日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ワイオミング号の下関攻撃

♦ 蒸気商船・ペンブローク号への長州の攻撃と、蒸気軍艦・ワイオミング号の下関攻撃 ― 新聞報道 ―

1864(元治1)年9月、英・仏・米・蘭の四ヵ国連合艦隊の十七艘の軍艦が下関に展開し砲撃が開始された、いわゆる「下関戦争」の前哨戦となったアメリカの蒸気軍艦・ワイオミング号による下関への攻撃が、アメリカの「シカゴ・デイリー・トリビューン紙」の1863年10月6日版で報道された。

本文にも書いた通り、このワイオミング号には当時、横浜のアメリカ領事館通訳として勤務していたジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)も乗組んでいて、その体験が本人の自伝「The Narrative of a Japanese, by Joseph Heco, edited by James Murdoch.」に出て来る。このシカゴ・デイリー・トリビューン紙の記事は、ヒコと同じくワイオミング号に乗組んだ、当時横浜に居たアメリカ商人・E・S・ベンソンが記述した観戦体験記である。更にこの記事の後半には、オランダ日本総領事・バン・ポルスブルックから入手した、オランダ蒸気軍艦・メデュサ号への長州の攻撃も記述されている。

このシカゴ・デイリー・トリビューン紙の記事いわく、


アメリカの「シカゴ・デイリー・トリビューン紙」
1863年10月6日版に報道された下関地図。
Image credit: © Chicago daily tribune, 1863

シカゴ・トリビューン、1863年10月6日、火曜日。
ニュース

本紙は、オタワのジョージ・マン・Jr.氏の好意で、同内容の記事を掲げた日本地方紙の号外(筆者注:「The Japan Commercial News」 紙を指す。当時横浜で、ポルトガル人ダ・ローザ(Francisco da Roza)が発行した英文の週刊紙)とワイオミング号士官の描いた地図とを本紙まで送って貰ったが、日本における連邦軍艦の最新で興味ある経験についての大要を別の蘭に掲載する。本紙は、マン氏の義理の兄弟であるアメリカ神奈川領事ジョージ・S・フィッシャー氏から受領した通りの内容を複写掲載する。

日本での最近の軍事行動
[ジャパン・コマーシャル・ニュース号外]
神奈川、日本、1863年7月24日、金曜日

 ワイオミング号に乗船していたE・S・ベンソン氏(筆者注:ジョセフ・ヒコ自伝によれば、7月13日早朝5時30分、士官の招待だと言って乗船して来た横浜の米国商人)による、合衆国蒸気軍艦・ワイオミング号の次の様な航行内容を入手した。

 アメリカの蒸気船・ペンブローク号が二隻の日本の武装船から大砲を撃ち込まれたという情報が今月11日に横浜にもたらされたが、マクドゥーガル艦長は即座に出港の準備を命じた。石炭と軍需品が積み込まれると、今月13日の朝5時錨を揚げ、15日に豊後水道に入り、姫島に停泊した。翌朝(今月16日)我々は内海の西側入り口である下関海峡に向かった。狭い海峡の北側は長門の国で、長州公が治める。

 彼は昨年、蒸気船・ランスフィールド号とブリグ型帆船・ランリック号を購入し、前者には125,000ドル、後者には約25,000を支払った。

 海峡に接近すると、北岸に隠された砲台から一発の砲声が聞こえ、下関に向かう西側の他の二つの砲台で繰り返された。

 岬を回ると、南に開口した入江にバーク型、ブリグ型、そして蒸気船が北岸沿いに錨を入れているのが発見された。蒸気船とブリグ型は直ちに「ランスフィールド号」と「ランリック号」と分かったが、バーク型の船名は不明だった。全ての船の縦帆の上には日本の旗が掲揚され、主檣の上には長門公の私旗があった。さて我々はこの船団に直行すべく舵を切り、北岸の水上約五十フィートの高さにある三門の大砲を据えた砲台が我々に向けて発砲し始め、主檣と後檣の間の索具を切断した。我々は直ちにアメリカ国旗を掲揚したがそのまま進行し、四門の大砲を装備した砲台からの砲撃を受けた。これに対しては舷側からの発砲で応戦した。

 今や我々は急速に船団に接近したが、バーク型は岸壁近くに停泊し、その約五十ヤード外側の一艘分先にブリグ型が停泊し、その一艘分先で五十ヤード外側に蒸気船が停泊していた。

 海峡の主要部は、これらの全ての船の外側になる。マクドゥーガル艦長は、ワイオミング号を蒸気船とブリグ型の間に向けるよう指示を出した。我々がバーク型の横に近づくと、バークの舷側の三門の大砲から発砲し、二分以内に我々はブリグの横に着き四門の真鍮製32ポンド砲の砲撃を受けた。我々は今や蒸気船を左舷に見る位置に来たが、他の船同様蒸気船の大砲は海峡に照準を合わせてあるので、蒸気船は数発の回転袍と小型砲を撃ったのみであった。すれ違いざま我々は両側弦の全ての大砲をブリグと蒸気船に打ち込んだ。六か所の砲台と蒸気船、ブリグやバークから休む暇もない砲撃のもと、蒸気船の舳先近くを回りながら南岸近くに来た。この時我々は座礁しかかったが、あまり問題なく後退した。蒸気船・ランスフィールド号は蒸気を上げ、牽引綱を解き、逃避のためにか我々の初回攻撃で被った損害を見極めるためにか岸に向いて、北岸近くに留まっていた。さてワイオミング号は攻撃地点に向かい、11インチ炸裂弾砲が船団中の蒸気船の喫水線の1フート上を狙い発射された。瞬時に蒸気船の船首から船尾まで大量の蒸気と煙が吹き上がり、ボイラーが爆発した。その船体に更に2発の炸裂砲弾が撃ち込まれた後、蒸気船への攻撃中止命令が出され、今度は幾つかの砲台やバーク型船やブリグ型船への砲撃命令で、装弾と発射が可能な限り素早く行われた。砲台では多くの炸裂弾が爆発し、町でもかなりの被害が出た。海峡から出る時にはブリグへ何発かの有効弾を命中させ、最後には船尾から急速に沈む姿を確認し、砲台からは至る所で火の手があがったが、我々が引き上げるまでには弱まっていた。

 この時までに我が船内では四人の死者が出て、七人が負傷した(後に一人死亡)。ワイオミング号の装備は12ポンド砲四門、旋回砲二門で、これに対するに、平均三門の大砲を装備した六ヵ所の陸上砲台、六門砲装備のバーク型船、八門砲装備のブリグ型船、二門砲装備の蒸気船で、ほとんどが32ポンド砲の合計三十四門であった。マクドゥーガル艦長は全く賢明にも、比較にならない撃ち合いにけりをつけ引き上げ、横浜に向かった。艦長、全士官と全乗組員は全く沈着に行動し、勇敢であった。ワイオミング号は敵方船団のただ中に侵攻し、ピストルを撃つ距離で側弦から攻撃を受け反撃し、同時に陸上砲台から物凄い連続砲撃を受けた。蒸気船に砲弾が命中すると、我が乗組員は三度の熱狂的な歓声を上げた。攻撃は一時間十分続き、我々は船体に十一発を食らい、マストや索具や煙突に二十発から三十発が当たった。

 一発の32ポンド炸裂弾が前方側弦砲の滑車装置の直下に当たり、爆発し、一人を殺し他の五人を傷つけた。

筆者注:ここまでが E・S・ベンソンの記述)

 我々は、D・デグラフ氏とオランダ日本総領事・バン・ポルスブルック氏の親切と好意により、次の如き下関湾(筆者注:下関海峡)におけるメデュサ号への攻撃の正式報告を入手し、メデュサ号のデ・キャセンブルート艦長の親切と好意により、下関湾の興味深い地図を入手した。それらを本日、我が読者への情報と満足のため掲載するものである。

 本月9日、オランダ国王の蒸気船・メデュサ号(16門砲)が周防灘すなわち内海路経由で神奈川に向け長崎を出発し、長崎から少し離れた場所で連絡艦・キエンシャン号 ― 艦長・La?on(筆者注:判読不明) ― に出合い、この艦長がメデュサ号に伝えるには、下関の幾つかの砲台と港に停泊する二艘の外国製軍艦(一艘は日本の旗を掲揚)から砲撃を受けたとの事である。メデュサ号艦長はすでに瀬戸内海を航行する決定をしていたので、長崎奉行から日本人の水先案内人を付けられていた。

 7月1日の朝メデュサ号は、下関海峡に入るため夜明けを待っていた Av-sima(筆者注:藍島、あいのしま、か)近辺で錨を揚げた。この海峡に入ると砲台の一つから二発の空砲が打たれ、直ちに町の前面に停泊するブリグ型船から八発の同様な合図があった。未だメデュサ号はこれらの合図に従って攻撃があるとは考えなかったが、― それはまた特に、対岸の九州の岸辺には住民の小型船が係留されていたからでもある。ブリグ型船に近づくと、このブリグとバーク型船はどんな旗も上げてなかったが、丘の上の多くの大砲で武装した砲台からメデュサ号を目がけ発砲が始まった。ブリグ型船(ランリック号)は、青地に三個の白く染め抜いた丸を三角形に重ねた上に白の横棒を置いた長門の大名の旗を掲げていたが、主檣には旗が無かった。その背後のおよそ二尋(ふたひろ、筆者注:=12フィート)ある水深の辺りに二艘の船が並んでいるので、メデュサ号は三ケーブル(筆者注:300尋、=約550m)以内には近寄れなかった。軍艦のやりかたでメデュサ号は、直ちに砲台と船団に向け通常弾と炸裂弾で応戦した。

 潮の流れに向かってゆっくり操船しながら、メデュサ号は休みなく砲台と船団に向け砲撃した。― 砲台は全て重火器(ほとんど24ポンド砲と6インチ炸裂弾砲)で武装していた。砲台の数は少なくとも六ヵ所有る事が分かった。メデュサ号は八門の大きな大砲が設置された最大の砲台を沈黙させたが、ほかの砲台は高みにある木々や岩の陰で、それらに砲撃を続けた。メデュサ号からの幾つかの有効弾が二艘の船からの砲撃を緩慢にさせたが、着弾距離内を航行する間、陸上砲台からの強力な集中砲撃を受けた。

 メデュサ号は下関前面の四ヵ所の砲台の集中攻撃にさらされ、敵の砲弾と炸裂弾の正確な照準でメデュサ号の船体が被弾しだしたので、艦長は、不幸にも余りに浅い水深に停泊する二艘の船を何とか沈没させ様とする事を諦めざるを得なかった。

 メデュサ号に照準を合わせる全ての砲台の攻撃に対し有効に反撃する事が不可能になり、九州側の幾つかの砲台の狙いにも疑問を感じたので、メデュサ号は常に出来るだけ素早く反撃しながら海峡からの急速な脱出を決めた。敵方の大口径砲弾がボイラーやスクリューや舵に命中して大惨事になる事を避けるため、常に反撃を続けながら蒸気圧を余り上げずゆっくり航海する事にした。

 一時間半にわたりメデュサ号が七ヵ所の砲台からの激しい砲撃に遭った事を考えれば、沈没もせず、痛むべき戦死者も少なかった事は驚嘆すべき事であった。

 敵方の31発の砲弾のうち、11発がメデュサ号の船体に当たり、残りは索具や煙突に当たり、3発の八インチ敵方炸裂弾が船中で炸裂した。一発の30ポンド砲弾が、メデュサ号に設置した一つの砲台で三人を殺し、二人を傷つけた。類似の砲弾が命中するや、大砲を指揮していた一級水兵に致命傷を負わせ、その後死亡した。総領事は、すぐ横を貫いた弾丸に当たり死亡する事をかろうじて避ける事が出来た。他の弾丸が右舷から飛び込み、ピストル収納棚を破壊し、八方に破片や弾丸を飛び散らせ、二人の水兵に重傷を負わせたが、彼らは未だ危篤状態にある。別の弾丸が艦長と海軍少尉補・ワッセルの間を貫き、二人はかろうじて死を免れたが、破片で軽傷を負った。ターコウ少尉と一人の下士官は、撃ち込まれた他の弾丸から奇跡的に死を逃れる事が出来た。破片やボルト類が船中を飛び回る様は、名状しがたいものであった。

 船中で三発の炸裂弾が爆発し、17発の弾丸が船中に打ち込まれ多大の損害が出た事を考慮すれば、ただの四人が死亡し五人が負傷しただけで済んだ事は、驚くべき事であった。

 艦長の諸命令は絶大な沈着さで遂行され、全員が良好に行動したが、― その内の何人かはかって戦闘の経験が無かった。

 敵方の損害を断定する事は不可能だが、彼らは砲台の威力に習熟しており、メデュサ号の榴弾砲と8インチ炸裂弾は敵に対して有効であり、諸砲台に多大な破壊を与えた事は重要である。砲台に命中しなかったメデュサ号の放った砲弾全ては町中に到達し、これに対し、メデュサ号に命中しなかった全ての敵弾は九州側対岸の小船群に到達した。海峡の最も広い所は約1,200オランダ・ヤード(筆者注:=1,092m)あり、最も狭い所は約900ヤード(筆者注:=819m)である。

この様な記事を載せた「シカゴ・デイリー・トリビューン紙」は同時に、本サイトの右上に掲示してあるワイオミング号の航路や長州軍艦の停泊位置を示した下関地図を掲載している。

ワイオミング号艦長・マクドゥーガルの海軍長官宛て報告書

♦ 横浜からの1863年7月23日付け報告書簡
(典拠:Executive Documents, printed by order of The House of Representatives, during the first Session of the thirty-eight congress,1863-'64. in sixteen volumes. Washington: Government Printing Office. 1864.

一方、直接下関海峡に侵攻して長州軍艦を攻撃したワイオミング号艦長・マクドゥーガル自身からも、横浜に帰港すると即時に、海軍省長官・ウェルス宛て報告書が出された。これは新聞報道ではなくアメリカ政府への公式報告であるが、いわく、

合衆国蒸気軍艦・ワイオミング号と、日本の下関における砲台と武装船との交戦

合衆国蒸気軍艦・ワイオミング号      
横浜、1853年7月23日
拝啓、

 10日に、内海の西側出口に於て長門公に所属するバーク型船とブリグ型軍艦によりアメリカの蒸気船が砲撃され、この蒸気船は姿を消したので多分沈没しただろう、というニュースが日本側からもたらされました。同日夕方、上海からの郵便が届き、本港から内海経由で上海に向かったアメリカの蒸気船・ペンブローク号が上記軍艦から砲撃され、豊後水道を通り逃げる事が出来た、という公式情報が届きました。同封するのはペンブローク号船長の本事件に関する陳述書の写しであります。

 13日に我々は、暴力行為の有った現場に向け本港を出発し、16日の朝、内海の西側出口の内側入り口に到着しました。潮流は都合の良い流れだったので海峡に進入し、下関の町が開けると、蒸気船、ブリグ型船、バーク型軍艦が縦帆に日本の旗を揚げ船首に長州の旗を揚げて、町の傍に停泊していました。我々はこの船群に向かって接近し、夫々二門から四門の大砲を備えた立地の違う六ヵ所の砲台の着弾範囲に入ると砲撃を受けました。右舷側に見るブリグとバークと左舷に見る蒸気船の間を進むと、ピストルを撃つ距離でこれらの船からの砲撃を受け、反撃しました。蒸気船の舳先を回り攻撃の位置に移動し、約一時間の攻撃を続けました。こんな応酬の間に蒸気船は動き出しましたが、良く狙いを定めた二発の炸裂弾がこの蒸気船のボイラーを爆発させました。ブリグは船尾から沈みかけているように見えましたが、疑いもなく沈没です。バークに与えた損害の程度は重大で、陸上にも多大な破壊を与えました。

 町に面する海峡は四分の三マイルの広さで、強い潮流があり、このため船を適切に操船することが大変困難で、本官には地図もなく、同乗の水先案内人は完全に動けなくなり、しきりに座礁の心配をした(事実、一度座礁しました)ので、本官は攻撃を切り上げざるを得ませんでした。

 陸上砲台からの砲撃は非常に活発で、我々が射程内に居る限り猛烈な砲撃が続きました。我々には十一回の命中弾があり、煙突と空中の索具に相当な損害を受け、それは我々が彼らが照準を合わせた射程内を通過したためです。残念ながら、四人の戦死者と七人の負傷者 − 一人はその後死亡 − の報告を致します。同封は軍医の報告書です。士官達や乗組員達の行動が、全て本官の望むべくものであった事を述べる事は、大きな喜びであります。

 第一分区主任のバートン大尉は、J・E・スウィーニー准尉、前方旋回砲主任・ピーター・キング水兵、檣楼主任・トーマス・サッドラー、水兵・チャールス・J・マーフィーの名誉ある行動報告をしました。本官は更に、甲板軍曹・後方旋回砲主任・フランク・ワイアット、そして檣楼主任・後方砲副主任・エドワード・ペンニーの沈着な行動報告をします。

 長門公は、最も強力で影響力の強い帝国藩主の一人であり、外国人を苦々しく思っているので自らこの戦争を起こした様に見えますが、この懲罰が加えられそして彼に向けられた事は、簡単には忘れないぞという教訓を彼に与えたものと信じます。

 今月の7日、上海向けに海峡を通過したフランスの蒸気伝達艦・キエンシャン号が砲撃され相当に傷つき、11日には、オランダ国王海軍のメデュサ号が更に砲撃され、損害を受け四人の死者と七人の負傷者を出しました。

 フランス蒸気船が襲われた事がここに知れるや否や、フランス提督・ジョレスが旗艦と砲撃艦と共に下関に向かいましたが、疑いもなく、現条約への無法な違反に対し懲罰を与えるでしょう。

 16日現在ジェームスタウン号はウースンに居ますが、直ちに長崎経由で本港に向かいます。本官はその到着を待ちます。本官は、船舶、陸上砲台、航路等々の位置を示す海峡の概略図を同封します。これら全てを敬意を以て提出いたします。
敬具
D・マクドゥーガル、海軍中佐

ギデオン・ウェルス閣下
    海軍省長官、ワシントン、D・C

と書いて状況報告をした。

尚このマクドゥーガル艦長から海軍省長官へ宛てた報告書に出て来る、座礁の心配をした日本人の水先案内人は房州小湊村の庄蔵・三十八歳で、横浜に帰ってから役人の調査を受け、その「申し口」が勝海舟編纂の『開国起原』の中の「文久年間邦内の形勢」に収録されている。

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02/15/2019, (Original since 02/15/2019)