日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

アメリカの南北戦争と外交方針の転換

♦ 南北戦争

アメリカの人種問題は現在までも色濃く尾を引いている。かってアメリカ南部の経済的繁栄は、タバコや綿花などで農業を営む大地主によって維持されるプランテーションが主要部分を占めたが、その労働力に多くの奴隷を必要とした。アメリカ合衆国初代大統領のジョージ・ワシントンも、自分の農園には奴隷を使用していたから、農業を主体とする南部では普通のことだった。もちろん南部にも、もともと年期契約労働者として入植した奴隷を持たない、あるいは持てない白人の小規模農家は数多くあったが、白人中心の経済基盤の一部だから、奴隷制に異を唱える南部の白人は誰もいなかった。

一方北部では、工業・商業経済が中心で奴隷はあまりいない。むしろ奴隷制に対するプロテスタント的、理想主義的な罪悪感が強く、比較的早くから奴隷制や奴隷貿易を廃止した。こんな経済活動と立場の違いが国内政治問題の大きな対立点になっていった。ペリー艦隊を日本に派遣したフィルモア大統領も、こんな南部と北部の対立問題に悩み、南部の連邦脱退の危機に直面した。アメリカ・メキシコ戦争の後のテキサスやカリフォルニアの合衆国加盟も絡み、南部の奴隷は認め逃亡奴隷を逮捕し所有主に返還する法律をつくるが、新しい州の連邦加盟に奴隷制を認めないなど、中間的妥協案で危機を収束させた。地方自治が強い権限を持つ連邦制をとるアメリカ合衆国政府は、各州の連邦脱退による分裂を一番恐れたし、連邦政府を揺さぶるには、連邦脱退をチラつかせる事が即効性のある強烈な政治戦略となる。事実、それまでにも歴史的にそんなシーンが何回もあった。


連邦政府軍の守ったサウスカロライナ州チャールストン港入口の
サムター砦。南軍がここを攻撃する事から南北戦争が始まった。
Image credit: © 筆者撮影

1860年の大統領選挙が始まるころには、事態は北部と南部の感情的対立の様相を呈し始めた。そんな中で奴隷制に真っ向から反対するエイブラハム・リンカーンが大統領に当選すると、サウスカロライナ、ミシシッピー、フロリダなど深南部の諸州が連邦脱退を決め、更にノースカロライナ、バージニアなどが続き、11州の脱退となった。政治活動の脅し戦術だけでなく、それを実行に移したのだ。

1861年4月12日、連邦政府軍の守るサウスカロライナ州のサムター砦を南軍が攻撃することで南北戦争は始まった。そして、1865年4月9日、南軍のリー将軍が北軍のグラント将軍に降ったことで収束したが、4年間に渡り同胞が血を流し続け、北軍で36万人、南軍で25万人、合計61万人(「Encyclopedia of the American Civil War」)もの兵士が戦場で戦死する悲惨な戦いだった。

♦ アメリカの日本向け外交方針の変更

それまで日本で長く駐日公使を務め、日本における外国外交団のリーダー的存在だったタウンゼント・ハリスの退官が決まり、国務長官・スーワードの強力な推薦で1861年10月12日、プルーイン(Robert H. Pruyn)が後任の駐日米国公使に任命された。この時点ですでに南北戦争は始まっていて、連邦政府すなわち北軍は持てる全精力を南軍攻撃に振り向けたから、アメリカの日本に対する外交姿勢も大きく変わらざるを得ない。

国務長官から新任のプルーイン公使に宛てた書簡がそれを如実に表している。スーワード国務長官は、1861年11月15日付けのプルーイン宛の第2号書簡で、

国務省に入った情報では、既に支那政府は、(筆者注:南北戦争の開始を知り)我が国の実力を過小評価し、我が権益を無視し始めています。日本でもこんないやな経験をせねばならないのか?それを阻止するのが貴殿の使命です−我が国内で政府(筆者注:北軍)に敵対すべく南軍の嵐が力を振るっている間は、日本における我が国益を注意深く見守り、それを守ることが貴殿の主任務です。・・・貴殿の使命は如何なる状況下でも明白です。日本における他の西欧諸国代表者と、友好的で密接な関係を維持することが重要です。彼等以上にどんな有利な条件をも作らず、総ての課題について彼等とよく相談し、江戸における西欧文明の威信を出来る限り完全に保持することが、今の場合特に必要です。結論は、貴殿の米国的あるいは西欧的警戒感や毛嫌いを全て捨て去り、貴殿の使命を公平で公正な、かつ名誉ある振舞いで遂行し、貴殿自身の国のみならず、キリスト教徒や西欧文明諸国に対する純真な日本人の尊敬を勝ち取ることです。

と書いた。「総ての課題について駐日西欧諸国外交団とよく相談し、彼等との協調が特に重要だ」というものだ。

この外交方針は、アメリカ外交史の中でも非常にユニークなものだろう。それまでハリスが貫いてきたアメリカ的自尊心で行う独自外交ではなく、イギリス、フランス、オランダなどと徹底的に協調し、日本におけるアメリカ外交の立場を保持せよという、大きな方針変更だった。

これは、南北戦争を戦うリンカーン大統領がその全ての海軍力を南軍の海上補給路封鎖や主要港封鎖に当て、南軍も必死で軍艦を増強し対抗していたから、連邦政府がアジアに振り向ける軍艦に余裕はなかった。遠隔地の東洋の端で他国の外交路線と対立したり孤立したりすれば、せっかく確保してきた権益を失いかねない。従ってそれが最善の選択ではなくとも、権益確保のためには独自外交路線を捨て、イギリス、フランス、オランダなどとの協調路線に切り替えざるを得なかったのだ。
(スーワード国務長官の外交方針: 37TH Congress, 3rd Session. House of Representatives. Ex. Doc. No. 1.

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07/04/2015, (Original since 03/24/2008)