日米交流
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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s


14、下関賠償金の返還



米国に於ける下関賠償金の一部受領による「日本賠償金基金」の設立

下関賠償金返還の原点 : スーワード(スワードとも)国務長官の書簡から

♦ バンクス外交委員長宛の書簡

幕府と条約4カ国が横浜で下関戦争の賠償取極めに合意した時からおよそ3年2ヶ月も経つ頃、アメリカの国務長官・ウィリアム・スーワード(スワードとも)から下院外交委員長・ナサニエル・バンクスに宛てた、当時「日本條約基金(Japanese Treaty Fund)」と題した1868(明治1)年1月8日付けの1通の書簡がある(40th Congress 2d Sess., House of Representatives., Ex. Doc. Number 93. [or] Congressional Globe, House of Representatives, 40th Congress, 2nd Session, Page 476 of 1024)。いわく、

1868年1月8日、国務省、ワシントン     
拝啓、名誉をもって以下の如くご通知します。1864年10月22日付けで合衆国も参加して結んだ日本との取極め書の条項により、本政府は日本政府より、本質的に相当する理由のない、この取極め書に述べられる賠償金支払い分としての金貨・60万ドルを受領しました。この総額は合衆国登記公債に投資され、議会の処分決定を待っています。
敬具            
ウィリアム・H・スーワード            
    下院外交委員会委員長 N・P・バンクス閣下

この金貨・60万ドルは、本サイトの「下関戦争」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) に書いた合計300万ドルの下関戦争賠償金のうち、アメリカに支払われるべき78万5千ドル分の半分に相当する金額と、その合衆国登記公債の利子や通貨交換差益なども含め、当時アメリカ政府の手に渡っていたものであった。通常ならアメリカ政府の歳入として国庫に納入されてもおかしくない入金だが、その後に残りの支払い分や長期に渡る公債の利子も合わさり、アメリカ国内で後に「日本賠償金基金(Japanese Indemnity Fund)」とも呼ばれ、その処分について民間をも巻き込んだ熾烈なロビー活動が繰り返され、アメリカ議会では15年もかけて繰り返しその処分方法が論じられ、ようやく1883(明治16)年2月、日本がアメリカに支払った全賠償金額を日本政府に返還する決定がなされたと云うものだ。

♦ 本質的な疑問

そもそもアメリカ国務省では、何故このように登記公債に投資するなどの特別処理がなされたのか。明らかに当時のスーワード国務長官が決定したものだが、バンクス委員長宛てに、「本質的に相当する理由がない」 と個人的見解を書いた以外、その詳しい経緯を公にしていない。「相当する理由がない」、即ち受け取る理由のない賠償金なら、あるいは取り過ぎた賠償金なら、なぜアメリカがこんな賠償要求をしたのか。またこの300万ドルという金額そのものは、一体現今の価値でどの位か、あるいは「取りすぎだ」と言うほど膨大なものだったのか知りたいところだ。

更に筆者の知り得た範囲内で、日本の歴史学者の間には、米国内の世論は 「取りすぎだ」との気運が強く、スーワード国務長官はその世論に配慮して登記公債に入れたと見る向きもある。しかし、若年寄・酒井忠眦(ただます)が横浜で4カ国と下関賠償取極め書を取り交わした元治元(1864)年9月22日頃や、下に書くようにこの翌年、ニューヨーク・デイリー・トリビューン紙にフランシス・ホールの下関賠償記事が 「日本からの興味ある情報」と題して載った1865年2月15日頃のアメリカは、まだ南北戦争の最中だったし、この記事から2ヵ月後の4月14日には、リンカーン大統領が観劇中に暗殺され、同時にスーワード国務長官自身の命も狙われ、大怪我をした時だ。また、デービス南部連合大統領が1865年5月5日に南部連合国の閉国を決め南北戦争は完全に終結したとは云いながら、実際にアメリカ政府が日本からの入金を受領し始めた1866年8月頃までは、まだテキサス州の各地に小競り合いは残っていた。そんな長期の内戦や大統領暗殺という大事件があった当時のアメリカ世論に、このアジアの片隅の下関賠償金に関し 「取りすぎだ」と云うそんな気運が発生したり、スーワードがその世論を考慮したりする必要や余裕があったのだろうか、と強い疑問がうかぶ。

また、スーワードがこのバンクス宛の書簡を書いた約1年前の1867年3月末には、スーワード国務長官が主導し、アメリカ合衆国が720万ドルでロシア帝国領のアラスカ購入に調印したが、多数の共和党議員からさえ「スーワードの愚行」とか「スーワードの巨大冷蔵庫購入」などとからかいの声も出て、更に強い非難と反対意見も出された。スーワードの粘り強い説得に、最終的にこのアラスカ買収条約は上院議会で認められ、下院からも予算が付けられたが、今から振り返れば、当時「巨大冷蔵庫」と非難されたアラスカは、その後金が発見され、一大原油・天然ガス田が発見され、地政学的リスク面でも重要になったアラスカの地は、アメリカにとって金額に換算できない程の要所となっている。最近ロシア通の友人・M氏から聞くところによると、ロシアのステックル公使とスーワード国務長官との間で調印されたこのアラスカ譲渡がいかにも残念だった旧ソ連邦では、「アラスカは売却でなく、100年の租借をさせただけだ」と云う事になっていて、未だ領有権は正式には移動していない、という説が在った程だという。後にアメリカと強く張り合った社会主義国・ソ連邦にとって、本当に残念だったわけだ。

この様に自身の強い信念に基づいて行動し、永い間外交を得意とする上院議員でもあり、1860年の共和党大統領候補の席をリンカーンと争った程のスーワードが、そんなに簡単に世論に迎合する政治家だったのかとの疑問も出る。そこで、日本賠償金基金を造るという処置を取った理由を推考しながら、民間からの基金獲得ロビー活動を含め、全額返還に至る推移を追って見たい。

賠償金、300万ドルの大きさとその根拠

♦ ”高額さ” の推定の試み

筆者には、当時の300万ドルが現在どんな金額に相当するか知る術もない。しかし、この300万ドルが如何に途方も無い大金であったかは、当時の、次の幾つかの数字を比較して見れば感覚的に理解する事は出来る。

先ずこの300万ドルという金額を当時のドル・両の交換比率「一ドル三分換え」で換算すると、225万両の大金だ。下関戦争の前年、文久3(1863)年当時の徳川幕府「貨幣方歳出」、即ち現金歳出は金換算で705万7千両だと云う(「両から円へ」、山本有造著)。これに「米方歳出」の約66万石を、当時の米の単価、1石を2両1分で金換算した148万5千両を合計すると、総歳出額は854万2千両になる。従ってこの賠償金額300万ドル、すなわち225万両は、現金支出と現物支給の米を合わせた総歳出額の26%強になる。文久3年の幕府年間歳出額の四分の一強という、大変高額な賠償金額だったわけである。

またこの賠償交渉をした2年前、すなわち文久2(1862)年8月29日、当時の幕府が更に蒸気軍艦を購入しようと、幕閣・板倉勝静(かつきよ)がアメリカ公使・プルーインと会談した。その時のやり取りの中でプルーインは、アメリカで最近造船された軍艦の例として、船の長さが20−25間の約千トン級の蒸気軍艦で16万ドル、長さが35間の約千五百トン級で、大馬力のエンジンを搭載して30万ドル位の値段だと言っている。これから見ると300万ドルという賠償金額は、どんな武器を艤装するかにもよろうが、35間・千五百トン級の大型強力蒸気軍艦が一度に10艘も購入できる金額だった。

更に他の例を見れば、文久3(1863)年5月9日に幕府が生麦事件に関連してイギリスに払った賠償金は44万ドルで、その後の薩英戦争で薩摩藩がイギリスに払った10万ドルとの合計54万ドルの賠償金と比べれば、この300万ドルはその5倍以上にもなる。

勿論幕府は、こんな莫大な現金を右から左に出せるわけはないが、交渉に当たった若年寄・酒井忠眦は、3ヶ月ごとに六分割した50万ドルの支払いを約束した。すなわち、若し、下関かあるいは瀬戸内海に適当な1港の開港をしないならば、300万ドルを1年半で払い切るという約束だった。

♦ 「下関賠償取極め書」 締結に至る経緯

アメリカの内戦中、すなわち1861年から1865年に渡る南北戦争当時は、それ以前の日本でタウンゼント・ハリス公使が貫いて来たアメリカ独自外交路線から、スーワード国務長官の決断で日本に於ける大幅な外交方針の変更をし、イギリス、フランス、オランダと良く協調した外交路線に切り替えざるを得なかった事情は、すでにこのサイトの「下関戦争」の項目の中のアメリカの南北戦争と外交方針の転換筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) で書いてある。


右手の山裾に続く砲台から、海峡通過の外国船を砲撃した。
壇ノ浦、みもすそ川砲台跡の展示品、
山口県下関市みもすそ川町21にある。

Image credit: 筆者撮影

長州は攘夷期限になったと、下関海峡で文久3(1863)年5月10日にアメリカ商船・ペンブローク号を砲撃し、5月23日にフランスの小型報道軍艦・キエンシャン号を、また5月26日にオランダ軍艦・メデュサ号をも砲撃し、これにより海峡は封鎖状態になった。アメリカのプルーイン公使は、下関海峡でペンブローク号が砲撃を受けたと云う報告を受けると、たまたま南軍の軍艦探索のため横浜に寄港していたアメリカ政府すなわち北軍の軍艦・ワイオミング号の艦長・マクドゥーガルと図り、6月1日にワイオミング号が単独で下関に侵攻し、長州兵守備の諸砲台と交戦しながら長州の蒸気軍艦・壬戌(じんじゅつ)丸と帆走軍艦・庚申(こうしん)丸を撃沈し、帆走軍艦・癸亥(きがい)丸を大破させて横浜に引き揚げた。アメリカが国威に侮辱を受けたとして行った、単独の懲罰行動だった。その後、フランスもまた軍艦を派遣し、同様に単独で下関に侵攻し、懲罰行動として砲台を破壊して去った。

このように、オランダ以外の2国は夫々に国威に受けた侮辱を直接晴らしたが、この長州の海峡封鎖を理由に日本に軍事圧力をかけ、当時幕府が言い出していた横浜鎖港を阻止し、落ち込んでいた横浜の貿易額を回復し、更なる貿易港も獲得しようと画策したのがイギリスのオールコック公使だったのだ。そしてアメリカの国務長官・スーワードの指示で 「他国との協調外交」 に方針転換していたアメリカのプルーイン公使が、このイギリスの武力外交戦略を協調的に支持し、フランスもオランダも支持したのだ。アメリカとフランスは軍艦を下関に送ってすでに侮辱を晴らしたのに、被害も受けていないイギリス主導の武力外交を共同してやろうとしたわけだ。

これが条約4カ国と長州との下関戦争に至る背景であり、幕府による長州征伐も開始され、下関戦争に完敗した長州に代わり幕府が日本政府としての管理責任を取り、若し瀬戸内海に適当な1港の開港をしないなら、アメリカも含め合計300万ドルもの賠償金を支払う羽目になったわけである。

♦ ペンブローク号への賠償

下関で砲撃されたアメリカ商船・ペンブローク号の船主・ラッセル商会からの損害賠償請求書により、プルーイン公使はアメリカ公使館・善福寺の焼失賠償と共に、幕府に合計1万ドルの賠償金支払いを求めていた。この時期は、本サイトの「開港と攘夷行動」の最後に書いたように、老中格・小笠原長行がイギリスに生麦事件の賠償金の44万ドルを支払うや条約4カ国に三港鎖港通告を出し、将軍後見職・一橋慶喜が朝廷の命ずる攘夷を指揮しようと単独で江戸に帰ったが、江戸の幕府諸役の総反対にあって立ち往生をした頃だった。幕府はプルーイン公使のもとに外国奉行を派遣し、ペンブローク号の賠償金は支払うが、人心が安定するまで支払いの延期を願いたいと交渉し、プルーインの同意を得ていた。

その後この件は、薩英戦争や朝廷内の「文久3年8月18日」の孝明天皇によるクーデターなど大事件の陰で解決が遅れ、1年近くも遅延された。痺れを切らしたプルーインは、未払いの賠償金に遅延の利息支払いを要求するなど圧力をかけ始め、やっと元治1(1864)年7月1日、幕府は30日以内の賠償金支払いを承諾すると云う経緯があった。このペンブローク号賠償金の解決は、ちょうど下関戦争が始まる1ヶ月前の事だった。

この様に、被害にあったと主張するアメリカ商船・ペンブローク号へ日本政府から賠償金が支払われ、軍艦・ワイオミング号派遣による長州軍艦破壊でアメリカの国威に対する侮辱を晴らし、事件としては全て解決した。しかしその上で下関戦争が始まり、下関賠償取極め書による合計300万ドルの賠償金のうち更に78万5千ドルがアメリカへ支払われるという成り行きが、ここでスーワード国務長官が言う、「本質的に相当する理由のない賠償金」の重要な視点の一つである。

♦ 賠償金300万ドル要求の根拠と、アメリカ側の 「下関賠償取極め書」 批准の遅れ

さて、下関戦争が始まる直前の京都では、誤解を解こうと焦る長州が「禁門の変」を起こし朝敵となり、怒った孝明天皇の命令で幕府が長州征伐に入る時だった。こんなタイミングで4カ国艦隊が下関を砲撃し、たちまち長州に封鎖された海峡を開放したが、その戦果報告をする条約国公使たちと会った老中・牧野忠恭(ただゆき)や水野忠精(ただきよ)は、基本的に償金は支払うが更なる開港にすぐには同意せず、回答を延期していた。こんな状況下で、4カ国と日本政府の代表・若年寄・酒井忠眦(ただます)との賠償金交渉が元治1年9月22日即ち1864年10月22日に横浜で行われた。その7日後の10月29日付けでアメリカのプルーイン公使がスーワード国務長官宛に出した報告書簡・65号に次のように書いている(Papers Relating to Foreign Affairs, Accompanying the Annual Message of the President to the Second Session, Thirty-eighth Congress. Part III. Washington: Government Printing Office. 1865.)。いわく、

この取極め書に盛り込んだ、”賠償金の取立てが条約国側の目的ではなく、日本とのより良い関係の樹立を望んでおり、より満足度が高くかつ相互利益のある基盤を確立したいという願いが主要目的である” と云う宣言部分は、私の心から賛同するものです。私の判断では、若しこれが実現すれば、条約国にとっては名誉な事で、利益促進になります。若し、賠償金だけが侮辱の償いになるという見解が支配的になれば、それは大きな災難になりましょう。・・・日本代表者との会談に先立ち、イギリス公使と私は賠償金を200万ドルと合意し、その金額で4カ国への配分に問題はなかろうと考えていました。・・・フランス帝国公使の、賠償金額は300万ドルに決めようとの提案に、遠征費用の賠償金としては、(筆者注:高額な要求金額の方が ) 賠償金支払いの代わりに開港の方向へ流れを誘導するだろうとの思いで直ちに同意しました。若し大君が他の港の開港を嫌い、その代わりに賠償金と遠征費用の支払いをするにしても、合意した金額は不適切ではないでしょう。しかし大君が開港を言い出しても、そのまま了承するか、あるいは罰金として適度な支払い金額となりましょうが一部の金額支払いを含めて了承するか、これは4カ国側の選択であります。

この様に、フランス公使の増額提案とそれに同調したアメリカのプルーイン公使の後押しという経緯があって、この300万ドルという高額な賠償金額が4カ国側で決められたのだった。そして日本側も横浜での賠償取極め交渉で、その第1条に記載する様に、「各国に拂うべき高を三百万ドルラルと取極たり。右高の内に、是まで長門の諸侯暴業をなせしに付き、拂うべき総ての償金も加え在るべし。右の償金、及び下関を焼かざる償金、並びに各国同盟船隊の諸雑費を云うべし」と、300万ドルという金額をそのまま飲まざるを得なかった。条約国側は、最初からこの賠償金を高額に設定し、何とか横浜鎖港を阻止し、瀬戸内海にもう1港の開港をさせようとの思いだったが、長州征伐で少しでも幕府優位に流れを引き寄せようと苦しんでいる最中の幕府にとって、更なる開港場の合意などは、新たに問題を複雑にするだけで最も避けたいものだった。こんな状況下では、非常に高額でも、金銭での解決しか方法が無かったのだ。残念ながらこの点で、プルーイン公使の読みと期待が見事に外れた事になる。

このスーワード国務長官宛の下関賠償取極め締結の報告書簡・65号は、老中・阿部豊後守と水野和泉守の署名で通知した日本側の賠償取極め書批准を知らせる11月29日付けの書簡・67号と共に、翌年の2月始めにアメリカ国務省に着いたようだ。スーワード国務長官は1865年2月9日付けの折り返しの返信(Papers Relating to Foreign Affairs, Accompanying the Annual Message of the President to the First Session, Thirty-ninth Congress. Part III. Washington: Government Printing Office. 1866.)で、

10月28日付け貴書簡64号、10月29日付け65号、11月29日付け66号、11月29日付け67号、並びに同日付けの個人覚書等を受領し、それらに関する貴君の議事録も認可しました。条約国と日本政府との間で昨年10月22日に合意された取極め書の写しが、貴書簡65号に添付されています。この正式な原文書が届き次第、その批准のため上院に提出する予定です。

この様に述べ、近日中に上院に下関賠償取極め書の批准を求める予定だと書いた。しかしこの下関賠償取極め書は、当時のリンカーン大統領によってではなく、上記の国務長官の返信の後ほぼ1年も経った1866年1月26日になってやっとアンドリュー・ジョンソン大統領により批准のため上院に提出され、上院審議の後、同年4月9日に合意・批准されている。これによりアメリカ政府と議会は、下関戦争の賠償取極め書を正式に認めたのだ。

しかしここで、スーワードの催促がなくとも、当然プルーインは取極め書の原文書をすぐ別送したはずだと推定すれば、国務省には遅くとも1865年3月か4月には着いていたはずだ。賠償取極め書の上院合意・批准を期待してジョンソン大統領が提出した上述の日付け、「1866年1月26日」は、取極め書の原文書到着から9ヶ月程も経った後となり、如何にも遅い。

実にこの理由は、リンカーン大統領が観劇中に暗殺目的で銃撃され、その日と同じ1865(慶応1)年4月14日夜、リンカーン暗殺組みの別の1人がスーワード国務長官の命も狙っていたのだ。自宅の寝室で刃物で襲われたスーワードは命を取り留めたが、顔に大怪我をした。同時にスーワードの息子で国務次官補をしていたフレデリック・スーワードも大怪我をした。筆者の推定では、ジョンソン大統領の議会提出の遅れは、こんなスーワード自身の事故や、当時の副大統領から、暗殺されたリンカーン大統領の後を継いで就任したジョンソン大統領への突然の交代など、アメリカ政府と国務省の事務処理の大巾遅れが大きな理由だったと思われる。

スーワード国務長官はなぜ合衆国登記公債に入れたのか

♦ 日本側の賠償金支払い決定と、50万ドルの支払い通知

幕府は慶応1年3月10日すなわち1865年4月5日、老中・水野和泉守と諏訪因幡守の署名で各国公使に書簡を送り、下関賠償取極め書に依る瀬戸内海の開港は困難だという国情を述べて、正式に賠償金支払いのみの選択を告げた。いわく、

下関または内海にある一港を開くか、又は約書に載せる償金を渡すか、二ヶ条の内一ヶ条を選定すべきを約した。国内の形勢を熟察すると、新たに一港を開く事は我が国内に差支えが有るのみならず、また各国のためにも極めて不都合を生ずる事が必然となる。・・・再応勘弁を尽くしたが、償金の方に決定せざるを得ない。しかるに長州の処置は未だ平常に至らないので、償金六回の内、第一回に渡すべき金額は六月中に渡す事にした。因って次回の方は、来る寅年六月中まで一ヶ年延期される事を望む。

この様に、初回の50万ドルは支払うが次回は1年延期して欲しいと、すでに支払い延期を口にし始めた。長州征伐を開始し大軍を動かしている幕府には、その戦費もままならない中、とても3ヶ月毎に50万ドルの支払いなどできなくなったのだ。

またここで注目すべき点は、アメリカの国内事情との関連である。上述の如く、この日本側老中の書簡の日付けから9日後にリンカーン大統領が暗殺され、スーワード国務長官も重傷を負う出来事があり、従ってアメリカ政府の賠償取極め書の批准はもっと先の話になった点である。即ち、アメリカが取極め書の批准もしない内に日本では賠償金の支払いを始めると通告したのだ。

これに対しアメリカのプルーイン公使は3日後、「自国政府から何の指示もないが、我が政府は、日本政府の償金支払い決定を受け入れる事に疑いはないと確信する」と、とりあえず返事をした。更にイギリス、フランス、オランダと根回しをした9日後、支払い延期については、「取極め書の批准前でもあり、貴書簡を自国政府に送ったから、イギリス、フランス、オランダ政府と打ち合わせの上、自国政府の指示があろう」との回答もしている。この件をスーワード国務長官に報告する4月24日付けのプルーイン書簡によれば、この時点でのイギリスとオランダは瀬戸内海の1港開港を強く望み、フランスはある程度賠償金を取りたいとの思惑があったようで、各国の本音は少しずつズレがあったようだ。

更にここで、5月始め頃にプルーイン公使は任期を終えて帰国の途につき、書記官・ポートマンが代理公使としてアメリカ公使館を引き継いでいる。この頃から、リンカーン大統領暗殺とスーワード国務長官重傷の影響で、アメリカ国務省からの指示が突如として途切れ、ポートマンは兎に角、イギリス、フランス、オランダと全く歩調をそろえなければ仕事が出来なくなって行く。

♦ ポートマン代理公使の報告

さて日本側の老中・水野和泉守と諏訪因幡守が約束したように、慶応1(1865)年6月末になるといよいよ最初の賠償金支払いが始まった。ポートマン代理公使はスーワード国務長官宛に、1865年8月22日付けでこの旨の報告書・48号を送付した(Papers Relating to Foreign Affairs, Accompanying the Annual Message of the President to the First Session, Thirty-ninth Congress. Part III. Washington: Government Printing Office. 1866.)。いわく、

今月18日の朝、私に知らせるためにやって来た外国奉行1人が待っていて、日本政府は下関賠償金の初回50万ドルの支払い準備が出来たと告げてきました。・・・そして、早朝もう1人の外国奉行も同じ目的で横浜に行き、午後には他の条約国公使たちにも同様な通知が行くはずだとの事です。この突然の通知に対する彼の公使たちの意見を確認する目的で、彼等を落胆させないよう直ちに横浜に行きました。かっての4月、ご老中に我々の決定を伝えてある事から、申し出の金額を受け取る以外の方法はないとの意見に一致しました。・・・この賠償金の処置に関する国務長官閣下のご指示は、疑いもなくすでに郵送されている事と存じます。この賠償金受領の同意に何の疑いも抱かなかった理由の一つは、受領命令書簡を近々受信すると思ったからであります。直ちに日本政府の申し出を受けなければ、初回の支払いは永久に延期されますし、またこの取極めに関し、イギリスとフランス政府は実質的に批准したと聞いております。

と述べ、25万ドルずつ、指定された横浜のオリエンタル銀行(Oriental Bank)とマーカンタイル銀行(Mercantile Bank)へ、条約4カ国公使への連名で入金されたものを保管するよう依頼してある、とも報告した。

♦ 賠償金支払い開始に対するスーワード国務長官の反応

ポートマン代理公使書簡・48号に対する、1865年11月20日付けの国務長官の返信は次のようなものだ(Papers Relating to Foreign Affairs, 同上)。いわく、

貴君からの8月22日付けの書簡・48号の受領を連絡します。大統領は、その中で述べられた、西欧条約国のために日本政府が申し出て支払った賠償金受領に関する貴君の処置に関し、不認可とする理由は何もないようだと言っています。現在のところ当国務省では、賠償金の処分に関し2つの問題があります。第1は、上院が取極め書をまだ認可していない事。第2は、関係ヨーロッパ諸国との折り合いをつけているところです。これらの問題は来月(12月)中にはめどがつくと思われ、その頃に議会も召集され、私が提議した件に関する欧州側の返事も来るでしょう。

日本側の支払い開始を、「不認可とする理由は何もないようだ」と、いかにも歯切れが悪いが、これで判る通り幕府が第1回の50万ドルを支払った時点のスーワード国務長官の立場とアメリカ政府の状況は、取極め書の上院認可・批准待ちと、欧州と賠償金分配について意見調整の最中だった。とにかく幕府は、アメリカ政府が取極め書の批准をする以前に、賠償金支払いを始めたのだ。

上述の1864年10月29日付けの、プルーイン公使がスーワード国務長官宛に出した報告書簡・65号に報告する通り、「賠償金額は300万ドルに決めようとの提案に・・・(高額な要求金額の方が)賠償金支払いの代わりに開港の方向へ流れを誘導するだろうとの思いで直ちに同意しました」と述べる如く、別の意図を持って高額にした要求額を日本がそのまま支払うと言い出した。スーワードはこの時点で既に、「本質的に相当する理由のない賠償金だ」と考え始めていたと見る事もできよう。しかし、取極め書にはそう記載されていて、上院の批准審議も済んでいないから、「不認可とする理由は何もないようだ」と、いかにも歯切れが悪かったのだろう。

♦ 賠償金分配の米国と欧州との合意は出来たが、米国上院の批准はなかった

少し前後するが、すぐ上のスーワードからポートマン宛の書簡に、「関係ヨーロッパ諸国との折り合いをつけているところです」と出て来るが、それに関する書簡がある。これは1865年9月8日付けで、スーワード国務長官がパリ駐在のアメリカ公使・ジョーン・ビゲローに宛てたものだ(Papers Relating to Foreign Affairs, Accompanying the Annual Message of the President to the First Session, Thirty-ninth Congress. Part II. Washington: Government Printing Office. 1866.)。いわく、

ドロワン・デ・ルイス氏(筆者注:フランス外相)がデ・モントーロン侯爵に命じ、敵対行為に続く下関海峡自由航行への抵抗を克服する目的で共同で執り行った取極め書の中の、3カ国による日本からの取り立て条件の改正案を本政府へ提案して来ました。・・・その提案内容の概要は真剣に反論する程のものではなく、本件に関しては、特にイギリスとフランス双方が我が政府より大きな利害関係があり、本国に非常に近いパリ駐在のイギリス公使はその政府から十分な指示も受けられるので、出来る事ならその適切な調整はパリで行われるのが望ましいと思います。従って本件は、貴君の裁量に委任します。

この書簡中に述べてあるフランス外相からスーワード国務長官に出された提案書は、下関の貿易はあまり期待できず海峡も安全でないから、フランスはむしろ、内海の新港開港より賠償金を取りたいと云う主旨の、1月5日付け文書で出されたものだ。スーワードがこの取り扱いを考慮中に例のリンカーン暗殺とスーワード傷害事件が起ったのだろう。病床から復帰して間もなく、スーワード自身がこのようにまた処理し始めたようだ。

スーワードがこの書簡で、「特にイギリスとフランス双方が我が政府より大きな利害関係がある」と言った賠償金分配あるいは開港と賠償金選択については、フランスとイギリスが中心になっていろいろの提案があった。当時考えられた賠償要素は、派遣大艦隊の費用補償、アメリカ商船とフランス・オランダ軍艦に加えられた砲撃の賠償、精神的補償などであるが、スーワードのこの 「欧州に任す」 態度は、「我が国の取り分は二義的で、欧州との協調路線ははずさない」 と、南北戦争は終わったが外交はまだ協調路線を取ると云う強い意味合いがあるように見える。また下関戦争自体はイギリスのオールコック公使の強い主導にフランス、オランダ、アメリカが合意して始まったものであり、アメリカのペンブローク号への日本からの損害賠償金支払いも済んでいたからである。

こんなやり取りの中で、1866年1月のイギリスからの提案で、急速にヨーロッパ3カ国政府の合意ができ始めたようだ。この最終的合意は、各国の派遣した軍艦や兵士数には無関係だった。先ずアメリカ、フランス、オランダの3カ国船舶への砲撃賠償として、ほぼ1年半前に幕府が批准こそ拒否し破棄したが、かって横浜鎖港談判使節・池田筑後守一行が 「巴里約定」 でフランス政府と合意したフランス軍艦・キエンシャン号砲撃の賠償金・14万ドルを基礎に、先ずこの3カ国が14万ドルずつを取り、残りの258万ドルを4等分し、各国とも64万5千ドルずつの配分とする。すなわち、アメリカ、フランス、オランダが合計78万5千ドルづつ、イギリスが64万5千ドルという配分だった(「The Early Diplomatic Relations between The United States and Japan 1853 - 1865」, Pason J. Treat, 1917)。

横道にそれるかも知れないが、下関戦争を主導し最多数の軍艦を派遣したイギリスが、この様に自らの取り分を他国より少なくした理由には興味がある。筆者の感想は次のようなものだ。本サイトの「下関戦争」のページに書いたように、当時のイギリス政府は、下関のこの軍事行動を危惧し、外務大臣・ラッセル卿は日本に居るオールコック公使に宛て、数次に渡り武力行使禁止の書簡を送っていた。この命令書簡の日本への郵送タイミングの違いで下関戦争が終わってしまったのだが、条約で合意している兵庫・大阪の開港・開市にはまだ早く、外国船の瀬戸内海通航が国際公法上の大きな疑問点の一つだった。日本と条約4カ国との修好通商条約にも規定がなく、外国商船が「領海」と見なされかねない狭い海峡を通って瀬戸内海に入ること自体に、「勝手に日本領土内に侵入した」とクレームの対象になりかねない危険があったのだ。まして自国の船舶が砲撃されてもいないそんな戦争で多額の賠償金を取るのだから、派遣した軍艦と兵士数などに応じて自国が突出した賠償金を取れば、薩英戦争の時とは違い確かに下関の町は焼かなかったが、またイギリス国内に理由もなく軍艦を派遣し高額な賠償金を取ったなどと強い反対意見が出るかも知れない。どうもそんな点を考慮した決定のように見える。しかし表面上は勿論、外務大臣・クラレンドン伯爵の言う、「こんな遠方の特異な国で、例外なく全ての管理事項を統制する根源であるべき利益共同体だという希望と願いの証拠として、条約4カ国が日本で共有するそんな利益共同体だと云う宣告を明言する事のみのため」になれば、この条件で納得しようと云う理由付けだった。すなわちイギリスにとってもこの戦争は、「共同利益を守るためのやむにやまれぬ戦争だった」と云う訳だ。だから賠償金も、実害を受けたアメリカ、フランス、オランダへ夫々14万ドルずつ配分した残額は、4カ国で等分にするのだと、改めて強調したかったようだ。

さて日本が横浜で支払った第1回分のメキシコ銀貨・50万ドルは、各国配分が合意されるまで10万6千250ポンドに換金してイギリス政府に預けられ、合意したこの分配比率で分けられたアメリカ取り分の2万7千802ポンド1シリング8ペンス、すなわち、13万833ドル33セントをアメリカのロンドン駐在・アダムス公使が受領し、1866年7月21日スーワード国務長官に届ける手続きを取った。アダムス公使にこの背景を説明し、受領・送金という一連の行動を指示する1866年4月23日付けのスーワードの第1743号書簡がある(Papers Relating to Foreign Affairs, Accompanying the Annual Message of the President to the Second Session, Thirty-ninth Congress. Part I. Washington: Government Printing Office. 1867.)。いわく、

賠償金の分配に関して、・・・皇帝政府(筆者注:フランス)はイギリス提案の採用に問題はなく、若しこの分配方式が合衆国政府で採用されれば、すぐにでも、すでに日本政府が支払った賠償金の第一回分に当たる50万ドルに適用できます。去る2月12日、ビゲロー氏(筆者注:交渉を任されたフランス駐在公使)は本省より、分配提案は合衆国上院の憲法規定上の承諾が得られるという前提で大統領により合意されたと通知され、合わせて、当提案は本政府の明確な合意事項として対処するよう命ぜられました。

この様に、アンドリュー・ジョンソン大統領自身が 「上院承認が得られる」と云う前提条件付で、この欧州3カ国との分配案に仮に合意すべく指示したのだ。原則上「アメリカ合衆国憲法第2条第2節の2」では、大統領の外国との条約締結は上院の承諾、即ち「上院の助言と同意」が必要と規定しているから、当時のスーワード国務長官は憲法規定に則った行動を取る積りだった。即ち、一段落の後、正式に上院の承諾を求める積りだったのだ。上述の如くジョンソン大統領は1月26日、下関取極め書の合意を求め上院に提出し批准承認を得ていたが、それに関連するヨーロッパとの賠償金分配であるので、「上院承認が得られる」と云う前提条件で行動し、従ってスーワードは 「明確な合意事項として対処する」ようフランス駐在公使・ビゲローに指示したのだ。

ここで筆者にとって、このスーワード国務長官のアダムス公使宛書簡の日付けとその内容が特に重要だ。上述のように上院の承認を受けてアンドリュー・ジョンソン大統領が日本との下関賠償取極め書に批准署名した4月9日以降のこの4月23日付け書簡でも、依然として、「若しこの分配方式が合衆国政府で採用されれば」と言い、「分配提案は合衆国上院の憲法規定上の承諾が得られるという前提で合意されたと通知した」と述べている点である。即ち、上院が済ませた日本との下関賠償取極め書の批准承認は、この上院が行うべき 「欧州3カ国との分配に関する憲法規定上の承諾」と関連は有るが、全く違うものである事が明白である。即ち、この時点では欧州3カ国との分配金協定に関する、上院がなすべき批准に向けた承諾はまだ済んでいないのだ。

♦ 合衆国登記公債へ投資した理由

さてイギリス駐在の米国公使・アダムスは、イギリス政府経由で受領した幕府からの賠償金の第1回入金分の国務省宛送金手続きを取ったが、その後約2、3週間ほどでワシントンに届いたと仮定すれば、1866年8月中には国務省へ実質入金になったと思われる。アメリカの第39議会・第1期は1866年7月29日から夏休みに入ったから、議会は閉会中であった。また、幕府が1866年1月8日にオリエンタル銀行に振り込んだ第2回目の50万ドルと5月16日の3回目の50万ドルは、4カ国で4等分され、ポートマン代理公使がポンドに交換した5万6千770ポンド16シリング8ペンスを、5月29日付けで英国系国際金融業者・ベアリング兄弟会社を通じ国務省に送った。従って、1回目から3回目までの入金は、相前後して国務省が受領したと思われる。2回目、3回目の分配で、4等分したためイギリスが多く取りすぎた金額分は、あまり時を置かず精算されている。

スーワード国務長官は、この日本からの3回分の入金受領時にその全額を 「合衆国登記公債」 に入れたのだ。この公債に入れたその理由は、第1回分入金の時点で、上記のスーワードの1866年4月23日付けアダムス公使宛の書簡に「合衆国上院の憲法規定上の承諾が得られるという前提で・・・」とある様に、上院批准を前提として分配比率合意を許可していたのである。この上院の批准承諾が出るまではと、3回分の入金の全額を公債に入れ別勘定にしたのだ。

またスーワードは、上述のヨーロッパ勢との分配交渉をパリ駐在のビゲロー公使に任せた事実から推定すれば、「ヨーロッパの都合で決めてかまわない」と、個人的にも、アメリカ政府として多額な賠償金分配を要求する意思はなかったように見える。従って、このページの最初に掲載した下院外交委員長・バンクスに宛てた書簡にも、「本質的に相当する理由のない賠償金」と、個人的見解をも入れたのだ。この面から見ても、議会の議論に任せようと、合衆国登記公債への預託は自然な流れだったと見える。

長々と書いたが   結論   として、スーワードが日本からの賠償金を公債へ投資した理由は、「取りすぎだ」 という 「世論に配慮した」行動ではなく、合衆国憲法に基づく、ヨーロッパ3カ国との分配比率合意に対する上院承諾がまだ取れていないという批准手続き上の理由だったのだ。上院の分配比率合意無しには、受け取った償金を国庫に入れるという処分は出来なかったわけだ。筆者には更に、スーワード自身も好ましく思わないこの賠償金を議会の議論に委ね、アメリカの正義を検証しようとの強い思いもあったようにも思われる。スーワードのこの 「まだ上院承諾が無いから公債に入れるべき」 という判断と行動が無ければ、当然その後の長い議会議論も無かったろうし、賠償金の返還も無かった事だろう。

まだ残っている疑問

♦ なぜスーワードは、賠償金の公債投資から1年半もたってから手紙を出したのか?

受領した、半分に相当する下関賠償金を合衆国登記公債に投資した理由は、以上で判明した。しかし良く日付けを見てゆけば、スーワード国務長官が合衆国登記公債に投資した頃から1年半ほども経った1868(明治1)年1月8日が、下院外交委員長・ナサニエル・バンクスに宛てたスーワード書簡の日付けである。なぜこんなに時間が経ってから下院に通知したのか、そこに疑問が残る。これはすなわち、その間にアメリカ合衆国とヨーロッパ3カ国との下関賠償金分配取り決めに関する上院審議がなされなかったという事だ。筆者には、この上院審議遅延の詳細理由は不明である。

しかし当時の上院や下院の審議録を十分確認できなかった筆者の個人的な見解になるが、この頃アンドリュー・ジョンソン大統領が弾劾裁判にかけられると云う事件が発生した。これは、1867年1月から2月に上院と下院を通過した法律にジョンソン大統領が拒否権を行使し、3月に両院が再度3分の2以上の多数で再可決をし大統領拒否無効の決定をし、大統領の拒否にもかかわらずこの法律は成立し、上下両院の大統領への反発が広がった。大統領は結果的にこの法律に反して陸軍長官人事を行っていたから、そんな弾劾裁判に至る過程の兆候から、近々に裁判を行うであろう上院での長期にわたる審議停滞、大統領罷免による自身の更迭などの混乱に備え、議会に通知しておくべきだと考えるスーワード国務長官の採った処置が、1868(明治1)年1月8日付けの書簡であったようだ。

この大統領弾劾裁判は、下院議会がジョンソン大統領の執った陸軍長官人事に反発し、1868年3月2日、法律違反として大統領の弾劾訴追を議決し、上院に送った。3月5日に上院議会の弾劾法廷で裁判が開始され、5月26日に1票の差で3分の2の罷免賛成票に達せず、アンドリュー・ジョンソン大統領の無罪を宣告し、大統領弾劾裁判が終了した。ジョンソン大統領は満期まで大統領職に留まりスーワード国務長官も同様であったが、議会との関係が損なわれ、裁判の前後では、議会での 「下関賠償金のヨーロッパ3カ国との分配比率承認審議」 などが出来る状況ではなかったようだ。

まだ続く外交の厳しさ

♦ これで終わった訳ではない賠償金の取立て

外交面の厳しさは、これで終わった訳ではない。幕府はようやく300万ドルの内150万ドルを払ったのみで、まだ半分の150万ドルの支払いが残っている。こんな中で、本サイトの「長州征伐と条約勅許」で書いたように、アメリカ、イギリス、フランス、オランダがかねて強く要求していた「朝廷の條約勅許と兵庫の先期開港」を求め、直接朝廷と交渉すると言って条約4カ国は9艘の軍艦を兵庫沖に進め脅しをかけた。孝明天皇がたまらず条約を勅許した事を受け、幕府はこれを条約4カ国に伝えると共に、4カ国との改税談判も近々行うし、下関賠償金も約束通り支払うと再確認を入れた。

しかしこんな状況下で幕府は、くすぶり続ける長州処置に決着を付けようと第2次長州征伐を決めたが、第1次征伐に引き続き、この海・陸2軍を動かす費用が莫大になり、またまた賠償金支払いにめどがつかなくなった。第3回分の50万ドル支払いを慶応2(1866)年3月30日と約束していた幕府は、何とかその資金手当てを付け上述のようにやっと支払いはしたが、第4回目の50万ドル以降の目途は全く立たない。そこでまた水野忠精・板倉勝静など幕閣6名連名で4カ国公使に書簡を送り、朝廷の条約勅許も得たし改税談判も約束通り行うからと、4回目以降の支払い延期を交渉し始めた。

この幕府の延期要請により、ポートマン代理公使はスーワード国務長官に取り扱いの指示を求める書簡を送ったが、1866年7月18日付けのスーワードの第21号書翰による返事(Papers Relating to Foreign Affairs, Accompanying the Annual Message of the President to the Second Session, Thirty-ninth Congress. Part II. Washington: Government Printing Office. 1867.)は、

そんな支払い延期に対する十分な担保もなく、取極めを正直に誠実に実行するという適切な保証もない今は、支払い延期を容認できない、というのが大統領の意見であります。

と、日本の要求をはっきり拒絶している。アメリカが批准した下関賠償取極め書にある日本の約束は、他の事情と無関係に実行してもらわねばならない、と云うのが外交上の原則論であったのだ。

しかしポートマン代理公使がこの本国からの指示を待っている間に、将軍・徳川家茂が急逝し、日本の政情が大きく動き始める。その後、第15代将軍に徳川慶喜が就任し、孝明天皇が急逝し、それまで暗黙の了解で督促をしなかった外国公使達から再び賠償金支払いを督促された幕府は、慶応3(1867)年4月12日に再び賠償金残高・150万ドルの支払いの2年延長を求め交渉した。スーワード国務長官は1867年7月12日(慶応3年6月11日)、日本の支払い延期を条約の追加条項として合意するようバン・バルケンバーグ公使に指示を出したが、しかしこれから6ヵ月後には幕府が壊滅して政権が入れ替わり、この残額の支払いは明治政府が完済せねばならない事になって行く。この負債を引き継いだ明治政府は、4ヵ国から支払いを求められ、いろいろ議論の末アメリカ政府に対しては、明治7年7月31日、即ち1874年7月31日を以て横浜オリエンタル銀行経由で全ての支払いを終えた。


日本を知るアメリカ人の下関賠償金への視点とアメリカ議会での「返還」結論

日本を良く知るアメリカ人の視点 −適切な賠償金なのか−

♦ 横浜居住ジャーナリスト、フランシス・ホールの意見

少し視点を変えた記述をここに入れる。本サイトで筆者が折に触れ引用している横浜居住のジャーナリストでウォルシュ・ホール商会のパートナー、フランシス・ホールの視点を見てみたい。ホールが1864(元治1)年11月15日に寄稿し、翌年2月15日のニューヨーク・デイリー・トリビューン紙の1面の右2列に 「日本からの興味ある情報」と題し掲載された長文記事の内容だ(「Japan through American Eyes, The Journal of Francis Hall, Kanagawa and Yokohama, 1859 - 1866」, Princeton University Press, 1992)。下関で砲撃されたペンブローク号の荷主はこのウォルシュ・ホール商会だったから、そのコメントは特に興味がある。これは、下関賠償取極めが日本政府と条約4カ国とで締結された日から、約3週間後の記述である。いわく、

ここ横浜では、毎日、日本の外国奉行が我が代表達と密室にこもり、エンフィールド銃とアームストロング砲(筆者注:何れもイギリスの開発で、婉曲的にイギリスを示唆する)の説得力のお陰で準備された、譲歩案の条件を詰めていた。その第一の利点は、周防灘あるいは瀬戸内海の通過が自由になった事で、以来何回通過しても危害はない。次の利点は、外国向けの輸出貿易が、今まで何ヶ月も横浜の貿易をマヒさせ貿易業者を破壊し尽くす脅威にさらして来た、日本政府の全ての妨害や制限から直ちに開放された。・・・大君が平和を買い取った条件は、・・・300万ドルの賠償金支払いと云う戦勝者の仲間内で分け合う 最高の強奪金  か、新しい港の開港かで、大君にその選択の権利がある。なおまたこの条件は、合衆国政府の許可が必要だが、我が政府は、一方を不必要と言って拒否し、他方を法外な要求だと言って拒否するよう望むものである。・・・新港の開港は、日本と我々双方にとって更なる紛糾のもとをもたらす。・・・300万ドルの支払いは日本にとって困難だが、大阪のように優れた他の港を開く事でもっと当惑するよりは、何とか支払おうと努めるだろう事は明らかだ。従って、日本に示されたこの2つの選択案は、「金を出すか、命を出すか」と言う、馬に乗って疾走してくる国道強盗団(筆者注:アメリカの駅馬車を狙う強盗団)と同じやりかたである。

この皮肉を含んだ記事はまだまだ長く続くが、これだけでフランシス・ホールの視点は良く分かる。瀬戸内海も通航できる様になったし、日本政府の陰に隠れた貿易制限と云う意地悪も無くなった。アメリカの国威への侮辱を直接晴らしたし、請求して満額支払われたペンブローク号への損失補償で十分ではないのか、まだ「強奪」をするのか、と云う訳だろう。さすがに横浜に住むジャーナリスト・ホールは、新規開港等はとても出来ないと云う幕府の窮状を良く察知していたようだ。

♦ 福井藩に招請された教師、ウィリアム・グリフィスの意見

本サイトの「福井のお雇い米国人」に書いたウィリアム・グリフィスは、1870(明治3)年12月末に来日し、福井と東京で通算約3年半を過ごしたのち故郷に帰り、1876年に著書「The Mikado's Empire (皇国) 」を出版し、日本の紹介に大きく貢献した。この著作の最後部の追記の中で、下関戦争の賠償金について厳しいコメントを残している。ペンブローク号の攻撃から下関賠償取極め書と300万ドルの賠償金、及びその4カ国間の分配額を簡単に記述した後で、

以上が偽りのない事実である。この事件の正義を見てみたい。国際法に因れば、下関海峡の航行権は条約に規定がなく、各国は海岸から1リーグ(筆者注:4.8km)沿いを領海にする権利があり、海峡への進入と航行を大砲で制御できるから、日本は完全に下関海峡を封鎖する権利があった。アメリカ、フランス、オランダの軍艦は夫々十分な仕返しをしたが、かってないほど流血の戦いに意欲的なイギリス公使・オールコックは、イギリスの海軍力をかき集め、この砲撃遠征を組織化する中心人物だった。イギリス国王陛下の政府から、この不必要で不正な戦争行為を 禁止する  命令が、艦隊が出航した   に届けられた。その後オールコック卿は、状況説明を求められ召還された。
合衆国の取った行為は最も羨望に値しないものだ。先ず第一に、ペンブローク号にはそこに停泊する権利がなかった。・・・この事件を聞きつけたアメリカ公使は、日本に海峡閉鎖の権利があることを知り、この法律知識の有効さを日本人に教え、切迫した内戦の恐怖のいくらかを緩和する事さえできたと思われる。彼はその反対に、あらゆる可能な報復をするためワイオミング号を送り込み、ペンブローク号船主の、1万ドル!!!  もの損害賠償請求書を突きつけたのだ。・・・
外国人によって知らされた日本政府だけが心から陳謝し、不条理なペンブローク号賠償金が支払われ、合衆国は(筆者注:その上さらに余分に)2千ドルを手に入れた。2隻の蒸気船の沈没と、恐らく50人の日本人の血を流すことで我が国旗に対する”侮辱” は拭われている。まだ軍事力の復讐を続けられるのか?
キリスト教文明にとって不幸な事に、そうなったのだ。(殺人と盲目軍隊の主唱者で、タウンゼント・ハリスの平和主義、フェア・プレー、忍耐、止まぬ勇気の前に悪意を持って自分の怒りを隠す人)ラザフォード・オールコック卿の扇動するこの残酷な復讐の三重行為(筆者注:英・仏・蘭の3国を指す)に、アメリカ公使が参加し、合衆国は再び不必要な戦争行為に恥辱を受け、隠者のように無知な弱国で既に過度の消費で貧窮した国から、”賠償金” と云う婉曲な語法を使い、法外な不正な強要で金を取ったのだ。・・・
権威者達よ、「The Mikado's Empire 」の中の 日本の歴史の光の中で  や、R.L.プルーイン公使の ”1863−1865年・外交書簡集”、F.O.アダムスの「日本の歴史」、更に「下関」(E.H.ハウス)、東京、1875年版筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) を読んでみて欲しい。

と、こう書いている。またグリフィスの言うE・H・ハウスは「下関」の中に、「この下関の記録は、” 強国と云う堅固な基礎に立脚した外交 ” によって友好関係と互恵を推進するという、ほぼ20年に渡って使われて来た一方式である」と結び、イギリスの巧妙な力外交により日本は長年苦しんで来たと述べたものだ。これらのアメリカ民間人の正義感がどの辺りに発現するのか、よく知ることが出来よう。ただ上述のホールとこのグリフィスの状況把握の違いは、ホールは当時横浜で貿易を自ら行い、幕府が陰で行った貿易制限で悪影響を受けた困難までも記述しているのに対し、明治になって来日したグリフィスには、その視点は何も無い。

アメリカ議会での結論

♦ 日本賠償基金が公になるまで

アメリカ下院議会の議事録には、最初に提出されたスーワード国務長官の書簡を基に、下院外交委員会から議題として出されたと思われるやり取りがいくつか記録されている。例えば、スーワード国務長官の書簡送付からほぼ2年後の1869(明治2)年12月には財務長官に、この60万ドルが現在何処でどうなっているかの公式確認がなされている。また1870年2月7日、日本が支払った賠償金をそのまま「国庫に入れる議案」が提出され、採決の結果、反対八十四、賛成八十一、棄権五十二で「国庫に入れる議案」がからくも否決されたことが載っている。筆者にとってこの下院の否決は、アメリカ政府と議会の意思が、日本に「 返還する」 と云う一点において一致した局面だったと映る。これ以降の議論は、「返還するかしないか」 ではなく 「どのように返還するか」 と云う点で、長年に渡りなかなか両院の一致点を見出せなかったものだ。

一方、1870年6月の上院議会議事録では、長州の封鎖する下関に単独で侵攻した、アメリカ蒸気軍艦・ワイオミング号の士官と乗組員に賠償金の一部を賞金として与える案が提出された。1872年3月の下院議会ではスーワード国務長官の書簡を公式印刷に付すよう決議している。5月にはこの基金を使って日本のアメリカ公使館や領事館の土地建物の借用代にあて、残りを日本政府に返還しようと決め、その経緯を公式印刷に付すよう決めている。

1873(明治6)年1月に上院議会にまわされると、日本の教育向上のために使うべきだと、民間からの嘆願書が出始めた。こんな嘆願書がその後もいくつか提出され、議論そのものが下院に戻され、また上院に回されと、なかなか両院の意見がまとまらなかった。議会での議題・日本賠償基金が公式印刷に付されると、この情報を聞きつけた民間でも議論が巻き起こり、少しでもその利益にあずかろうと多くの嘆願書が出される事は自然な成り行きだ。この議会議論は当然アメリカ駐在の辨務使・森有礼の耳にも入り、1872年2月29日にワシントンDCに着いた岩倉使節団の耳にも入り、日本政府も積極的に返還に向けロビー活動を展開した。しかしこんな上院や下院の議論は、いまだ完全に合意し実現するまでには至らなかった。

♦ 日本政府のロビー活動と、「手を引け」 という日本政府の指示

スミソニアン協会が運営する博物館充実のため、日本政府との関係を深めるスミソニアン協会のジョセフ・ヘンリー教授は、この日本からの賠償金が未だ一般会計に入れられず、基金として国務省の管理下にあることを知った。ヘンリー教授は即座にこの基金返還の計画作成に動き出し、この活用方法をワシントンに駐在する日本政府代表の辨務使・森有礼に話しをしたが、森がその基金を使った日本の教育向上の必要性を熱心に語る姿に、さっそく上・下両議院共同図書委員会に宛てた嘆願書を起草し、1872年1月10日付けで提出した。その嘆願書の中でヘンリー教授は、スミソニアン協会は現在日本政府と協力し、自然科学や民俗学の資料収集や、隕石や地磁気観測などの協力関係構築に動いているが、そんな話し合いの中で日本政府の森公使は、江戸に、西欧諸国やアメリカを代表する科学・文学の粋を集めた立派な図書館を併設する国立教育機関を設立し、教育向上の中心となる大学を造りたいと熱望している。ついては、

合衆国と日本の間には親しい関係が続いている事を念頭に、かって賠償基金として知られるものを得ているわけですが、この基金を、ここに推奨する教育機関の利益のため議会により適切に充当して頂きたいと思います。共同図書委員会のご考慮のため謹んで提案致しますが、もし貴委員会の賛同が得られれば、合衆国議会に提出して頂きたいというのがこの書簡の目的であります。・・・更に付け加えれば、日本とのかかわりは、何物にもまして、単に商業貿易の利益のみならず他のより高尚な動機付けにより行動し、彼らが我々の忠告を受け入れ、我々の教育方式を採用するよう完全な信頼関係を強化する事に帰着します。

この嘆願書は、共同図書委員会から外交委員会に廻され、その実現が検討され始めた(「The Japanese in America、米国在留日本人」, Charles Lanman, 1872)。

アメリカ議会には様々な働きかけがあり、好意的に受け取られたと云われるこのジョセフ・ヘンリー教授の嘆願だけでは、なかなか突破口にはならなかったようだ。確かに、下に述べる新聞にも載るほど民間の注目を集める効果は大きかったし、外交委員会を動かす影響力はあった。上記出典「米国在留日本人」の著者のチャールズ・ランマンは日本公使館秘書として森有礼に雇われていたアメリカ人だが、この後も長く陰でロビー活動をし、私的に他の弁護士とも組んだ活動をも押し進めたようである。しかし、かって賠償金を支払った国・日本政府の影が少しでもちらつけば、こんな多額の懸案は感情的にそのまま受け入れられるはずはなく、純粋なアメリカ世論そのものか又は議員の大勢に、「また日本に我が善行を施す」 と云う、強い自発的な環境が整わなければ成功しない事は現代と同じであったろう。

アメリカの議会で議論が始まって以来、12年以上も経った1882(明治15)年6月13日付けのニューヨーク・タイムス紙の社説(Editorial Article 2)に、次のようなものがある。いわく、

日本基金返還法案に関する昨日の上院の動きは、共和党にとって不面目なものだった。この恥辱は2、3人の議員のふるまいで深くなり、中でもカンザス州のインガルス氏とプラム氏が群れを抜いて悪かった。18年前合衆国政府は、2、3のヨーロッパ勢に引きずられ、日本から強要した金額の分け前として78万5千ドルを受け取った。この金はスーワード国務長官により合衆国公債に投資され、以来利息が増え続けている。昨日の上院の委員会で、スーワード氏が1864年に購入した債券を取り崩し、78万5千ドルを贈物として日本へ贈呈しようと、23対20で可決していた。議会の討論の中でカンザスの上院議員たちは、日本政府の代理者たちが法案に対しロビー活動をし、悪名高い事実として、若し可決されれば、一部の金は決して日本に届かないと非難したのだ。・・・インガルス氏とプラム氏は、この全ては日本政府に雇われた陳情活動の結果だと断言した。こんな状態では、”贈物” として日本に贈呈する事は、苦心して仕上げた侮辱にあたる。

一部の議員にはこの新聞報道の様に映り、ロビー活動をする日本政府に賠償金など返還できないと、真っ向から反対する人達が居た事は確かだ。外務省・外交史料館、明治15年史料によれば、アメリカ上院議会のこの一連の議論で吉田清成公使や高平小五郎代理公使の名前まで暴露され、泡を喰らった高平が、井上外務卿へ宛てた6月9日付けの報告書簡や、ついに法案は可決されなかったと帰国中の吉田に緊急報告した6月21日付けの書簡もある。またこんな議会動向を、アメリカのロビイストの1人から12月の書簡情報で知った外務卿・井上馨は、ワシントンに赴任した公使・寺島宗則宛に1883(明治16)年1月15日付けの書簡を送り、「また償金に関し、この際我方より返還を促すような形跡が有っては不都合だから、全て米政府の為す所に任せて置き、我より干渉しないよう致したく、この旨進言します」 と伝えているほどだ。ロビー活動から 「手を引け」 という日本政府の指示だった。

従ってこのように、日本政府はアメリカ公使館を通じ一時熱心に返還を求めロビー活動をしたが、この活動が顕在化すればするほど一部の議員の鋭い反発を招き、外務省から、「手を引け」と指示を出さざるを得なくなったのだ。金儲けのため日本政府と組んだアメリカ人職業ロビイストに踊らされた格好の日本外交は、まだ未熟だったようだ。外務省・外交史料館史料には、当時のアメリカ人ロビイストが仲間たちに、「償金返還後に」と約束した14万ドル以上にも上る報酬金額の報告例もあるが、ここではその細部までは踏み込まない。

♦ アメリカ議会の最終決定

議論に長い年月を費やす間に、その後1874年7月に日本から完済された残りの賠償金も合わさり、利息で基金が倍以上に膨らんだ。基金に付いた利息まで返還するか、基金の管理費用徴収の減額をするかなどと、ロビイストの影響もあったのだろうが、ああでもない、こうでもないと、本質から外れ始めた議会の議論に、1879年12月、当時のヘイズ大統領から一般教書(Papers Relating to the Foreign Relations of the United States, Transmitted to Congress, with the Annual Message of the President, December 1, 1879. Preceded by a List of Papers and Followed by an Index of Persons and Subjects. Washington: Government Printing Office. 1879.)を通じ、

日本と支那から何年か前に受領し、利子の累積で今かなりの額になった賠償金の処置につき、再び議会の注意を喚起したい。これら基金の内、アメリカ市民にとって正当に受領すべきものは直ちに受領し、本政府により厳密に公正な要求額以上に受領されたものは、適切な方法で、正当な国に返還すべきであります。

と、政府の推奨する返還の原則方針まで出され始めた。1881年に就任したアーサー大統領もこのヘイズ前大統領の原則方針を支持し、また大統領辞任後に大歓迎を受けて日本訪問から帰ったグラント元大統領も、「不適切な賠償金受領だとかねて思っていたが、日本に行って、その通りだと良く分かった。利子無しの元金返還だけでも日本は歓迎する」 と、1882年7月24日付けで当時のC・G・ウィリアムス下院外交委員長宛てに個人書簡を送っている(1882年7月31日付けニューヨーク・タイムス紙)。このグラント元大統領は現役中に、下関賠償金の残額支払いを免除すべきだと議会に強く働きかけたが同意を得られず、1874年7月31日、外交バランス上仕方なしに日本から支払われた最後の賠償金を受取った人だ。またグラント大統領は1874年12月の一般教書で、この基金からの利子を日本語教育に当てる提案をもしていたが、この様に過去の大統領や現役大統領から強い働きかけが続いた1882年の下院では、利息も含めた150万ドルほどの返還に傾いたが、これも1票の差で否決された。日本政府のロビー活動が足を引っ張ったのだろうか。

翌1883(明治16)年には両院調停委員会に委ねられ、下院は賛成・可決し、最後の上院議会に提出された。上院には少数派だが、原則論として返還反対の論陣を張り続けたモリル上院財務委員長のような議員もいた。日本基金の返還議論が大詰めに近づいた時期の上院議事録、1883年2月16日に、このモリル上院議員の2時間にも及ぶ長い演説の記録が載っている。昔のメキシコとの条約まで持ち出して、日本との条約締結の歴史を述べ、日本に返還する理由は何処にもないと再度激しく反対した。そして最後に、「若し上院が返還に合意するにしても、基金の利子などは返還できない」と長広舌をふるっている。

しかし、この1883年2月の上院議会の議論が最後だった。議会では1883(明治16)年2月22日に返還法案を制定し、2月23日アーサー大統領が署名し、日本が支払った賠償金額と殆ど同じ、78万5千ドル87セントの日本への無条件返還が正式決定された。この時点までに日本賠償基金関連の総額は、183万9千533ドル99セントにも上っていたという。そして14万ドルが単独懲罰に下関に向かったワイオミング号と下関戦争に参加したターキャン号の士官及び乗組員への賞金として分けられ、残りの91万4千ドル余りは国庫に収められた(「The Early Diplomatic Relations」, Treat, 1917)。まるで日本の講談や落語に出て来る「大岡越前守のお裁き、三方一両の損」に似ていても、「三方が得」をした話だ。この「相当する理由のない」賠償金返還の実現が、スーワード国務長官が期待した「アメリカの正義」の実行だったのだろう。


下関賠償金の日本への返還とその活用

日本政府への返還と資金活用

♦ 返還

当然この日本への返還は、日本駐在アメリカ公使・ビンガムを通じてなされたが、当時の国務長官・フレリングハイゼンからビンガム公使宛の1883(明治16)年3月21日付けの第725号書簡にこう記されている(Papers Relating to the Foreign Relations of the United States, Transmitted to Congress, with the Annual Message of the President, December 4, 1883. Preceded by a List of Papers and Followed by an Index of Persons and Subjects. Washington: Government Printing Office. 1884.)。いわく、

ここに、合衆国国務長官である私宛に合衆国財務省が振り出し、貴殿宛に私が裏書した78万5千ドル78セントの小切手を同封します。
ここに述べる合計金額は、1883年2月22日付けの議会決議に基づき履行すべく、これを日本政府宛に支払うよう貴殿に命ずるものであり、これは、1864年10月22日に日本と結んだ、一般に「下関賠償金」と呼ばれる取極め条項に従って、合衆国が日本政府から受領した金額の返還であります。
この書簡により貴殿が命令を遂行するに当たり、その機会を利用し、本政府が永年に渡り抱き続け、日本にこのお金を返還したいという願いが議会議決により実行出来るようになったという大統領の持つ満足感と、日本国民とその政府の繁栄と進歩に係わる全ての面で、合衆国政府が持つ友好的な気持ちの更なる証拠として、日本政府に必ずや受領して貰えるはずだという大統領の気持ちとを、日本の外務大臣に伝えて貰いたい。

ビンガム公使はこれを4月19日に受け取ると、早速この件を井上外務大臣に伝え、井上は折り返し日本政府は喜んで受領する旨の返書を送り、小切手の宛先は外務大臣・井上馨宛てに願いたいと伝えている。4月22日付けのこの書簡(Papers Relating to the Foreign Relations of the United States, 同上)の中で井上は、

この返書で閣下に断言できる事は満足の至りでありますが、日本帝国政府は、1866年10月22日付け締結の下関取極め書に従って日本政府が合衆国政府に支払った償金の自発的返還は、閣下の政府の友好の更なる証明であるのみならず、常に合衆国と日本との関係において鼓舞されてきた、いわゆる正義と公明正大な精神の明らかな発露であるとみなしており、また確信を持って言える事は、それが、現在幸運にも両国国民の間に存続している相互信頼や心からの善意と友好とを永続させ、且つ強化させるものであるということであります。
従って帝国政府は、提案された金額の受領を躊躇するものではなく、適切な人物を小切手の受領人に指名して欲しいという閣下の要請に従い、閣下のご都合により、帝国外務大臣たる本官宛てに裏書されん事を願うものであります。

こうして長期に渡り懸案だった賠償金の返還は無事終了し、再び日本政府の元に戻った。
(以上引用したアメリカ外交の書簡類は主に、「Papers relating to Foreign Affairs」, Washington: Government Printing Office, 1865 Part III, 1866 Part II, 1866 Part III, 1867 Part I, 1867 Part II, 1879, 1884 等によった。)

♦ 横浜港の改良に役立った返還金


現在の横浜港桟橋に停泊する豪華な観光客船。船の手前に
右から左に突き出す石垣が、開港当時からある「象の鼻」部分

Image credit: 筆者撮影

付帯条件なしでアメリカ政府から返還された78万5千ドル78セントは、こうして日本政府が受領し、翌明治17年に円貨に交換された金88万4千508円20銭が日本でも公債に投資され、その適切な使用用途の決断を待つ事になった。

明治21(1888)年2月に就任した外務大臣・大隈重信の主導で進められた横浜築港工事は、このアメリカから返還された基金を使い、開港以来の古い港湾設備を改築し、大型船が使える桟橋や接岸埠頭を造ろうとする大規模なものだった。しかしこれは、国家主導ではあっても、通常の内務省管轄工事ではなく、外務省主導という異例なやり方だった。神戸港などにあったという、民間人・加納宗七が旧生田川尻に造り、その後も自力で増設もした小野浜船溜り(加納港)のような民営の埠頭設備はなく、国が改築・運営する官営港湾方式だった。それまでなかった大規模な防波堤で広く港の外側を蔽い、大型船が直接接岸できる鉄製の桟橋を造り付け、鉄道との連絡も考慮したものだったという。そして実際の工事の施行も神奈川県庁が行うというように、日本の外交政策と密接に関連した外務省主導、大隈主導の改築だったようだ。

この様な経緯で明治22(1889)年11月に着工され、明治27(1894)年3月に完成という横浜港の大桟橋改築には、アメリカから返還された基金が中心になった。この公債に入れられていた基金は、明治20年12月現在までに金124万4千円にまで膨らんでいた(外務省・外交史料館、第18巻・明治18年史料)。こんな資金手当てがあったからこそ、外務省主導の改築に成功したのだろうし、国際貿易に貢献するという見地からも、返還金の活用として的を得たものだったわけだ。

筆者のコメント

この「下関賠償金の返還」を考える上で、アメリカの政治上、いくつかのポイントがある。先ず、スーワード国務長官が日本が支払う賠償金を合衆国登記公債に入れ、別勘定口座を造った。その上でスーワードは、その処理方法を議会の議論に委ねた。次に、アメリカには日本より明確に、立法・行政・司法の三権分立体制があるという政治システムの違いである。これを項目別に列記すれば、

  1. 政府が日本との賠償取極め書を批准したくとも、憲法規定により、上院議会の承認が不可欠である。
  2. 政府がイギリス、フランス、オランダと日本が支払う賠償金の分配比率を取り決め批准したくとも、憲法規定により、上院議会の承認が不可欠である。
  3. 行政府の長である大統領が賠償金を日本へ返還したくとも、立法府である両議会の承認なしには実行できない。

従って上記3点と共に、議会議論の中で正義の実行に焦点が当たったが、結論的には、

  1. 南北戦争中で独自外交ができず、英・仏・蘭と共同で日本に高額な賠償金を請求すると云う止むを得ない成行きになったが、政府即ちスーワード国務長官は、一時的手段として賠償金を受領した。
  2. 賠償金の分配比率やその処分につき議会の結論が出るまで、スーワード国務長官は受領した賠償金を公債に入れ、別勘定として保管した。
  3. スーワード国務長官は議会に提議し、議会議論を通じて賠償金処分、即ち受領か返還かの正式結論を待った。大統領のみが単独で返還を決済したのではない。
  4. ジョンソン大統領が暫定的に受け入れた賠償金の欧州3ヵ国との分配比率は、結果的に、政府も議会も理由のない高額の受領だと認定し、返還を決めた。
  5. スーワード国務長官が受領した賠償金を公債に入れ、その後の議論の口火を切った。この議論にはジョンソン大統領、グラント大統領、ヘイズ大統領、アーサー大統領が関わっているが、誰か1人のみの決断ではなく、永年に渡る政府と議会の議論の末の返還の決定であった。
  6. 議会議論に時間がかかったのは、返還するかしないかではなく、いくら返還し、余剰金をどう処分するかの議論だった。これに、議会へのロビー活動が影響を与えた。
  7. 日本政府のアメリカ議会へのロビー活動が暴露されると、議員の一部に強い反発が起った。これも議会議論を中断させ、議論が長引く一要素となった。

 


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03/18/2020, (Original since June 2011)