日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

孝明天皇の幕府宛 「海防勅書」

度々外国船が琉球や浦賀に来たという噂を聞いた孝明天皇は、弘化3(1846)年8月29日、幕府に当てた「海防勅書」を出し、武家伝奏を京都所司代の役邸に派遣しこれを伝えさせた。これは、孝明天皇が自ら外交問題にかかわり始めた最初の行為である。武家伝奏いわく、

近年異国船が時々見えるとの噂を(天皇は)内々にお聞きになられた。しかし、文道をよく修め、武事も全く整っている今日、殊に海辺の防御も堅固の旨、これまた兼がねお聞きになられご安心なされてはいたが、近頃この(異国船の)噂をいろいろ心に掛けご心配なされておられる。なおこの上、武門の面々は洋蛮を侮らず、小寇を恐れず、大賊にはよく籌策(ちゅうさく=策略)をめぐらし、神州の瑕瑾(かきん=恥)とならぬよう十分指揮を執り、更に宸襟(しんきん=天皇の心)を安心させるように、とのお沙汰があった。

これに対する幕府回答として、10月3日、京都所司代・酒井忠義の朝廷宛の上申書が出された。いわく、

先般のお沙汰の旨をすぐ関東へ伝えたが、その通り将軍へ言上する旨年寄り共から連絡が来た。異国船については、文化度の振り合いも有るので、差し支えのない事柄は近来の模様の大略を天皇に申し上げるようには行かないだろうか。そのあたりの内容を内々申し上げれば、かえってご安心なされる事であろう。なお一層、私(酒井忠義)がよく思案してくれまいかと(武家伝奏より)内談された趣を関東へ伝えたところ、最近の異国船渡来の様子を別紙のように連絡してきて、年寄り共よりも、文化度の振り合いで程好く取り計らえとの意向を伝えてきたので、すぐ御附(=禁裏御付武士)へ伝えました。

また、京都所司代配下の禁裏御付武士からこの別紙も一緒に出され、当年4月、5月、閏5月、6月にかけ、琉球の那覇にイギリス船1艘やフランスの軍船3艘が来たこと、浦賀にはアメリカ軍船2艘やデンマーク国測量船1艘が来たこと、長崎にフランス軍船3艘が来たことなどを述べた上申内容だった。

現実はこれ以前にも、文化5(1808)年8月のイギリス船・フェートン号の長崎入港事件や、文化10(1813)年5月にロシア船艦長・リコルドが国後島に来て日本側に捕縛されているゴローニンらの釈放要求をしたり、天保8(1837)年6月にアメリカ船・モリソン号が日本の漂流民7名を送還するため浦賀に来航し、砲撃を受け退去させられたりという事件が起っていたが、この時は、直近のもの以外の情報は出していない。

この様に最初朝廷側は、不必要に幕府を刺激しないよう非常に慎重に、むしろ遠慮がちに天皇の重大懸念を幕府に伝え、「文化度の振り合いも有るので」と、婉曲に実際の情報を求めたのだ。この文化度の振り合いとは、幕府がレザノフに通商を許可しなかった事を恨んでの所為と云われているが、文化4年4月・5月、ロシア船が択捉島・内保(ないぼ)番屋を襲い、紗那(しゃな)会所に放火し、樺太の大泊に再度侵出し、礼文島沖で商船を襲い、利尻島で幕府船に放火をしたりという狼藉を当時の幕府が朝廷に報告していたが、この時の幕府報告のようにもう少し詳しく教えてはもらえないだろうかと頼んだ事だ。幕府はこの朝廷の要求をあまり問題視せずその要望に答えたが、これが孝明天皇が幕府の外交問題にかかわり始めるきっかけになったのだ。

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07/04/2015, (Original since 03/27/2010)