日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

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ブログ: つれづれ日米歴史散歩

3、通商条約と内政混乱

タウンゼント・ハリス総領事赴任の背景

♦ ハリスの起用と指令書

ペリー提督と江戸幕府の結んだ日米和親条約の第11条により、アメリカ政府はタウンゼント・ハリスをアメリカ駐日総領事として下田に派遣した。

タウンゼント・ハリスは1853年、ペリー提督が香港で日本遠征の準備を整え上海で最終準備完了の停泊をしているとき、ぜひ艦隊に同乗して日本に連れて行ってもらいたいと頼んだ。しかし、軍人のみというペリーの方針によりハリスの願いは実現しなかった。その後ハリスは経験を買われ、アメリカの駐ニンポー(寧波)領事に任命された。和親条約締結後、アメリカ政府が駐日総領事の派遣を決めると、ペリー提督とスーワード上院議員(後の国務長官)はハリスを駐日総領事に推薦し、ピアース大統領もこれを受け入れた。同時にアメリカ政府は、タウンゼント・ハリスに日本と通商条約を締結する権限をも与えた。1855年9月13日付のマーシー国務長官からタウンゼント・ハリスに宛てた指令書は、

貴殿も承知の通り、我が政府代表としてのペリー提督により交渉された日本との条約は、合衆国と彼の帝国間の通商について何も明白な規定がありません。・・・人口の多い彼の国のいくつかの港に往来し、有利な通商を続けられないと云うこともないはずです。駐日総領事として貴殿を選んだ大統領の主な動機は、貴殿の東洋人に対する知識と、実業家としての総括的な理解力と経験により、やがては日本人を説いて感服させ、我が国と通商条約を締結させるだろうという期待からです。下田到着後、この交渉で本省と連絡がつく前に、その目的のため予備交渉をする好機が来るかも知れず、今貴殿にその交渉と条約締結の全権を付与します。

というものだ。またアメリカ政府はタウンゼント・ハリスに、日本に赴任する前にバンコックに立ち寄り、シャム王国(現タイ王国)政府と通商条約を結ぶように指示もした。ハリスはシャムと条約締結に成功した後、1856年8月21日(安政3年7月21日)、アメリカ蒸気軍艦サン・ジャシント号でオランダ語通訳のヒュースケンと共に下田にやって来た。

♦ ハリスの決意

ハリスの気持ちは高揚していたようだ。下田に着く3日前、8月19日に船上で書いた「ハリス日記」に次のような文章がある。

私は、文明国から派遣され日本に住む最初の正式代表者だ。これは我が人生の新時代で、日本の新体制の始まりとなろう。これから書かれる日本とその行く末の歴史のなかで、名誉を持って語られるよう行動したい。

これに先立つシャムとの通商条約は、イギリスのすぐ後を継いで交渉し締結した。しかし軍艦を持って来ないアメリカはイギリスより友好的と見られはしたが、威圧的なイギリスのやり方と違って交渉は長引き、ハリスの思うようには進まなかった。最終的に通商条約を締結する事にはなったが、腹を立てたハリスは、

これが、こんな不正直で卑劣で卑怯な連中との騒動の最後であってもらいたいものだ。ここは嘘をつくことが王族以下全員のルールだ。避けられる限り真実を語らない。・・・こんな国民に会ったことはないし、もう二度とこんなところに送られないことを望む。シャム人と交渉する最適方法は、小型軍艦を二、三艘派遣することだ。十月にバンコックまで河を遡り、祝砲を撃たせるといい。そうすれば、条約締結に私が何週間も費やした日数など不要の事だ。

と、やはり軍事力をチラつかせ威嚇すべきだったと5月24日の日記に書いた。そんな背景もあって、日本ではうまくやり、必ず成功を勝ち取ろうと気持ちが昂ぶったのだろう。

ハリス着任時の混乱

♦ 前水戸藩主・徳川斉昭の注意喚起

前章に述べた通り、ペリー提督と日本側交渉全権・林大学頭との間で日米交渉の合意が出来、安政1年3月3日、即ち1854年3月31日、「日米和親条約・12ヶ条」が横浜で調印された。その第11条には、「今日より18ヵ月後に合衆国官吏を下田に駐在させる」との合意条項があった。

この条項の日本語の文言や表現についての問題は次項に書く通りだが、アメリカとの和親条約調印から14ヶ月ほど過ぎた安政2(1855)年5月6日、前水戸藩主・徳川斉昭は登城して老中と会い、「条約記載の18ヶ月が近づいたが、彼らは指折り数えてやって来て、思い通りにならなければ江戸湾内に深く乗り入れるの何だのと言って脅かすだろう。日本側の武備増強以上にアメリカの圧力が大きくなる事が心配である。その圧力に屈し彼らの言う事を聞けば、それに乗じてロシアも来て、手も濡らさずに同条件を手に入れる。それを聞いた他の国々も同じ要求を出すと云う懸念が強い。従って、アメリカ官吏が来日した時どう対応するのか方針決定が必要だ」と注意を喚起した。

その10日後の16日、徳川斉昭はまた老中に対し 「アメリカ官吏を拒否すべきだ」と強く建議した。アメリカ官吏はオランダ人の例を取り登城したいと言い出すかも知れない。また第一に懸念する事は京都の扱い方で、今後万一全て裏目に出て、天皇の扱いに尊敬が薄くなり下民も難儀し始めれば、下民の救済もなく外国遭難船のみを助けるとは何事かと云う、思いもかけぬ非難が出ないとも限らない。この様に述べ、次項に続けて書く如く、やって来たタウンゼント・ハリスの執拗な要求を見通し、続いて起こる孝明天皇の幕府との確執を示唆するとも思えるほどの意見までも述べていたのだ。

♦ いよいよアメリカの 「官吏、タウンゼント・ハリス」 がやって来た


アメリカ領事館に使った下田、玉泉寺の山門
Image credit: © 筆者撮影

シャムで一仕事を終えたハリスは安政3(1856)年7月21日下田に上陸すると、信任状と着任を報ずる書簡を下田奉行・岡田備後守に提出し、和親条約に基づく総領事着任という訪日目的を伝えた。下田奉行は急ぎ幕府にその取り扱いの指示を仰ぎ、ハリスの「御用所に部屋を分けて欲しい」という要求を断り、とりあえず柿崎の玉泉寺を宿泊地として提供した。

この時の総領事受け入れをめぐり、幕府とハリスとの間にひと悶着が起きた。その原因は、林大学頭がペリー提督と調印した日米和親条約第11条の日本文にあった。この11条は下に掲げる通り、幕府はその文言中の「両国政府に於いて」を「両国政府の双方に於いて」と解釈した。ところが同時に作られた英文、蘭文、漢文は「両国政府の一方に於いて」となっている。さらに付け加えれば、「よんどころなき義(やむをえない事情)」も英文では「必要と見なした場合」と微妙に違っている。ハリスと下田奉行との交渉で日本側は、日本にはこの條約で言う領事駐在を必要とするやむを得ない事情などないからすぐ帰ってくれと交渉した。一方ハリスは、条約にそう書いてあって、アメリカ政府が必要と認め私を派遣したのだと答え、条約で認められた権利を主張した。

しかしハリスが下田に上陸すると、幕閣は評定所一座や勘定奉行吟味役、海防掛け等にその取扱いを諮問し、何れも漢文や蘭文の条約文には一方の政府の必要性により官吏を派遣出来、日本文の条約第11条は恐らく間違いであろう事を良く理解していたのだ。しかし徳川斉昭などの圧力もあり、できればハリスを上陸させたくなかったのだ。そう書いてある条約を結びながら、それを否定したり先延ばししたりする幕府のやり方は、その後もとことん権利を主張する欧米の外交官との軋轢となっていく。

日本の歴史上初めて結んだ国際条約の文言は、意識的にか偶然にか厳密性を欠いていた。第11条に限らず、第12条でも批准書交換に再来したアダムス大佐と議論になったが、現代ほどその重要性が認識されていなかったこともあろうが、これからハリスと結ぶ通商条約でも条約の目的、有効範囲、改廃規則、平等性などにも弱点があり、夫々に問題を引き起こす事になる。

 

和親条約第11条(日本文)

第十一ヶ条 : 両国政府に於いて、よんどころなき義これあり候模様により、合衆国官吏のもの下田に差置き候義もこれあるべく、もっとも約定調印より十八ヶ月後にこれ無くては、その儀に及ばず候事。

混乱の原因と更なる不思議

嘉永7(1854)年3月条約調印の当初幕府は、「両国政府に於いて」を「両国政府双方に於いて」と理解した。即ちアメリカ単独の理由での派遣は不可ということだ。
安政2(1855)年6月
(ハリス着任以前)
幕府は、条約第11条を大目付や目付に評議させた。評議の結果、蘭文と漢文と比較し、日本文だけが違っていることが判明した。蘭文や漢文では、どちらか一方の政府の決定で官吏を送れる。即ち、アメリカはいつでも必要に応じて官吏を送ってくるだろう。大目付や目付の答は、その時が来たら日本からもアメリカに官吏を送るという条件でアメリカ官吏を受け入れよ、と答申した。
 (この事実は、ハリス着任の1年も前に、この日本文は間違っていると老中が理解していたのだ)
安政3年7月25日ハリス着任の報告で、幕閣はアメリカ総領事の信任状と着任報告書簡を受理しない事に決し、この旨を下田奉行に命じた。
 (幕閣は日本文の間違いに気付いていながら、なぜこうも理屈に合わないことをするのか不思議だ)
ハリスは当然受け入れない。
安政3年7月28日ハリスは、玉泉寺に止宿を了承。
安政3年8月 5日ハリスは、玉泉寺を正式に総領事館と定めた。
安政3年8月17日下田奉行井上と岡田の再度の要請で、幕府は、評定所一座と海防掛にまたハリスの要求する領事駐在を評議させた。大目付や目付は評議の結果、正式に総領事を駐在させ、駐在に伴う諸規則や手続きを決めておくほうが今後のためによい、と答申した。
安政3年8月24日幕府はアメリカ総領事の駐在を許可することに決し、ハリスと話すため目付・岩瀬忠震(ただなり)を下田に派遣した。また、前水戸藩主・徳川斉昭にその事情を告げた。

日米和親条約補修協約(下田協約)の締結

ハリスは1857年6月17日(安政4年5月26日)、下田で日米和親条約の補修協約、即ち日米の「下田協約」(筆者注:「日米約定」、また「下田条約」とも呼ばれる)を結んだ。これは、ペリー提督との和親条約締結時から変化した状況に対処し、より細かい規則を定めたもので、次のような9条項からなっている。

  1. 最恵国待遇条項により長崎もアメリカに開港する。
    (ハリスが、安政2(1856)年12月23日調印の日蘭和親条約を参照し、日米和親条約第9条の最恵国待遇条項により、長崎港のアメリカへの開港を要求した)
  2. 下田・箱館に入手不可能品取り扱いのアメリカ人を置き(居住権)、箱館に下官吏を置く。但し、安政五午年中旬、1858年7月4日より実施。
  3. 貨幣交換時、6分の吹き替え費用を日本に支払う。
  4. 領事裁判(治外法権)。
  5. 船舶修理費の支払い。
  6. 領事の自由旅行権。
  7. 領事の商品直買。
  8. 本条約の公式言語を蘭語とする。
  9. 本協約発効日。

これはハリスが駐日総領事として、日米和親条約の範疇内で行った初仕事だ。ここでしかし「日米和親条約の範疇内」とは言いながら、第2条項を見れば、日本では入手不可能な品を扱う商人を置くとは言え、更に箱館にアメリカ人の下官吏(筆者注:英文では Vice-consul )まで置くやり方は、貿易を始める事と同等と言える体制を認めたことになる。

この時すでに日本とオランダは、1856年1月30日(安政2年12月23日)に「日蘭和親条約」を調印していたから、日米和親条約・第9条の最恵国待遇条項により、ハリスの指摘によりオランダに開港した長崎も自動的にアメリカに開港された。さらに重要な点は、限定的ながらも、それまで日本が拒否していたアメリカ市民の居住権が認められたことだ。ハリスはまた、領事裁判という治外法権もはっきり獲得したが、これは後に不平等條約として問題になる。更にまた、領事に限り自由旅行権も認められた。

この下田協約締結時、建国後80年前後しか経っていないアメリカが日本を最初に開国し、西欧文明国中で自分が第一番に日本に乗り込んだ政府代表者のアメリカ総領事だと、ハリスはおおいに意気込んでいた。これは当時のアメリカ政府と議会もその通りで、アメリカ議会に残るこの「下田協約」の批准書英文の日付けの記述を見れば、「・・・下田御用所に於いて、西暦1857年6月17日、アメリカ合衆国独立第81年、・・・英文書面に署名するアメリカ合衆国総領事、タウンゼント・ハリス」と、現地での調印文書には無い独立後の年数をも併記し、ハリスの名前を入れている事だ(「The Statute at Large and Treaties of the United States of America, From 1855 to 1859, Vol. 11, P-723, 724」)。これは、ペリー提督の調印した神奈川条約の批准書もまた同様である(「同 P-597, 598」)。

ハリスがアメリカからパリ経由で日本に赴任する間に、大西洋横断の船中やパリで、「自分は総領事だ」と威張り散らして方々で物議をかもし、危うくマーシー国務長官から更迭されかけた程のハリスだったが、抵抗を示す日本との交渉ではそんな強烈な自我と自尊心が大いに役に立ったようだ。この交渉で日本側を説き伏せるのに、アメリカ政府がハリスに与えたという「日本が条約を守らねばアメリカは武力行使をする」といった指令書簡なるものをちらつかせたり、大統領の親書を持ってきた使節であるから、江戸に赴いて差し出すのが国際的礼儀であるなど、次々に圧力をかけながら矢継ぎ早に交渉を進めようとした。しかし日本側もハリスの出方を見ながら決定に時間がかかったから、補修協約の締結に10ヶ月も必要だった。

修好通商条約へ向けたハリスと幕府との駆け引き

♦ 初期交渉は決裂

補修協約交渉中からハリスは、自分は大統領の親書を持ってきた使節であるから、江戸に赴いて将軍に直接差し出したいといっていた。そして日本に告げるべき「重大な機密事項」もあるといった。交渉代表者の下田奉行・井上信濃守と中村出羽守は、幕府から全権を委任されているので下田で渡してくれと交渉したがハリスは納得しない。井上と中村は、ハリスのいう機密事項とはまず間違いなく貿易開始と開港場増加の提議であろうと推定し、幕閣にはその旨報告していた。

一方ハリスは引き続きの交渉で、とにかく江戸に行き将軍に会い、親書を渡し、通商条約交渉のきっかけを作るべく頑固を押し通した。大統領からは、江戸に行き親書を将軍に直接渡せと命令されている。万国の慣例はこのようなものであり、老中にさえも渡せないと、一歩も譲らず妥協しないから交渉はなかなか決着がつかない。また今後ロシア、イギリス、フランスなどが来ても、同じ要求を出すだろうともいった。しかし、日本側が強硬に要求する「重大な機密事項」をあらかじめ幕府の交渉代表者の井上信濃守と中村出羽守に示唆する件と、ハリスがアメリカ大統領の命令だという上府し直接将軍と面会する件とが絡み合い、下田での交渉は決裂状態になった。

♦ 幕府の譲歩とハリスの出府、将軍謁見

 
アメリカ公使・タウンゼント・ハリス(左)と幕府老中・堀田正睦像
千葉県佐倉市城内町官有無番地、
佐倉城址公園・本丸跡入り口にある
(ほぼ 北緯35°43′16″、東経140°13′3″)。

Image credit: © 筆者撮影

こんな交渉過程で老中首座・堀田備中守(正睦)もその国際関係の意味するところを考え、海防掛けの勘定奉行や大目付などにハリスの要求を諮問した。安政4(1857)年3月から4月にかけて出された答申は、ハリス出府の許可であった。そこで堀田は、基本的にハリスの出府を許すよう幕府の方針変更を決め、7月20日、この決定を先ず溜詰諸侯に内達した。これを受けた溜詰め諸侯の松平讃岐守、松平下総守、松平越中守、酒井雅樂頭(うたのかみ)などは、早速老中・堀田備中守にハリス上府の即時中止を建議したが、それほど幕府中枢にも強い拒否反応があったのだ。「溜詰め」というのは、家門大名や元老中などが江戸城に登城したとき黒書院の溜の間に席を与えられることで、親藩や譜代の重臣から選ばれ、老中とともに政務上の大事に参画した役職である。しかし堀田はその強い意思を変えず、更にハリス上府の期日を評議させ、徳川三家にもハリス上府許可の意思を内達した。これを聞いて我慢できない前水戸藩主・徳川斉昭と現藩主・慶篤(よしあつ)親子や尾張藩主・徳川慶恕(よしくみ)は強く反対意見を唱えたが、そんな強硬派の反対にも屈せず、堀田はハリスの上府期日を9月下旬と決め、井上信濃守を通じハリスと旅行や登城手続きを協議させた。

溜詰め諸侯からハリスを上府させる理由を追及されると堀田は、「万国の通則」はこの通りであって、日本が国際社会と交流するにはその慣例に従わねばならないと、自己の強い信念を説明した。これに納得しない上述の反対派は前水戸藩主・徳川斉昭の元に集い、アメリカ総領事(当時)・タウンゼント・ハリス上府反対の大合唱を唱えた。しかし堀田は動ぜず計画を進め、1857年12月7日、安政4年10月21日、ハリスの登城と将軍謁見が実現した。

こんな背景のもと、ハリスの下田から江戸への旅は著名大名格で、江戸城でも驚くほど手厚く迎えられた。ハリスは将軍・家定に謁見し、自身がアメリカ代表として大統領の親書を持参し、全権を与えられた名誉を述べ、将軍・家定の健康と幸福や日本の繁栄を祈る言葉と共に、アメリカの国旗を模したと思われる赤白縞模様の絹布に包んだ箱に入れた、1855年9月12日付けのピアース大統領の親書を将軍の前で老中首座・堀田正睦に手渡した。これに対し将軍・家定もよく通る明瞭な声で、

遠境の処、使節をもって書簡差し越し、口上これを申し、満足に令(のりご)つり候。猶幾久しくも申し通すべく、この段大統領へ宜しく申し述べるべし。

と答えた。これで、もめにもめた外交官としての上府と将軍謁見が無事に終わり、ハリスは大統領親書を将軍の目の前で直に提出し、将軍も直接応答してくれ、やっと面目を施すことになったわけだ。(筆者注:11/25/2018 版までは将軍・家定の返答を「森山多吉郎がオランダ語に訳し、ヒュースケンが英語に訳しハリスに伝えた」と記述したが、これは誤りで、将軍・家定との謁見時は英語も日本語も通訳は無かったので(東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース、安政四年十月二十一日、米国総領事謁見次第書)、上述のごとく訂正しました。)

♦ ハリスの大演説とその検討

しかしハリスはここで一息入れず、26日、勢いをかって老中首座・堀田正睦の役邸を訪ね大演説を行っている。技術革新による蒸気船、電信などのもたらす交易の拡大や素早い情報交換により、急速に変わりつつある世界情勢を説いた。そしてアメリカ大統領は、親書にも書いてあるごとく日本と自由貿易を確立したい旨を伝え、公使を江戸に駐在させたいと述べた。更に領土的野心の無いアメリカと通商条約を締結しておけば、イギリス、フランス、ロシアといった野心的な国に対しても間接的な防衛になる旨をも説いた。すなわち、アメリカと受け入れ可能な通商条約を結んでおけば、仮に他国が過大な要求を出しても、アメリカと同等の内容にする事は可能だということだ。

このハリスの大演説の後、堀田は更に不明な点を確認し理解を深めるべく、大目付・土岐頼旨(よりむね)、勘定奉行・川路聖謨(としあきら)、目付・鵜殿長鋭(ながとし)、下田奉行・井上清直、目付・永井尚志(なおゆき)などそのブレーンをハリスの泊る蕃書調所に送り、公使の役割やその権限、派遣方法、領事との違い等細かく質問し理解を深めさせた。こんな西洋流の国際慣行を一から勉強する事は、日本にとって不可欠な対応だった。

幕閣は更に、ハリスのこの堀田邸における演述書を評定所、海防掛、長崎・浦賀・下田・箱館の各奉行に示し意見を求めたが、この答申は意見が割れた。拒否せよという見解こそ無かったが、「受け入れよ」という意見と「諸侯に許否を諮れ」というものとが二分した。そこで幕閣はまたハリスの演述書を諸侯に示し、その許否を諮問した。ハリスは世界情勢を説明し明確に通商開始を要求している。しかし維新史料綱要を見る限り、諸侯の答申は明確に「交易を拒否せよ」というものは久保田藩と鳥取藩の2藩だけで、「交易を許可せよ」と云うのも徳島藩や明石藩などの6藩、その他の20藩ほどは「諸侯協議で決すべし」とか「慎重考慮を要す」と、いわば無責任な回答しか寄せていない。要はどうしてよいやら分からなかった、というのが当時の大多数の諸侯の実態だった。諸侯というのは、自分の領地を持つ一国一城の主のことだ。確かに堀田と違って直接ハリスと話していないから、その印象は薄かっただろうが、今考えて非常に物足りないと感ずるのは筆者一人ではなかろう。

♦ ハリスの威嚇と通商条約の交渉開始

老中・堀田備中守は理解してくれるとみたハリスは、さらに条約の基本内容を説明したり、また圧力をかけるため、予定していた幕府の重要な朱子学教育機関である大成殿や学問所の公式訪問を突然キャンセルしてみたりと、1月以上も江戸に留まり影響力を行使した。上述のように評定所や海防掛けに諮問しまた諸侯に諮問し、なかなか意見のまとまらない幕府から条約交渉に入る返事をもらえないハリスはいらいらして待っていたが、1858年1月9日(安政4年11月25日)、久しぶりにハリスを訪れた井上に向かって奥の手を出して恫喝した。この日の「ハリス日記」に次のように書いてある。

そして話の締めくくりに、私に対するこんな待遇を見れば、この全権使節が交渉を進めるためには、軍艦を率いてきて弾丸を見舞わなければ何も進まないようだといってやった。これ以上何もやる気が無いなら下田に帰りましょうといって話をやめた。気の毒にも信濃守は明らかにうろたえてながら聞いていたが・・・

本気で武力行使の可能性を示唆したハリスの剣幕に驚いた井上は、ただちに堀田に報告し、12月2日、堀田の役宅で再度ハリスとの会談が実現した。そしてハリスはついに堀田から直接、通商貿易、公使駐在、下田閉港と新港の開港という三つの基本合意を勝ち取り、細部にわたる通商条約作成交渉の開始にこぎつけた。日本の弱みを握ったハリスはその席で、大統領の願いは別に何があるわけでもなく、ただ日本の利益を考えてのことだ。この条約を結ばなければ日本に危難が降りかかるから、そうならないようにしてやりたいだけだ。この点を日本が良く理解していれば、日本が条約を結ばないといってもアメリカが日本を敵視することは無いと、充分に恩を着せ脅しをかけることを忘れていない。堀田は、下田奉行・井上信濃守と目付・岩瀬肥後守とを通商条約交渉全権に任じ、ハリスと細部にわたる条約文の作成交渉を始めさせた。

しかしここで指摘せざるを得ない事実は、その背景が何であれ、ハリスは態度をはっきりさせない幕府に対し、軍事力に訴えるぞと威嚇作戦を取ったことだ。また、イギリスやフランスの大艦隊がやって来るぞ、とも言っているが、筆者の目から見れば、自国の軍事力を誇示するか他国・イギリスやフランスの軍事力を指摘するかの違いだけで、ペリー提督の作戦と基本的に同じことである。上にも書いたが、ハリスが下田に来る前にシャムで条約を結んだ時も、軍艦を引き連れてきて祝砲を撃たせれば、条約締結の時間をはるかに短縮できたと自身の日記に書いたが、最後は軍事力を強く示唆しようとハリスは思っていたのだ。4年半前にやって来たペリー提督の大艦隊に怯えて以来、日本を預かる老中首座・堀田備中守や幕閣には、まだ充分な海軍力も無い今、この 「軍事力を行使するぞ」という威嚇作戦が最も有効だった。明治以降になって、ペリー提督は軍艦を引き連れて来て威嚇作戦を取ったが、ハリスはそうしなかったという賞賛の声が出たようだが、程度の差こそあれ、二人とも同じように軍事力を誇示し威嚇作戦を取ったというのが筆者の見解だ。

♦ ハリスの提案した通商条約案と最終合意

安政1年3月3日にペリー提督と結んだ日米和親条約やこのタウンゼント・ハリスと結ぶ事になる日米修好通商条約は、日本開闢以来の出来事だった。従って当然、幕府首脳には欧米流の発想も無ければ条約の義務と拘束力に対する理解も無かった事は明らかだ。双方を結ぶ共通事項は、人類に共通する人間性や、公平さや公正さ、あるいは双方の信義といった人間の倫理感に基ずく限られた共有意識だけである。条約交渉中に理解しあえたある種の信頼感もあったろうが、しかしそれと同時に、海軍力や軍事力で大いに劣っているという危機意識が、国家の独立性や威信という基本事項を深く考察し、それを条約に組み込む余裕を無くしていた事実を見逃す事は出来ない。

さて上述の如く、ハリスの威嚇で会談した老中・堀田正睦は、下田奉行・井上信濃守(清直)と目付・岩瀬肥後守(忠震)とをハリスとの通商条約交渉全権に任じ、ハリスは安政4(1858)年12月4日、条約交渉の元になる通商条約と貿易章程の草案を提出した。これを翻訳した日本側は12月11日から、ハリスの滞在する蕃書調所で条約細部内容の交渉を開始し、翌年1月12日に第13回目の交渉を行い、その全ての審議を終了した。

この様にして、蕃書調所に於て張り詰めた緊張の下に行われた通商条約と貿易章程の交渉は、その1ヵ月後に一段落したが、2日後の14日ハリスは清書した条約文書を2通作り、自身の署名を入れて1通を井上信濃守に渡した。張り詰めた気持ちが緩んだためか、この頃からハリスは体調がすぐれず、通商条約文の完成を一区切りとし下田に帰りたいからと日本側に船の手配を頼み、蒸気軍艦・観光丸で下田に向かう事になった。安政5(1858)年1月21日に江戸を出発し、25日に下田に付いたが、この4日間の船旅で時間の余裕が出来たハリスは、船中でペリー提督に宛てた手紙を書いている。乗船前に自国のカス国務長官宛てに通商条約文完成の長文の報告書を書いたが、自分の達成感を抑えがたかったのだろう、ペリー提督宛にも長文の手紙になっている。

さてまた、ここで合意した条約文の内容には、明治になって何十年にも渡り日本政府を苦しめ、日本国民を興奮させる事になる二つの大きな問題点があった。その一つは第4条で記述し第11条の貿易章程に規定する輸出入税であり、二つ目は第6条に記述する裁判権すなわち治外法権であった。これらについては将来、「幻の改税条約」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) や通商条約の改定として触れるはずである。また後に、日本に滞在し明治政府を陰で応援するニューヨーク・トリビューン紙記者のエドワード・H・ハウスからの問い合わせに対し、当時引退してニューヨークに住んでいたハリスいわく、治外法権はアメリカ政府の国務長官からの指示であったと回答している。これに関しては「帝国の苦難」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) を参照。

朝廷の影響力の増大

♦ 朝廷の政治介入

和親条約と開国の前章でも書いたように、ペリー提督来航時には、当時の幕閣の首座・阿部伊勢守が朝廷にアメリカ国書を奏聞し、和親条約締結の報告もしている。今回もまた、幕府はハリスを上府させると決定したときも、将軍・家定と謁見したときの様子をも逐一朝廷に奏聞した。幕府はハリスと通商条約交渉を開始したが、同時に、前述したハリスの堀田邸における演述書も朝廷に奏聞した。このように朝廷は政治の場に明確に姿を現し、幕府も朝廷の権威をもって挙国一致を達成しようと目論んだから、状況は更に複雑になってきた。

そもそも、慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原の戦い以降、大坂の陣で豊臣勢を完全に崩壊させ実力で天下の覇権を手にした徳川家康は、ただちに「禁中並びに公家諸法度」をつくり朝廷をもその制御下に置くことに成功し、それ以降、朝廷の政治向きの口出しは禁止されて来たのが江戸時代の政治の枠組みだ。しかしこれが崩れはじめたのは、文化元(1804)年、長崎に来たロシア使節・レザノフに通商を断り、怒ったロシア軍艦が樺太、択捉、利尻の日本側施設を破壊したが、この出来事を文化4年に幕府が朝廷に報告したことから始まった。

その後各国の軍艦がたびたび日本に接近し、巷間に外国船渡来の噂がいよいよ高まった。孝明天皇はこんな噂に驚き大いに心配しているからと、弘化3(1846)年8月29日、朝廷は幕府に「海防勅書」なるものを出し、幕府は海防を強化し宸襟(しんきん=天皇の心)を安心させよと命じた。この時、京都所司代にこの天皇の懸念をお沙汰書として伝える朝廷の武家伝奏は、幕府へ、「文化度の振り合い」として、すなわち文化4年にもロシアとの外交問題を天皇に報告してくれたから、今回も外国船渡来の事実を伝え天皇を安心させてはもらえないか、と内々頼んだのだ。 このように天皇が幕府に海防勅書として命令を出し、幕府もそれに異を唱えなかったこと自体、すでに「禁中並に公家諸法度」に基づく徳川幕府の政治システムの重大な変革であり、朝廷が公然と徳川幕府の政治に介入し始めたのだ。

またこんな政治的介入の禁止だけでなく、それまでは天皇家の養子縁組や親王の宣下、関白・諸大臣や武家伝奏の人事に至るまで、先ず幕府に天皇の「御内慮」を示し、幕府の承認を得てさえいたのだ。若し幕府がその首を縦に振らなければ、たとえ天皇の御内慮といえども実行不可能だったわけだ。この件に関しては、後に朝廷が窮地に立った幕府に、「関白・大臣・武家伝奏の人事にまだ介入する気か」と諮問し、幕府は文久2年12月16日これを辞退する態度を示し終わりをむかえ、一層朝廷の権威が上がっている。

以上が朝廷の政治介入の端緒であり、朝廷の独立と顕在化の過程だが、更に見落とせない事実は、江戸時代に入り200年以上にもわたって平和を持続する事に大きな役割を果たしてきた儒学の伝統だろう。五常の教えの「仁、義、礼、智、信」、それから派生する五倫の関係の「君臣、父子、夫婦、長幼、朋友」だ。徳川家康が抜擢し幕府の儒学の師に据えた若き林羅山以来、武士の正学として発展した儒学・朱子学の教えから特に国家像を見れば、名目的にもせよ 「その頂点に立つ天皇とその臣民」という構造が見える。後に幕府がそんな朝廷の権威を大いに利用もしたが、朱子学を学ぶ武士階級の中には、その教えの如く、「上下定分の理」 即ち 「国家の頂点に立つ天皇とその臣民」という考えが何の不思議もなく根付いて行ったのだ。そして18世紀には、朱子学を大切にする江戸幕府の将軍や幕府親藩の諸侯は勿論、全国の大小名諸侯も、将軍は国家の頂点に立つ天皇から「大政を委任されている」という考えになっていた。すなわち天皇と将軍の関係は、「君臣の大義」にもとずく「天皇に仕える将軍」という上下関係として理解されていったわけだ。

一方、賀茂真淵や本居宣長と続く「万葉集」、「源氏物語」、「日本書紀」、「古事記」などの研究や、それを引き継ぐ平田篤胤の復古神道を通じた18世紀後半から19世紀前半のいわゆる「国学」の隆盛も、日本古来の天照大神や、ひいては天皇を中心に据える思想の発展を表に押し出す役割を果たした。更に将軍を始め諸大名、あるいはエリート武士が受ける官位は朝廷から下される。これらが尊王の行動を本流に押し上げる重要な要素となっていった。

また天明の大飢饉(天明2〜8年・1782〜88年)には幕府の膝元の江戸でさえ大規模な打毀しが起るなど、幕威を恐れない民衆蜂起が起こり、幕府の威厳は大幅に低下した。従って幕府は、事ある毎に朝廷の権威にすがる行動が多くなり、それに比例して朝廷の権威が上がったわけだ。

こんな背景から、国の運命を左右する開国、開港、通商条約締結等は、少なくとも朝廷の同意が必要だとの考えがご三家や親藩の中にさえ普遍化し、朝廷の意向に逆らえば「違勅」に当たるとされたのだ。

♦ 朝廷内政治力学の変化

弘化3(1846)年以降、朝廷内でもいくつかの重要な変化が起こりつつあった。まずその年2月13日に践祚(せんそ=皇位継承)した孝明天皇は気骨あるリーダーとして、天皇の威厳と権限を充分に使い、日本国の行く末を案じ始めた。すなわち、上述のように政治介入が始まった。またその当時の関白・鷹司政通は、実力者で朝廷内をまとめるオピニオン・リーダーであったが、開国論者で、鎖国以前は海外との交易があったのだから、世界情勢がこうまで変化してしまえば交易をして国力を蓄えたほうが良いと考えていた。

しかし一方で関白・鷹司政通は、ペリーが来航し手渡した「通商をしたい」というアメリカ大統領の書簡内容と、「各藩の建議は和戦の二字で、再来航時は平穏を旨とするが、最悪時は戦の覚悟を持て」と各藩に命じた幕府の対応策を幕閣から伝えられた後の嘉永6(1854)年12月28日、公卿は勿論、堂上家を始め地下家の蔵人、官務、大下記、出納など朝廷内の諸官に至るまで、「即今別状あるわけではないが、この事態を心得ているように」とこれを伝え、多くの諸下司へも伝達すべく命じた。こんな朝廷内での関白の対応が、後に幕府外交への多くの公家を含む大衆化した議論を生む素地を造ったようだ。

そしてハリスが来て通商条約の作成とその調印を迫ると、開国という鷹司政通や幕府の考えに真っ向から反対する公家が台頭し始めた。「自分の代に夷人が神国・日本に入り込んでは、祖先に対し申し開きできない」と外国人を強く嫌う孝明天皇も、当時関白から太閤になっていた鷹司政通のこんな開国論を強く嫌ったので、台頭する新公家集団の考えと行動を強く支持し、その行動力に期待した。孝明天皇は自ら朝廷のリーダーとして行動し、単なる飾り物ではなかった。すなわち朝廷内の政治力学も、長い関白万能の時代から、天皇と革新公家主導へと大きく変わり始めたのだ。

通商条約の調印と安政の大獄への道

♦ 条約勅許要請と差戻し

安政4年12月11日(1858年1月25日)、ハリスと日本側全権の井上信濃守と岩瀬肥後守との交渉が、ハリスの滞在先の蕃書調所で始まった。翌1月14日、ハリスは合意に達した条約の成案を提出し速やかに調印を求め、21日、幕府の用意した観光丸で下田に帰った。

一方幕府は日米修好通商条約について朝廷の理解を得ようと、12月17日、アメリカのペリー提督と直接交渉した林大学頭と目付・津田正路を京都に送り、「鎖国は改め、万国に程よく付き合わねばならない時代になった」と、当時幕府がアメリカから入手した「ペリー提督日本遠征報告書」の翻訳内容までも朝廷に説明させた。朝廷は一応話を聞くとこの「軽量使節」に、用は済んだから帰れと告げ、朝廷の理解を得ることは出来なかった。しかし実際のところは、当時の朝廷が理解していた事情とはあまりにもかけ離れた現実に、その想像力を超え、作り話だろうと疑いさえ生じた可能性もある。ハリスとの交渉が終わると幕府は即刻、老中の堀田と全権交渉委員の岩瀬と川路を京都に送ることに決め出発を命じた。これは朝廷の権威をもって挙国一致を図ろうとする幕府の方針に基づいたものだが、裏を返せば、御三家や譜代大名など幕府内部にさえ大きな反対勢力を抱えた老中たちが、その必要性を充分に説得もできず、また権力を持って服従させる気力も無く、朝廷の権威を利用しようとした安易で姑息な手段だった。

堀田備中守は、自ら京都に行き直接朝廷に説明すれば何とかなると思ったであろう。しかし、上の「朝廷の影響力の増大」でも書いたように、朝廷内では大きな政治力学的変化が起きつつあった。関白・九条尚忠や太閤・鷹司政通などの影響下で勅許が出そうな状況を孝明天皇側からの秘密情報で感知した新興革新勢力の公家たちは、堀田が関白や議奏を「黄白」すなわち金銀を持って攻落したと怒り、急きょ組織した88人もの公家たちが突如として宮中に押しかけ、「朝廷としてはなんとも言いようがないから、関東でよく考えて決定するように」という関白・九条尚忠の条約許容の勅答案を覆してしまった。数の力で関白に猛反対し、その決定を覆させたのだ。革新派公家たちのこの団結した強訴は、これ以降も時として行われるようになる。このように朝廷は、幕府老中の堀田備中守の説明にも容易に耳を貸さなくなっていた。これは大きな誤算だった。二ヶ月近くも京都で粘ったが、安政5年3月20日「なお三家以下諸大名の意見を聞け」との朝旨に勅許を得る見通しも立たず、堀田は江戸に引き返した。

♦ 大老・井伊直弼の決断と条約調印


井伊直弼像、昭和29年再建(横浜市掃部山公園)
Image credit: © 筆者撮影

井伊直弼像、滋賀県彦根市(彦根城公園)
Image credit: © 筆者撮影

外交問題で朝廷とうまく行かず、後継問題も焦眉の急になっている将軍・家定は大老職を設け、安政5(1858)年4月23日、彦根藩主・井伊直弼を大老に据えた。一方堀田はまた江戸に出てきているハリスに、約束している通商条約の調印を何回も引き伸ばす交渉をしたり、5月6日には条約調印の困難さを説明する将軍・家定の親書を米国のピアース大統領宛に出したりと、種々の条約調印延期策をとった。大統領にまで親書を出されたハリスは、仕方なくまた下田に帰った。下田に帰っても待つ以外に方法のないハリスは、安政5年5月23日(1858年7月3日)、上府から謁見に至る出来事を記述した長い手紙を、ハリスのニューヨークの親友・ナサニエル・ドハティー宛てに出している。

幕府はいつもの通り、この安政5年5月6日付けのピアース大統領宛の将軍・家定の親書の写しを朝廷に提出したが、これを読んだ孝明天皇は、ハリスはあっさり下田に帰ってしまったし、堀田が帰府して以降幕府から何の音沙汰もなかったから、あるいは幕府が朝廷の許可を得ないまま調印してしまうのではないかと疑い、非常に心配し、関白・九条尚忠にその後の経過を幕府に質問させている。次に書くとおり、孝明天皇のこの心配は一月も経たぬ内に現実のものとなってしまうのだ。

しかしもちろん、下田に帰ったハリスはこれで諦めたわけではない。下田に帰ってから1ヶ月ほどして、ハリスにまたチャンスがめぐってきた。アメリカ軍艦ミシシッピー号とポーハタン号が安政5(1858)年6月に相次いで下田に入港し、イギリスとフランス連合は支那との第二次アヘン戦争にかたをつけ、インドの大反乱も収まったというニュースをもたらした。これを好機と見たハリスはたちどころにポーハタン号に乗り6月17日下田から小柴沖に来て、堀田備中守宛ての書翰を送り、支那に対する英仏連合の勝利と、近い将来彼らは必ず日本へ大艦隊を率いて来航するだろう。殊にイギリスは30艘から40艘の軍艦を派遣の模様だ。また両国は連合して来るようだと告げた。そして、速やかにアメリカと条約を調印しておけばそれと同等の条約にもなろうが、さもなくばインドや支那の勝利に乗じたイギリス人は勝手な要求を出し、それを拒否すれば戦争という大変な事態にもなろうとも告げた。

6月18日に小柴沖に停泊中のポーハタン号上でハリスと会見した下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震(ただなり)は、再度ハリスから先の書翰内容の説明を受けると、大いに驚愕し急いで翌19日登城しハリスの言葉を報告し、条約調印をすべきかの指揮を仰いだ。幕閣の衆議に時間はかかったが、基本的に朝廷からの勅許取得を優先すべく考えていた井伊大老も、渋々ではあるが、「朝廷の許可を得るまで、更なる条約調印の延期に努力せよ。しかし、やむを得ない場合は調印もやむなし」と、条約調印をし戦争回避を優先する決断を下した。これは、大艦隊を前にして戦争回避の為に条約調印をする事態になっては、日本の名誉も失墜する事をも含んでいる。最後には、朝廷勅許取得よりは戦争回避と日本国の名誉保持が優先するという決断だった。井伊のこの指示に基づき、両全権は再び浜御殿の庭先から観光丸でポーハタン号にとって返し、直ちにハリスと日米修好通商条約の調印を終えた。安政5年6月19日、1858年7月29日だった。

この待ちに待った日米通商条約の調印書は早速ポーハタン号で香港に送られ、アメリカ本国に送付された。この時幕府は、将軍・家定からピアース大統領宛の 「井上信濃守と岩瀬肥後守に命じてハリスと商議し、条約を定めた」と述べる「安政五年戊午六月」付けの書簡をつくり送付したが、この調印書と一緒に送られたようだ。当時は既にブキャナン大統領であったが、ブキャナン大統領は1858(安政5)年12月6日付けの上下両院宛の教書で、「日本駐在総領事の精力的かつ親切を尽くした努力により、日本帝国との新しい条約が締結された事を喜びを持って発表します。この条約はその地域で、我が通商と交際を著しく増進し、これまで我が国民の宗教活動に加えられてきた制約を排除するものと期待されます。この条約は可決を得るべく、遅滞無く上院に提出されます」と述べている(A Compilation of the Messages and Papers of the Presidents, James Buchanan, Second Annual Message, December 6, 1858)。

筆者の知りえた史実は以上の様なものだが、井上と岩瀬の両全権は、再度ハリスと会っても井伊の指示である 「更なる調印延期」 には言及した形跡はなく、イギリスやフランスとの条約もアメリカと同等の条約に出来ることをハリスに再確認すると、直ちに調印をした。朝廷の勅許や幕府内の議論よりも、日本国家を戦争の混乱に巻き込んではならないし、大艦隊の威力に押されての調印は日本の名誉が立たず、ましてアメリカ以上の条件を押し付けられてはハリスに対しても面目はないと、大きな危機感があったことは事実だろう。

井伊直弼が、井上清直と岩瀬忠震がハリスと作成した条約に調印を許し、戦争回避を優先する決断を下したこの史料について筆者は、東京大学史料編纂所の「維新史料綱要データベース」にある「公用方秘録」の記述を参照した。大老・井伊直弼の側役兼公用人・宇津木六之丞が直弼没後に中心となって編纂したという「公用方秘録」には写本が幾つかあり、筆者参照分には井伊直弼いわく、「勅許を待たざる重罪は、甘んじて自分壱人に受け候決意」即ち「最後は、自分1人で責任を取る」と言ったと書いてある。しかし、彦根城博物館の同じ史料には、「諸大名の意見聴取の上の決定であれば良いが、さもなければ世間でかれこれ異論を唱え、天皇の逆鱗にも触れる」と宇津木が言うと、井伊直弼は「それに気付かなかったのは無念だ」と言ったと書いてあるという。この彦根城博物館の史料を良く知る歴史学者は、明治政府に提出された、すなわち東京大学史料編纂所にある史料は、この部分が改竄され提出されたものらしいという。この解釈から見ると井伊直弼は、「違勅だ」と言い募る御三家や多くの親藩を敵に廻すことになった自身の判断が非常に残念だったのだろう。少し先走ったが、次にまた話を戻す。

♦ 御三家や親藩の大反対

同じ日に早くもこの条約調印を聞きつけた福井藩主・松平慶永と宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)は井伊大老を訪ね、その真偽を問うと、井伊は、戦争にもなりかねない緊迫した世界情勢の重大さから朝廷の勅許を得ずに調印したことを説明した。その後、徳川斉昭は書簡で、一橋慶喜と徳川(田安)慶頼(よしより)は井伊に面会し、それぞれ朝廷に状況を伏奏し違勅の許しを請えと迫った。特にその後一橋慶喜はその他の閣老とも会い、たかがハリスの「大艦隊が来襲するぞ」という言だけを信じ、朝廷の意に逆らった條約調印は許せない違勅だと叱りつけた。イギリス艦隊が来ても即戦争とはならないだろう。まず交渉があるはずだ。今日本の何処にそんな艦隊が来ているのか、という論法だった。更に6月24日になると福井藩主・松平慶永は、朝早く登城前の井伊の私邸を訪ね勅許なしの条約調印の責任を問い詰めた。同じ日、前水戸藩主・徳川斉昭、名古屋藩主・徳川慶勝(よしかつ)、水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ)は登営日でないにもかかわらず登城し、井伊大老になぜ条約の無断調印を行ったのかとその責任を激しく問い詰めた

この様に御三家の尾張や水戸、御三卿の田安や一橋から親藩に至るまで、ことごとく「違勅」と反対された井伊直弼は窮地に立ったが、少なくとも御三家や御三卿、親藩にはもっと説明し味方につけておくべきだったと思ったとしても不思議ではないほどの孤立だった。ここで云う違勅とは、将軍・徳川家定が天皇の命令に従わないことで、すなわち「朝敵」になることを意味する。将軍の下で政治を遂行する代表責任者の大老・井伊直弼の判断の誤りから、将軍を朝敵に落し入れる大罪だという意味だ。

当時徳川幕府の中枢グループで、すでにこれほどまでに天皇を国家の頂点ととらえ、朝廷の意に逆らうことがためらわれていた事実は重要である。名古屋藩祖・徳川義直は家康の第九子でありながら尊王思想の持ち主だったというから、その家系を継ぐ徳川慶勝は尊王主義者であったし、水戸藩でも家康の孫に当たる徳川光圀以来の尊王家で、斉昭は勿論、その実子の慶篤や一橋慶喜もその薫陶を受けて育った尊王主義者だ。いざという時は、幕府より朝廷が大切だという信念だったから、早くから天皇崇拝思想が徳川一門の中枢にあったわけだ。

上述した如く、ペリー来航以前から、ことあるごとに幕府は朝廷に報告し、ますます朝廷の権威は上がり、外交問題を中心に幕府と朝廷の意見は相反する方向へと急激に加速していく。これに加え将軍家定の後継問題も、井伊の推す徳川慶福(よしとみ、のち将軍・家茂)派と一橋慶喜を推す反対派に分かれて激しく対立していった。

こんな御三家や親藩の反対活動が頂点に達すると大老・井伊は7月5日、厳しく違勅を唱えた前水戸藩主・徳川斉昭に「急度慎み」、名古屋藩主・徳川慶勝と福井藩主・松平慶永に「隠居・急度慎み」の処分を行い、一橋慶喜の登営を停止する処分をも下した。しかしまた1年後には更なる処分が下される事になる。

♦ ロシア、イギリス、フランスとも条約締結・・・安政の大獄へ

安政5(1858)年6月19日にアメリカのハリス総領事と修好通商条約を結んだ幕府は、7月10日オランダの長崎駐在理事官のクルチウスと、7月11日ロシア使節のプチャーチンともアメリカに順ずる修好通商条約を結び、朝廷に14日付けで、

先般連絡の通りアメリカと条約を締結したが、その頃よりロシアも渡来したので、アメリカの振合いをもって条約を取結んだが、更にイギリスも同様に条約を締結したいと申し立て、フランスも渡来し同様にしたいという事である。

と、事実を誠に簡単に届け出た。

一方の朝廷は幕府に、アメリカとの通商条約締結の説明に来いと三家か大老の上京を強く督促していたが、7月18日に、「三家の内、尾張と水戸は不束のため急度慎みを命ぜられ、他家は幼少で召命を奉じ難く、大老はロシア、アメリカ、イギリスの軍船が来ていて政務繁劇で期日を緩めていただきたい」と云う幕閣からの書簡説明が武家伝奏に出されただけで、三家はおろか重臣は誰も来ない。上述の如く前水戸藩主・徳川斉昭には「急度慎み」、名古屋藩主・徳川慶勝には「隠居・急度慎み」の処罰が下され上洛など出来ないし、7月6日に征夷大将軍・徳川家定は死亡していたから、大老・井伊直弼は国事に忙殺されていてすぐ上洛など出来なかったのだ。ここで、更にまたまたロシアとも条約を結び、イギリスともフランスとも結ぶと言う。「幕府は、こんな風に朝廷をないがしろにするだけだ」と心の底から無力感を味わう孝明天皇は、他の人に天皇の位を譲りたいと、再度真剣に譲位を伝えた。

こんな譲位の決意を天皇から直に伝えられ危機感を募らせる左大臣・近衛忠煕(ただひろ)は、右大臣・鷹司輔煕(すけひろ)、内大臣・一条忠香(ただか)、前内大臣・三条実万(さねつむ)などを中心に巻き込み策を練りはじめた。渋る関白・九条尚忠が朝議に出席していない中でも、安政5(1858)年8月8日近衛忠煕らは、朝廷から密かに水戸藩に蜜勅を送り、「国内の治平を図り公武合体を強固にし、幕政を改革し、攘夷貫徹せよ」と命ずる事を朝議決定し、即実行に移した。そして三卿、家門一同の隠居に到るまでこの趣旨を伝えよとも命ずる近衛忠煕や鷹司輔煕の署名する副書が付けられた。翌日、この蜜勅と同じ内容の勅書が幕府にも出されたが、意図的に水戸藩には早く伝えるという朝廷の画策である事は明白だった。この勅書を出したことにより、天皇は譲位の決意を変えている。

身内の御三家や親藩からの違勅の大合唱のみならず、朝廷からさえこの8月8日の勅書で、

勅答内容に背き軽率に條約調印したことは、大樹(=将軍)は賢明なはずだから、幕閣は何と心得ているのか、(天皇は)不審に思召されている。

とあからさまに幕閣非難の勅書を出されては、大老・井伊は職権を駆使し牙をむかざるを得ない程までに追い詰められた。この蜜勅が引き金になり、後に大老・井伊直弼の「安政の大獄」と呼ばれる反対派への大弾圧が始まる。このとき、条約調印の件で大老・井伊に激しく「違勅」と詰め寄り上述の如く急度慎み処分を受けていた3名は勿論、水戸藩主・徳川慶篤、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂、佐倉藩主・堀田正睦なども隠居・慎みの処分を受け、この他吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎、安藤帯刀など多くが切腹・死罪を含む厳しい処罰を受けた。更に、青蓮院門主・尊融親王に隠居・慎み・永蟄居、左大臣・近衛忠煕に辞官・落飾、右大臣・鷹司輔煕に辞官・落飾・慎み、前関白・鷹司政通や前内大臣・三条実万に隠居・落飾・慎み、内大臣・一条忠香に慎み、など公家にも多くの処分者が出た。これが安政7(1860)年3月3日の桜田門外での大老・井伊直弼の暗殺につながる。

 


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11/05/2020, (Orginal since August 2006)