日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

16、グラント将軍の世界周遊と日本立寄り、琉球所属問題

南北戦争時と大統領時のグラント将軍

♦ 日本に善意を示したグラント大統領

ユリシーズ・S・グラント将軍は南北戦争の英雄であり、その人気をもってアメリカ合衆国の大統領を1869年から1877年までの2期、8年にわたり務めた人である。グラント大統領時代には、明治4(1871)年秋にサンフランシスコに到着し翌年1月ワシントンを訪れた、日本からの特命全権大使・岩倉具視に率いられた視察団を大歓迎している。日本の国書を受け取ったグラント大統領は岩倉具視に、

閣下が奉命する、公法に基づく条約改正の交渉は我輩の喜びであり、両国間の貿易方法の修正は重要で、望むところでもあり、国交の増進は決して怠ってはならず、真実この美事に賛成するところである。

と言ったほどに、日本の条約改正を支持し歓迎した人である。これはグラント大統領の外交基本方針にもよるものだが、こうしたアメリカ政府の支持表明に意を強くした岩倉具視の条約改正の試みは、本サイトの 「11、岩倉使節団(米国)」の中の「大統領会見と条約改定交渉」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) に書いた通りだった。しかし残念ながら、日本側が多国間に渉る交渉の困難さを知り、これを実現できなかったものだ。

それから4年半後のグラント大統領の第2期目、すなわち明治9(1876)年6月、当時の外務卿・寺島宗則からの指示で、駐米特命全権公使・吉田清成がフィッシュ国務長官と日本が関税自主権を回復する改税条約交渉を開始した。これは、ヘイズ新大統領になった明治11(1878)年7月25日、エヴァーツ新国務長官との間で「吉田・エヴァーツ条約」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) とも呼ばれる新改税条約として調印に成功した。この経緯は、その「吉田・エヴァーツ条約」に書いた通りだった。

その建国の始めにイギリスと独立戦争を戦い、その後折に触れイギリスやヨーロッパ諸国と競いながら独自の発展を遂げるアメリカには、1800年代に、何代にも渡り大統領が変わってもあまり変化しない、強化されながらその底を流れ続ける特徴的傾向がある。それは、ワシントン大統領時代の初代財務長官・アレクサンダー・ハミルトンによって行われた、初の連邦中央銀行設立や造幣局の設置・ドル硬貨の発行、関税政策を含む製造業自立に関する基本概念の確立など長期発展を目指す明確な政策を基礎にし、当時1816年に、イギリスからの自由貿易による大量商品の流入に初めて保護関税を導入した政治家・ヘンリー・クレイが名付け、「アメリカ方式」 と呼んだものだ。この 「アメリカ方式の政治経済学」 の基本は、
    1、国家の発展に必要不可欠な産業を保護する関税制度の運用。
    2、農業や産業に不可欠な長期的融資を行い、市場を上回る権威を持つ国立銀行の運用。
    3、それによる国内のダムや運河、道路や鉄道等、インフラ整備を充実させる投資と、それに関わる人々を顧客に出来る農業の発展。
である。勿論、関税率やインフラ投資額などは、時代ごとに変化している。日本はこんな発展をするアメリカから学ぼうと、この中の(1)は当初からイギリスの反対で大きな艱難に直面し続け実行不可能だったが、基本的にこれらは、明治政府がモデルとしてきた方式であると筆者には見える。

この様な背景を引き継ぎ、日本に対し非常に友好的で公正だったグラント将軍は、大統領を辞めるとすぐ2年をかけた世界周遊旅行に出発し、ヨーロッパから中東、アジアと廻り、清国訪問の後日本に到着した。勿論日本では大歓迎を受け、日光など地方にも足を延ばしたが、そんな当時の日本をめぐる外交問題の一つ、琉球所属問題とグラント将軍の日本滞在について書いてみる。本題に入る前に、グラント将軍の南北戦争時代と大統領時代について簡単に触れる。

♦ グラント将軍の南北戦争時代

南北戦争と呼ばれる4年間も続いたアメリカ合衆国の内戦は、このサイトでも折に触れて書いているが、例えばこの内戦中は、アメリカの日本に対する外交方針も大きく変わらざるを得なかった事情は、「6、薩英戦争と下関戦争」の中の「鎖港議論と鎖港交渉使節の派遣」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) に書いた通りだった。

オハイオ州で1822年に生まれたグラントは、ウエスト・ポイント陸軍士官学校を1843年に卒業後、セントルイス第4歩兵師団少尉に任官した。テキサスの所属を巡って勃発した1846年から1848年のアメリカ・メキシコ戦争に参戦し、リオ・グランデ川からメキシコを攻め、後に大統領にもなるザカリー・テイラー将軍の下で兵站部少尉として活躍した。この時には、テイラー将軍から多くの事を学んだという。その後スコット将軍の指揮下でメキシコ・シティーの戦いでも活躍し、軍功により中尉に昇進した。この時アメリカ軍は首都・メキシコ・シティーを占領し、アメリカ・メキシコ戦争に決着を付ける重要要素になった。終戦後は各地に勤務し、1854年に大尉として勤務したカリフォルニアを最後に退役し、セントルイスへ帰った。

しかし南北戦争が始まると、1861年に大佐に任命され義勇兵を組織し、准将に任ぜられ、第21イリノイ州義勇兵・歩兵連隊長になった。そしてジョーン・フリモント少将により、作戦上の要所の一つ、ミシシッピー川とオハイオ川の合流地点・カイロ地区の布陣を任された。このミシシッピー川の30km程下流には南軍の陣地もある、要所の一つだった。引き続く幾つかの戦闘で勝利したグラントは、1863年リンカーン大統領により義勇軍少将に任じられた。しかしこんな各地の戦闘では、勿論グラントも成功ばかりではなかった。前線の責任分担で降格にも当たる部署を与えられたグラントは、退役を考える所にまで追い詰められた時もあったようだ。この頃から大酒飲みの習慣も増え、海軍がニューオルリーンズを制圧し、1863年にグラント軍が南軍の主要ルートのミシシッピー川を北から南まで制圧する頃には、リンカーン大統領にまで大酒飲みの報告が上がる事もあったようである。

南軍の主要補給ルートのミシシッピー川が北軍の制圧下に置かれる頃から、戦況が少しずつ変わり始めた。直ぐ下に書くゲティスバーグの戦いに次ぐ多くの戦死者を出したチカモーガの戦いの後、1863年10月、リンカーン大統領は北軍に新しくオハイオ連隊、テネシー連隊、カンバーランド連隊を統合したミシシッピー師団を組織し、グラントに指揮を任せ、南軍を重点的に北と西から追い詰める構図になった。グラント指揮のミシシッピー師団は侵攻の速度を緩めず、1863年11月南軍の重要拠点、テネシー州のチャタヌガを陥落した。更にシャーマン将軍に引き継がれたこの師団は南軍の主要拠点の一つ・ジョージア州に侵入し、1864年9月中心都市・アトランタを陥落し、そのまま大西洋岸のサヴァンナにまで到達した。

同じ頃また北部では1863年7月に、南北戦争最大の決戦になったゲティスバーグの戦いがあり、南北両軍の死傷者が、3日間で5万1千人にものぼるという一大消耗戦を戦った。それは銃弾の飛び回る戦場を突撃するという白兵戦だったが、そのあまりに犠牲者の多い凄惨な戦に、その年の11月19日、ゲティスバーグの戦闘が展開された丘に大きな墓地を作り、追悼の会が模様された。ここで来賓として招かれたリンカーン大統領が、2分間ほどだったと言われる非常に短いものだったが、後に最高の演説と称えられる「ゲティスバーグ演説」を行っている。


ジョージア州アトランタ市郊外、ストーン・マウンテン州立記念公園にある、
巨大花崗岩の岩肌に浮き彫りにされた、南軍大統領と将軍達の乗馬像。
(左から) デービス南部連合大統領、リー将軍、ジャクソン将軍

Image credit: 筆者撮影

このように、ミシシッピー川を制圧し、チャタヌガを陥落し、南軍の中心地・ジョージアにまで攻め入った北軍ミシシッピー師団侵攻の中心を担ったグラントの功績が賞賛され、1864年3月リンカーン大統領により陸軍中将に任ぜられ、北軍総司令官に任ぜられた。この陸軍中将という位は、アメリカの陸軍歴史上、ジョージ・ワシントン将軍に次ぐ2人目のものだったという。首都・ワシントンに居を移したグラントはリンカーン大統領と作戦を協議し、更なる攻撃力増強のため輸送路の鉄道の整備・延長を続け、電信網を延長し、補給物資の供給体制を経済面からも確立し、総合戦闘能力の更なる拡充に努めた。それまでにもリンカーン大統領は、早くから鉄道と電信の重要性を悟り、ホワイトハウス内にも直接電信を引き込み、鉄道輸送網と電信網を南軍の10倍もの速さで拡充し、これを政府と軍隊の統制下に置いて来たが、更なる総合補給・通信網が完成して行った。

南軍はその首都をヴァージニア州のリッチモンドに据えていたから、北軍の首都・ワシントンからは150km程南である。こんな背景で、最終的に南軍の総司令官・ロバート・リー将軍と北軍総司令官・ユリシーズ・グラント将軍の直接対決戦になったのだ。それまでほぼ互角に戦ったように見える南軍も、徐々に武器や補給物資の補充、兵士の徴兵補充に窮して来た。義勇兵の募集や機動力、通信能力、武器や補給物資調達とその輸送能力ではるかに勝る北軍は優勢に立ち、南軍の首都・リッチモンドに迫った。南軍のリー将軍のリッチモンドからの退却要請で、デービス南部連合国大統領や閣僚は汽車で脱出し退却を図り、翌4月3日、首都・リッチモンドは陥落した。リー将軍も何とかリッチモンドを脱出したが、グラント自身がリーを追討し、間もなくリッチモンドの西100km程にあるバージニア州アポマトックスで北軍に包囲され、孤立した。

1865年4月7日付けのグラントからリーへ降伏を求める書翰には、次のように書いてある。いわく、

1865年4月7日
将軍、先週の戦闘結果で、この戦における北ヴァージニア陸軍一分隊の更なる抵抗は望みがなくなった事実を、貴殿ははっきりと悟ったはずである。本官もそう感ずるので、それに関する本官の義務として、南部連合国陸軍中の” 北ヴァージニア陸軍 ”として知られる一部隊の降伏を求める事により、更なる流血の惨事を避ける方向に進みたいと考える。
    R.E.リー将軍へ
U.S.グラント中将

グラントからリーに宛てたこの降伏を勧める書翰を受け入れ、4月9日、終に南軍総司令官・リーは北軍総司令官・グラントに降伏した。この時グラントは、武器は没収したが、南軍兵士に必要に応じた個人用の馬と食料を与えて帰省させるという、人道的で寛大な処置を取った。南部深くジョージア州まで逃れたジェファーソン・デービス南部連合大統領と閣僚は、5月5日最後の閣議で南部連合国の閉国を決め、デービス自身は10日に北軍に逮捕された。こうして、4年にも渡る南北戦争に一応の決着を付けたグラントは、1866年7月25日、陸軍大将に昇進した。これが、終生「将軍」と呼ばれるゆえんである。

♦ グラント将軍の大統領時代

このページの最初の節に 「日本に善意を示したグラント大統領」という題をつけたが、その中で岩倉具視に伝えた 「閣下が奉命する、公法に基づく条約改正の交渉は我輩の喜びであり・・・」と云う言葉は、実際には単に善意と言うだけでなく、グラント大統領の外交基本方針であったことを指摘しておく必要がある。グラント将軍が大統領に選出され、その1869年3月4日の就任演説の中で、外交方針について次のよに述べている。いわく、

外交方針については、衡平法(こうへいほう)が個人同士お互いの公正な振舞い方を求めると同様に、国家間でも公正に振る舞い、何処であれ国民の権利が危うくなったり、あるいは、我が国の国旗がたなびく所である限り、アメリカ生まれ外国生まれに関わらず、法律を遵守する我が国民を保護します。私は全ての国々の権利を尊重し、我が国に対しても、同様に尊重する事を要求します。若し如何なる国といえども我が国に対しこの原則から逸脱すれば、我が国も同様に彼等に対処せざるを得ません。

この様に、独立国家がお互いの権利を尊重し 「公正、公平、偏見のなさ」で交流する事を外交の基本方針にしていたわけだから、新興国の日本といえども、その例外にはしなかったのだ。この道徳律に基づく衡平法は、イギリスで発展しアメリカもその伝統を法体系の基礎にしたのだが、当時の日本に対するアメリカとイギリスの態度は、水と油ほどの違いがある。アメリカの後進国に対する正義ある公正な態度に対し、イギリスは東洋の後進国へ向かい自由貿易論を唱え、自分達の利益追求のみが多かったわけだ。例えば、明治政府の第1次伊藤内閣で外務大臣を務めた井上馨は、イギリスの自由貿易論に苦しみ、不平等条約の改正が出来ず、妥協案として外国人判事を採用せざるを得ず、日本国内の反対論で辞任にまで追い込まれた。(グラント大統領就任演説:「Inaugural Addresses of the Presidents of the United States , Penn-sylvania State University, 1998 による。)

グラント将軍は国民の盛大な人気に支えられ大統領に就任し、就任式当日は、それを祝う8個師団にも上る陸軍軍隊の行進があったという。筆者にとって当時の1個師団が何人で構成されたか定かではないが、歩兵・騎兵・砲兵・工兵や輜重兵など1万人と見ても、8万人規模の軍隊行進だったわけだ。就任当初、その期待と人気の高さが分かる数字だ。大統領としての第1期目には、疲弊した南部のより一層の復興、アメリカ・インディアンの処遇、黒人に投票権を与える憲法修正第15条などが、解決すべき大きな問題点だった。

グラント将軍は2期に渡り大統領を努めたから、流動的な政治上の駆け引きの中でも、第2期に向けても当初、それなりの支持があったと見るべきだろう。しかし第1期の初めとは違い、かなりの非難、中傷もあったようだ。1873年3月4日の就任演説の最後をこう締め括っている。いわく、

私はどんな階級も地位も欲しいとは言わなかったし、どんな外部の影響も受けず、影響力の強い知人達とかかわって来なかったが、国家の存続そのものに関わる脅威に対しては、私の責務を果たすべく解決策を見つけてきました。私はどんな昇進や命令を請う事なく、どんな党派や個人に対する復讐心を抱く事無く、義務を忠実に果たしてきました。それにもかかわらず、戦争中も、1868年の大統領職の候補だった時から今回の選挙期間を通じても、政治史の中にかってなかったほどの罵倒と誹謗を受けて来たが、今日、国民の皆さんの評決による無罪の判決が下された事により、全てを忘れ去る事ができ、私が汚名回復・天下晴れての身になれたことを感謝します。

こう述べている事からも、その厳しい現実を読み取る事ができる。(就任演説:「Inaugural Addresses of the Presidents of the United States , Penn-sylvania State University, 1998 による。)

アメリカ政府は南北戦争が終わるとその復興に資金を投入し、民間資金も動員され、西部に向かって土地開発やそれに関わる鉄道網の急速な新設・発展があった。製鉄所はフル回転し、鉄道建設から派生する各種ビジネスが繁栄したが、しかし同時に投機的な資金投入も急拡大し、需要を大きく上回る設備投資になってしまった。今流に言えば、「鉄道バブルの崩壊」だっただろう。このバブル崩壊に至るまでには勿論、いわゆる「アメリカン・ドリーム」を実現し、大金持ちになった人達も居たわけだ。

しかし、こんな過剰投資がアメリカ国内で急激な景気減速を招き、同時期にヨーロッパで起った急速な景気後退も影響し、終に1873年9月、アメリカの2大銀行が破綻しニューヨーク株式取引所の10日間の臨時閉鎖という経済パニックが起り、4分の1にも当たる鉄道会社が倒産し、多くの個人ビジネスも破産し、その後6年にも渡る長期経済不況に突入した。経済学者が指摘するようなグラント政権の対策にも問題があったようだが、こんな経済状況の急変がグラント大統領の2期目の足をすくう大きな要因の1つとなった。更にこれに輪をかけた政府内のスキャンダルも次々と発覚し、自身では3期目の大統領職にも意欲的であったがしかし、同じ共和党のラザフォード・ヘイズに破れ、ヘイズが新大統領に当選した。

グラント将軍の世界周遊

♦ 世界周遊の旅に出発

グラント将軍はラザフォード・ヘイズ大統領が就任した後、1877年5月17日フィラデルフィアを出航し、世界周遊の旅に出発した。フィラデルフィアから船でデラウェア川を下り、大西洋を渡り、リヴァプールからロンドンに向かった。これは、出発に際し当時のエヴァーツ国務長官が各国駐在アメリカ公使宛てに出したその年の5月23日付け公式書翰を見ると、前大統領であり、かつ南北戦争を終結し国家再統一への勝利に導いたグラント将軍への特別な対応であった事がよく分かる。いわく、

諸君、前合衆国大統領、ユリシーズ・S・グラント将軍は今月17日、フィラデルフィアからリヴァプールに向け出航しました。
ルートや旅行地域、また外国滞在期間はこの出発時点では決まっていませんが、その旅行目的は、この国のために、軍務と公務とで16年間にも渡る絶え間ない献身的な努力の後に、数ヶ月の休養と保養をしっかり取るという事です。
公職を離れた後に訪れた全国各地の人々からの、グラント将軍に対する例の如く熱烈な敬意と尊敬を表明する時や、そしてまた、退職直後からヨーロッパへ出発する直前まで、公衆の前に姿を見せる時は、いつも、国民から将軍へ感謝の気持ちが高まるのが常に良く分かります。
こんな一般市民の感情を最大限共有し、同時に現大統領の望みにもより、その国を訪ねる時は、将軍の旅が快適なものとなるよう、アメリカ政府外交官や領事官たちの協力を願うものです。諸君は本省の希望に先立って、政府の全職員から共和国の市民一人に至るまで、広く公務上も個人的にも非常に名声の高い将軍へ、多くの人々からの充分な配慮や敬意を示すべく、愛国的な悦びがあろう事とすでに確信しています。

当時グラント将軍の大統領という公務では、政治上、経済運営上に多くの困難があり、また政府内のスキャンダルも幾つか指摘され人気を落としたが、総じて見れば、こんな風に国務長官の公式文書にも滲み出る、ある種の全国的な「感慨深さ」とも呼べる気持ちがあった事も事実だった。これは勿論、旧北軍地域を中心にしたものの見方ではあるが、この1877年という年はちょうど独立後100年を経過し、次のバイ・センテニアル・二百年祭に向かい踏み出す年だったから、よくも合衆国が二つに割れず、ここまで乗り越えたものだという気持ちだったのだろう。かく言う筆者も、次のバイ・センテニアル・二百年祭を現地で自分の目で見ているから、そんな気持ちが良く分かる気がする。しかし、現在でも深南部の田舎の白人たちの中には、北部の人達を 「ヤンキー」と言って嫌う人達が居る事もまた事実である。

♦ ヨーロッパから日本へ向かう

ロンドンからベルギー、スイスと廻り、また英国内のグラスゴー、バーミンガム等にも寄り、ドーバー海峡を渡りフランスのパリに来た。当時のフランスは第三共和政になって間もまくで、将軍でもあったマクマオン大統領と下院の主導権争いというフランス政界のゴタゴタに巻き込まれ利用されないようにと、その訪問タイミングを3ヶ月もずらすなど、個人的な旅行とはいえ、アメリカの前共和党大統領で将軍でもあるグラントの側にも苦労があったようだ。

ニース郊外から、アメリカ政府がグラント将軍専用に用意した地中海艦隊所属のヴァンダリア号に乗り、地中海諸島巡りと、エジプトに向け出発した。初代のヴァンダリア号はペリー提督と共に日本に来た帆走軍艦(6百トン)だが、この第2代のヴァンダリア号はスクリュー推進の蒸気軍艦(2千トン)である。

その後またギリシャを通りイタリヤのローマ、フローレンス、ベニス、ミラノを訪れた。更にまた北上し、オランダ、ドイツ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、ロシア、オーストリアと廻った。スペイン、ポルトガルにも行き、引き返して、客船でスエズ運河を通りインドのボンベイ(現ムンバイ)に出たが、フィラデルフィア出発から既に1年9ヶ月が経っていた。

インドを出るとマラッカ海峡を通過し、シャム(現タイ)に寄り、コーチン・チャイナ(現ベトナム)に寄り、清国に向かった。マカオから香港、広東、天津、北京を訪問したが、この時の清国皇帝は1875年に3歳で帝位についた、当時まだ7歳という幼少の愛新覚羅載湉(さいてん)・光緒帝だった。光緒帝はあまりの幼年で、基本的には個人旅行の名目から、グラント将軍はあえて面会を請わなかったようだ。

こんな状況だったから、当時軍機大臣だった恭親王(愛新覚羅奕訢(えききん)、咸豊帝の弟、グラント一行は Prince Kung と呼ぶ)が皇帝の代理として接待に当たった。ここで恭親王は、天津の直隷総督兼北洋通商大臣・李鴻章(グラント一行は Viceroy, Li Hung Chang と呼ぶ)からの強い要請により、日本と清国との間にある「琉球所属問題」を持ち出し大いに弁舌をふるったが、これは改めて下に記述する。

♦ 長崎到着と歓迎

北京を出発したグラント将軍一行は天津から蒸気軍艦・リッチモンド号(2600トン)に乗り日本に向かった。この軍艦は1860年に進水した木造軍艦だったが、グラント将軍と同じく南北戦争に参戦し、南軍の拠点ニューオーリンズを海から制圧する海軍砲撃作戦に参加して北軍が勝利し、同じ頃、北からグラント指揮の陸軍がミシシッピー川を制圧した事と合わせ、南軍の生命線で重要な輸送路・ミシシッピー川全域を北軍の制御下においた。そんな南北戦争の「戦友」とでも呼べる軍艦で、当時はアメリカ海軍・アジア水域の旗艦だった。

1879(明治12)年6月21日、軍艦・リッチモンド号は長崎に入港したが、そこにはグラント将軍を国賓として出迎えるための日本側の代表者たち、天皇の名代・伊達宗城(むねなり)やアメリカ駐在公使・吉田清成を始め多くの人々が居たし、アメリカの日本駐在・ビンガム公使、長崎駐在・マンガム領事を始め長崎在留の外国人たちが居た。旧宇和島藩主だった伊達宗城は当時政界から引退していたが、外国からの賓客を接待する任務を務める立場にあった人だ。また吉田清成は1874年からアメリカ駐在公使として日米外交に関わって来たから、グラント将軍とはその大統領時代からの旧知の間柄で、吉田清成がアメリカと締結した改税条約は、グラント大統領時代に本交渉が開始されていたものだ。また、アメリカのビンガム公使は長く下院議員を務めたが、1872年に落選の憂き目にあい、当時のグラント大統領がビンガムを日本駐在公使に任命した経緯があった。

長崎での6月23日の公式歓迎夕食会の席上、長崎県令・内海忠勝がグラント将軍の歓迎の意を表し健康を祝す乾杯の後、グラントは日本や東洋諸国に対するアメリカの基本姿勢について短い演説をした。これは既に上述したグラント大統領の第1期目の就任演説でも明らかだが、アメリカは日本も含めた諸外国と公正な関係を築くというものであった通り、日本とも常に公正な友好関係を築く努力をしてきたし、近年の素晴らしい日本の発展もあり、こんな関係の永続を願うという主旨のものだった。

長崎では学校や博覧会場を訪れ、名勝地や旧跡や寺院を訪れ、市民の大歓迎を受けた。長崎から横浜に向かう航海は、その途中瀬戸内海を通過し兵庫・大阪を経由するものだったが、兵庫・大阪地方にはコレラが蔓延し多くの死者がでているとの情報が入った。兵庫港に着いても上陸できず、当初の計画に反し、大阪や京都の訪問を諦めざるを得なかった。しかし7月2日、横浜への航海の途中で駿河湾内に入り、10人ほどで静岡に上陸し街中を見学した。茶屋に寄ったり、寺でお茶に呼ばれたり、食事をふるまわれたりと、一時の散策を楽しんだようだ。

♦ 横浜上陸と歓迎

グラント将軍の乗った軍艦・リッチモンド号は、日本の軍艦・金剛に先導され、7月3日の朝に横浜港に入った。横浜港にいた多くの各国の軍艦からは将軍歓迎の祝砲が放たれ、リッチモンド号は日本国旗を掲げ、国旗に敬意を表する祝砲を撃った。恒例の到着歓迎のため、日本や外国軍艦の艦長たちがリッチモンドを訪れ、アメリカのヴァン・ブーレン総領事も訪れた。グラント将軍は天皇の名代・伊達宗城、アメリカのビンガム公使、吉田清成駐米公使、その他多くの海軍将官に伴われハシケに乗り移り、祝砲や各国軍艦からの登舷礼が行われ、アメリカ国歌が演奏される中で横浜に上陸した。そこには日本政府の高官が出迎えていたが、かねてからグラント大統領とは顔見知りの右大臣・岩倉具視が先ず進み出てグラント将軍と握手し、歓迎の意を表した。その他、当時の内務卿・伊藤博文、工部卿・井上馨、外務卿・寺島宗成、西郷従道、森有礼、榎本武揚などの重鎮が出迎え、特別列車が待っている蒸気鉄道・横浜駅に向かった。

こうして東京に着いたグラント将軍を街中が歓声をあげて迎え、政府の国賓として、明治2年に浜離宮に建てた西洋風石造りの延遼館がその宿所として提供された。翌日4日午後、グラント将軍夫妻、同行の子息・グラント大佐と書記・ヤングが明治天皇と謁見した。この謁見にはビンガム公使や東洋艦隊司令長官なども随行したが、謁見に際し明治天皇は勅語として次の如く述べた。いわく、

久しく貴名を聞き居りしが、今親しく面会し、欣喜の至りなり。又かって大統領お勤め中は我が国人に対し別段のご交誼に預かり、殊に岩倉大使参向の節は種々ご歓接を蒙りたり。右等貴君の日本交際に付き特別なるご厚志は、永く記憶いたし居り候。この度は世界一周の壮遊をお催しにて、当国へもご来臨相成り、上下一般歓喜いたし居り候。緩々ご逗留にてご遊覧あられよ。
今日は貴国独立の期日に当たり候よし、この日に於いて初面会を遂げ、右の歓を申し候は、別して目出度き事に存じ候。

これに対しグラント将軍は、

陛下、本日私をここに歓迎して頂き、また日本到着以来、貴国政府及び国民の皆様から私が受けた大いなる親切心に、非常なる喜びを感じております。この様な貴国の歓待の中に、我が国に対する友好の情が良く見て取れます。この様な友情の念は合衆国からも発揮され、党派に関係なく、日本に関するあらゆる出来事に最大なる関心を抱き、日本の繁栄を心から願っている事を申し上げます。そんな心持をお伝えできる事を嬉しく思います。アメリカは貴国の隣人であり、日本の進歩発展の努力に常に共感し、支持を致します。ここに改めて陛下の手厚いおもてなしに感謝し、陛下の末永く幸福なる在位を祈念し、また日本国の繁栄と独立を祈念致します。

明治天皇が親しく、立ったまま西洋流に外国要人と面会するのは恐らく初めてだったろうから、グラント一行は、ぎこちなく振舞う天皇を見ている。しかし、皇后もグラント婦人にねぎらいの声をかけているから、その会見は西洋流の作法に則って行われたようだ。

♦ 天皇との非公式会談


明治天皇とグラント将軍の非公式会談
Image credit: "Around the World with General Grant",
by John Russell Young, Vol. 2,
The American News Co.,1879,
digitized by Google, http://google.com/books

7月17日になるとグラント一行は日光に向け出発し、31日に延遼館に帰った。明治天皇とグラント将軍が公式に会見した後、天皇は非公式な個人会談の機会を望み、8月10日、その会見がグラントの滞在する浜離宮内にある中島茶屋で実現した。天皇自ら浜離宮まで出かけたわけだが、天皇から日本国についての意見を求められたグラントは、次の如く述べた。

第一に農業改善や国民の進歩について詳しく理解でき、更なる発展を願うと述べた。かって黒田清隆の主宰する開拓使時代に、お雇いとして日本に来たホーレス・ケプロンは、このグラント将軍の大統領時代にその下で農務局長を勤めていたが、1871年7月その職を辞して来日したから、グラントはそんな経緯を通じ、日本農業の発展を注意深く見守っていたようだ。この頃アメリカは工業大国の仲間入りをし、その後農業大国にもなって行くから、そんな背景からグラントは世界の農業に関心があったのだろう。次に西欧諸国の官吏は利己主義に執着し、清や日本の国権を尊重せず、切歯扼腕に耐えないと述べた。更に立法権を付与した議会の創設について日本国内の議論が盛んだが、国民の理解が向上するまで急がず、立法権を付与しない顧問議会から始め、慎重に行うべきだと述べた。また、むやみに外債を発行しヨーロッパ諸国に借金をする事は、危険と屈辱以外の何者でもなく、外国に主導権を渡すもので、厳に慎むべきである。エジプトとトルコはその失敗の最たるものである。現在の日本の外債は小額で、償還期限前にでも返せるものは返した方が国益になろうと云う意見だった。

グラントは話を進め、支那の恭親王や李鴻章との会談で話題となった琉球問題についての話に移った。グラントの基本的立場は、個人旅行であり、外交官でもなく、どんな政府の権限も持ち合わせていないがしかし、平和の維持と云う観点から無視する事もできない。琉球所属に関する日本側と清側の主張も聞いたが、清側は先般の日本の台湾出兵に鑑み、日本は琉球を領有し再度台湾を占領し、清国が太平洋に出る道を閉鎖しようとの思惑があるのではと危惧している。日本が更に清国と対話し、相手の心情を察し、寛大な心で一歩を譲る事ができれば穏和な解決に繋がろう。断言するわけには行かないが、自分の理解では、琉球諸島を分割し太平洋に出る道を開いてやる事が解決に繋がろうと、解決の一案を示した。この問題の重要点は、双方の譲歩で解決する事が最も大切で、日清2カ国以外の諸外国の干渉は絶対に避ける必要があると付け加えた。

グラントは更に話を進め、日本人は皆利発で勤勉に働き、工業も起っているが、税金が高く貯蓄が薄い。現行の、輸入税が5%などという低すぎる税率を規定した関税条約があるうちは、国内産業発展の足かせになる。また輸出品への課税はむしろ国益に反するとの意見を述べた。貿易を制御する権利ほど重要なものはないと述べ、貿易の繁栄により地租税を軽減でき、地租税軽減が農業繁栄と国力向上につながる重要点だと述べた。又学校の設置や学制は西洋に決して劣っていないとの認識を示した。同席した太政大臣・三条実美は、日本は清国に対し最友好国としての気持ちを持っているが、尊厳を傷つけることなく友好関係を保持したいと答えている。この琉球所属に関する日本側と清側の主張については、改めて以下に述べる。

この後8月12日、グラント将軍一行は箱根山裾の宮ノ下温泉に向かい、16日には三島で静岡県主宰の歓迎昼食会に臨み、日光以外の地方にまで足を伸ばしている。2ヶ月以上に亘る日本訪問を終えたグラント将軍一行は、9月3日横浜を発ち、サンフランシスコ経由で帰国した。

♦ グラント将軍の忠告を実行した明治天皇

明治天皇は、上述の非公式会談でグラント将軍と交わした話をよく理解し、必要に応じ実行しようと思っていたようだ。

もともと明治政府が始まって以来、日本国内の総生産が向上し経済が安定するまでは、幾つもの財政難を経験した。すでに本サイトの「15、幻の改税条約」の中で明治新政府の財政困窮で書いたように、戊辰戦争の始めから戦費調達のため地租を抵当にした「会計御基立金、3百万両」という大金の公債を募集し、合計4千8百万両ともいわれる金札すなわち太政官札を発行した。更に明治6(1873)年7月28日に「太政官布告・第272号・地租改正法」を発して租税徴収法を整備したが、名目5%、実質2.5%ともいわれる低い輸入関税のため外国商品が乱入して正貨流出が止まらず、殖産興業の努力にもかかわらず国内生産は伸びず、大いに苦しんだ時だ。また琉球御用船が暴風で遭難し台湾南部に漂着し大勢が殺害された牡丹社事件では、明治7年5月台湾に出兵し筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) 多大な戦費がかかり、また明治維新の制度改革・秩禄処分で還禄した華族・士族に代償として交付された、総額1億7千390万円という金禄公債などの内債がかさんでいた。ここでまた明治10(1877)年2月から始まった西南戦争の戦費を賄うため大量の不換紙幣を発行したが、これがインフレーションを助長し、物価の高騰が止まらず、国家経済の運営が大きな困難に直面した。

こんな国家経済運営に困り果てた大蔵省では、明治13(1880)年5月、大蔵卿・大隈重信が5千万円もの大規模外債を募集し、この正貨を手に、一挙に不換紙幣の整理を断行しインフレを抑えようという案を廟議に提出した。この外債募集案は、陰でイギリス公使・パークスの強い影響もあったと聞くが、この廟議や各省間の調整では結論が得られず、終に明治天皇の聖断を仰ぐという結果になった。天皇はグラント将軍の忠告通りその外債発行を許可せず、倹約を本として対策を講ずべく決断し、次の勅書を発した。いわく、

朕惟うに、明治初年以来国用多事なるを以て会計困難を生じ、遂に十三年の今日に至りて正貨は海外に流出し、随いて紙幣の信を失うに至る。因りて大隈参議からの建策を一覧し、又内閣諸省の意見同一ならざるを聴く。朕素より会計の容易ならざるを知ると雖も、外債の最も今日に不可なるを知る。去年克蘭徳(グラント)より、此の外国債の利害において蓋言(がいげん、=概言)する所あり。其の言、猶耳に在り。然るに今日会計の困難目前に迫りたる上は、前途の目的を定むる、勤倹の主意即ち此の時に在り。卿等宜しく朕が意を体し、勤倹を本として経済の方法を定め、内閣諸省と熟議して之を奏せよ。

このように、グラント将軍の名前を出し、天皇は「外債発行不可」という方針を示した。即ち、グラント将軍の忠告を実行に移したのだ。

更にまた当時から国会開催の議論が高まり、民撰議院設立建白書など議会開設の願書が出され、民間の突き上げが激しくなっていた。明治12年に参議・山縣有朋が国会開設の建議書を提出し、政府は全参議に意見書を提出させるなどしたが、廟議でも激しい議論になり、大隈重信などの急進派と伊藤博文などの漸進派に分かれ政争になった。この議会開設は、その基となる、どの様な体制の憲法を制定するかの議論でもあったが、三条実美・岩倉具視・伊藤博文・井上馨に対する大隈重信という構図になり、大隈が突然に政府から締め出され、これが民権運動を更に激化させた。この件でも明治14(1881)年10月に出された、天皇の意思表示に当たる詔勅いわく、

・・・嚮(さき、=以前)に、明治八年に元老院を設け、十一年に府縣会を開かしむ。此れ皆、漸次基を創(はじ)め、序に循(したがい)て歩を進むるの道に由るに非ざるは莫(な)し。爾(なんじ)有衆(ゆうしゅう、=国民)、亦朕が心を諒とせん。顧みるに、立国の體、国各(おのおの)宜しきを殊(こと、=異)にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。・・・将に明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、以て朕が初志を成さんとす。

と述べた勅論が下され、民衆の心を宥めようとした。この様に国会を開く期日を明示はしたが、「非常の事業、実に軽挙に便ならず」と、漸次をもって9年後の国会開設を約束したのだ。これも、立法権を付与した議会の創設は急がず慎重にという、グラント将軍の忠告の通りに進めたもののようだ。もっともこの事件に関しては、上記の外債発行に関する天皇自身の決定とは少し違い、後に 「明治14年の政変」と呼ばれるが、伊藤博文などの漸進派が急進派の大隈重信を追放した構図だから、漸進派の意見を詔勅とし、天皇もそれを認可したと見るのが適当だろう。

♦ 駐日イギリス公使・ハリー・パークスの招待を断ったグラント将軍

グラント将軍の世界周遊記を書いたJ.R.ヤングは、その周遊記の中で、いよいよグラントの離日もせまって来た日本滞在の後半部分で、次のような記述をしている。いわく、

(日光から帰った後に)延遼館に滞在した後半の日々は、度重なる夕食会や園遊会、多くの落ち着いて楽しいパーティーがあった。イギリス公使のハリー・パークス卿から宴会への招待が来たが、我々は近日中に出発せねばならず、毎日、毎晩の予約があり、将軍はパークス卿の招待を断らざるを得なかった。アメリカ公使館脇にある、東京タイムズ主幹のハウス氏の、海を見下ろす小さな綺麗な家で昼食会があった。私はこのハウスを、記憶から消え去りそうな昔々、大層魅力的だがいつも実入りがあるわけでもないジャーナリズムの分野で、世界に雄飛しようと思っている注目度の高い若者グループの中でも、特別に聡明な一人として記憶していた。

この様に、パークス公使の招待を断った経緯を、当たり障りのない簡素な記述に留めてはいる。しかし、この当時のイギリスは、前章の 「15、幻の改税条約」で書いた通り、日本の関税自主権回復を認めたアメリカに対抗し、ドイツやフランス、ベルギーやスイスと手を組み、日本の自主権回復に強硬に反対していたのだ。またドイツは、日本政府のコレラ検疫で隔離停船されていた商船・ヘスペリア号を、自国軍艦を派遣して横浜に強硬入港をさてもいたのだ。下に記述する琉球問題で伊藤博文などに会ったグランとは、「今回の世界周遊でよく分かったが、ヨーロッパ各国の意図は、日本や清を従属国にしたいと思っている。この旅行で東洋に入り、シャムや支那や日本でその意図が明白に見え、血が煮えくり返る程の怒りをおぼえた」と言うとおり、ヨーロッパ各国の日本に対するやり方に強い怒りを感じていたグラントは、自国のジャーナリスト・ハウスと昼食をする時間はとっても、イギリスのパークス公使の招待は 「時間がない」と断ったのだ。ここで筆者は、グラント将軍がヨーロッパ勢の日本に対するやり方に、いかに大きな不満を持っていたかが良く分かる行為だと思う。ここに出て来るハウス氏とはエドワード・H・ハウスの事だ。

東京でその当時 「The Tokio Times (東京タイムス)」紙を発行していたこのエドワード・H・ハウスは、昔々、1860(万延1)年の遣米使節の訪米以来日本に強い興味を持ち、アメリカで有名なジャーナリストになれる可能性を捨ててまで、ついに極東に旅立ったことに皆がびっくりしたとヤングは記している。この特異なアメリカ人ジャーナリスト、エドワード・H・ハウス筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) については、また調べて書きたいと思う。

♦ クララ・ホイットニーの見た、日本でのグラント将軍

グラント将軍が日本に着いたころ、クララ・ホイットニーという、ほぼ20才になろうとする若いアメリカ人女性が東京に居た。この人は後に、勝海舟と長崎女性・梶玖磨との子供、梶梅太郎と結婚する人である。クララの父・ウィリアム・ホイットニーは、森有礼が、会頭・渋沢栄一の主宰する東京会議所の援助で設立する「商法講習所」(筆者注:後の一橋大学)の初代教師としてアメリカから招かれた人だ。クララは日本に来てから長く日記をつけていたが、その中に出て来るグラント将軍の描写を略記する。

グラント将軍が明治天皇と公式に会見した翌日の7月5日、東京や横浜の在日アメリカ人が、3年ばかり前に出来た上野の精養軒でグラント歓迎会を開いた。クララ一家はその席に招待されたが、そこで初めて会ったグラント夫妻をこう描写している。いわく、

間もなく静かになり、「あそこに見えたわ!」というささやきと共に、集まった人達が将軍一行が通れるよう道を明けた。最初に将軍とグラント婦人が現れ、姿を見た楽団員が国歌の演奏を始めた。ヘップバーン博士と婦人が続き、その後にマッカティー博士と婦人が続いて入ってきた。ビンガム判事(筆者注:公使)と令嬢、ワッソン婦人、H・S・ヴァン・ブーレン将軍(筆者注:総領事)、デニソン領事、その他多くの人が続いていた。そして私達が次々と前に進み出て、将軍に紹介された。シモンズ博士がママを紹介し、森さんが私を紹介した。この時、私の敬愛する国の前大統領閣下に初めて会った私の気持ちは特別だった。将軍は親切に私の手を取り、優しい言葉で 「はじめまして、ウィットニーさん」と言われた。私は顔を上げて将軍の青い瞳と正直そうな日焼けした顔を見ると、その上には輝かしい星条旗が掲げてあり、自国への誇りと、自分はアメリカ人だと云う感謝の気持ちがこみ上げてきた!。私の敬愛する国の恥になるような行為は、決してしません。将軍はがっしりした体つきで、そんなに背は高くなく、ヒゲを生やした正直そうな顔つきで、戸外や旅行に出て日に焼け、優しそうな青い瞳の、暖かく友好的なしぐさで、肖像画から想像できる通りの人だった。グラント婦人は非常にでっぷりし、軽い斜視で、私はむしろガッカリさせられたが、にこやかな笑みを造り、本当に賢明で親切そうだった。

8月18日の日付けでこんな記述もある。いわく、

今朝は早くから、幾つもの用事に出かけた。先ず永田町の洗濯屋に寄って、最近テーブル掛けやシーツなどの仕上げが悪いと苦情を言い、そこから築地に回った。先ずアメリカ大使館に行き客間で待つと、ビンガム婦人が優しく優雅に微笑みながら出でこられた。私のごく親しい友人と、その涼しく、日陰で、静かな客間から離れ難くて、2時間近くも長居をしてきた。2人でいろいろな事を話したが、主にコレラとグラント将軍の事だった。ビンガム婦人が言うには、グラント将軍暗殺の噂は、全く根も葉もないことだと云う。判事(筆者注:公使)宛てに非常に侮辱的な手紙が来た事は確かだった。その中で匿名の人物が、将軍や、彼等が 「お追従者」と呼ぶ、ワシントン駐在の吉田公使や、その他の高官を罵っていた。更にその中で、将軍の滞在費が既に15万ドルもの国民負担となり、もうこれ以上我慢ならない。彼等は、無数のアメリカ国旗が提灯や扇子やなにやらに描かれたのを見ると、怒りを抑えられないと書いてあった。判事はこの手紙を見るとすぐ、外務卿・寺島氏に手渡したが、寺島氏は、同様な通牒を受け、すでに信用できる警官を派遣し、忌まわしい脅迫犯人はイギリス人!だった事を突き止めたと、個人的に伝えてきた。しかし政府は既に、命を狙われた人達の保護に幾重にも手を廻している。グラント将軍は今月の27日か28日には帰国の予定だ。ビンガム婦人は、アメリカ政府の首長には、ヘイズ氏より将軍の方が適していると思っておられる。若しまたグラント氏が大統領になるのなら、あの大酒飲みは止めて欲しい。

この様に日本で大歓迎を受けるグラント将軍を、陰で面白く思わない外国人、特にイギリス人が大勢居た様だ。上述のように、グラント将軍は日本を対等な隣人として扱い、今回の日本訪問で大歓迎を受けていたから、利益追求に走るイギリス商人の不満の矛先が向けられたのだろう。
(クララの記述は、"Clara's Diary" by Clara A. N. Whitney, Edited by William Steele and Tamiko Ichimata, Kodansha International Ltd., 1979によった。)

グラント将軍と琉球所属問題

♦ 日本と清国間の琉球問題 ― 清国側の主張 ―

グラント将軍一行が北京で恭親王に会った時、天津の直隷総督・李鴻章の要請により、恭親王が「琉球所属問題」を持ち出し大いに弁舌をふるった事は、上で少し触れた。李鴻章はこれ以降も、直隷総督兼北洋通商大臣として積極的に外交に関わり、実力派の漢人官僚としていわゆる満州・女真族の打ち建てた清国朝廷を支え、本来の外交を統括する朝廷の機関・総理各国事務衙門(がもん)に取って代わってゆくわけだが、李鴻章はこれから日本にも行くグラント将軍に抜け目無く先回りをし、「琉球所属問題」の自国の主張を伝え、日本政府や天皇にばかりでなく、世界にも自国の主張が伝わる事を期待したのだ。

この時はすでに、日清間の条約・日清修好条規が明治4(1871)年7月29日に締結されていたわけだが、当時の大蔵卿・伊達宗城と李鴻章のこの条約交渉中に出て来た、日本側提案による「先島諸島の割譲」を李鴻章が拒否したという経緯があったから、そこに接続する琉球所属問題は、清国から見ても重要な課題だったのだ。まして日本政府の琉球処分強硬策に抗しきれなくなると、地元の琉球から清国へ密使が派遣され、琉球王国崩壊とその主権侵害を阻止するため外交的援助を要請して来ていたから、李鴻章にとってグラント将軍の訪問は大きなチャンスだった。


沖縄・首里城に飾られたシーサーと支那の冊封使の花人形
Image credit: 筆者撮影

恭親王いわく、琉球は何世代にも渡り宗主国・支那の従属国であり、支那から冊封使が送られ、琉球からは入貢があり、現在の清王朝だけでなくその前の明王朝でもそうだった。しかし琉球王は日本本土に連れて行かれ、退位させられ、独立国は消えてしまった。これは国際法上の違法行為で、日本政府は、日本の北京駐在公使や清の東京駐在公使を通じての話し合いにも応じない。清の東京駐在公使などは怒りのあまり、辞任を申出ている程だと伝えた。これは清国にとって深刻な問題であり、我が皇帝への侮辱であり、我が主権の侵害であり、もはや忍耐も限界に達し、干戈に訴える道しか残っていない。天津で李鴻章からもグラント将軍に話した通り、この解決にぜひ将軍の力を借りたいと述べた。

この様な話を聞いたグラント将軍は、自分は一個人の旅行者でどんな政府権限をも持ち合わせていない。恐らく日本でも日本の主張がある事は疑いないが、故意に清国に被害を与えようとしているとも思えない。自分は清国側の主張を聞いたから、日本の主張も聞いてみたい。その上で、自分に出来る事があったら平和のために尽くしたい、と答えている。そして、自身が大統領であった時に解決した、イギリスとアメリカの間に発生した損害賠償解決の事例を、国際問題解決策の一例として話した。

この損害賠償の事例と云うのは、このサイトでも数ヶ所で触れているが、アメリカの南北戦争中に、公式には局外中立を宣言していたイギリス国内の造船所で、南軍向けに強力な軍艦を造り秘密裏に南軍に売った、軍艦・アラバマ号に関するものである。南軍はこのアラバマ号や類似の英国から購入した軍艦を使い、海上で北軍の商船を襲い、大被害を与え恐れられた。これを容認できない当時のスーワード国務長官が、局外中立を宣言したイギリスのこの不法行為を英国内の法廷に告訴し、損害賠償を求めたものだった。しかしその後長期に渡りイギリスは無視していたが、1871年にアメリカと条約を結び、スイスのジュネーブで5カ国からの5人の裁定者によりこの争議を調停しようと合意し、その結果、1872年に英国が謝罪し、アメリカに金貨・1千550万ドルの支払いをする調停案を受け入れ解決したと云うものだ。

この様に李鴻章は、グラント将軍の清国訪問を好機と捉え、グラント将軍の日本への影響力に期待したわけだ。そしてグラント将軍が東京に着くと、恭親王は駐日清国公使に命じ、グラントに支那側の詳細事実を直接伝え、説明させた。いわく、

支那は琉球王が即位すると、適任者であれば、正使・副使を派遣し勅論と法令を授ける事を常として来た。琉球からの貢献は隔年一回、硫黄・銅・銀・鉛を贈り、福建州経由で北京に送って来た。また琉球からの留学生を北京の大学に受け入れて来た。この制度は西暦1649年から続き、支那の公式記録に載っている。琉球が支那に接触して来たのは隋朝の時で、明の洪武年間から入貢し、諸島を併せ琉球国と名づけ、王を中山王と称し、尚の姓を贈り、福建人36族をその国に入れ国の改進を助けさせた。それ以来この関係は今に至るまで継続している。琉球が西暦1854年にアメリカと、55年にフランスと、59年にオランダと条約を締結したが、その文章や暦法は全て清の法によっている。しかしその後、日本は強制的に、1872年に琉球王を日本の藩王(筆者注:藩主)に任じ、外国交際の事務を全て日本国・外務省に取り上げ、1874年琉球を内務省の管轄に移し、琉球人民の多くの嘆願も聞かず、琉球から清への入貢も禁じてしまった。

この様に、清国側の論理とその正当性、すなわち日本の違法性を説明させた。

♦ 日本と清国間の琉球問題 ―日本側の主張―

前述の明治天皇との非公式会談でグラントが話した琉球問題への忠告に先立って、グラント一行が日光を訪れていた7月22日、内務卿・伊藤博文と陸軍卿・西郷従道がグラントを訪問し、琉球所属に関する日本側の見解を細かく述べていた。いわく、

日本は千年来、琉球を管治し、琉球諸島を南島あるいは沖縄と呼んで来た。日本の古史に寄れば、琉球人は日本国に来朝し入貢した事実が載っている。元明天皇の時・西暦707年に琉球人に位階を授け物を贈り、元正天皇の時・715年にも琉球人が来朝し、735年に日本政府が琉球に碑を建て、地理・里程・港口・食水の所在を示した。また南島は大宰府の管理に属し、その地方の産物・赤木を献じた事が載っている。西暦1156年、源為朝という者が伊豆の大島に流されたが、近海の航海で多くの島々を発見し、琉球に来て王族の娘を娶り、一子をもうけたが、これが後の舜天王である。舜天王の後継は三代で絶えたが200年後に王統を回復し、今王・尚泰はこの血脈である。琉球は日本の「いろは」に相当する四十八文字を使用し、日本特有の神道を信仰している。西暦1841年将軍が薩摩藩主に琉球を賜って以来、今に至るまで薩摩に属している。その間に琉球は日本に臣礼を失したため、将軍の命により島津氏がこれを討伐し、琉球王を捉え、十五ヶ条を定めて誓書を出させ、これを遵奉させた。

更に続けて、それ以降、明治政府になって定めた日本国内の統制に基づく一連の琉球処分の経過を説明した。そして、琉球はこの様に一旦薩摩に降伏し誓書を出しながら、支那貿易をしたいため、支那に向かっては薩摩に降伏していない独立国を公言していたのだと断じた。この薩摩に降伏し誓書を出した以降も薩摩藩が統治してきた事実により琉球は独立国ではなく、だから、琉球御用船が暴風で遭難し殺害された台湾の牡丹社事件では、日本が出兵したのだ。支那政府が琉球はその従属国あるいは独立国だという主張は受け入れられない、と説明した。

グラント曰く、この件はアメリカのビンガム公使に委ねるが、近年の日本の発展は驚嘆すべきものがあり、軍備や陸海軍の整備が進み、清国は日本の敵ではない。従ってこの琉球問題は、日本がより高所からの配慮が出来る面があろうと述べた。続けて、今回の世界周遊でよく分かったが、ヨーロッパ各国の意図は、日本や清を従属国にしたいと思っている。この旅行で東洋に入り、シャムや支那や日本でその意図が明白に見え、血が煮えくり返る程の怒りをおぼえた。シャムや支那ではアヘンを売りつけられ、一般人を奴隷にすると等しいような犯罪が行われているし、日本ではつい先日も、検疫で日本側に隔離されたドイツ商船(筆者注:ヘスペリア号)をドイツが自国軍艦(筆者注:砲艦・ウルフ号)を送って開放させるのを見た(筆者注:1879年7月15日、この会見の7日前に横浜で起った)。そんな事は、どんな国もアメリカに対しては絶対しない事だ。琉球問題がこじれ、万が一日本と清の間に戦争が起きれば、それはすなわち、ヨーロッパ列強の思う壺である。グラントは、このように自身の観察を通じた意見を述べ、諸外国の介入こそ避けねばならないと強調した。そして、とにかく日清の和親保全が今日の急務であり、互いに一歩を譲り紛議を解決できることを望む、と結んだ。

♦ 琉球所属問題のその後の展開

このグラント将軍の忠告を受け、その後日清両国政府の平和解決を模索する対話が再開されている。グラントは帰国後、この日本側の主張内容を清国宛に書簡として送ったようだが、翌1880(明治13)年8月から開始された北京に於ける外交交渉で、度重なる折衝で合意が形成され、台湾に近い宮古島と八重山列島以南を清国へ割譲し、沖縄本島とそれ以北を日本領とする、いわゆる 「琉球分割条項」が出来上がり、調印の約束がなされた。この報告に接した外務卿・井上馨は、

グラント氏の互譲の説を施行する場合と相成り、誠に以て両国人民の幸福を維持するは、野生(筆者注:自分)に於いて本懐、この事に御座候。

と清国駐在・宍戸公使宛てに書き、必ず国内から、領土の割譲に等しいとの異論が出て、自分はその攻撃を直接受ける事は必然だが、それでよいと書き送ったほどだった。

しかしこれは、それまで繰り返し必死に琉球王国存続を日本へ嘆願し、行き詰まると今度は清国にその救済を嘆願し続ける琉球王国の愛国の人々には、国を分断するこの妥協案は受け入れられないものだった。何にも増して、それは主権侵害そのものと映ったのだろう。その必死の抗議活動は李鴻章にも影響を与え、ついに清国の政界を動かし、琉球分割の条約調印の延期にまで持ち込んだのだ。

この頃、1871年に回教徒の反乱に乗じロシアが占領した清国・新疆(しんきょう)の伊犂(イリ)地方をめぐり清とロシアが争い、1879年に一旦調印した条約を清側が批准拒否をしたりと、大いにもめていた事件に解決の糸口が見えはじめ、日本が日清交渉の作戦として匂わせていた、琉球問題で日本とロシアが提携し清に敵対する危険が減少したと清が感じたことも影響したようだという。突然に清国側から、北洋大臣・李鴻章と南洋大臣・劉坤一の再審議が必要だから、約束した調印を延期する、との公式書翰が来た。この時日本側との交渉窓口は清朝廷の機関・総理衙門だったが、実力者・李鴻章の調印反対に、総理衙門が抗し切れなかったもののようだ。日本側は交渉に先立って、総理衙門代表者・事務王大臣の 「全権委任状あり」と言う口頭確認だけで済まし、書面の照合をしなかったと、11月18日付けの機密信で宍戸公使が井上外務卿に報告している。結果的にこれは、元々調印権限の無い、あるいは当時有っても李鴻章の圧力で、後で無いと言わざるを得なくなった総理衙門代表者と話を進めていた事になる。

これは一方で、引き続き琉球所属問題が宙に浮く事になり、その後なお日清双方で話し合い決着の努力が有ったと聞くが、日清戦争にまで持ち越された。その結果、1895年に下関で結ばれた日清戦争講和条約で初めて、その第2条の如く「奉天省南部の地」、「台湾全島及其の附属諸島嶼」、「澎湖列島諸島嶼」の主権や官有物を永遠に日本に割譲し新しい国境が定まったから、日本の実効支配下に有った琉球諸島の所属問題は消えてしまったのだ。
(グラント将軍の世界周遊:"Around the World with General Grant", by John Russell Young, Vol. 1 and 2, The American News Co.,1879
琉球所属問題に関する、清国側の駐日清国公使の主張および日本側の伊藤博文等の主張:「琉球事件」 松井順時編、明治13年2月発行。
外務卿・井上馨の清国駐在・宍戸公使宛て書簡:外務省、日本外交文書デジタルアーカイブ、明治13年/1880年、6 琉球所属ニ関シ日清両国紛議一件。)

 


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03/18/2020, (Original since March 2012)