要請をし、寺島宗則も10月19日、ついにこれを受け入れた。

日本の歴史記述の中にはこの「元年者」移民の事件をもって、当時の明治新政府の怒りをそのまま代弁し、ヴァン・リードを悪徳商人呼ばわりしたものもあるようだが、筆者には、外交官に必要な注意深さやセンスが不足し、政府が入れ代わるという日本の激変するタイミングに合わすことが出来ず、初期投資の回収を急ぎすぎてサイオト号を出航させるなど決定的な間違いを犯し、外交官になれなかった人物とは映っても、必ずしも悪徳商人だったとは思われない。

新政府はこんな経験から、領事裁判や自主性のない関税率改定など外交の不平等な点も含め、強く条約改正を模索することになってゆく。その条約改正はしかし、次に述べる岩倉使節団の中に書くが、日本側の期待に反し一朝一夕に事が運ばないことを痛感することになる。

      アメリカ政府とハワイ王国との関係

こんな風に、アメリカとハワイを股に掛けて活動するアメリカ人とハワイとの関係について、少しアメリカ政府の公式見解を記す。アメリカ公使・バン・バルケンバーグの後任として、明治2年10月デロング新公使が日本に着任したが、アメリカの国務長官・フィッシュからデロングに宛て次のような書簡が届いている。いわく、

日本とハワイ間の条約が、イギリス公使の仲介で締結されようとアメリカ公使の仲介で締結されようと、何の異議を申し立てようとの考えもない。しかしながら、数多くのアメリカ国民がサンドウィッチ島(ハワイ)に居て、中にはそこの高官になっている者が居るが、日本国政府と同様アメリカから独立しているハワイ政府の方針や行動に、アメリカ政府は何の責任も無い事実を、貴官は日本政府に明瞭に理解させねばならない。
若しサンドウィッチ島に住むアメリカ市民が日本に行き、そこで法律を犯した場合、彼らが単にサンドウィッチ島に住むというだけで罰せられないで済ます事は出来ない。それどころか、彼らがハワイの法律に基づき正当にハワイに帰化した証拠を提示できない限り、アメリカ政府が彼らの上に司法権を及ぼすに何の例外も無い。

この文頭の「イギリス公使、アメリカ公使」の件は、上述の如く日本政府が条約締結全権使節としてのヴァン・リードを拒否したので、ハワイ政府はアメリカ公使バン・バルケンバーグの仲介を求めた。しかし、なぜか当時のアメリカ国務長官・ワッシバーンから明確な回答が来なかった。そこでハワイ政府は再度イギリスに仲介を求め、イギリスのハリー・パークス公使が明治政府へ接触して来た。アメリカの後任公使・デロングがフィッシュ国務長官にこの経緯を報告し、日本とハワイ間の通商条約締結を仲介する件に関し、本国の指示を求めて受けた回答書簡の一部である。この結果、デロング公使は日本にアメリカ政府の仲介を推奨し、前述の如くハワイ王国の全権使節も兼任したアメリカ・デロング公使を通じ、日本とハワイとの通商条約締結に至った。

このフィッシュ書簡は特にヴァン・リードだけを意識した書簡ではないが、アメリカ政府の自国民取り扱いと他国政府に対するアメリカ政府の立場の明確な表明だ。そこで、ヴァン・リードがハワイ政府から公式に任命されていた条約締結全権使節の権限を幕府や明治新政府が自ら拒否した形だから、このいわゆる「不法移民」取り扱いについてアメリカ政府に頼れず、条約は無くてもまず自らハワイ政府に使節を送り、移民帰国の交渉をせざるを得なかったようだ。

      日本の「新聞の歴史」に登場するヴァン・リード

以上は外交畑に躍進しようとしたヴァン・リードの顔である。その流れから少し外れるが、しかしまた、日本の「新聞の歴史」にもヴァン・リードは登場する。ヴァン・リードがジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)と友人であった事は上に書いたが、ヒコは横浜で岸田吟香と組み、元治1(1864)年6月28日最初の日本語新聞といわれる「海外新聞」を発行した。しかしこれは数ヶ月で廃刊になったという。今度は明治1(1868)年閏4月11日、ヴァン・リードと岸田吟香とが組み、日本語新聞の「横浜新報もしほ草」を発行し始めた。発行者は「(横浜の)93番・ヴァン・リード」となっていて、その第1号の始めに岸田吟香は、93番・ヴァン・リードの名の下に、

さきにヒコゾウの新聞誌ありしが、かの人此の地を去りしのちは久しくその事絶えたりしに、去年正月、我が友人ベーリイ万国新聞紙を版行せしが、これも第十篇まで出版してやみぬ。余(よ)深くこのことをなげきておもえらく、新聞紙ははなはだ有益のものにて、今は世界中文明の国にはこのものなき国はあらず。然るに日本にていまだこの事盛んに行われざるゆえんは、けだし新聞紙の世に益ある事をしるものすくなきと、これを編集する人の自ら学者ぶりて、むずかしき支那文字まじりのわからぬ文を用いる事と、且は出版のおそくなりて、時おくれのめずらしからぬ評(こと)をかきのせることとによる成るべし。余が此度の新聞紙は、日本国内の時々のとりざたは勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海香港より来る新報は即日に翻訳して出すべし。且つ月の内に十度の餘も出版すべし。

と、「もしほ草」出版にいたる経緯を書いている。

この頃の京都では、出来立ての明治新政府が3月14日に五箇条の御誓文を出し、閏4月21日に政体書を出す時期だったし、また関東では4月11日に江戸城引渡しが行われた直後だった。この様に日本中を巻き込んだ政府の入れ替わり時期は、まさに新しい新聞発行のタイミングでもあったわけだ。従ってこの 「横浜新報もしほ草」発行より3ヵ月ほど前の明治1(1868)年2月24日、柳河春三などにより 「中外新聞」第1号が発行されてもいるし、3月には 「日々新聞」、4月には福地源一郎の 「江湖新聞」、辻新次の 「遠近(おちこち)新聞」、橋爪貫一の 「内外新報」等々多くの新聞が誕生した時期だった。

「もしほ草」は、閏4月11日の初篇のあと、第2篇が閏4月17日、第3篇が29日、第4篇が21日、第5篇が24日、第6篇が25日、第7篇が28日と頻繁に発行されている。何故第3篇の日付けが閏4月29日なのか不思議だが、あるいは19日の間違いでミスプリントだったのだろうか。新聞発行は届出の許可制で幕府による規制を受けた当時、横浜のヴァン・リードが発行者になることで、治外法権として幕府の規制や、あるいは新政府が6月8日に「新聞発行は官許を得べし」との太政官布告を出し、その後翌年3月に新聞監督責任者の開成学校に関し、「外国人、国字を以て出版する者は、各地運上所にてこれを監し、毎事必ず裁判所に報知すべし」と布告を出し、神奈川裁判所が規制に乗り出すまでなんらの規制も受けなかった。

このようにヴァン・リードは、開港当時の横浜でいろいろな可能性にチャレンジし、一旗揚げようと努力した、典型的な活動的アメリカ人の一人だったように見える。

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07/04/2015, (Original since October 2009)