日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

17、特派員、エドワード・H・ハウス (その1)

明治政府、エドワード・H・ハウスを叙勲

♦ エドワード・H・ハウス

エドワード・H・ハウスは1836年10月5日にアメリカのボストンに生まれ、ニューヨーク・トリビューン紙の記者になった。万延元(1860)年に江戸幕府が通商条約批准のため初めてアメリカに派遣した「遣米使節」の報道を通じ日本に興味を持ち、明治2(1869)年暮れにニューヨーク・トリビューン紙の東京特派員として日本に派遣され、その後明治34(1901)年12月18日に没するまでジャーナリストであり続け、日本に骨を埋めた人だ。

来日後、特派員の傍ら大学南校で教壇に立ち、マリア・ルス号事件では自国のデロング駐日公使を痛烈に批判し、明治政府の台湾出兵には自ら従軍取材し、日本で新聞を発行し、折に触れアメリカで幾つもの論文を発表し、幕府がタウンゼント・ハリスと結んだ通商条約にある治外法権や関税自主権の是正に付いて明治政府の立場を文筆をもって強力に代弁するジャーナリストでもあった。

♦ 外務大臣・小村寿太郎の叙勲推薦文

明治政府はこのエドワード・H・ハウスの日本への貢献を顕彰し、明治34年12月18日、その死の直前に勳二等瑞宝章を下賜した。その叙勲推薦文は、昔の大学南校 (筆者注:後の東京大学) で英語の教授でもあったエドワード・H・ハウスの薫陶を受けた(「ニューヨーク・タイムズ」紙記事)、当時就任したばかりの外務大臣・小村寿太郎が起草したものだ。小村寿太郎が学生だった頃のハウスは、特派員であり、また大学南校の英語教授として、文部省お雇い外国人でもあったわけだ。小村の推薦文いわく、

北米合衆国人エドワルド、エチ、ハウス儀は、明治の初年大学南校御雇い教師たり。始終懇篤に学生を指導し、貧困なる学生には学資を給して就業に従事せしめ、誘掖(ゆうえき、=導き助けること)薫陶至らざるはなし。解雇後、女子英語学校を設立して慈善的に女子教育に勤め、明治七年西郷事務都督に従い台湾に赴き、斡旋する所あり。是より先き明治五六年の交、英国公使「パアクス」、他の外国公使と謀り、常に帝国政府に反抗したるとき、米国公使「デロング」も英国公使に左祖(さそ、=味方すること)して我に利ならざるを以て、「ハウス」は帝国政府の内命を奉じて米国に往き、同国の新聞紙上に於いて大いに米国公使の所為を駁し、遂に合衆国政府をして同公使を召喚せしめ、其の後任「ビンガム」は極めて日本に好意を表し、英国公使に反対して帝国の利益を謀るに至れり。右の外、合衆国政府が下関償金我に返還するに付きても、同人の功多に居れり。右等数回の功労に対して明治十七年より二十三年に至る七ヵ年間、特別年金二千五百円下賜相成り候処、欧米列国と条約改正を商議するに当たり、時の外務大臣陸奥宗光は「ハウス」に内命を伝え、米国諸新聞紙上に盛んに日本の文明進歩を称道せしめ、日米条約の改正は啻(ただ、=只)に日本の利益なるのみならず、亦米国の利益なることを縦論(じゅうろん、=縦横に論議すること)して、大いに同国の輿論を喚起し、終に新条約の訂結に満足の結果を得るに至れり。然るに当時、宛(あたか、=恰)も日清戦争に際し、旅順惨殺の風説偏(かたよ)り、欧米に伝播し、合衆国元老院は既に調印したる日米条約の批准を否決せんとするの意向あり。因りて帝国政府は更に同人の力を借りて米国人の疑惑を消散せしめ、遂に元老院をして談条約を批准せしめたる等、同人の帝国に対する功勲は顕著なるものにこれ有り。因みに当時の内閣は、其の功労に対して叙勲を奏請せんとするの内意を泄(もら)したるに、同人は固く之を辞せり。其の理由は、自分が日本の為に盡力(じんりょく、=尽力)するは一点求むる所あるに非ざるのみならず、今後日本の利益を謀る為め、新聞に論議し、又は内外に周旋するに有り。若し日本の勲章を帯着するときは、世人或は日本政府と特別の関係あることを疑うに至り、大いに行動の自由を妨げらるるに至るべしと云うにあり。然るに目下病気危篤に付き、此の際特別の聖意を以て同人多年の勲功を表彰せられ、勳二等に叙し、瑞宝章下賜され候様仕り度く、此の段謹みて奏す。

明治三十四年十二月十七日
外務大臣小村寿太郎(印)

小村寿太郎はこの様にハウスの貢献を列記したが、この内容に興味を抱く筆者は、その史実を掘り起こしながら、この幾つかの主要部分について書いてみたいと思う。かなり長くなりそうなので、「その1」から「その3」に分けて記述しようと思うが、「その3」を書ける史料を参照できるか、あるいはその実力があるか不明である。
(小村寿太郎推薦文:国立公文書館、内閣総理府行政文書、明治34年叙勲裁可書、叙勲4巻、外国人、勲00082100・052番。
「ニューヨーク・タイムズ」紙記事:「The New York Times」、published on July 30, 1905、「Komura as a Former Teacher, Dr. Griffis, Knew Him」by William Elliot Griffis。)

ニューヨーク・トリビューン紙の遣米使節の報道と、特派員としての来日

♦ 無署名記事にエドワード・H・ハウスを見る

本サイトでは既に、「4、初めての遣米使節」 を記述してあるが、これを記述した当時の筆者には、なかなかアメリカの古い新聞を読む手段が無かった。幸いにも最近その機会があり、以降の記述にはできるだけニューヨーク・トリビューン紙の記事を引用してみたい。この時のワシントンで、正使・新見正興(しんみまさおき)を始めとする日本使節団の取材が縁になり、ハウス自身が日本に強い興味を持ち、後に同紙の東京特派員として日本にやって来たといわれる時のものだ。この「遣米使節」に関するニューヨーク・デイリー・トリビューン紙記事は無署名で、その文体や鋭い観察、正義感溢れる視点や鋭い批評などから、あくまでも筆者の推定だが、「ハウスの筆になったようだ」 と思うものである。


側輪蒸気船・フィラデルフィア号
Image credit: a file from the Wikimedia Commons

本格的な報道は、「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」紙の1860年5月17日付け紙面に、「本紙通信員より、ワシントン発、1860年5月14日、月曜日夕刻」で始まっている。使節一行を出迎えるための側輪蒸気船・フィラデルフィヤ号(500トン)がワシントンからノーフォークに派遣され、パナマのアスピンウォールまで使節一行を迎えに行っていたアメリカ海軍のローノーク号が、バージニア州ノーフォーク軍港のあるハンプトン・ローズに着き、使節一行がこのワシントンから出迎えたフィラデルフィヤ号に乗り移るところから記事が始まっている。このエドワード・ハウスと思われる記者は蒸気船・フィラデルフィヤ号に乗り、使節一行に密着取材しながら記事を書き送っている。要約すると次のようなものだ。この記者の報告は、更に翌日の18日付け紙面にも続けて載っている。

記事いわく、ワシントンから出迎えのフィラデルフィヤ号は、接待役のデュポン海軍大佐やリー海軍大佐、またペリー提督と日本に遠征したオランダ語通訳のA・L・C・ポートマン氏などを乗せハンプトン・ローズに着き、ローノーク号の到着を待った。総勢76人もの使節団の荷物の整理と移送だけでも大変な騒ぎになったが、フィラデルフィヤ号で迎えに来たアメリカ政府の代表者たちと使節団との間にたちまち良い雰囲気が出来た。日本使節の着物や羽織は豪華な織物で、アメリカ士官や役人の制服は簡素で、そのコントラストが目立った。使節団の人達は、時々手を休め、帯に挟んだキセルを取り出し、こみ上げる興奮を押さえるように一服二服と煙草をふかした。ものすごく忙しい荷物の整理中でも笑顔を絶やさず、こうしなければ真心が通じないとでも思い出したように、急に皆と握手をして回った。使節団の携帯する批准書は漆塗りの箱に収められ、1m30cm x 90cm x 60cmの赤い革張りの大きい外箱に入れてあった。日本人は皆ユーモアの持ち主で、笑顔を絶やさない点が共通していた。大勢の中でもとりわけ、頭を青々と剃った3人の医者が知的だったが、笑顔を絶やさないという点では他の人達と同じだった。主席通詞の名村五八郎はよく冗談を言い、ローノーク号のガードナー艦長に 「艦長殿、批准書と所持金だけが一番大切な物ですから、お分かりでしょう、他の物はどうなってもかまいませんよ」などと冗談を楽しんでいた。暫くして、著名なノーフォーク市民だと名乗ってフィラデルフィア号に歓迎の挨拶にやって来た人達は、小一時間も軽薄な演説をし、自己満足の極みで帰っていった。ローノーク号艦長主宰のお別れの昼食会準備で、一番若い通詞で 「トミー」とニックネームで呼ばれる立石斧次郎が、使節の座席の準備のため、自信たっぷりにやすやすと、正使や副使の席に名札を書いて置いて歩いた。このトミーは椅子やテーブルの造りに好奇心を注ぎ、ワシントンに着いたら、先ず特許局に行きたいと記者に話してくれた。昼食の席に使節たちが来る前に、使節団の絵師が素早く正確なスケッチをして廻り、その品物の夫々に英語の名前をしつこく聞いては書き入れ、そのお礼に記者のノートブックにスケッチも書いてくれた。そこでこの記者は新聞に掲載するための絵を頼み、「谷文一」と署名するこの絵師の描いた植物画がその新聞記事中に掲載されている。お別れの食事に出されたご馳走の中でも、横たわる婦人の型に押して出されたアイスクリームが最も人気があり、その形と味の良さで、全くとろけるような効果があった。フィラデルフィア号がチェサピーク湾の中をワシントンに向け出発した。使節たちは品格があり穏やかで、大声で話すことも無く、優雅で柔和な態度が使節団全体をもまとめていた。夜が明けてワシントンの海軍造船所に着船し、使節たちは大歓呼の群衆の中を2時間もかかって、馬車でウィラード・ホテルに到着した。ホテル内でこの記者は、「今この記事を書きながら窓越しに見ると、群衆がいろいろ歓迎する中を大勢の日本人が歩き回っている。日本人は日本人で、何か珍しい小物を気前よく贈っている。もう気楽に振る舞い、慣れたものだ。何処にでも入って見るし、階段を上がったり降りたり、何時やめるとも無く続けている。こんな光景は全く楽しく、一番遠方の二つの文化どうしの邂逅だ」 とその情景を記している。

ブキャナン大統領やカス国務長官との会見は電報で送られた記事で、5月18日付の紙面に載っている。しかしこれは、使節の言葉や大統領の言葉と共に会見手順の説明で、あまり面白くないから省略する。その他、議会を訪れた記事やインタビュー記事もあるが、後の機会に譲る。また6月12日付けでは、「本紙通信員より、フィラデルフィア発」として、年若いトミーと呼ばれた通詞・立石斧次郎の、ワシントンで会ったアメリカ人少女への淡い恋心のエピソードを紹介した記事があるが、機会があれば別に書く事にしたい。この様にこの記者は、あまり見慣れない日本人使節団であっても、事実を掴むべく密着取材し、親しい人達を作り、その心の中まで開かせるほどの何かを持っていたようだ。
(「New-York Daily Tribune」 May 17, May 18, May 25, May 30, June 12, June 15, 1860。)

♦ 来日したエドワード・H・ハウス

遣米使節の取材などの後で、アメリカの南北戦争の従軍記者としても名を馳せたと言う事だが、エドワード・H・ハウスは、1869(明治2)年の暮れにニューヨーク・トリビューン紙の特派員として日本に派遣され、、早速特派員の仕事を始めた。筆者が調べ得た範囲では、ハウスが日本から発信した最初の原稿と思われるものが、「本紙の特派員より、横浜、12月30日発」として1870年2月5日付けのニューヨーク・デイリー・トリビューン紙の4ページに載っている。後に、「トリビューンの正規特派員より。E.H.H」と署名入りの記事も登場するが、これにはその署名が無く、ハウスの記事とするのは筆者の推定である。

これは日本の10年前の状況と現在を比較し、その発展と変化が如何に顕著なものかを述べたものだ。これはしかし、批評する対象を一言二言で刺し殺すほどの文章力を持つハウスにしては全く物足りない記事だが、ハウスが日本を理解するために始めた第一報として見れば、納得すべきものなのかも知れない。

こんな特派員の傍らハウスは、1871年2月、即ち明治4年1月から英語教授として大学南校で教え始め、明治6年1月まで2年間勤めている。この後もまた時に教壇に立つが、上述の、1870年2月5日付けのニューヨーク・デイリー・トリビューン紙掲載の最初の記事の中に次のような表現がある。これは、ハウスが次に行った英語教授にもなると云う行動を示唆するものだ。いわく、

(日本国内では)知識と教育充実への渇望が急速に高まり、国中の上流や中流の人々から、知識吸収のため、どんな教育の機会も受け入れられ始めた。あらゆる宗派の宣教師たちは教師として活動を始め、ここでは禁教になっている宗教を教えるとはっきり言われる事も承知で、帝(みかど)や藩主達は彼等を招聘し始めた。大都市では政府による学校が急速に設立され、そんな中の二つでは、科学教育大学を組織する動きが急速に進行している。

この様にハウスは、特派員の職務だけでなく、自身で日本の発展に深く関わってゆく事になる。この辺りから、最初に出した外務大臣・小村寿太郎の書いた推薦文に従い記述を進めたい。
(「New-York Daily Tribune」 February 5, 1870。「資料御雇外国人」。)

アメリカ公使・デロングとの葛藤と、マリア・ルス号事件

♦ 前哨戦

特派員のエドワード・H・ハウスが日本に着任するや、当時新任のこのアメリカ公使・デロングを早々に批判する記事がトリビューン紙に載ったから、筆者には、始めから火花が散るような関係があったようにも見える。デロング公使は1869(明治2)年11月11日、前任のバン・バルケンバーグ公使と共に参朝し、公使交代を正式に伝える国書を捧呈しているから、ハウスとほとんど同じ頃、あるいは前後して日本に赴任したようだ。上述のように、ハウスが日本から初めて送った記事が載ったニューヨーク・デイリー・トリビューン紙に、その一週間後の2月12日の6ページに、誠に気になる記事が掲載された。それは、「How Much DeLong Is Short (デロングはどのくらい不足なのか)」と云う、デロングの「Long」と「Short」を語呂合わせまでした風変わりな題名だ。いわく、

オレゴン出身のチャールス・E・デロング氏は、日本の国で、金貨で7,500ドルの年俸を受ける新任の我が駐在公使である。・・・しかしデロング氏は江戸に赴任するや否や、この収入が相当に加増されなければ、不測の災難は回避できないとフィッシュ国務長官に書翰を送った。「若しその地位が第一級でなければ、アメリカ公使が日本で影響力を持ち、他国の公使たちと競争する事は不可能であり」、更に彼は親切にも、日本に於けるイギリス公使は年間20,000ドルを支払われ、経費請求に上限はないと説明した。だから若し充分な収入が無ければ、彼は影響力の行使ができず、役にも立たないのだ。・・・我が公使の欠乏の要求書は、彼のサラリー3倍増だけではない。彼は「公使館建物、事務所等々、公使の住居を一度に建て」、25人のアメリカ兵が警護に当たらねばならず、公使命令で運用できる軍艦が港に常駐せねばならないと催促した。これ以外にも彼は、横浜に郵便局と刑務所、更に江戸に郵便局、刑務所、病院が必要だと要求した。こんな大工事を一度に間違いなく建て、50万ドル以下で完成出来る訳が無い事は明らかで、年間25万ドル以下でこの計画を(軍艦配備も含め)デロング氏の思惑通り実行したり出来ない事も明らかだ。我々にそんな高額を支払う準備があるだろうか?我々の方からもう辞任して、デロングの不足にした方がよくは無いだろうか?・・・従って我々は、デロングの小額の請求書に二倍の嫌悪感を持つ。それは全くべらぼうな費用で、考慮に価もせず、「全く反対の事を考えるものだ」。

こんな細部に亘る情報は、ニューヨークに居て入手したり書いたりする事は非常に困難と思うのだが、筆者は、日本からのハウスの筆になるものか、ハウスからの情報に基づくものと思う。こう考えれば、ハウスの日本到着早々から新任公使のデロングに厳しい批判を浴びせ、既にデロングとの葛藤の前哨戦が始まっていたように思われる。

日本に着いた早々この様な細部情報を入手するハウスの辣腕ぶりに驚くが、ハウスの旧知の人で、筆者には情報源の一つになったと思われる人物が、既に日本のアメリカ公使館に勤務して居たのだ。それは、ペリー提督と共に日本に来て、アメリカに帰国していたオランダ語通訳アントン・L・C・ポートマンが、再度遣米使節団の通訳としてワシントンに呼ばれ、上述の如くハウスと一緒にフィラデルフィア号で使節団を迎えた。このポートマンが、日本使節団の帰りにも軍艦・ナイヤガラ号で使節団とともに1860(万延1)年11月に日本にやって来ていた。ポートマンはその後、引き続きアメリカ公使館の書記官・通訳として在日していたから、ハウスは横浜でこの旧知の顔を見つけたはずだ。あるいはまた、アメリカ人の領事・シェパードなども居たから、こんな人達がこの情報の出所であってもおかしくは無いだろう。

この明治2年暮れ頃のアメリカ公使館はまだ築地ではなく、幕末志士の外国人襲撃計画が明らかになった1863(文久3)年6月にプルーイン公使が善福寺から横浜に非難筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) して以来、デロング公使も横浜から江戸の善福寺に行ったり来たりの中途半端さだった。この明治2年8月に、明治政府が列藩の版籍奉還を行い藩主を夫々藩知事に任命し、少しずつ政局の安定が見られ貿易も増加していく頃だ。デロングにしてみれば公使館を新しくし、機能充実を図りたいと思ったのだろう。

この後、6月4日のトリビューン紙に、「スチュワート上院議員が、デロング公使の現在の駐在公使の肩書きを特派全権公使に格上げし、7,500ドルのサラリーを12,000ドルに引き上げるよう議会に提案したが、本紙にはその理由を理解できない」との記事が掲載されている。しかしこの昇格は、明治3(1871)年12月8日、デロング公使から明治政府に 「特派全権公使」へ昇格する辞令を受けたと連絡があり、翌年4月22日、自身で参内し明治天皇に、デロングを特派全権公使へ昇格させた旨のグラント大統領の親書を提出したから、アメリカ政府はデロング公使の要求する身分と収入改定だけは許可したわけだ。公使館建物については、次のビンガム公使の時代になって、やっと築地に借りた建物で体裁が整っている。

♦ マリア・ルス号事件

マリア・ルス号(350トン)は、当時日本とまだ通商条約を締結していないペルー船籍のブリグ型帆船だったが、支那からペルーの首都・リマのカラオ港へ向けた航行中、明治5年(1872)年6月4日夕刻、帆柱に損傷を受けたと横浜に緊急入港した。横浜港役人は、条約締結国の船ではないので、規定通り船所属の書類を預かり、神奈川県庁管轄下での入港を許可した。この船には、支那のマカオからカラオ港に連れてゆかれる途中の231名のクーリーが乗っていた。このクーリー達は、表面上は移民契約をしていたが、その実、ペルーで労働を強いられる人々だった。この当時、ヨーロッパやアメリカでは既に法的に「禁止条例」の施行で解決されていた、いわゆる「奴隷」に該当する人々だった。

事件は1872年8月3日(明治5年6月29日)付けの、イギリス代理公使・ワトソンから外務卿・副島種臣宛の書翰から始まった。ワトソン曰く、先般マリア・ルス号から数人の支那人が停泊中のイギリス軍艦・アイアンデューク号に泳ぎ着き、助けを求めた事実があった。自身でマリア・ルス号に行き調べたところ、支那からペルーへの違法なクーリー貿易船の可能性が強いので、この書翰を根拠に日本政府が調査し、日本海域で違法なクーリー貿易を根絶すべきと思うというものだった。更に、日本がペルーと条約を締結していない以上全て日本の権限で実行でき、いずれの国からの干渉も受けず、日本がこのクーリー貿易を根絶する行為は人道的義務であろうとも述べていた。

また同日付けで、アメリカ代理公使・シェパードからも副島外務卿に書翰が届いた。いわく、ペルーのクーリー船・マリア・ルス号に乗っている者への暴力沙汰が伝えられたが、ワトソン氏の要望を完全に支持するもので、船長以下が有罪なら厳しく罰せられるべきである。アメリカ公使館には本国よりペルー人へ仲介の手を差し伸べるよう指示があるが、非人道的で違法な 「クーリー貿易」に関わるマリア・ルス号は援助できないと拒否してある、と云うものだった。事実、このシェパード代理公使から7月10日付けで、ペルー人の、マリア・ルス号船長・ヘレイロ宛に出された書翰には、

ペルー国旗を掲揚し合法的な商売をする船舶には、何時でも進んで援助の手を差し伸べるが、今回の状況では、本官の保護下に置く事は出来ない。
「クーリー貿易」は合衆国の法律で禁止され、貴殿自身の口述によれば、貴船はその貿易に関与しているため、本官の公的名称の使用並びに保護と支持表明とを差し控え、従って、貴殿への如何なる援助や保護をも拒否するものである。

という、明瞭で厳しいものだった(「Diplomatic Relations」)。このシェパードの言うクーリー貿易を禁止する合衆国の法律とは、1862年にリンカーン大統領が署名し公布された「アメリカ市民とアメリカ船による奴隷貿易禁止法」を指すものだ。この時、アメリカ公使・デロングは岩倉使節団と同道渡米しまだ日本に帰っていなかったし、イギリス公使・パークスも近く渡英する岩倉使節団への対応の打ち合わせに帰国中だった。従って、イギリス代理公使・ワトソンはアメリカ代理公使・シェパードと連携し、2人同時に副島外務卿宛てに書翰を出したのだろう。

副島外務卿は、クーリー貿易という人道に関わる事件究明に乗り出すべく、神奈川県権令・大江卓に糾明・調査を命じた。これにより大江は、神奈川県裁判にマリア・ルス号船長その他関係者を召喚し、裁判の結果クーリー全員の解放を命じ、清国特使・陳福勲に引渡し帰国させたが、船長の罪は問わなかった。船長は逃げるように帰国し、後にペルー政府は日本に代表を送り、副島に会い神奈川県裁判の違法性を談判した。双方は譲らず、国際的仲裁をロシア皇帝に託す事に合意し、その結果明治8(1875)年6月、日本側対応の正当性に軍配が上がり、最終決着を見たというものだ。

♦ デロング公使の横槍と、エドワード・ハウスの糾弾

上記の如く神奈川の吟味・裁判が進み、明治5年7月6日、即ち1872年8月9日付けで大江神奈川県権令よりマリア・ルス号船長宛てに、更に吟味裁判が必要のため出帆差止め通達が出される頃、岩倉使節団に同道しアメリカに帰国していたデロング公使が、約9ヶ月ぶりに横浜に帰ってきた。早速マリア・ルス号船長から再度の仲介を求められたデロング公使は、デロングの留守中代理公使を務めたシェパードの、違法な 「クーリー貿易船だから」という仲介拒否を覆し、自国の国務長官からの命令があるので、ペルー国の代表として仲介したいと7月28日付けの書翰を副島外務卿に送った。副島はこのデロングの要求を拒否し、マリア・ルス号の支那人乗客の意思に依らない限り帰船を許可できないと伝えた。デロングも簡単には引き下がらず、アメリカ公使がペルー政府の利益代表になる事は日本政府に通知済みだと粘った。そうこうするうちに肝心のマリア・ルス号船長が日本を逃げ出し、デロングと副島との掛け合いは何の結末にも至らなかった。

こんなデロング公使の行動に噛み付いたのが、エドワード・ハウスだった。1872年9月28付けのニューヨーク・デイリー・トリビューン紙の2ページに、「トリビューン紙の正規特派員より、江戸にて、8月22日発」という、「クーリー貿易」と題する記事が載っている。長い経過説明の記述のあとで、「アメリカ公使の振る舞い」という中間見出しの記事いわく、

これは、2週間前に合衆国公使のデロング氏が、アメリカから帰って来た時に事件となった。彼が到着するや、たちまち噂が流れた。ペルー人船長に好意を約束し、先日代理公使によって取られた処置は誠に残念だったと述べ、助言と保護とを約束したと云うものだった。始め、そんな事は信じられない話だと鼻であしらわれた。しかしすぐに、それは真実以上でも以下でもない事が判明したのだ。シェパード氏の行為が非難され、修正され、このペルー人は公使館に招かれ、その後筆者自身も直接聞いた事だが、彼は合衆国公使に保護されていると公言までしたのだ。最後には、日本人にもこの情報が伝わった。アメリカという共和国の首都から帰ったばかりの公使が、道徳的感覚や自分が代表する国の法律が何れも明白であると云う事実に反して、クーリー貿易に関わる人物の助言者で保護者である事をまさに日本人に見せ始めたと云う事実を、日本人は全く信じる事ができなかった。それを事実として認めざるを得なくなった時、日本人には予想外の事だった。その事件を厳格な裁判に委ねようとする彼等日本人の決定が揺るいだと言うのではないが、現在日本駐在の一先進国の公使のみがその事件に関し日本に反対するという事実に、それ以上言葉も無いほどの屈辱を感じた。そんな事実が彼等を傷つけ、その上一方でそれは、非常に重大な出来事だった。これまで日本人をクーリー組織で国外に連れ去ろうとしたのは皆アメリカ人であり、我が公使連中が何回も彼等を罰せよと命ぜられても、公使連中はそうする事をためらってきたのだ。第一にこれは、激怒をもたらした。そして若し我々がこの土地で良い評判を保とうと思うなら、それは、我々にとって充分満足に答えるのに絶対必要な事となろうから、クーリー船長の擁護者であり助言者である合衆国公使に対する新しい態度と絡み合って、我が政府の正当な苦情に対する変わらぬ冷淡さを想い起こすから、調査と評論を誘発したのだ。

続けて出ている「公使の動機」と云う中間見出しでは、

デロング氏が自身の責任についてシェパード氏と違った観点を持ち、シェパード氏の行為を拒否し厳しく譴責するに至った理由を、知られている限り説明する事は適切な事である。この二人は、ペルー市民に関する国務省の指示につき、一点において全くの同一意見ではなかった。幾つもある中で、前代理公使は公使館記録にだけ従っていたが、代理公使の述べる個人的意見に関し、公使館記録に対する二人の違いはない。しかし、二年前にデロング氏がその指示を受けた時、デロング氏には――多分、公使任務の範囲を拡大出来る見込みがあろうと云う――特別な熱意があり、そのすぐ後で公使は、ペルー政府に対し、公使がペルーと日本やその他の国々との条約交渉の労を取りましょうと、自発的に提案する書翰を送っていた事が分かった。この件については、ペルーはおそらくこの条約締結を望んでいなかった事により、何の返答も来なかった。ペルーが携わる重要なアジアとの貿易はこの人身売買で、東洋の一国との通常の条約には規制が多く、不便極まりない事だったのだ。四年前に日本は、ペルーのクーリー船の件で問題が有ったが、彼等は再発が無いよう見張っていたのだろう。彼等の側では条約締結の用意があったが、ペルーは反応しなかった。デロング氏は条約の件はまだ可能性ありと考え、更に、国務省からあった指示だけでなく、ペルー政府は将来彼の条約締結提案を受けるだろうと云う期待から、公使自身ペルー人の利益代表になれると感じていたようだ。兎に角、公になっていない公使の情報だけが彼の立場を強化するのに特別に役立っていて、その事は、一般に知れている事だ。

と書き、デロング公使のとった、ペルー人船長の要請を断ったシェパード代理公使の判断を譴責し、逆に自国では禁止されているクーリー貿易をも擁護する行動に対し、ハウスは誠に厳しい批判を投げつけたのだ。イギリスでも、アメリカでも、昔は積極的に行われた奴隷貿易はすでに法的に禁止されていたし、人道的にも許せないクーリー貿易をするペルー人船長に援助の手を差し伸べようとする「自国公使」に、厳しく噛み付いたわけだ。

♦ デロング公使の逆襲と、トリビューン紙の暴露記事

こんなハウスの厳しい批判に、デロング公使も黙っては居なかったようだ。1873年2月8日、即ち明治6年2月8日付けのニューヨーク・デイリー・トリビューン紙の4ページに、「デロング氏について一言」と題する次のような暴露記事が載っている。いわく、

我々には、本トリビューン紙の私事について読者の前にさらけ出す習慣はないが、既に幾つもの他の新聞がこの問題についての論説を発表しているので、日本在住の合衆国公使のデロング氏が、本紙のかけがえのない特派員であり、江戸の大学で教授職にあるエドワード・ハウス氏の教授職からの追放を迫ると云う、外交官としての義務違反の罪を犯した事実をこれ以上述べずにおく理由が無くなった。デロング氏は、ハウス氏により書かれ本紙に載った、マリア・ルス号事件に関する公使の行為を非難する記事について、ハウス氏との反目に正当な理由があると思っている。その非難記事は完全に正当性があり礼儀正しく述べられているが、しかし、デロング氏はその記事により威信を傷つけられたと感じ、合衆国の名において、日本政府にその記者を教授職から追放するよう求めたのだ。日本の内閣は、デロング氏自身が持っていると思ったものより、はるかに正確にデロング氏の特権に対する展望を持っていたため、その要求目的は達成されなかった。従ってこの件は、我が公使の大いなる厚かましさと、天皇の内閣により適切に退けられたと云う筋書きだけが在日アメリカ公使館記録に載った事を除き、どんな実質的結果も伴わなかった。
おそらくデロング氏には、自身が就いている地位に対する充分な感謝の感覚が無かったようだ。しかし氏は、その国民を、我々の範例と激励で近代文明に列席させるべく努力すべき裁判で、偉大な国家の代表者により行われた無益な悪意の発揮という、意地悪で野卑な行為について、事実として知られる如く、恐らく恥の観念のかけらもないただ一人のアメリカ人であろう。彼等日本人が賢く我々から学ぶ事は多々あるが、彼等がワシントンで非常に賢明で熟達した森有礼氏により代表され、日本で我々の名声と威信を保持するためデロング氏より優秀な人物が居ない限り、我々の外交を日本のモデルとして受け入れようとはしないだろう。

筆者は、デロング公使の文部省に対するハウス排斥要求の具体的な史実・史料を知らないが、おそらく外務省経由で非公式に、あるいは極秘裏に行った行為であろう。

史料に依れば、この後もハウスは大学南校の教授を明治6(1873)年1月29日から7月28日まで継続する事に決まっていたが、1月28日、病気の故を以て継続無しの満期解雇と云う事になった (「資料御雇外国人」)。上述してきた例で見れば、記事を書いた日付けからトリビューン紙に掲載まで約1ヶ月かかっている。従って2月8日に掲載された日から逆算すれば、1月始めにはデロングのハウス排斥のニュースがアメリカに向け発送された事になる。従って筆者には、この予定変更され満期解雇になった時期、あるいはそれが決断されたと思える時期と、ニュースが発送されたらしい時期が奇妙に一致するように思えるのだ。

これは、ハウスが日本政府に雇われる大学南校教授としてアメリカ公使を非難した格好だから、これ以上日本に迷惑が及ぶのを避けるため病気を理由に自ら身を引いたように見えるし、あるいは他の理由があったのか、いずれにしろ、明らかにデロングからのハウス辞職への圧力と関係がありそうに思われる。当時ハウスは大学南校教授の月給250円、ドルで見ても月額ほぼ250ドルを貰っていたようだが、これを犠牲にする事は、かなりの経済的ダメージがあったことだろう。

♦ デロング公使召喚の記事

ここでしかし、最初の小村寿太郎の叙勲推薦文に帰ってもう一度読んでみれば、

明治五六年の交、・・・米国公使「デロング」も英国公使に左祖して我に利ならざるを以て、「ハウス」は帝国政府の内命を奉じて米国に往き、同国の新聞紙上に於いて大いに米国公使の所為を駁し、遂に合衆国政府をして同公使を召喚せしめ・・・。

と出てくる如く、エドワード・ハウスは大学南校教授職を辞して、帝国政府の内命を奉じ米国に渡ったのだ。即ち、明治6(1873)年1月28日以降の大学南校教授の契約を、病気を理由にその更新を断り、明治政府の内命で早々にアメリカに帰国した事になる。「内命」であったからおそらく、今では史料を探す事はほぼ不可能だろうが、例えば当時このハウスと親しかった様に見える大蔵卿・大隈重信など個人を通じてにしろ、政府から何らかの経済的援助はあったはずである。そして1873(明治6)年5月3日付けのニューヨーク・トリビューン紙の6ページに、次のようなタイトルの記事が出ている。いわく、

日本に於ける我が国の不名誉
またしても一部の騒々しく不同意を述べ立てる声に関わらず、ワシントンから、デロング公使が日本から召喚されるとの情報が来た。この件は誠に特有な優柔不断さと裏表を持ったやり方とで処置されて来たが、この後政府がどうしようとするのか、我々は知ってゆかねばならない。・・・従って我々は、何故デロング氏の長い就任がこの国の不名誉となり、日本の侮辱となったのか、その最も重要な幾つかの理由を簡明に述べたい。

こう書き出して、デロング公使が岩倉使節団に随行したのは公使の勝手で日本側は迷惑であった事、随行した女子留学生の処置で森氏とのみっともない諍いが使節団の予定を狂わせた事、能力のない近親者を江戸公使館書記に任命し嘲笑された事、合衆国を代表しているのに日本政府に雇われたがった事、等と事例を列挙し、そのほか五つもの事例をも列挙するという念の入った記事である。これはおそらく、明治政府の内命でアメリカに帰国した直後に、ハウスがニューヨーク・トリビューン紙に送ったものであろう。

この様に結果として、小村寿太郎の書いた、「米国公使・デロングが英国公使に味方して日本に利ならざるを以て」排斥したいという日本政府の期待した結果が実現したように見える。しかしデロング公使の排斥について、アメリカに渡ったエドワード・ハウスとニューヨーク・トリビューン紙のキャンペーンがどの程度功を奏したのか筆者には良く分からないが、むしろ大きな疑問符がつくように思う。

デロング公使の性格からか、その任期を通じ徐々にフィッシュ国務長官との間の溝が広がって行った様だ。確かに、岩倉使節団と別れた後のデロング公使の日本帰任が遅すぎたと、フィッシュ国務長官からその分の公使年俸を減額されたり、新しく公使館書記に任命した甥の報告文の綴り方が間違いだらけだと国務長官から強い叱責を受けたり、マリア・ルス号の処置では国務長官の意に沿わなかったことを謝罪したデロング公使の書翰などを指摘する本もある。大局的な方針から些細な事まで、国務省の意に適わなかった様だ。そして国務長官からの辞職願を出すようにとの個人的な書翰を受取り、1873年4月22日付けの公使辞職願を提出したと云う(「Spoilsmen in a "Flowery Fairyland"」)。これから見れば、上述のように5月3日付けのニューヨーク・トリビューン紙にハウスのデロング公使非難の記事が載る前に、フィッシュ国務長官から個人的な書翰で、デロング公使に辞職の要求があったわけだ。

勿論こんなアメリカを代表するメディアの一つ、ニューヨーク・トリビューン紙の日本報道は、それなりに注目されたものだろう。そして、グラント大統領に率いられたアメリカ政府にとっても、日本に対する外交ポリシー遂行上、大きく非難を浴びる事は決して好ましい事ではない。当然そんな意味で、エドワード・ハウスとニューヨーク・トリビューン紙のキャンペーンが、特に1873年2月8日付けの記事などが間接的な影響を与えたとしても不思議ではない。
(「New-York Daily Tribune」 February 12, June 4, 1870、September 28, 1872, February 8, May 3, 1873
「外務省・外交史料館・日本外交文書」、明治5年、6年、7年、8年。
「資料御雇外国人」、小学館、昭和50年。
Diplomatic Relations between the United States and Japan」by Payson J. Treat, Stanford University Press, 1932。
「Spoilsmen in a "Flowery Fairyland"」 by Jack L. Hammersmith, The Kent State University Press, 1998
。)

 


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03/18/2020, (Original since June 2012)