日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

15、幻の改税条約

明治新政府の財政困窮と、全面的な条約改正から「改税条約」への方針変更

♦ 吉田・エヴァーツ条約

この 「吉田・エヴァーツ条約」と呼ばれるアメリカとの改税条約は、明治11(1878)年7月25日、アメリカのワシントンで日本駐米公使・吉田清成とアメリカ政府国務長官・ウィリアム・エヴァーツ (エバーツ、とも) との間で調印 され、翌年4月8日ワシントンで批准された。この条約の文書名は、「日本国合衆国間現存條約中或箇條を改定し且両国の通商を増進する爲めの約書」という長い名前である。

その内容は、「安政5年の貿易章程や慶応2年の改税約書は廃棄する」事。「日本は海関税やその他のゥ税を自由に賦課し、外国貿易のゥ規則制定の権利は日本政府に属す」事。「輸入品税額は、他国より輸入の同種類品に課すものより超過しない」事。「輸出品に輸出税を課さない」事。「ゥ規則違犯の沒入品あるいは罰金は、日本政府の要求を合衆国領事裁判所に訟える」事。「更に二港を合衆国人民並に商船來往貿易のために開く」事、等を取決めてある。

この様に、望んでいた輸出入の関税権は日本政府の手に取り戻す事ができた。だがしかし、この条約の第10条に記載された、

この約書は、日本と他の締盟各国と、現実この約書と均しき所の約書あるいは現存條約の重修(ちょうしゅう=改正)を取結び、右現行の時に至り施すヘし。

という、「アメリカ以外の条約国がこれと同等な条約を結んだ時に発効する」とする約束条項があったが、その後、引き続く明治政府と他の条約国との改税交渉で、イギリス、ドイツ、フランスと云う主要条約国が日本の関税権回復を盛り込む条約を認めず、アメリカと締結した条約のこの第10条を満足できなくなり、実施不可能な 「幻の条約」になってしまったというものだ。

なぜこんな事態が発生したのか、その経緯を書いてみたい。

♦ 財政に悩む明治新政府

戊辰戦争を通じ、朝廷とそれを支える薩摩・長州軍や、それに引き続く明治新政府軍は、その膨大な戦費の手当てに困っていた。鳥羽・伏見の衝突の後朝廷側は、明治1(1868)年1月7日に 「徳川慶喜征討の令」を発し、組織を固めるため早くも17日にその職制を定めた。これは、総裁以下に神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の7科を設け、岩倉具視や中御門経之(なかのみかどつねゆき)が会計事務総裁にもなり、その下で福井藩で藩財政再建や藩札発行など財政経験が豊かであった参予・三岡八郎(由利公正)等に会計事務総裁掛を命じ、戦費捻出に当たらせた。

三岡等は早速建議して、地租を抵当に「会計御基立金」3百万両という大金の公債を募集し、これを京都・大坂・江戸・兵庫・大津・伊勢などの富豪商人に借用証文を書いて半ば強制的に割り当てた。『鴻池文書』や『三井家奉公履歴』等に、大阪や京都の富豪商人へ宛てた朝廷側の脅迫まがいの文書も残っているという。また閏4月には太政官札(だじょうかんさつ)すなわち金札を発行し全国流通を目論んだ。この金札は通用期限13年の臨時通貨で、印刷した紙幣だった。更なる不足分は、豪商からの献納金や借入金など多くの臨時処置を取りつじつまを合わせ、また、貨幣司出張所を大坂に設けて幕府時代から流通する二分金や一分銀を増鋳するなどの対策も採った。

しかし、発行した合計4千8百万両ともいわれる金札は信用が低く多くの混乱を生じ、ついに明治2(1869)年5月28日、金札発行を取りやめざるを得なくなった。更に、流通・兌換期限を明治5年までと短縮したが、こんな混乱に乗じたニセ札や、違法な贋貨である諸藩が勝手に鋳造した低品位の二分金が出回り、各国公使から贋貨取締りの強い要望が繰り返し出されるなど、外交問題にまで発展した。

♦ 新政府の地租の改正

さて一方、新政府の通常の国家収入はどうなっていたのだろうか。上述の会計事務総裁掛・三岡八郎などの臨時戦費を手当てする対策と平行し、明治1年5月10日、「租税司」を会計官の下に設置して国家歳入の整備を始めた。そして8月、「税法はしばらく従来の慣例により、且つ没収した旧幕府の家来達の領地は、隣接する府・藩・県に管轄させる」との通達を出した。このように明治新政府になってもしばらくは、旧幕府時代同様に、国家の財政はその大部分が農民の地租で賄われる構図だった。内戦に係わる特別費用や旧幕府時代からの重圧など、多くのしわ寄せを肩代わりせねばならない農民の多くは不満を募らせ、又凶作もあり、減税や村役人の公選、土地所有者への不満など、明治元年からの3年間に90件もの農民一揆が各地で発生したというから、誠にすさまじい数字だ。ものすごい不満が渦を巻いていたのだ。

戊辰戦争に終止符が打たれた後も、明治2年6月25日には版籍奉還後の旧藩主への「知藩事家禄の制」を定め、その家来は平士以上を総て「士族」とし、公卿・諸侯を「華族」とし、それら明治維新に功労のあった華族・士族への恩賞は「賞典禄」として保証されたから、新政府はいわゆる国家の収入を確保し再配分する責任が生じたのだ。それまで藩財政のやりくりに苦しんできた旧大名・藩主たちは「知藩事家禄の制」の恩恵で個人の生活は安定したが、それを肩代わりした明治新政府は、これらの家禄・賞典禄が国家歳出の40パーセントにも上ったといわれる財政難に悩む事になる。

こう改革を進める明治新政府は、当時国家収入の80パーセントをも占めたといわれる年貢米中心の地租を組織的に徴収せねばならず、特に明治4年の廃藩置県後には、それまでは旧幕府の各藩内で処理され表に出なかった各地の租税の違いが全国的に浮き彫りになり、農民層の不満を一気に高めたと云う。一方でまた280年前のような「太閤検地」に類する検地・検見などを更に続ければ、不満の溜まった農民層が暴発する危険性が間近に迫っている事もよく認識していたようだ。

こんな中で、当時明治政府に出仕していた神田孝平(たかひら)が、新しい地租の評価方法を考え出し、「田税改革議」として明治3(1870)年6月に建議した。この古くから百姓いじめととらえられてきた検地・検見(けみ)・石盛(こくもり)等に代え、税収の元となる検地と同様の目的を達成する新方法、いわゆる 「沽券(こけん、=地券)税法」は、田地の自由売買を基にした地主の申告て地価を決め、それに比例した地租を現金で納入するやりかたで、それまで多くの農民一揆や騒擾に困惑していた明治新政府にとって、土地および租税政策の理論的な一つの根拠となった。

この神田孝平は、漢学と蘭学を学び、会津藩校の教授から幕府の蕃書調所の数学教授になった、美濃国すなわち現在の岐阜県出身の洋学者で、文久1(1861)年12月に「農商弁」と題する論文を書いて以来、「税法改革ノ議」(明治2年)や「田税改革議」(明治3年)を書いて明治政府に新税法を建議し、要望によりこれを明治5年、「田税新法」と題し出版した。更に「江戸市中改革仕方案」(明治1年)や「貨幣四禄」(明治7、8年)、「鉄山を開くべきの議」(明治8年)、その他多くの論文を発表し、また蘭語の翻訳本なども出版している啓蒙思想家でもあった。

明治新政府は結局、概ねこの「田税改革議」に沿った地租徴収方法を採用し、種々の試行錯誤もあったようだが、地価算定には地主申告額に政府の定めた基準による修正を加える事とし、明治6(1873)年7月28日に 「太政官布告・第272号・地租改正法」を発し、農地、宅地、寺社地など全ての土地毎に沽券(地券)を交付し、毎年沽券額面の3パーセントの地租徴収を行ってきた。この地租改正法には、将来的に物品税や家屋税を導入した後に地租を1パーセントまで減額するとも定めてはいたがしかし、明治9年には佐賀の乱や台湾出兵で高騰していた米価が30パーセント以上も下落し、地価算定方法への農民層の更なる不満が鬱積して一揆も起り、ついに明治10(1877)年1月4日、朝議決定後に明治天皇が地租を「百分の二分五厘」、すなわち2.5パーセントにするので諸経費を削減せよと云う、「地租削減の詔勅」を発する程に追い詰められている。

この地租が国税収入の20パーセント台まで下がるのは、酒税や関税が増え、所得税、営業税、印紙税なども導入された後の明治40年頃と聞くから、明治初期の日本は主として農民に依存する、即ち農民から税金を取り立てて運営する旧態依然とした農業国そのものだったわけだ。

♦ 過去の貿易関税の改定

このサイトで話題にする、当時の明治政府が大きな問題と考えた条約による輸出入関税、すなわち当時「海関税」とも呼ばれたものには、旧幕府時代に、概略次のような改定の経緯があった。

江戸幕府が安政5(1858)年に各国と初めて結んだ通商条約には、例えば、日米条約の第4条に規定した付属貿易章程・第7則を見れば、第1類から第4類まで輸出入関税税率が規定されている。例えば輸入品で、金銀貨幣・装飾用の金銀及び居留者の家財・書籍などは輸入関税0パーセント、船具・石炭・パン・塩漬け食料などは5パーセント、酒類は35パーセント、その他は一律20パーセントと云う具合だ。また輸出品は、金銀貨幣・棹銅以外は一律5パーセントだった。

しかしその後、本サイトの「長州征伐と条約勅許」の中の「条約国の軍艦派遣」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) で書いた通り、慶応1(1865)年9月、イギリスの主導でイギリス軍艦5隻・フランス3隻・オランダ1隻の合計9隻を兵庫に派遣したイギリス、アメリカ、フランス、オランダの4カ国は、朝廷の条約勅許・兵庫の早期開港・関税の引き下げなどの要求を突きつけた。追い詰められた朝廷は条約を勅許し、幕府は江戸で関税交渉を開く合意でやっと難局を切り抜けた。老中・水野忠精(ただきよ)は勘定奉行・小栗忠順(ただまさ)と外国奉行・菊池隆吉(たかよし)を改税交渉責任者に指名し、小栗等は翌慶応2(1866)年1月からイギリスのパークス公使やアメリカのポートマン代理公使、フランス公使館書記官・カション等と折衝を重ねた。そして同年5月13日、老中・水野忠精が「江戸協約」とも呼ばれる新しい「改税約書十二カ条及び運上目録」に調印したのだった。

これはその約定書前文に、「輸入輸出の諸品全て価五分の運上を基本とし、右運上目録を猶予無く改むべき趣を約束し・・・」とあるごとく、輸入品にも基本的に5パーセントの一律関税を適用し、輸入関税の大巾な引き下げをしたものだ。従って安政5年条約の関税は、申告される商品価格への規定税率の課税であったが、この新しい改税約書の方式は、輸出入関税が基本的に5パーセントと云う低率に抑えられ、且つ品目が細くその課税額と共に明示された、すなわち当時の価格の5パーセントに固定された、という体裁になっている。しかしこれは時代が下り輸入額が増加し、輸入価格が上昇するに従い、名目の5%は実質2.5%程にも低下し大問題に発展するのだ。この税額はその第2条に、

この度の約書に添えたる運上目録は、調印の日より日本と右四ヶ国と取結びたる条約の内に併せたれば、日本来る壬申年中、1872年7月1日に至り改むべし。

と、その税額見直し期日が明示されてはいるがしかし、これはすなわち、調印時より6年間はその「税額」が固定されるものだったのだ。

安政5年以降の貿易の進展と、その後、輸入商品の価格は上がる傾向だったが、慶応2(1866)年5月13日調印時の「改税約書」の新方式は、低税率と共に、貿易価格が上昇しても税額は変わらない税額固定方式だ。そして以下に述べる大蔵省租税頭・松方正義らが言う様に、大巾に輸入関税が引き下げられたため日本への輸入商品が急増したのだ。当時担当した老中・水野や勘定奉行・小栗などは、こんな方式の違いがその後の税収入に及ぼす影響や、多国間条約書の中に明示した税率が如何にその変更が困難なものか、理解できなかったもののようだ。輸入が急増し、日用品さえ輸入に頼るといった構図になろうとは思いもよらなかったであろう。これが明治新政府になって、大きな負の遺産としてのしかかる事になって行く。

♦ 更なる特別出費と改税条約の模索 −関税自主権の回復−

明治7(1874)年2月になると、それまで新政府首脳の1人だった江藤新平が地元の佐賀で新政府に対する大規模な士族反乱を起こし、素早い行動を取った明治政府に鎮圧されはしたが、軍隊を動かした政府は余分な出費を重ねる事になった。また明治4(1871)年に、琉球のご用船員が台風で避難した台湾で現地人に大量に殺害されると云う宮古島島民遭難事件が起った。これがきっかけになり、明治7年5月、琉球を日本領土とする明治政府は台湾に出兵し、永い交渉の末に支那との間に講和を結び、支那は日本に50万両の見舞・賠償金を支払い解決した。しかし明治政府は、台湾出兵と船舶購入で2千万円以上もかかったと言われる多大な臨時費用が重なり、更なる国内生産の増進と財政収入増加への対策が必要になった。

    松方正義らの「税則改定の建議書」

こんな経緯があった明治7年4月25日、大蔵省租税頭・松方正義らが大蔵卿・大隈重信宛に 「税則改定の建議書」なるものを提出し、輸出入関税の改定は焦眉の急だと建議した。これは「海関税改正議」としても知られていると聞くが、いわく、

国土に土地柄や気候の異なりがある。故に産物は自ずから同じくはない。人に職業や巧拙の別がある。故に造工(ぞうく、=造作)はまた自ずから別である。このため彼の無は此の有を賞賛し、甲の過は乙の不足を補い、互いに生計の道を計らざるを得ない。これが貿易が起った要因である。故に貿易は人生の必須であり、止む事の得ざるもので、庶民が豊かになったり貧困になったり、これに与える影響は少なくない。中でも海外貿易に至っては一国の貧富や強弱に大いに関係し、上手くその制限を定める事は真に経国の大業である。

こう論を進めて、わが国でも近年益々海外貿易が発展し、その大きさは内国貿易に比肩するほどであるから、その制御は日本の今日の急務であり一日もおろそかに出来ない、と述べた。そして、世界の学者の間には自由貿易論と保護貿易論があるが、未だ判然とした結論が無いし、各国も一定せず、その国勢と事態により夫々選択をしている。近来の日本では、安い輸入関税でどんどん増える輸入商品すなわち完成品に比べ、輸出は茶や絹糸・蚕卵など、いわば半製品とでも呼ぶものであり、その他は米・麦や石炭・銅など天然素材に過ぎず、輸入額の四分の一しかない。更に、

しだいに邦人の好み、尚多く輸入の品物に偏り、衣食・居住・日用・必須の品類に至るまで悉(ことご)く彼が風習に習い、洋品の流行は駸々として日に盛んになる勢いである。すなわち輸入はいよいよ増多して、決して減少する情況には無い。

と述べ、多くの日用品までも輸入完成品に頼るほどで、この輸入超過で貴重な現金すなわち正貨は出て行き、安い輸入品に国内製品が駆逐され、このため内地の人民は年来の生業を失い、富者は落ちぶれ、職工に仕事も無く、正業もない人々が巷に満ち、困窮者が道にあふれ、大変な状態になる事は後世の知者を待たずとも明白である。

しかし例え条約を改めても、旧来の如く税則が条約に付属する形では、彼等に 「可否・取捨ての権」を与える事になり、改定しない方が良い。条約改定の期日になっても各国は従来の習慣を主張し、天地の公理を顧みず、一国の通義を蔑視し、自分達の強盛を誇示し、ただ己の利益を図るばかりである。しかし自主権が無ければ、国家は国家でなくなってしまう。今日こそ、有意決断の時である。例え平等条約に改正できなくとも、自分の手足を縛り自分の利害・禍福を制御出来ない状態に放置しておくべきではない。従って輸出入関税の改定、即ち 「関税自主権の回復」は焦眉の急だ、と云うわけだ。国内産業を振興するには、ある程度の保護貿易もやむを得ない、と云うものだった。

    大蔵卿・大隈重信から外務卿・寺島宗則宛ての海関税改正共闘書状

それまで苦しい予算の中でも何とかやりくりして進めている、鉄道・海運や道路・橋梁・堤防整備などの事業予算を確保せざるを得ない大蔵省内では、こんな勧業政策のための保護貿易議論も盛んになり、国内産業を発展させ税収を上げるため、貿易関税すなわち関税自主権の回復に切り込まざるを得ないという状態になった。終に翌明治8(1875)年7月23日、当時の大蔵卿・大隈重信から外務卿・寺島宗則宛ての海関税改正、すなわち輸出入税改正の、共闘書状が出されている。いわく、

外交の条約改正の期日は、今を隔たる4年前、即ち明治5年7月(西洋1872年なり)であった。然るにその後遅延し、数年の星霜を経ても尚、未だに改正する事ができない。その間止むを得ない事故が有ったとはいえ、これは要するに因循で、苟且(かりそめ)にも空しく歳月を費やすのみである。然らば即ち、又何日遅れでその改正を期すべきか。これは実に国家の命脈に関する最大事だから、決してこれを度外視できない事は論を待たない。従ってその海関税等は、その得失により国家の安危に関わり、貿易の盛衰に大きく関わる。故に速やかに改定し、その大権を我国に全収(筆者注:我が国の関税自主権を回復)せねばならない一大主要の急務である。・・・中でも新条約(筆者注:慶応2年5月13日調印の現行条約)の如きは、これを旧条約(筆者注:安政5年の通商条約)に比べれば、その不利は言を待たない。もとより一時の結約だから、これを旧に復する事は難かしく無いはずである。然りと言えども、依然置いて手を下さない理由は、他でもなく、条約改正の期を待って将に大いに改革釐正(りせい=改正)し、その大権を収有したいと思うからであった。・・・然りと言えども、今速やかに条約の改正に着手する事ができなければ、宜しく先ず海関税則改正の大本を立て、その大権を収有し、以て多少の弊害を除くに越した事はなかろう。故に、条約改正の大本を立て税則の改定をしなければその独立の国権を保つ事ができない理由を、既に再度これを正院に上申したのだが、今日に至るまで何等の下命を得ていない。従ってその弊害は日に甚だしく、必ず不測の大患を招く事を良く知る必要がある。今又更に前議の趣旨を挙げて、これを上申しようとしている。然れども、これは特に当省の負荷のみではない。殊に外務事務のごときは、専ら貴省の担任するところである。今日国家が多少の弊害を受けている事は、恐らくは、皆これ条約の改正をしないからで、その利害得失実地の形態はもとより貴省の良く熟知する所であろう。然らば即ち、貴省もまたその責に任ぜざるを得ない。請う、その国家の大本を確立する所以の方策を設け、もって廟堂に建議せられん事を。・・・これ実に国家の大事なるを以て、貴省に於いても、必ずその力をこの議の決定に尽くされん事を希望す。依ってこの段、照会に及び候なり。

この様に、国内産業を増進し困窮する国家財政に少しでも貢献させるべく、条約の全面的改正が無理なら貿易関税の見直し、即ち関税権の回復が急務である事を訴え、共闘を呼びかけたものだ。そしてその年の11月10日、寺島外務卿より三条太政大臣に宛て、「条約改正は緊要ではあるが、現今この全面的改正は困難であり、とりあえず、海関税改定を英・米・仏・独駐在公使を通じ交渉させたい」と申請が出され、翌明治9年1月18日、太政大臣許可が出された。

当時の不平等条約改正については、勿論これ以前から明治政府内に大きな問題意識があり、それは本サイトの「岩倉使節団(米国)」の最初に記述した通りだったし、岩倉具視自身がアメリカでフィッシュ国務長官と条約改正交渉を始め、その後挫折した経緯はその中の「大統領会見と条約改定交渉」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) に書いた通りだった。岩倉使節団が帰朝した後の明治7(1874)年4月25日、外務卿・寺島宗則のリーダーシップで外務省内に各省代表者を集めた「外国条約改締書案取調局」開設を建議し、太政大臣はこれを許可し、当時の外務大丞・森有礼を理事官・主任に指名し、集中的な準備が始まっている。それを上述の大隈重信から寺島宗則宛ての提案の如く、「まずは輸出入の改税、即ち関税自主権の回復だけでも行い、国家財政の改善に当てよう」と方針変更をしたものだった。

しかし、この結果アメリカと調印されたこの吉田・エヴァーツ条約について、幾つかの歴史記述の中で、時には、「寺島宗則が西南戦争後の財政難のため、税権回復を中心に交渉した」と説明する向きも有る。これはしかし、西南戦争は明治10(1877)年2月14日の西郷隆盛による閲兵式翌日、15日の「問罪出兵」から始まっているから、この見方は正しくない。上述の如く、西南戦争勃発の1年以上も前から、方針変更をした改税交渉が始まっていたのだ。

日本政府の改税条約交渉

♦ アメリカとの交渉開始

大蔵卿・大隈重信から外務卿・寺島宗則宛てに出された上述の文面の下に書いた如く、海関税改正交渉開始について三条太政大臣の許可を得た寺島宗則は、駐日アメリカ公使・ジョーン・ビンガムとも話し、条約改正についてアメリカ側の感触が非常に良い事を実感した。そしてビンガム公使は、条約改正については、先ず日本政府からアメリカ政府へ正式な書翰を出して欲しいと伝えてもいた。これに意を強くした寺島は明治9(1876)年3月9日、英・仏・露・独・米の現地駐在公使に「公式訓状」と「内諭別翰」とを送り各国政府と改正交渉に入りたいと上申し、最終的な太政大臣許可を受けた。

そこで寺島は早速4月25日付けの書翰を、1年半程前の明治7年9月9日付けで駐米特命全権公使になっていた吉田清成宛に送り、アメリカ政府との交渉開始を命じた。ビンガム米国公使は、日本に赴任以来条約改正に非常に協力的だったから、外務卿・寺島宗則にとって初めての経験になる公式交渉を、先ずアメリカ政府と行おうとしたようだ。4月25日付けの吉田公使への書翰にいわく、

幸い我国在留米国公使・ビンガム氏からは、到着以来いろいろ内意を告げ知らされた件もあり、種々内談した後、今ようやく実行できる段階になった。従って、別紙甲乙2種類の訓状内容に基ずき、米国政府と交渉を開始してもらいたい。・・・当面は税目の1件を改正し、外民支配の論は先ず後日に譲る積りである事をビンガム氏に伝えた書翰の写しも参考のため添付するので、程好く米国国務卿と交渉し調印できるよう、尽力してもらいたい。他の結盟各国へも追って談判を開始する含みだが、ビンガム氏周旋の事でもあり先ず米国から手を付けるので、その辺も含んで交渉を開始し、先方の反応振りなどを観察し、詳細に報告してもらいたい。

と書き、交渉開始の指示を出した。そして、この書翰に添付されたその「海関税の義に付いての訓状」、すなわち米国政府に公開しても良い公式外交命令書翰には、

今や諸般紛雑の事件、漸くこれを落着させたので、政府はこの機に乗じ条約重修に着手せんと欲するものである。現存の条約を重修して我が国権を拡張せんとするに当っては、必ずしも増補改定せざるを得ないものが尠くない。従って、その条款の中に就いて至重至要とするものは、現存の条約、殊に1866年の新定約書に掲げる貿易章程と税関征税(せいぜい=強制的な税の取り立て)の二者に関する条款である。 ・・・結局我が政府は現存の条約中に掲載してある輸出税を廃し、且つ、その条約中及び1866年の新定約書中にある、我が政府が輸入税を課収する権を抑制する諸条款を刪去(さんきょ=削除)しようとするものである。各国の中、若し前条諸述の趣旨に同意するものがあれば、我が政府はその同意する国に対し、その臣民の貿易及び居留のため新港を開き、又その国に対し全ての輸出税を廃止するものである。

と、輸出税は全廃し新貿易港を開くから、輸入税を自由に賦課変更できる税権を回復したい。この様な交換条件を出して交渉に臨もうとしたのだ。

こうして外務卿・寺島宗則は先ずアメリカと話を始めたわけだが、下に書くように、日本とアメリカの合意はイギリスの、特に日本駐在英国公使・ハリー・パークスの強い反感を買うことになる。

♦ 駐日アメリカ公使・ジョーン・A・ビンガムの協力

当時の日本駐在アメリカ公使は、明治6(1873)年5月31日に任命され、その後ほぼ12年2ヶ月間に渡りその職にあったジョーン・A・ビンガムだった。日本のアメリカ大使館史料によれば、これは現在までも、米国駐日大使・公使の中での最長記録だと云う。上の寺島宗則から吉田清成に宛てた書翰中にも 「幸い我国在留米国公使・ビンガム氏からは、到着以来いろいろ内意を告げ知られ・・・」と書くように、アメリカのビンガム公使は、日本の諸外国との不平等條約の是正には公正な立場で協力し、イギリス公使・ハリー・パークスと張り合った人である。ビンガム公使は1877(明治10)年1月30日付けのフィッシュ国務長官に宛てた報告書の中でも、

日本国総理大臣・三条実美公の命で27日付け東京タイムス紙に載った、1876年7月1日より1877年7月1日までの日本政府の財政報告と予想の写しをお送りいたします。今会計年度予想歳入表に依れば、輸出入税の予想歳入はただの$1,762,554で、同年度の予想租税歳入は約$61,000,000ですが、その中、$46,556,743が国民に課せられた地租です。私がこのように言うのは適切だと思いますが、日本で種々の貿易にかかわる外国人は、彼らが言う所の1866年の貿易約書を根拠に、その巨大な利益や収入に対する税金は何も支払っていません。

この様に述べ、日本の歳入の約76%を地租が占めると云う異常な租税構造がある一方で、貿易で巨利を得る外国貿易商達への課税は無いと報告し、その不平等さや日本の不利益を看過出来なかったようだ。従ってこの改税交渉に当たっては、外務卿・寺島宗則に種々の協力を惜しまなかったように見える。そしてその後、新しいエヴァーツ国務長官になると、日本の事情や財政状況を更に細かく、例えば、「西南戦争の鎮圧費用は月々4百万ドルも掛かると云われています」等と報告している。

ちなみに、この明治10年当時の為替レートは、1ドル=1円10銭程だったようだから、上のビンガム書翰中の地租歳入$46,556,743は、ほぼ5,120万円になる。ちなみにまた、上述の、明治10年の明治天皇の「地租削減の詔勅」で減税する地租0.5パーセントは、これから逆算すると、ほぼ850万円にも上る国税の減税になったようだし、西南戦争の鎮圧には月々440万円も費やしていた事になる。

♦ 吉田清成駐米公使の動き

この様な環境下で、外務卿・寺島宗則からの上述した公式外交命令書翰を基に駐米特命全権公使・吉田清成は6月8日、早速フィッシュ国務長官と話を始めた。かく云う吉田清成自身も、駐米公使に任命される前は大蔵省に在籍し、大蔵卿・大隈重信の下で大蔵少輔としてこの改税議論にも深く関与していたから、この交渉については、かって薩摩藩の松木弘安すなわち寺島宗則らに率いられ英国に留学し、引き続き米国にも留学して、英語を良く操る外交官と云う以上の理解と情熱があったはずだ。

第1回会見の席上で吉田から、「アメリカに輸出税は全廃し新貿易港を開くから、輸入税を自由に賦課変更できる税権を回復したい」と云う概略説明を聞いたフィッシュ国務長官は、すぐに次の質問を投げかけた。では若し、

  1. アメリカ人以外の外国人が日本の商品をアメリカに輸出しようとする時も、
  2. アメリカ人が日本の商品をアメリカ以外の他国に輸出しようとする時も

日本は同じく輸出税を廃止するのか、というものだった。

しかし、日本の行う多国間貿易上、国務長官の簡単なこの質問は、若し日本が個別交渉方式を選択すればその矛盾を一挙に突くもので、原理的に各国個別交渉では解決できない本質的な弱点となるものだ。これは勿論、吉田がこの第1回会談で即答出来るものではなかったし、国務長官もそれ以上の議論も質問も行わず、これは重要議題だから大統領と話をしようと引き取っている。

吉田はすぐ日本に電報を打ち、この質問が出た事を伝えた。これを見た寺島は、「税則改正の義は、もとより他の結盟各国とも同様の談判に渉る積りであり、特に米政府のみに関係する事ではなく、ただその意向を相尋ねたいと云うことであり・・・」と、この様に説明してくれと、折り返しの電報と書翰を送り吉田に指示を出した。確かに寺島から吉田宛の、上記明治9(1876)年4月25日付けの書翰には、「先方の反応振りなどを観察し、詳細に報告してもらいたい」とは述べているが、なかなか一筋縄では行かない交渉だと、改めてはっきり分かったはずだ。

この寺島よりの電報を受けた吉田は6月29日フィッシュと面会した。フィッシュいわく、

アメリカは日本に協力したいと思う事は真実だが、自国の利益も考慮せざるを得ない。日本の提案に合意した後日本がアメリカ製品に高い輸入関税を設定すれば、アメリカ製品が日本市場に流通しなくなる事は自然である。日本はこの見返りに、日本からの輸出品を無税にし新たな貿易港を開くと言うが、アメリカに利益があるとは言い難い。従って、日本政府が他の国々と合意するまでは、新輸入税を設定しても他国より高くしないと云う条件なら合意できる。また日本が他国にも最恵国待遇を与える条約がある限り、アメリカが日本有利の条件を認めその引き換えに日本がアメリカのために新貿易港を開いても、他国も同様に新貿易港の要求を出す事が出来、他国のために有利さを与える事になる。

アメリカは真実日本を助けたいと思っているし、日本が一日でも早く真の独立国家となれるよう心から希望しているがしかし、国際間の競争原理がある以上、自国だけ不利になる事は許容できないと云うのがフィッシュ国務長官の言葉だった。当然である。

この時、明治9(1876)年6月はまだ第二期目のグラント大統領であり、4年前の明治5(1872)年1月21日にワシントンに着いた岩倉具視一行が面会したのもこのグラント大統領とフィッシュ国務長官だった。これについては既に上述した如く、当時の岩倉具視は不平等条約を改正したいとこのフィッシュ国務長官と協議し、グラント大統領から非常に良い手ごたえを得たが、他国との関係で条約改正を諦めた経緯がある。従って4年前と同様、アメリカの立場は日本に対し非常に好意的であった事は事実だ。

吉田清成自身も各国と並列して交渉を進めざるを得ないという意見ではあったが、何とか改税したいとの強い思いからであったろうが、吉田私案とでも呼べる「改税条約案」を整え寺島宗則に送っている。しかし残念な事に、翌1877年3月4日でグラント大統領の二期目の任期も終わり、国政はヘイズ新大統領とエヴァーツ新国務長官に委ねられたから、吉田清成公使は新たな人脈を築く事から始めねばならなかった。しかし新大統領になっても、アメリカが日本を助けようとする好意は引き続き強かったから、交渉は進展する事になる。

♦ 寺島宗則の他国との交渉開始

以上の様に友好的なアメリカ政府の立場は判明したが、他の条約国との交渉も不可避である事も判明した。そこで外務卿・寺島宗則はいよいよ他の条約国との交渉を決断した。現地駐在日本公使などの情報から、改税交渉に当たってイタリヤやドイツなどからは恐らく異論は出ないだろうが、必ず異議を出すのはフランスやイギリスだろうと云うのが寺島の判断だった。寺島は明治9(1876)年11月27日付け書翰をイギリス駐在・上野景範公使とフランス駐在・中野健明臨時代理公使に送り、非公式かつ秘密裏に現地政府の意向を探るべく命じた。その結果あまり強い反対がなさそうなら、日本駐在のイギリスやフランスの公使達に公式な話を通そうとしたのである。

当時の在フランス日本公使館には、外務省・日本外交文書史料に 「マルシャル」と云う名前で登場する、フレデリック・マーシャル(Frederic Marshall)と云うイギリス人が雇用されていた。いわゆる現地公使館の「お雇い」とも呼べる立場の人物で、まだあまり名の通らない日本外交の情報発信を担っていたようだ。フランス駐在の中野代理公使はこのフレデリック・マーシャルを通じ、イギリス駐在上野公使とも連携し、イギリス政府の意向を探りに出た。当時のフランス政府の日本向け外交は、中野代理公使の言う 「全て英国の所為に習い取り計らう処があり、兎角英政府の返事を待ち、その上で何れへとも百方に着手仕るべくと、相控えて居ります」という状況だったからだ。

この様にして半年ほど経った頃、フランスの中野健明から寺島宗則に宛た明治10(1877)年5月4日付けの書翰が届いた。この書翰いわく、「イギリスの上野公使と協議し探りを入れたが、英仏両政府とも我が請求通り海関税権の談判に取り掛かる様子はない」と云うものだった。ここで外務卿・寺島宗則には多くの思案があったはずだが、結局アメリカ政府とだけでも更に煮詰めるべく決意したようだ。そして同時に、駐日各国公使とも話を始め、結局は主要国・イギリスの在日公使・ハリー・パークスとの談判が中心になって行く。

♦ アメリカと改税条約調印

当時のアメリカでは大統領交代の時期に入ってしまったのだが、吉田清成駐米公使は明治10(1877)年2月7日付けの寺島宗則宛の書翰で、これまでに自身に委譲されてきた権限は「アメリカ政府の意見を聞け」と云うだけのもので、更に交渉を推し進めるには、次の権限を付与願いたいと申請した。いわく、

  1. 他国が合意したら発効するという条項を入れ、条約に調印する事
  2. または、他国に課する税に超過しないと云う1条を入れ、条約に調印する事
  3. ある年限以内に双方が条約改定交渉をするという条項を入れること
  4. この他条約に関し、日本から要求すべき沿海貿易の権利等のこと

この様に、次期新大統領や新国務長官とも強力に話が出来るよう、条約調印の権限委譲を求めたのだ。

この頃から日本国内では西南戦争が勃発し、薩摩出身の寺島外務卿も国内事情でも忙しくなっただろうし、上述の如くイギリス政府やフランス政府の出方を探る時期で、寺島から吉田向けのタイミングの良い指示が出ていない。そうこうする内にアメリカ政府でも恒例の夏休みが始まる7月も間近になり、寺島からの適切な指令の発信も少なくなっていたので、吉田は独自の対策を取る事にしたようだ。吉田はこれまでに寺島と頻繁に連絡を取り、ある程度煮詰まった改税條約案を作っていたが、これを基に第7条に条約発効条件を加え、6月23日、エヴァーツ国務長官宛に日本からの指示に基づいた「吉田私案」として提出し、その旨寺島にも書翰で報告している。

そんな状況下で、上述の如くイギリスやフランス政府の改税条約まで進む意思のないことを知らされた寺島は、出来たらアメリカとは条約の調印をしようと腹を決めたわけだ。そして7月11日付け書翰で吉田宛に、

今まで報告してもらったアメリカ政府との交渉経緯は良く承知している。これは欧州列国とも影響し合うので、当方の手加減もあり、米国限りの調印もどうかと差し控えてはいたが、現在のところでは、欧州列国すなわち英仏等の政府の考えも次第に分かってきた。そちらで予想していたように、米国だけ調印の運びに着手し、いわゆる各国で調印の上実施しべしと云う条項を付けたものにすべきだとの結論に達した。別紙写しの通り上申し廟議伺いを出したので、近々結論が出るはずである。

との連絡を出した。これは全く偶然にも、上述の「吉田私案を出しました」というアメリカからの報告と行き違いになったようだが、寺島のアメリカと調印したいという上申書へは、7月24日、右大臣・岩倉具視の許可が出された。なお寺島宗則としては、イギリス等からアメリカとだけ交渉したと云う嫌疑を出されて外交関係がつまずく事を恐れ、公然と全条約国との交渉も開始する方針を決定し、アメリカとの条約の詳細修正を行い、この旨指示を出している。

吉田清成はエヴァーツ国務長官やスーワード国務副長官などと精力的に会談し、幾つかの質問や修正の後、明治天皇が署名した3月21日付け委任状により、特命全権公使として明治11(1878)年7月25日、エヴァーツ国務長官と改税条約書すなわち、「日本国合衆国間現存條約中或箇條を改定し且両国の通商を増進する爲めの約書」に調印した。ちなみにこのスーワード国務副長官(フレデリック・W・スーワード)は、このサイトの1872年以前に頻繁に登場するウィリアム・H・スーワードの子供である。

そしてこの条約は、1878(明治11)年12月18日にアメリカ上院で承認され、批准が済んだ事をエヴァーツ国務長官から駐米臨時代理公使・吉田二郎宛ての書翰で通知されている。この吉田二郎は吉田清成とは別人である。また日本でも、明治12(1879)年7月1日に「日米約書布告」が太政大臣・三条実美の名前で公布された。

♦ ヨーロッパ諸国との改税条約談判

外務卿・寺島宗則は明治11(1878)年2月初旬、太政大臣の許可の下、イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・オランダ・ロシア・オーストリア・イタリアの各国駐在公使達に向け、正式な訓状と内達を送り、

条約重修に於いて、海関収税の権を我が政府の手に収握すべきの要旨は、別紙訓状に委細その意を悉し(しっし、=良く説明し)てある。これが我が政府の締盟各国政府に対し要求する所の第一眼目だから、訓状に付した各書類をも通覧され、よくその条理と事実とを詳らかにし、任国政府に照知し、我が政府主意の所在を明示し、その意に協同して重修の談判に着手する事を請うべし。

と、海関収税の権、即ち関税自主権の回復へ向けた談判開始を命じた。また同時にイギリス公使・ハリー・パークス宛に、条約改正の正式談判を開始すべく別紙訓状の如く駐英公使・上野景範に命ずるので、本国へも通知してもらいたいとの書翰も出し、公然と各国政府との交渉を明言した。

この様にして夫々の任地の日本公使達は各国政府と交渉を開始したが、例えば、ロシアは独自外交を基本に反応し、フランスはイギリスの出方も窺い、ドイツは国内自由旅行権を問題にしと、夫々の立場の違いがあった。

特にイギリスは、日本政府が保護貿易に急傾斜する事を極端に恐れると共に、日本がアメリカと合意した改税条約に密約があるのではないかと疑い、日本駐在公使・ハリー・パークスから届くネガティブな種々の報告に困惑の体さえあったようだ。明治11(1878)年11月7日付けの駐英公使・上野景範から外務卿・寺島宗則宛の報告書翰いわく、

当国の外務卿輔に於いてはあくまでも自由貿易の主義に固着し・・・喋々(ちょうちょう、=口数の多い事)保護税法の非なるを弁論相成り、・・・保護税法に類するの件は一切承諾いたし難しとの事にこれあり。もっとも右談判中、今回日本政府が条約改正を要求するは、国費の不足を補うが為に海関税を増加するの目的にあらずして、保護税法を設用せんとする主義なれば、甚だ遺憾なりと繰り返し弁明これあり。・・・サー・ハリー・パークス氏よりの報告書の中に、日本政府の財政の不始末と条約改正に付き、日本政府の主義は不適当なるを詳らかに申越し相成り、右等を以て、実際に主任の者(筆者注:英国外務省の担当者)は、その取極め方に甚だ困却する旨、内話(ないわ、=非公式な話)これあり候。また今度、米国政府と吉田公使調印致し候条約書は、・・・当外務省に於いては日本政府はこの条約改正に臨み、米政府と別に特別なる内密条約を為したるにはあらざるかと疑念が相生じ候趣にて、・・・聊か(いささか)気色(きしょく)に触れ候(=不快に思う)模様に見受け候。・・・今度の条約改正の条件は大蔵卿よりサー・ハリー・パークス氏へ縷々談判相成り、あらあら同氏に於いては同意の趣に承知致し居り候所、このごろ同公使より当国外務卿へ宛てたる内報告書に依れば、実に意外の事にて、税額を増加せんとするは薩摩騒乱の費用を補わんが為にして、既にそれが為には巨万の紙幣発行相成りたり。また大蔵卿大隈氏の説に依れば、日本政府の主意は保護税を行う事なりしに、今保護法を行わんと英政府に請求するは、我を欺きたる処分にして、万一保護法の日本に行わるるに於いては、商法の衰退を来たすは論を待たず。且つ日本に於いては、現に国家の理財を管する人といえども経済の道には甚だ迂闊なるを以て、保護税法、自由貿易の如何なる結果を来たらすかを知る者無し。かくの如き不熟練の人に税権を取り捨てするの権を勝手に相任せば、将来恐るべき患害を招くに至らん。且つ日本には未だ充分の議院もこれなきを以て、一切政治上の変換取り捨ては僅かに廟堂二三大臣の権に属し、朝政暮変実に定まりなき政府なれば、これに通商統括の権を掌握せしめばその危篤甚大なりとす云々。頻りに我が政府を罵言(ばげん、=ののしる)し、慨嘆に耐え申さず候。同公使の条約改正事件に付き妨害を為すは、右等の事によってもご推知これ有りたく候。

この様に報告し、イギリス政府の保護貿易への強い警戒や日本がアメリカと締結した改税条約への猜疑心、更に、パークス公使自身も日本政府に対する非難や悪口を報告し、明白に妨害工作を行っていると記述している。

当時このハリー・パークス公使の妻は健康を害し里帰りをしていたが、パークスは里帰り中の妻に頻繁に手紙を書いている。その中にこの条約改正についても触れている箇所があるが、1879(明治12)年1月5日付では、

アメリカは日本と条約に調印しました― これはとんでもない条約です!、他の国々が似たような条約に合意するまでは発効しないという一カ条により、自国が不利に落ち入らぬように守っていて、他の一カ国である我が国は、当然そんな条約には調印などしません。彼等アメリカ人は、完全に日本人の手に任せ切っているのです。アメリカ人の目的は勿論見え透いていて、アメリカ人は日本人に、アメリカは日本のためを思っていると思い込ませ、若し調印が出来なければ、それは特にイギリスやフランスといった国々の反対のせいだと思わせたいのです。

2月14日にもまたこれに触れて、

(個々の固定税額の交渉を日本が拒否している)阻害要因は、アメリカとの新条約のせいです。アメリカは日本の全ての要求を受け入れましたが、他の全ての国が合意したら、と云う条件付です。アメリカは、他の全条約国が合意する事などはないと良く知りながら調印し、従って自分たちはどんな危険も冒さず日本の言う通りにすると云う、全く偽りの条約を調印したのです。しかし日本にとっては、関税に自由裁量権を与えるといったアメリカとの条約の手前、それとは全く反対の、関税を固定し、それが他の国々との条約によって拘束されると云う様なものに合意するなどの事は、当然難しい事です。

今回日本政府が改税権を回復しようと一生懸命に交渉している、「江戸協約」とも呼ばれる慶応2(1866)年5月13日調印の「改税約書十二カ条及び運上目録」は、当時イギリス政府の命令で、赴任したばかりのこのハリー・パークス公使が中心になり、軍事力を背景に日本に押し付けたものだ。その個々の税額を交渉するのなら兎も角も、日本とアメリカが調印した改税条約は、改税権自体をそっくり日本に渡すもので、イギリス政府にとっても、ハリー・パークスにとっても全く受け入れる事など出来なかったのだ。更にこれは、日本の自主権を認めないものであることも、良く知っての上のことだったのだ。

♦ ヨーロッパ各国との改税談判の決裂

改税交渉のやり方で駆け引きがあり、開催場所での駆け引きがあったが、つまるところは、日本は改税権の奪回が主目的であり、ヨーロッパ各国、特にイギリスはその保護貿易への危険性を憂慮した。またハリー・パークス公使は日本の後進性を理由に大反対をしている。ハリー・パークスから妻に宛てた7月28日付けの手紙に、

当地の状況は、仕事の方向性が定まりません。コレラが流行し、グラント将軍(筆者注:アメリカ前大統領)の世界漫遊旅行の立ち寄りに日本人はすっかり心を奪われ、改税条約交渉など何処かへ行ってしまったようです。しかし我が政府は、日本政府からの現実的な提案を要求していますが、日本からはまだ出されていません。そんな提案が出された時は検討のために母国に送付されますが、その時は私も帰国しソールスベリー卿とどう対処すべきか相談できるように提案する積りです。

と書くように、パークスは1879(明治12)年7月15日、寺島外務卿に宛て、「日本政府が各国と共同交渉に向けた草案を提出するまでは、英国政府は交渉に応じない」旨の通告を出した。イギリスのこんな強硬姿勢は、イギリス、ドイツ、フランス、ベルギー、スイスなどヨーロッパ勢が手を組み、日本と張り合う構図だったのだ。ここで云う草案とは、日本側が個別税額の提案をする事だがしかし、外務卿・寺島宗則の方針、すなわち税権回復は当初から明確に表明されているから、イギリスの言う個別税額交渉とはどこまで行っても平行線である。

確かに、大量のアヘンを横浜に持ち込み日本税関に摘発された横浜在留のイギリス商人・ジョーン・ハートレーが、明治11(1878)年2月のイギリス領事裁判で、持ち込んだアヘンは医療用だとの理由付けで無罪になったり、翌明治12年7月にコレラ隔離のため神戸港外に停泊させていたドイツ船・ヘスペリア号が神戸から横浜に向かったが、日本側の防疫規則で横須賀の長浦港に隔離停船させられた事を不服とし、ドイツの横浜領事・ザッペ自身が自国軍艦・ウルフ号に乗り込み、ヘスペリア号を同伴して横浜への強硬入港を企てたりと、日本の主権を無視する事件が発生し、大いに国民の議論を掻き立てた。改税だけでなく不平等条約自体を改正しなければ、全く意味がないと云うものだ。

この様な外交上のゴタゴタの矢面に立った寺島宗則に国内の意見も大きく影響はしただろうが、基本的に平行線になってしまった日本外交とヨーロッパ諸国、特にイギリス外交とは相容れず、外務卿・寺島宗則の辞職以外の決着がなくなった。明治12年9月に寺島宗則のあとを継いだ外務卿・井上馨は森有礼を駐英公使にし更なる条約改正に努力したが、終に成功は無かった。この様な経緯で、当然アメリカと締結した改税条約も第10条を満足せず、幻の条約になってしまったのだ。
(以上、日本外交書翰類は外務省・外交史料館・日本外交文書史料を、アメリカ公使の書翰は「Papers relating to Foreign Affairs, Washington: Government Printing Office, 1877」を、ハリー・パークス書翰は「The Life of Sir Harry Parkes, Vol. II, Stanley Lane-Pool, Frederick Victor Dickins, 1894」を参照した)。

 


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03/18/2020, (Original since December 2011)