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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

下関賠償取極め書

元治元(1864)年9月22日、若年寄・酒井忠眦(ただます)が横浜で、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4カ国と合意した 「下関賠償取極め書」 は次のようなものだ。

   取極書

長門、周防の諸侯・毛利大膳敵対をなし、大君にて條約面を真実に取行う事難かるべき程の掛念有りしに因り、大不列顛、佛蘭西、合衆国及び和蘭の目代、外国船を打ち壊し且つ貿易を妨げるため右大名にて打建てたる台場を破壊せんため、同盟の船隊を余儀なく下関の海路に送れリ。且つ又、謀反の大名を罰する事大君政府の義務なれば、條約各国貿易の損害と軍隊の諸雑費とを大君政府にて引受けるべきなれば、下名の條約各国目代と大君政府の全権・若年寄・酒井飛騨守と、千八百六十三年第六月以来毛利大膳條約各国の旗章へ対し敵対及び暴業をなせしに付き、総ての苦情を纏(まつら)ん事を欲し、且つ同時に戦争の償金並びに下関に送りたる同盟軍隊の諸雑費等を聢(しか)と取極んため、次に載する四ヶ條を取極たり。

第一
各国に拂うべき高を三百万ドルラルと取極たり。右高の内に、是まで長門の諸侯暴業をなせしに付き、拂うべき総ての償金も加え在るべし。右の償金及び下関を焼かざる償金並び各国同盟船隊の諸雑費を云うべし。

第二
右拂方の儀は、各国目代より、此の取極書の本書並に各国政府よりの命令を受け大君政府に報告する日付けより、右総高を六ツ割にして、即ち五拾万ドルラルづつ四季に(三ヶ月毎に)拂べし。

第三
然れども、右各国にて敢えて金子を求る主意無れども、日本と交際を厚くせんの為なり。双方の利を尚充分に為する事を唯希望する所なれば、大君殿下にて右償金の代りに損失並び損害の償いとして、若し下関の港或は内海に在る貿易に適宜なる港を開んと欲る旨を申出る時は、各国政府に於てそれを承諾するか、或は償金を金子にて受取るべき存意あらば、前に取極める如くなるべし。

第四
此の取極書の日付より十五日の内に、大君政府にて本書を取替すべし。

右證據として、各国と日本の全権、此の取極書を英文、蘭文及び和文に綴り、各五通宛書記し調印せり。右の内英文を原文とすべし。

於横浜、千八百六十四年第十月二十二日
元治元年九月二十二日               

取極め書はこの様な4ヵ条だったが、最終的に幕府は第三条にある瀬戸内海に1港の追加開港を嫌い、300万ドルの支払いを選んだのだ。更に幕府は、各国の批准通知を待たず、慶応1(1865)年6月末に第1回目・50万ドル分の支払いを始めた。

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07/04/2015, (Original since 06/28/2011)