日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

孝明天皇の譲位の決心

朝廷は安政5(1858)年3月20日、「なお三家以下諸大名の意見を聞け」との勅答を出し、わざわざ京都まで自身でアメリカとの条約勅許を貰いに来た老中・堀田備中守の願いを拒否した。ところが大老・井伊直弼は、ハリスと交渉する下田奉行・井上信濃守と目付・岩瀬肥後守に、「更なる条約調印の延期に努力せよ。しかし、やむを得ない場合は調印もやむなし」と戦争回避優先の決断を下し、6月19日井上と岩瀬は「やむを得ない」と、朝廷の勅許なしに日米修好通商条約に調印を済ませた。

この報告が幕府から関白・九条尚忠に出されると、6月28日、孝明天皇は大いに怒り、自分の意思が無視された事を歎き、宸翰を関白に出し、天皇を辞めたいと譲位の意思を告げた。いわく、

つらつら考えるに、元来帝位に就く事が容易でない事はすでに古書にもあり、唐土では子孫に限らず例え下民であっても、賢才を選んで帝の位を継がせている。すでに堯帝(ぎょうてい)は舜(しゅん)を帝王とした。それなのに日本では畏れ多くも子孫が続き、それを正流とし、他流を用いなかった。神武帝より皇統連綿として、誠に他国に例がなく日本に限る事で、ひとえに天照大神の思いやりだと言語に尽くし難く、尊敬限りないことである。自分においても、愚昧短才ながらその血脈が違わない事をもって、恐る恐る天日嗣(あまつひつぎ、=皇位継承)を継ぐことが恐れ多かった。・・・この上は愚昧の質ながらも精力を尽くし、出来るだけ精勤し、神宮をはじめ皇祖に対し聖跡を穢さず治国しようとの存意であった。・・・然るところ異船が時々渡来の上、アメリカ使節が着船し、応接し、和親通商を請い、表面は親睦の情を述べるが実は後年併呑の志が顕かになった。・・・しょせん条約勅許に関しては、どう考えても神州の瑕瑾(かきん、=きず)であり、天下の危機の基である。自分としては、どんな国へも許容する事は出来ない。然るに昨日武伝が披露した書状を見ると、誠に予想と違い、全く悲痛などと云っていられない位の事で、言語に尽くしがたい事だ。こうなっては考えをめぐらすことも出来ない。前文のような次第の上に、この上なく大きく極めて重大な事が次々に頻発し、苦労している。この一大事の時に、愚昧の自分が憖いに(なまじいに、=あえて)帝位に居て治世することは所詮微力で役に立たない。またこのまま帝位に居て聖跡を穢すのも実に恐れ多いから、誠に以て嘆かわしい事であるが、英明の人に帝位を譲りたいと思う。差当たり祐宮(さちのみや、=明治天皇幼少時の称号)が居るが、天下の安危にかかわる一重大事の時に幼年の者に譲る事は本意ではない。このため、伏見、有栖川の三親王(=伏見宮邦家親王、有栖川宮幟仁親王、有栖川宮熾仁親王)の中(の1人)に譲りたいと思う。・・・決して自分はこんな時期に気楽に過ごそうとの望みではなく、実際前文の如くの次第で、愚昧の質では帝位に居て万機の政務を聞き治国する事に少しも力が及ばない。その上、夷一件の儀を関東が申すまま聞いては、天神地祇(てんじんちぎ、=すべての神々)や皇祖に対し申し訳なく、かつ存念を申し立てても所詮は右の次第(=幕府による天皇無視)となり、実に身体ここに極まり、手足を置く所もない。なにとぞ是非帝位を他人に譲りたいと決心した次第である。早々に関東に通達せよ。

この様に、関東から法外な事を報告してきたと、孝明天皇は大いに怒りを発した。関白・九条はこれを評議にかけても有効な対策も浮かばず、さりとてこのまま関東へ伝えるわけにも行かない。種々議論の上、とりあえず天皇の怒りを静めるべく、幕府からより具体的な説明に来いと、ご三家か大老の内から誰か上洛すべく命じた。

しかしこのころ大老・井伊直弼は、「勅許もなくアメリカと条約を結んだ」と非難の声を上げて、なおかつ将軍後継に井伊の嫌う一橋慶喜を強力に推した前水戸藩主・徳川斉昭に急度慎の処罰を、名古屋藩主・徳川慶恕に隠居・急度慎を、福井藩主・松平慶永に隠居・急度慎を命じ、一橋家主・徳川慶喜の登営を停止する命令を出したのだ。またこの処分を発した数日後には、将軍・徳川家定が死亡している。更に、日米修好通商条約締結を聞いたロシア使節・プチャーチンも幕府に迫り、7月11日江戸に来て日露修好通商条約を締結した。とてもご三家か大老という幕府首脳を京都に派遣できない事情が次々に出来ていたのだ。日露修好通商条約を締結した3日後、幕府は朝廷に書簡のみで簡単に、「米国の例に準じてロシアと条約を締結し、更にイギリスやフランスもこれに準ずる」と伝えた。

この間にも孝明天皇は、自ら言い出した譲位について親しい人達と相談し種々意見をも聞いていたようだ。しかし幕府からのこの、「米国の例に準じてロシアと条約を締結し、更にイギリスやフランスもこれに準ずる」という簡単極まる届けを見ると、「さてさて段々悪い事ばかりが発し、実に実に当惑する。もう相談するまでもなく関白や太閤に話し、譲位を実行する事を決めた」と、その辞意を更に固くした。そして8月5日、関白・九条尚忠を前にした孝明天皇は宸翰の趣意書を出し、議奏・伝奏にも同様に宸翰を示した。いわく、

蛮夷一件では、愚存の自分が春以来言っている通りで、条約締結をしては実に以て神国の瑕瑾(かきん、=きず)、神宮を始め皇祖に対し申し訳ない事である。関東の言う様に、和親をすれば害が遅くまた拒めば害が早い事は承知しているが、いずれにしても天下の大患である。和親をすれば皇国の大体を失い、禍の増長が顕らかになった時は、公武共通の災いになろう。京都ばかりのためを思うだけでなく、徳川家のためにもよくないと思い隔意なく返答したが、去る6月21日まで一回の往返もなく、ただただ拠所なき次第で条約調印を済ませたと届け捨て同様に言って来た事は、何というやり方だ。厳重に言えば違勅で、本心で言えば不信の至りではないか。このため尋問をしたいと評議の上、三家の者か大老が上京せよと命じたが、三家の者は押込めて上京できず、大老も差支えがあるからと期日を引伸ばしてきた。その上朝廷の議論とは違う事を知りながら、7月7日ロシアともアメリカの振り合いで条約を締結したとの事。14日にはイギリスも同様、近々フランスも同様と届け捨てで報告してきた。こんなやり方を放置しておいて、朝威が立つと云うのか。いかに現今政務を関東に委任しているとはいえ、天下国家の滅亡に拘る大患をそのままにして置いては、前文の如く神宮以下に対し如何なものか。ただ公武の間柄に拘る事ばかり心配するのは、柔弱薄忠の者がやる事だ。平常と違うこんな国家の一大事だが、関東が道に外れたやり方をする以上、何でも聞き届けていては一体どうなるというのか。各自の考えを尋ね、一応は不信の儀を言ってやりたい。ついては、去る6月28日自分の書付けを出した通り、親王中へ譲位するという事を皆は度々差し止めたが、先文の通りの関東のやり方は、国家万民のためにという思いで伝えた自分の考えを一つも理解していない。実に全く自分の薄徳のためで、再三いうが、ぜひとも衆議を尽くし、譲位と幕府詰問というこの二件を関東へ通達して貰いたい。

この孝明天皇の断固とした譲位決心を受け、左大臣・近衛忠煕(ただひろ)、右大臣・鷹司輔煕(すけひろ)、内大臣・一条忠香、前内大臣・三条実万を始め議奏や伝奏が集まり対策を協議した。とにかく譲位だけは思い止まって貰わねばと知恵を出し合ったが、ついに、勅書を幕府と水戸藩主・徳川慶篤にも出すことで状況打開を図り、何とか孝明天皇の譲位の思いを納めた。これは水戸藩主・徳川慶篤に、天皇の意思に従わず条約を結ぶ幕閣を強く監督せよと云う天皇の考えを伝えるもので、この内容に期待し、孝明天皇は譲位の決心を変えたのである。しかし関白の九条尚忠は、ここ数日は左・右・内大臣の三公や前内大臣などが内蜜に話を進めているようだが、水戸にも勅書を出す等の事は前代未聞で同意も出来ず、こんなに強硬な言葉を使った勅書もかって無く、むしろ窮地に追い詰められた幕閣の暴発を恐れ、この勅書には全く反対で、自身が参朝しない中での関白なしの決定だった。近衛忠煕や鷹司輔煕も一旦はこの強硬過ぎる勅書の危険性を孝明天皇に諌めたようだが、「では天皇を辞める」と云う言葉に、これ以外に選択肢が無かったようだ。これにより孝明天皇は譲位の意思は変えたが、幕閣詰問の勅書になったのだ。

この勅書は8月8日、関白の許可しない蜜勅としてまず水戸藩に送られ、次いで翌9日幕府に送られたが、中に、

皇国の重大事である(条約の)調印の後で(朝廷へ)報告するとは、大樹(=将軍)から出された叡慮伺いの趣意も立たず、(朝廷の)勅答内容に背き軽率に條約調印したことは、大樹は賢明なはずだから、幕閣は何と心得ているのか、(天皇は)不審に思召されている。

と云う表現もあり、関白・九条尚忠の許可も無く朝廷から出された、後にいわゆる「戊午(ぼご)の密勅」と呼ばれるものだ。水戸藩主・徳川慶篤に宛て蜜勅を出した翌日、朝廷から幕府にも同様の勅書が出されたが、この幕府宛の勅書と同時に、関白・九条尚忠が密かに武家伝奏・広橋光成(みつしげ)と万里小路正房(までのこうじ なおふさ)に命じて幕府宛の連名の副書を書かせ、水戸藩宛に蜜勅が出された事を知らせている。これは朝議に出なかった関白・九条尚忠の、少しでも幕府との関係を繋ぎ止めておきたいという対応だったのだろう。

またこの勅書の写しは水戸藩宛てだけでなく、尾張、越前、加賀、薩摩、肥後、筑前、安芸、長門、因幡、備前、津、阿波、土佐の13藩にまでも各藩に縁故のある公家を通し、朝廷から密かに送られている。こんな事情もあり、このいわゆる「戊午の蜜勅」を看過できない大老・井伊直弼の、後に「安政の大獄」と呼ばれる朝廷をも含めた大弾圧のきっかけとなったのだ。

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07/04/2015, (Orginal since 10/11/2010)