日米交流
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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

18、特派員、エドワード・H・ハウス (その2)

台湾出兵とエドワード・ハウスの従軍取材に至る経緯

♦ 琉球処分とデロング公使の質問状、そしてチャールス・リゼンドルの招聘

明治政府は強力な中央集権国家を目指し、明治4(1871)年7月14日、全国の廃藩置県を断行したが、琉球の本格的統合をも目論み、翌5年9月「琉球王国」を廃し「琉球藩」を設置した。そしてまた、更なる統合に向けた廃藩置県を目指し、それまで続いた琉球と清国との冊封関係と直接貿易や通交を禁じ、明治年号の使用と藩王自ら上京することなどを再三説得した。しかし琉球官吏は言を左右してなかなか従わず、明治12(1879)年3月、明治政府は処分官として内務大書記官・松田道之と警官や熊本鎮台の歩兵2中隊など合計約600人あまりを琉球に派遣し、武装と威圧のもとで3月27日、首里城で廃藩置県を布達した。首里城は31日に明け渡され、4月5日「沖縄県」を誕生させ、他の藩主同様、藩王・尚泰を華族に叙し東京在住を命じた。しかし前章の「16、グラント将軍の世界周遊と日本立寄り、琉球所属問題」でも書いた様に、こんな強制的な統合に琉球士族の一部は強く反発し、清国へ渡り救援を求め続けた。清国も日本のこんな処分に強く抗議するなど、この問題の決着に長い時間がかかった。

この様に、明治政府が強行策をも交えた琉球統合を進める過程の中で、自国権益に直接影響するアメリカのデロング公使は、1872(明治5)年10月20日付けの書翰で、かってアメリカのペリー提督が琉球王国と締結した条約の取り扱いをどうする積りなのか明治政府に確認した。11月5日付けの書翰で外務卿・副島種臣は、琉球統合後もそのまま有効である旨を正式に伝えている。この回答書翰に先立つ会談の中でデロングは、最近台湾で多くの琉球人が殺害されたという話を聞いたがと、副島に事実を確認した。副島は、清国に出張させている柳原少辨務使から、4、5ヶ月以前に届いた日本の太政官日誌に当る「清国京報」に載る、琉球人が台湾で遭難し殺害に遭ったと云う事件を公式に認めた。またこの情報は、少し送れて鹿児島県から外務省へ 「問罪の師を興し彼を征したい」と報告が上がってもいたが、副島は日本政府が台湾出兵なども含めたその処分を検討中である旨をデロング公使にほのめかし、何か台湾の情報があれば、ぜひ入手したいとも伝えた。

台湾及び最南端・恒春半島の南部付近の拡大図
黄色が牡丹社地域、赤色が琉球人漂着のパーヤオ(八瑶)湾、オレンジ色が
遠征隊上陸地・リアンキャオ(琅嶠)湾及びキャンプ地・シャリャオ(射寮)

Image credit: 筆者製作、Original image: by courtesy of Google map.

この琉球人の大量殺害は、宮古島から琉球の首府・首里へ年貢を輸送した帰りの琉球御用船が那覇港出航後、明治4(1871)年11月1日、嵐に遭って漂流し、6日台湾南部・恒春半島の東海岸にあるパーヤオ(八瑶)湾に漂着した。この66人の乗組員は上陸し、先住民・パイワン(排灣)族に救助を求め、一応食事を与えられた。しかし夜半、琉球人数人が忍び込んだ現地人に衣服を剥ぎ取られ、翌日もまた不穏な雰囲気に琉球人は皆逃げ出した。その後広東商人の家に逃げ込んだが、追いかけてきたパイワン族に次々と54人が殺害され、12人だけが生き延び生還したという事件だ。この生存者は台湾駐在の清国役人の保護を受け、清国の福建省福州を通じ琉球に生還した。現在の台湾・恒春半島南端の近くに「牡丹郷」や「満州郷」などという地区があるが、この辺りの山岳地帯に勇猛な先住民が住んでいたようだ。

デロング公使と副島外務卿のこんな会話が発端となり、たまたま当時帰国途中で横浜に来た、アメリカのアモイ総領事をしているチャールス・リゼンドルを外務卿・副島種臣の顧問に雇う事になった。このリゼンドルは、漂流アメリカ船員の殺害懲罰のため台湾に進攻したが不成功に終わっていたベル海軍少将の後を継いで、1867年に自身で支那より兵士を引率し台湾に遠征し、生蕃の酋長・トキトック(卓其督あるいは卓杞篤)とアメリカ人殺害の事後処理談判まで行い成功させた人だった。リゼンドルはこの様な台湾と支那事情に通じた専門家であり、アメリカの南北戦争では大怪我をしながらも戦列を離れず奮闘活躍し、准将にまで昇進した経歴を持つ。こんな軍事・政治の専門家の招聘は、明治政府が清国や台湾情勢の細部を知り、台湾出兵にまで進む一つの重要要素になった。後述の如く実現こそしなかったが、台湾出兵で明治政府は、リゼンドルを 「台湾地方事務都督」に任命するつもりでもあった程の人だ。

このリゼンドルは、明治5(1872)年11月15日付けの、「2等官の敬礼を与え、月額1,000円」と云う副島種臣の雇用申請により、折り返し太政大臣・三条実美から許可を得た副島は、早速デロングに書翰を送り雇用斡旋を求めた。デロングから副島宛の12月29日付けの書翰でリゼンドルは、アモイ領事を辞任し明治政府に雇われる事を了承している。そして翌日の12月30日に明治天皇の謁見を得ているが、デロング公使が副島外務卿にアメリカ・琉球条約の確認をしてから、たった2ヶ月と云う短期間でリゼンドルの雇用が決まるという早さだった。この待遇はデロング公使並みの高給で、これはまた、副島種臣などの給与の倍額近いとも聞く高給だったが、それほどまでに明治政府はこの専門家の経験を欲していたのだ。

♦ 台湾生蕃に関する清国政府との談判

外務省が主導し、明治5年暮れまでにほぼ完成した日清修好条規通商章程の批准書交換のため、外務卿・副島種臣を特命全権大使としての清国派遣が決まった。太政大臣より副島種臣宛の明治6年3月9日付けの 「清国にての心得方達しの件」と題する命令書に依れば、

今回批准書を交換するが、この際、生蕃暴虐の事件を談判する事は我が政府の国民に対する義務であり、止む終えないものである。

と、清国と、台湾の生蕃が琉球人の大量殺害を行ったという暴虐についての談判をも命じたのだ。こんな目的もあったから、外務省顧問に雇った前アモイ総領事・チャールス・リゼンドルも外務省の準二等官として副島に同行した。一行は明治6年3月10日に東京を出て、横浜から軍艦に乗り清国へ出発したが、副島種臣が4月30日現地で李鴻章に会い、批准書を交換した席にもリゼンドルが顧問として同席している。

批准書交換の後副島は、困難なやり取りの末6月29日、やっと清国皇帝との謁見を実現させ国書を渡す事ができた。それまでアメリカ、イギリス、フランスなど清国に派遣された諸外国公使たちも清国の皇帝と謁見が出来ず、国書も渡せず長い間てこずっていたが、副島種臣の努力で日本の後に続けて謁見する事になり、副島は各国公使から大いに感謝された。また台湾生蕃に関する談判は、副島の判断で柳原大丞を総理各国事務衙門(がもん、=役所)に送り個別に談判させた。副島は6月29日付けで三条太政大臣に宛てたその皇帝謁見と生蕃談判の報告書翰の中で、

将にまた台湾生蕃処置の一件は、本月20日柳原大丞を総理各国事務衙門に遣わし談判致させ候ところ、清朝大臣、土蕃の地は政教禁令相及ばず、化外の民たる旨相答え、別に辞なく、都合よく相済み候。

と、台湾の生蕃の住む地域は化外(けがい)、即ち清国の法律も行き渡らず、国家統治の及ばない地方だと清国大臣も言っていると報告している。しかしこの柳原の談判は、口頭談判のみで何も公式書類を作った気配が無いし、副島自身も、清国皇帝との謁見を設定するから副島の帰国は待って欲しいと頼みに来た清国使節に、謁見の有無にかかわらず台湾の生蕃討伐は実行すると明言したが、公式書類は何も無い。その時は都合が良いと感じたこの談判は、続く日本政府の台湾出兵の重要な根拠の一つになったが、日清両国間の公式書類が無いため後に諸外国と大いにもめる主要原因となる。当時の外交経験欠如の一例であろう。

♦ 大久保利通と大隈重信の「台湾蕃地処分要略」による台湾出兵の決定と、エドワード・ハウスの同行

清国で条約批准書を交換し、総理各国事務衙門と台湾生蕃の暴挙について談判した特命全権大使・副島種臣は、明治6(1873)年7月26日に帰国した。たまたまこの副島の帰国に先立つ4ヶ月ほど前の3月8日、当時の小田県、即ち現在の岡山県と広島県の県境にあった小田県浅江郡柏島村の村民4人が乗る船が台湾に漂着し、また生蕃に全てを略奪されやっと帰国できた。こんな台湾生蕃の暴挙処置に付き朝議で議論があったが、参議・大久保利通と大隈重信が 「台湾蛮地処分取調」を命ぜられその処置の検討に入った。そして明治7(1874)年2月6日、大久保と大隈は次の如く9ヵ条に亘る 「台湾蛮地処分要略」を造り、朝議に提出し可決された。いわく、

   第一条
台湾土蕃の部落は清国政府政権及ばざるの地にして、その證(あかし)は従来清国刊行の書籍にも著しく、殊に昨年、前参議副島種臣使清の節彼の朝官吏の答えにも判然たれば、無主の地と見做すべきの道理備われリ。就いては我が藩属たる琉球人民の殺害せられしを報復すべきは日本帝国政府の義務にして、討蕃の公理も茲(ここ)に大基を得べし。然りして処分に至りては、着実に討蕃撫民の役を遂げるを主とし、其の件に付き清国より一二の議論生じ来るを容とすべし。

更に続けて第二条以下に、北京に公使を派遣し公使館を造り、清国と弁論はせず、清国の政令が及んでいない事実を挙げ、台湾港に領事を置き、この領事は蛮地の征伐撫民に関わらず、台湾だけに軍艦を送り、台湾に6名の先遣隊を送り、台湾の上陸地点の情報収集を行う、と云う9ヵ条だったが、直ちにこれが決裁された。そして2ヵ月後の4月5日、蕃地事務局を設置し、長官に大隈重信を任じ、陸軍中将・西郷従道を事務都督に任命し全権が与えられた。

大久保と大隈が台湾蛮地処分取調べを命ぜられた直後から、右大臣・岩倉具視が赤坂仮皇居からの退出途中、赤坂喰違いで不平士族の暴漢に襲撃されたり、佐賀の乱が発生したりと、征韓論に破れ帰国した西郷隆盛の隠遁に深く関わる事件が続いたがしかし、この台湾生蕃討伐に向けた出兵計画は遅滞無く進んだ。副島種臣が雇い、外務省顧問として副島に随行して清国に渡り、台湾蕃地処分については当時の明治6年7月、「台湾に出兵し殖民すべし」(リゼンドルの副島宛意見覚書)とまで副島に意見を提出していたリゼンドルが蕃地事務局の準二等出仕に任じられ、事務都督・西郷従道の補佐や台湾島民懐柔策の立案、清国その他外国応接の任に当る事になった。そして、1年3ヶ月程前に大学南校の教授を辞職してアメリカに渡り、その後日本に帰っていたエドワード・ハウスは、このリゼンドルの秘書として台湾への同行が決まった。こんな経緯があって、ハウスが日本の台湾出兵に従軍し、現地取材する事になったのである。

この様に準備が整う中で、明治7年4月7日に海軍省と陸軍省に出された「事務都督の指揮を受くべき事」と云う出兵命令により、4月9日、西郷従道は日進、孟春など諸艦を率いて長崎に向け品川を出航した。そしてハウスは長崎から、兵隊200人余りを乗せ先発した有功丸に同乗し、アモイ経由台湾に向かう事になった。
(明治6年7月リゼンドルの副島宛意見覚書:「台湾蕃地処分ニ付米国人李仙得ノ意見書」、公文別録・太政官・明治元年〜明治十年・第五巻・明治五年〜明治十年、国立公文書館・アジア歴史資料センター)

♦ アメリカとイギリスの中立宣言

しかしここに、思いもかけぬ障害が立ちはだかる事になる。同じ4月9日、早速この日本軍艦の出航を知ったイギリス公使・パークスから外務卿・寺島宗則に宛てた書翰で、日本政府は兵員や兵站物資輸送のため諸外国の船舶を傭船し台湾に向け軍艦をも派遣したと聞くが、台湾の何処に派遣するのか不明である。台湾はイギリスの権益にも関わるから、至急その目的と行き先を知りたいと言うものだった。寺島は翌日パークスと外務省で会談し、その目的や派兵の規模などを説明し、約7年前の1867年、自身で清国兵士を引率し台湾に遠征し、生蕃の酋長・トキトックと条約を結んだアメリカ人のリゼンドルを顧問にしている事を伝えた。この情報を基に4月13日付けでパークスは、万一清国が日本の台湾出兵を清国に対する敵対行為と見做せば、関係するイギリス人や傭船された船舶を引き揚げると通告してきた。いわゆる、戦争中の局外中立宣言である。

更に4月18日にアメリカ公使・ビンガムからも同様に、昨日付けの「ジャパン・デイリー・ヘラルド」紙の報道で始めて知ったがと、日本が清国に対する敵対行為ならアメリカ人関係者と傭船されたアメリカ船舶の参加を禁止すると通告が来た。更に翌19日ビンガム公使から、清国が日本の台湾出兵を敵対行為と見做す可能性があるので、清国の書面による了解があるまでは、アメリカ人の従軍を差し止められたい、との要請書翰が送られた。それまで政府内部でも強い反対意見もあったが、国内不平士族対策といわれる台湾出兵を決めた明治政府も、アメリカ人顧問を雇ったり、傭船をしたりしているアメリカの公使からさえ 「アメリカ人雇用禁止」 「アメリカ傭船禁止」と中立を宣言されては、この計画を一旦休止し、再考する必要に迫られたのだ。

この様に、副島種臣が清国で談判した台湾生蕃の討伐問題は何の公式書類も作らなかったし、諸外国への根回しも無かったから、ここでその外交上の準備不足が露呈した格好になってしまった。

♦ アメリカ公使・ビンガムから蕃地事務局顧問・リゼンドルへの「渡台」差し止め通告

上述のごとく、日本政府が前アモイ総領事・チャールス・リゼンドルを顧問に雇う時はチャールス・デロングがアメリカ公使だったが、それから1年4ヶ月ほど経ったこの時点ではジョーン・ビンガムが公使になっていた。この間のアメリカ国務省の日本に対する外交基本方針は特に変化は無いから、2人の公使の判断の違いが浮き彫りになったように見える。ビンガム公使は寺島外務卿宛に 「アメリカ人の従軍を差し止められたい」との要請書翰を出すと同時に、同じ4月19日付けで、西郷都督と共に長崎に居るリゼンドル宛にも、日本の台湾出兵から手を引くよう直接書翰を送っている。いわく、

貴君はこの上更に日本政府及び合衆国政府より指示を受けるまでは、決して日本に奉仕し兵隊を引率して台湾に進行せぬよう、貴君のため且つ合衆国政府のために、貴君に通告するものである。

これを長崎で受取ったリゼンドルは4月25日付けの書翰をビンガムに送り、こう反論した。いわく、

本官が右の件を決定した理由は、米国の著名なる(日本政府顧問の)評議役・ペシャイン・スミス氏と同意見である旨、本官の秘書役・ハウス氏より確かに聞いているからである。・・・本官が日本政府に雇用された経緯は、貴下の先役の在勤中、その人物の強い推薦によるものである。この人物より、日本政府が本官を雇用した理由を合衆国政府に通達済みである。1872年12月の公使館書類を参照されたい。

というものだ。この評議役・ペシャイン・スミス氏とは、当時日本政府に雇用されていたアメリカの著名な国際法の大家であり、前述のマリア・ルス号事件でも日本外務省の国際的に通用する理論を構築した陰の人物である。リゼンドルにしてみれば、明治政府の法律顧問をしている、アメリカ本国でも著名な法学者も同意見だと云うわけだ。

またこの時から約1ヵ月後の5月下旬、大隈重信もこの法律顧問・ペシャイン・スミスに宛て、この4月19日付けのリゼンドル宛のビンガム公使からの書翰は、台湾に行くなと言う差し止め命令と解すべきか、また、リゼンドルと共に台湾に行くアメリカ海軍少佐・カッセルや前アメリカ陸軍大尉・ワッソンの渡台禁止も公使権限としてビンガムに出来るのかなど、法律・万国公法などの面からアドバイスを求め、それに対するペシャイン・スミスの回答書が 「大隈重信関係文書」(早稲田大学図書館所蔵・大隈重信関係資料)の中にある。

一方でビンガム公使は早速、蕃地事務局顧問・リゼンドルやアメリカ商船が日本の台湾出兵に参加せぬよう、自身で命じた経緯に関する4月22日付けの報告書翰を自国のフィッシュ国務長官に送り、

遠征で侵犯される支那の領土と支配権に付き、満足のいく支那の同意証拠なしに、台湾に向け敵対行為を行う目的のこの遠征の宣言が出されたため、アメリカの船舶や市民がそんな遠征に参加する事に対する私の新たな異議申し立てをするに至りました。・・・この遠征で日本政府に雇用されるアメリカの市民や船舶は、支那の同意書が発行されるまでは、遠征隊と合流した台湾への進攻を引き止めると外務大臣宛に通知した、今月19日付の本官の書翰に特にご留意下さることをお願い致します。・・・以上本件に関する経緯をご報告いたしますが、現在に至るまでの自分自身の対応を、長官がご了承下さる事を期待します。また新たに緊急な事柄があり、その必要性がある場合には、電報にてご指示下さるよう、特にお願い致します。

と自身の判断と決定の根拠を述べ、承認を求めている。これから分かる通り、ビンガム公使の判断でアメリカの中立とアメリカ国民の参加禁止を決め、国務長官に事後承諾を求めたという形だ。後にフィッシュ国務長官からは、「了承」の書翰が届いた。

♦ 都督・西郷従道の強硬出航とエドワード・ハウスの台湾渡航

この様にアメリカやイギリス公使から思わぬ横槍が入り、またイタリア、ロシア、スペインも懸念を表明して局外中立を述べ、スペインからはスペイン領での石炭供給は出来ない旨の通告もあった。この当時、右大臣・岩倉具視は暗殺未遂で怪我の後復帰したばかりだったが、内務卿・大久保利通は佐賀の乱鎮圧のため佐賀に居たし、大蔵卿で蕃地事務局長官・大隈重信は長崎に居たが、東京の明治政府は閣議で直ぐに台湾出兵保留を決め、直ちに三条実美の書翰を携えた特使を長崎に派遣した。長崎に居た参議で台湾蕃地事務局長官・大隈重信や陸軍中将で台湾蕃地事務都督・西郷従道は、この各国の局外中立、アメリカやイギリスの傭船や自国民の参加禁止命令を初めて知り大いに驚いた。しかし西郷従道は、天皇から都督に任ぜられ勅書を奉ずる身が、新たな勅書が無い限り後戻りは出来ず、清国が異議を唱えれば 「自分を脱国不逞の徒と呼んでもいい」とまで述べて、三条からの台湾出兵保留命令を受け入れなかった。

西郷は明治7(1874)年4月27日、兵隊200人を有功丸に乗せ、福島九成アモイ領事に福州総督へ宛てた公告書すなわち日本政府の台湾出兵告知書を持たせ、急きょアモイに向け出航させた。更に5月2日には谷干城、赤松則良に命じ、日進、孟春、明光、三邦の各艦を率いて台湾の射寮(社寮)へ向け出航させた。

この時エドワード・ハウスは、福島領事と共に有功丸に乗り、またビンガム公使からの参加禁止命令は公使の単なる個人的見解あるいは単なる忠告に過ぎないとのカッセルやワッソンの解釈で、この2人もまた福島領事に同道した。しかし、ビンガム公使から参加禁止命令を受けたリゼンドルは、そのまま長崎に滞在していた。西郷の許可の下リゼンドルは、急きょ事態収拾のため長崎にやってきた大久保利通と共に帰京することになったので、明治政府の計画していたリゼンドルの 「台湾地方事務都督」は実現しなかったが、帰京前の5月5日、台湾での重要戦略の大筋推奨案を西郷従道宛てに書翰にして提出している。特に、牡丹社を攻略するには11月になり涼しくなってからの時期が最適だと忠告しているが、現実には上陸地・射寮(社寮)の河原の中に湿気のあるキャンプ地を設営し、5月末と云う暑さの中の進攻になり、日本兵の多くがマラリヤ感染で疲弊し死亡する事になってしまう。

この様な経緯でエドワード・ハウスは、福島アモイ領事やカッセル、ワッソンと共に日本船でアモイ経由台湾に渡った訳だが、大久保利通が長崎から帰京し5月15日に太政大臣・三条実美に提出した 「大久保参議復命書」にはこう書いてある。いわく、

既に先月27日夜、福島領事、雇い米人カツスル、ワツスン、ハウス、3名を率し、福州総督へ公告書を斉し(=整え)、有功丸より厦門(=アモイ)へ向け出帆。続きて本月二日、谷副総督、赤松少将、護兵千余を率し、日進艦、孟春艦、三邦艦、類船四艘、社寮に向け出帆せし趣なり。

筆者には細部の史料が無く詳細不明であるが、この大久保参議復命書に 「福島領事、雇い米人カツスル、ワツスン、ハウス、3名を率し」とある事から見て、ハウスもまた明治政府の「雇い」として台湾に行ったことになる。上述のリゼンドルが4月25日付けでビンガム宛てに出した書翰には「本官の秘書役・ハウス氏」と出て来るから、明治政府はエドワード・ハウスをリゼンドルの秘書として雇用していたようだ。

エドワード・ハウスを日本政府が雇用するというその様なお膳立ては、台湾蕃地事務局長官・大隈重信の責任内にあったはずだから、ハウスは、リゼンドル等を通じこの時この大隈重信とも強い繋がりができたのか、あるいはアメリカに一時帰国した当時からある種の繋がりがあったのだろう。そしてこの時ハウスが台湾行きを大隈重信に頼み込み、後日ハウスから大隈に、「客歳、拙者の台湾行きに付いては異儀なく御恩准(=温順)なし下され、御懇情の程は決して忘却致し居り候訳にて御座無く候」と書き送っている事から見て、ハウスからの従軍希望を大隈が許可した様に見える(「1875年6月12日付けのハウスから大隈宛の招待状」)。生蛮懲罰と安全の確立を主目的とする明治政府の台湾出兵は、エドワード・ハウスという西洋人の目を通し適切に報道されれば、将来にわたり彼らからの無用な思惑や推量を無くせるとの期待が、大隈重信や明治政府内にあったとしても不思議ではない。
(「外務省・外交史料館・日本外交文書」、明治5年、6年、7年。「Executive Documents Printed by order of the House of Representatives. 1874-'75.」, Vol. 1, No.1, Part 1, Government Printing Office, 1875。「資料御雇外国人」、小学館、昭和50年。「公文別録・太政官・明治元年〜明治十年・第五巻・明治五年〜明治十年」、国立公文書館・アジア歴史資料センター。「1875年6月12日付けのハウスから大隈宛の招待状」:タイトル  招待状 : 大隈重信宛 / 米・ハウス、請求記号:イ14 a4410、「大隈関係文書」、早稲田大学図書館所蔵・大隈重信関係資料)。

エドワード・ハウスの台湾出兵従軍現地取材とその記述

♦ エドワード・ハウスのニューヨーク・ヘラルド紙記事

エドワード・ハウスは、明治7(1874)年4月から明治政府の台湾出兵に従軍し、現地取材を行い、翌1875年東京でその内容を 『征台紀事、The Japanese Expedition to Formosa』として出版した。この本が現在よく知られた、いわゆる西洋人が現地で見た日本の台湾出兵情報である。ただこのハウスの視点が、当時の平均的西洋人のそれであったのか筆者には良く分からないが、当時のアメリカ人ジャーナリストの特徴ある報道姿勢に強く興味を引かれるものだ。

またこの本の巻頭に、「前半の多くの章の内容は、もともと書翰の形で1874年の夏と秋にニューヨーク・ヘラルド紙に掲載されたものである」と述べるごとく、この時のハウスは、「トリビューン紙」ではなく 「ヘラルド紙」との契約であった。以下にこのハウスの 『征台紀事』情報を中心に書いてみたい。

このニューヨーク・ヘラルド紙に掲載された第1回目の台湾出兵記事は先ず、1874年6月24日付けの同紙の4ページに載っているが、この日本の台湾出兵に関するハウスの最初の記事についての、「編集者の序文」が同じく6ページに載っている。いわく、

今日発行されたアモイの我が社特派員からの記事の中で、この急速な東洋発展の時代の中でも、世界の目の前に全く新しい特徴ある姿を見せる日本帝国による、興味深い遠征の歴史が明らかにされるだろう。世界各国の仲間入りをした事がほんの昨日の出来事のように思われたその国と国民にとって、費用がかさみ困難で遠距離にある対岸へ、権力の拡張や裕福な地方の征服、あるいは競争相手国への武力誇示ではなく、人道的関心事と公法主張の立場から、今日、残忍な野蛮人たちへ懲罰を加える目的の遠征隊を組織するのだ――これは我々にとって、東洋の国そのものである日本が、近代的な諸国家間の施政方針の精神をよく理解した、あっぱれな兆しに見える。全貿易国は台湾人制圧に等しく関心を持ち、その何カ国かの試みは不成功に終わっている。我が国の台湾への遠征は広く知られている。それは、台湾への2艘の漂流アメリカ船の乗組員の殺害に対し行われたものだが、野蛮人達にとっては、取るに足らない道徳上の結末以外の何者でもなかった。従って日本は、野蛮人種に対する通商上、人道上の戦いを挑むのだが、それは更に遠方の国々にとっては難しい事で、日本が我が政府の共感を得ている事実を知り喜ばしく思うものである。アメリカ人士官たちが遠征に参加し、その目的のために一時休職を得て参加するので、少なくとも我が政府の共感を得ていると推量するのだが、この頭の中に何か疑いを抱く、日本への我が公使のビンガム氏の敵愾心で、遠征が大いに麻痺している様に見える。この反対がワシントンからの指示による結果であればとても信じ難く、若しそれが彼自身の風変わりな気まぐれな逸脱によるだけのものであれば、家路につくには最適な人物であろう。

エドワード・ハウスのこの様な、日本の台湾出兵報道記事に付いて掲げられたヘラルド紙編集者序文は、上に見てきたように、外務卿・副島種臣がデロング公使の協力で琉球人民虐殺を解決しようと、前アモイ総領事・チャールス・リゼンドルを顧問に雇い、一時休職して参加するアメリカ海軍少佐・カッセルや、北海道開拓使で技師を勤める前アメリカ陸軍大尉・ワッソンをも雇って、「人道的関心事と公法主張の立場から」明治政府が進める台湾出兵を、新任のビンガム公使が前述の如く中立宣言を出して水を差すという顛末を、何故そんな事をするのだという観点から簡略にまとめている。

♦ エドワード・ハウス著述の 『征台紀事』

征台紀事は、台湾出兵の主要原因であった、1871(明治4)年12月に起ったパイワン族牡丹(ボタン)社による漂流琉球人の殺害から始めて、それ以前に発生したアメリカのローバー号遭難悲劇の歴史を書き、その討伐に向かったイギリス軍艦・コーモラント号の事例や、その後アメリカのアモイ領事・リゼンドル将軍の現地人との1回目の談判の失敗、その後のベル海軍少将の軍艦・ハートフォード号やワイオミング号での討伐の失敗などの歴史を記述している。更に1867年9月のアモイ領事・リゼンドルによる支那から兵隊を引連れた2回目の遠征で、通訳、案内人など6、7人の少人数で現地人酋長・トキトックと談判をし、今後は虐殺・略奪・暴行などは決してしないとの約束を取り付けた経緯を書いている。更に琉球の日本への所属、日本と清の台湾生蕃談判に触れて、チャールス・リゼンドルの日本政府顧問就任、漂流した小田県民4人の再度の略奪被害、明治政府の台湾出兵の決断と実行、台湾出兵の国際問題化などの経緯に続けているが、以下にその概略内容を書いてみる。

       射寮(社寮)上陸とキャンプの設定、平地部族との接触

台湾出兵時の日本兵上陸地・リアンキャオ湾、キャンプ地及び石門古戦場跡 〔台湾南部・恒春半島、射寮(社寮)を中心とする西海岸部分〕
2つのキャンプ地付近の拡大図(左図、黄色マーク)と古戦場付近の拡大図(右図、黄色マーク)

Image credit: 筆者製作、Original image: by courtesy of Google map.

エドワード・ハウス自身はアメリカ人のカッセルやワッソンと共に、日本兵や兵站資材を満載した第1便の輸送船・有功丸でアモイ経由、台湾の最南端の岬にあるリアンキャオ(琅嶠)湾に到着した。「湾」とは呼んでも、小さい2つの川が流れ込む湾曲した砂浜の海岸で、この上陸地は「シャリャオ・射寮(社寮)」と呼ばれる土地だ。1874(明治7)年5月7日の早朝から上陸予定地の情報収集が始まり、現地人との接触が始まった。上陸地の脇にある「クサン・亀山」と呼ばれる小高い丘に登り地形を確認したが、この2つの川は大雨が降ると水位が上昇して海に流れ出るが、到着時は堆積する砂で川の出口がほぼ塞がった状態だった。上陸地の現地人にはあからさまな敵愾心はなく、凶暴な種族は、東から南にかけて山間部に住む現地人だ。

予定される3千人の兵を収容するため最初に選んだキャンプ地は、この2つの川の間にあって両サイドを川に守られる海岸に隣接する土地だった。川に囲まれたこの土地に塹壕を掘ると、不意の攻撃から守るには良い地形だったが、少し後の大雨で水没の被害に遭っている。またここは霧が発生し湿度が高く、後に大きな問題となる蚊の発生で、7月から9月にかけて日本兵の間にマラリアが蔓延する原因となった。マラリヤの原因が発見されるのはこの時点から6年後であり、その感染形態が解明されるのは更に20年ほども後の事だから、訳の分からない高熱や死亡で、伝統的な対処以外には、充分な予防などに対し打つ手が無かったのだろう。

5月10日になると、当時の陸軍少将・谷干城、海軍少将・赤松則良を乗せた第2便の日進艦が上陸地・リアンキャオ湾に着いたが、都督・西郷従道と顧問・リゼンドルはまだ長崎から出発できず、アメリカからの傭船・ニューヨーク号は不参加に決まったという情報がもたらされた。日進艦には200人の兵隊が乗り、大量の建築資材が積まれていて、早速同行の大工が第1キャンプ地に仮の小屋掛けを造った。更に第2キャンプ地も選定されたが、これは亀山の南側の、小さい入り江から陸に上がった丘の麓だ。翌日から第2キャンプ地の井戸掘りなど整備が始まったが、5月といえども現地の日中は猛暑で、すでに極度の衰弱者や病人が出始めた。この第2キャンプ地は5月中旬から本格的に建設され、病院棟や士官棟などが完成し、風通しも良く、はるかに衛生状態が良くなった。

谷、赤松というリーダーが到着した後の5月13日、現地の18部族の酋長たち、とりわけその昔、リゼンドルと約束をした酋長・トキトックの後継者であるその息子との接触を始めた。友好を確認する会談を終えて日本側は、各酋長に元込め式のスナイダー銃を1丁ずつ送っている。16日には、第3便の船が軍艦と共に到着した。

       山岳部族との銃撃戦と、三方からの出撃

ここで最初の事件が起った。17日になると200人ほどの兵士が川沿いに東側の山岳方面の探索に出かけたが、その中の6人ほどがとある部落に立ち寄り戻ろうとしたが、藪陰から突然銃撃を受け、1人が死亡し1人が負傷した。残りは直ちに本隊に駆け戻り、本隊が現場に着くと、死亡した兵士の頭部が切断されて持ち去られ、軍服は剥ぎ取られ武器が奪われていた。この手口から明らかに、1871年に琉球人を殺害した牡丹社の攻撃であることが分かった。翌日から3日3晩の豪雨で第1キャンプが湖になってしまい、テントだけが水面からピラミッドのように突き出ているという有様だった。21日、12人の兵隊が先日兵士が死亡した場所に調査のため派遣されたが、またも50人以上と思われる多人数からの射撃を受け、2人が重傷を負い、敵の1人を射殺した。この報告がキャンプに届くと、守衛兵を除く全員、ほぼ250人ほどが出撃した。夕方現地に着くと散発的な銃撃を受け、応戦しながら急速に進撃したが、敵はそれより素早く姿をくらませてしまった。夜になり、半数が野営して追撃に備え、半数はキャンプに帰った。

翌22日キャンプから、佐賀の乱で名を馳せた佐久間中佐に率いられた2中隊が出発し、野営した分隊と合流し、前日残忍な山岳部族が消えた谷間に分け入った。木々が茂り、両側が切り立った岩に囲まれた狭い谷を半分ほど上ると、突然70人ほどの部族民から銃撃され、狭い河川敷の中を上る150人ほどの日本兵はその位置と足場の悪さに邪魔され、やっと30人位が直ちに銃撃し応戦に転じた程度だった。ハウスは、狭まった部分の川底は幅が10m程だと記述している。衛星写真で見ると、今は水流を制御する杭や堤が出来ているが、この谷間の狭まった場所は当時おそらく幅20m〜30m程度の河川敷で、両側は切り立った岩壁で、いわゆる「石門」である。銃撃戦が1時間以上も続き、日本兵の一部が岸壁をよじ登り上からの攻撃を始めると、部族民は退却を余儀なくされた。その跡には山岳部族の16体の戦死者が残されていたが、そのほとんどの頭部が切断され、キャンプに持ち帰られた。また残されていた銃から、牡丹社の酋長が致命傷を負った事も分かった。ここで日本兵は6人が戦死し、30人ほどが負傷した。

こんな銃撃戦があった5月22日、リアンキャオ湾には先ず司令官・都督・西郷従道の乗る高砂丸が到着し続いて補給船1艘が到着したが、これで戦闘員兵士や作業員合計は約1千3百人になった。この都督・西郷従道の現地到着で作戦が決定し、6月1日の夜明けから、三方から山地に住む牡丹社と高士佛(クスクス)社の居住地をめがけ遠征部隊が出発した。これは、谷少将に率いられ西海岸を北上してから東の山地に向かう5百人の部隊、西郷従道都督に率いられ川沿いに東の山中に入り銃撃戦のあった石門に向かう3百人の部隊、赤松少将に率いられ少し南の谷から山地に入り竹社の部落を通る4百人の部隊の、総勢1千2百人の兵士が参加する進攻を開始した。

この高士佛(クスクス)社は牡丹社と協力する山地部族である。ハウスはここで高士佛社が琉球人を殺害したと言ってはいないがしかし、筆者は、遭難した琉球人が東海岸のパーヤオ(八瑶)湾に漂着し、西方に谷を遡り、高士佛社の部落に迷い込み被害に遭った様だと聞く。

ここでハウス自身は、西郷従道が率いる川沿いに石門を通過し、牡丹社の居住地区に向かう部隊と同行している。このルートの始めは、照りつける太陽に焼かれた川原の石や岩が革靴の底から伝わるほど熱くても、水を渡る時は非常に心地よかった。しかし石門部分の通過は非常な難所で、しかも5月22日の銃撃戦は、ここで待ち伏せに遭い苦戦した場所だ。数日の豪雨に水かさが増大し、銃撃は無かったが、渡河の途中深みにはまり流されそうになったハウスは屈強な日本人に手助けされながらやっと渡り、崖をよじ登るという難所だった。自分の革靴は水に濡れ天日で乾き、革がこわばって足がすりむけ、岩にこすれて革に穴が開き、役に立たなくなった。日本の兵士はわらじを履いて、磨り減れば新しい持参品と履き替えた。ハウスは日本に居る時はあまり気にも留めなかったが、その便利さが改めて分かったと書いている。こんな困難の中にも、ハウスに気を使ってくれる日本人の親切さを書き、この様な自分の体験と現地の観察を交え、22日の銃撃戦の様子を詳しく聞き取り、詳細に記述している。

       牡丹(ボタン)社と高士佛(クスクス)社の部落を焼き払う

やっと石門を過ぎ更に登ると住民が逃げさった部落に着いたが、ここで思わぬ発見があった。ここはまだ牡丹社の部落でない事は明らかだったが、昔殺害された琉球人が埋葬された墓を発見したのだ。更に登ると途中に何ヶ所もバリケードが造ってあり、牡丹社の部落に着く前に日が暮れて、不案内の山の中で野宿をせざるを得なかった。翌2日西郷隊は無人の牡丹社部落に入り、散発的な銃撃があったが、部落を焼き払った。一方南の谷から入った赤松隊は、2日に多少の銃撃の中を高士佛社部落に入り、部落を焼き払い、翌日山を越え西郷隊に合流した。この様に攻略が難しいと考えられていた牡丹社と高士佛社の両部落を破壊し、住民は山に逃げてしまい、早くも遠征目的の大半が達成されたのだ。

筆者は、ハウスが記述したこの牡丹社の手前の部落で発見された琉球人の墓は、後に、この谷を下ったシャリャオ・射寮(社寮)近くの広い場所に移され、新しく墓が作られたと聞く。

しかし北から山に入った谷隊は全く消息が無く、西郷・赤松の2隊は焼き払った牡丹社部落の手前でキャンプを張った。この時遅ればせながら、西郷隊が持ち上げた携帯型のコーホーン臼砲が届き、ハウスをびっくりさせている。これは4人位で運べる小型臼砲で、アメリカの南北戦争でもよく使われた武器だった。早速この臼砲を撃って谷隊に信号を出したが、応答は無かった。しかし夜になって谷隊の通信兵が到着し、山中の進軍に手間取っている事が判明し、この谷隊の本隊は4日の朝になってようやく西郷隊と合流出来た。都督・西郷従道は、この様に牡丹社と高士佛社の部落を焼き払い遠征の目的を知らしめたとして、牡丹社部落とその街道沿いに守護兵を残して、本隊はシャリャオ・射寮(社寮)のキャンプ地に帰還した。

既に書いたように、牡丹社を攻略するには11月になり涼しくなってからの時期が最適だとのリゼンドルの忠告で、西郷従道に率いられる遠征隊はそれを基本計画にしてきたが、思いもかけず牡丹社と高士佛社の攻撃でほとんど形が付いてしまった。日中は確かにものすごく暑かったが、夜は涼しく過ごしやすかったとハウスは記述している。

       生蕃服従の細部の詰め

西海岸のリアンキャオ(琅嶠)湾から東に続く平地の部族とは友好関係が出来ていたが、東海岸沿いの部族民とはまだ友好関係が不明な場所があった。そこでキャンプ地に戻った都督・西郷従道は、更なる安全と友好確立のため、友好部族民酋長たちとの3回目の会見を6月8日に開いた。各酋長の引連れる200人もの武装した護衛隊はキャンプに入る前に山の手に待機させ、裸同然の酋長たちが日本側との会見に臨んだ。この会見では、緊急時に使用する敵意がないことを示す旗が酋長たちに配られ、彼等は遠征隊のキャンプ地を東海岸に作る事にしぶしぶ合意し、最後には西郷都督のテントに招かれ反物と写真などが贈られた。遠征隊はこの東海岸のキャンプを中心に、その地方の安全確保をする目的だった。

11日になると、赤松少将指揮の下で50人の兵士を載せた日進艦が、東海岸キャンプ敷設のために派遣され、カッセルやワッソンと共に従軍記者のハウスも同乗した。おそらく正規の明治海軍軍艦に同乗した最初の西洋人だと書いているが、日本人士官たちは外国語を話し、立派な英語を話す人も居たと記述している。

ハウスはこの日進艦が碇を下ろした場所を特定していないが、台湾南端の東海岸の一部で、8日に西郷と会見した3人の部族酋長が出迎え、1人は西郷から送られた日本刀を差していた。日本兵が上陸し、昔リゼンドルと友好を約束した部族酋長・トキトックの村を訪ね、キャンプ地が合意された。

       台湾出兵の国際政治問題化

この様に、明治政府の台湾出兵の大きな目的の一つだった現地蛮族の懲罰には、当初予想された困難はほとんどなく、牡丹社や高士佛社もその敗北を認め、再発防止や現地部族との融和も2ヶ月ほどの短期間に大幅に進展した。しかし、西郷の引連れる派兵やアメリカ人の参加に対する、大きな国際政治問題が明らかになり始めたのだ。

7月1日の午後、清国の小型砲艦がリアンキャオ湾に接岸したが、その砲艦から、アメリカのアモイ駐在領事管轄下の副保安官と名乗る人物が上陸して来た。そして、西郷都督の顧問格として台湾に来ているアメリカ海軍少佐・カッセルや前アメリカ陸軍大尉・ワッソンに宛てた、アモイ領事の書翰が届けられた。更に、公式に現役を休職して参加しているカッセル海軍少佐には、ぺノック海軍大将の命令で書かれたアメリカ支那艦隊・コーツ司令官からの書翰も届けられた。これらは何れも、清国政府に対する如何なる敵対行為にも参加を禁止する、と云う警告書翰であり、コーツ司令官からの命令の違反者は、合衆国軍事法廷に告訴される事になるわけだ。更に副保安官は、全てのアメリカ市民に対する次のような布告をももたらした。いわく、

布告
アメリカ領事館
アモイ及び付属地域管轄
1874年6月16日
全ての合衆国市民は、現在台湾で行動中の日本軍遠征隊から直ちに離脱し、今後その遠征隊との如何なる関係をも絶つべく通告する。この戦時中立法の違反者は、逮捕され裁判を受けるべく、全ての合衆国市民に通告し警告するものである。
J・J・ヘンダーソン、合衆国領事
合衆国・在北京代理公使・S・ウェルス・ウィリアムス氏の命令による。

勿論ここで対象となる合衆国市民は、この従軍記者のエドワード・ハウス、アメリカ海軍少佐・カッセル、北海道開拓使の技師・ワッソンの3名以外には無かったが、台湾へ向け長崎を出航する直前にアメリカ公使・ビンガムから出されたリゼンドル、カッセル、ワッソンなどへの書翰内容が、アメリカ政府の在北京代理公使・ウィリアムスから在アモイ領事を通じた公式命令として、全アメリカ人へ宛て、戦時中立法に基づき 「手を引け」と云う命令になって出されたのだ。これはとりもなおさず、明治政府の台湾出兵が国際問題となった事実の反映だった。またこの布告にある 「合衆国・在北京代理公使・S・ウェルス・ウィリアムス氏」とは、その昔ペリー提督が日本に来た時、艦隊の主任通訳官として同行した人であるが、20年後のこの時は、アメリカの北京代理公使になっていた訳だ。

イギリスやフランス、アメリカなど清国に滞在し貿易を行う各国も、日本の行動いかんによってはその権益への悪影響が出る事を恐れ、清国政府に台湾に派兵した日本との対峙を強く働き掛け、清国も日本軍の台湾撤兵を求め始めた。台湾に派遣された都督・西郷従道の方針は、蛮族の懲罰と暴虐の再発防止のみで、それ以上の侵略行動は取っていない。しかし各国は、日本と清の軍事衝突やそれによる自己権益の侵害を恐れ、日本の真意を疑っていたようだ。

       エドワード・ハウスの日本への帰還

この様な中で西郷従道は、マラリヤで苦しむ傷病兵の帰還を決断し、高砂丸での送還を決めた。こんな状況下で、エドワード・ハウスもこの船でマラリヤの蔓延する不衛生な台湾から、7月の終わりに長崎に帰還した。ハウスの記述では、長崎は台湾出兵の出航地だったから、情報もかなりあり、民衆は愛国の意気が高かった。しかし東京に帰還すると、政府は台湾での進捗や交渉経緯を極力伏せていたから、人心はむしろ落ち着いていたと云う。

このエドワード・ハウスの『征台紀事』は続けて、日本の台湾出兵について即時撤兵を主張し始めた清国と決着を付けるため、リゼンドルを伴った特命全権弁理大臣・大久保利通の北京での交渉や、イギリス公使・ウェードの仲介で決着に至る記述があるが、ここでは省略する。

この『征台紀事』の記述の中で筆者が特徴的と思うハウスの視点は、アメリカ政府も即座に充分に処置できなかった台湾・生蕃への懲罰を日本が成功裏に終息し、安全と友好を確立し、都督・西郷従道も台湾でそれ以上の野心を示さなかった。日本兵はアメリカ人のハウスに対しても日常的に親切で、好意的だった。ハウスが見た前章のマリア・ルス号事件への対処でも、日本は国際的に通用する正義を持って処理したが、台湾でも非常に公平だった。しかし、「アメリカ政府の共感を得ていると推量する」この日本政府の「人道的関心事と公法主張の立場」から進める台湾出兵に、意外にも日本駐在アメリカ公使・ビンガムは戦時中立という立場をとった。これに関するハウスの抗議は、上に述べたニューヨーク・ヘラルド紙の 「編集者の序文」が述べる通りだったのだろう。

この様な実体験を通じ、ハウスは日本と日本人に対する理解を深め、共感を深める点があったようだ。この様な体験が、大隈重信との関係も一段と強固になり、その後ハウスが日本政府に協力し、日本に骨を埋める大きな要因の一つになったように思われる。
(「The New York Herald」, 24 June 1874, 17 August 1874, 19 August 1874, 20 August 1874。「征台紀事、The Japanese Expedition to Formosa」、エドワード・H・ハウス著、東京、1875年。)

 


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03/18/2020, (Original since July 2012)