日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

朝廷へ、アメリカから入手した「ペリー提督日本遠征報告書」の翻訳も説明

幕閣は、安政4年12月11日(1858年1月25日)ハリスと日本側全権・井上信濃守と岩瀬肥後守との通商条約交渉が始まると同時に、アメリカのペリー提督と直接浦賀で和親条約の交渉に当たった林大学頭を京都に送り、ハリスが伝える日本を取り巻く切迫した国際情勢を朝廷に説明させた。林大学頭は武家伝奏・広橋光成(みつしげ)と東坊城聡長(ひがしぼうじょうときなが)に面会し事細かく説明した後、その概要を書翰としても提出しているが、次のようなものである。いわく、

異船一件、12月29日に申し上げた大意の箇条書き
  1. 今回私ども2人が上京した理由は、これまでにも外夷の処置をその都度書面でご報告しましたが、書面のみでは尽くし難く、今回アメリカ官吏が申し立てた事について、とりわけ詳細に報告するよう命じられました。

  2. 4、50年以来万国の形勢は一変し、各国は貿易を専一にしているため、日本をも諸蕃同様鎖国を開くための使節を送るべく、ヨーロッパ諸国でいろいろ評議があり、終にアメリカが主となり、三度目の人選でペリーが若し和議が整わない時は戦争の覚悟を持って渡来したわけです。ただし、この「レヒリンヤッパン」(筆者注:いわゆる「レヒソンヤッパン」、即ち元オランダ商館長・レフィスゾーンが帰国後発表した「Bladen over Japan, 1852」)と「ペリー日本紀行」などの書籍を入手したので翻訳し、ペリー渡来の発端が今になって理解できました。

  3. 丑年の嘉永6年7月(筆者注:ペリー艦隊が浦賀に現れたのは6月3日。江戸湾退去は6月13日。7月と書いたのは林大学頭の記憶違いか)ペリーが相州浦賀に渡来しましたが、その目的は江戸へ乗り込み、和戦の選択を決定すべきという時、本国アメリカよりの軍艦の到着が遅れたので、大統領の書翰のみを差し出し、浦賀近海を測量し帰りました。

  4. 寅年の安政元年正月再び浦賀に渡来し、いよいよ戦力を尽くし決着を付ける積りで香港で軍艦九艘を調え、大砲を用意し、武州神奈川沿岸に乗り込んだので、横浜での応接ということになりました。その時日本側から出張した諸役人はもちろん、諸藩の警備隊は何れも必死に働き、戦争をも覚悟していたため両国の殺気は甚だしく切迫しましたが、数度の応接により双方の事情が理解され、終に和親條約の締結となりました。なおまた、5月下田で追加條約も取り交わしました。

  5. 異船の処置についてとかく批評する向きもありますが、単に柔軟な取り扱いをしただけではなく、前文でも述べた如く、戦争が始まるほどにもなりましたが、将軍が万国の時勢をよく考慮し、もっぱら世を治め国民を安心させる事をお考えになられた結果であります。

  6. 条約が締結された18ヶ月の後に下田へ官吏を置く約定のため、辰年の安政3年7月、アメリカ国官吏のハリスという者が渡来しました。国書を持参し、重大な事柄を言上したいといって、慶長の頃ポルトガル人が登城し将軍にお目見えまでしているではないかと申し立て、江戸出府を願ったので、昨年以来数回応接をしています。ただしその他、下田遊歩の件や、下田や箱館にアメリカ商人を置きたい件など、種々応接をしました。

  7. 当巳年になり、条約締結につき、出府登城が済んだ後の12月4日、官吏のハリスが箇条書きを提出し、公使や貿易、開港などのことを願いました。この中の諸条について取捨選択の上、(上様は)許可を与えたいご意向です。しかしながらこれまでのように近辺の海辺で欠乏する品々を与えるのとは訳が違い、時勢をよく斟酌の上変革をするご処置でありますので、細かく申し上げなければならない訳であります。ただし、ハリスが10月21日江戸に出府の上差し出した書翰と口上の翻訳、同26日の対話書、11月6日の応接書等は、今回の箇条書きにその願意の趣はつぶさに記載してありますが、これは関東から回送されるはずです。

  8. 開港地について、官吏のハリスは10港と要求していますが、もっと減らす積りです。その他の開市の地は、京都に関して関東でも一同心配し、これについては申し上げるまでもなく許可をせず、江戸表で引き受け、江戸近辺で開港開市をします。みだりに雑居などしないよう厚いご配慮がなされ、取り締まりもしっかりと付け、京都に関してはいずれにしてもご安心していただけるよう力を尽くし、拒否する積りであります。

  9. 最近の海外の時勢が変わってしまった事については、寛永以来のご旧制(筆者注:寛永10(1633)年の鎖国令以来の鎖国中)でありますが、鎖国の法については改められ、万国へ程よい付き合いをしなくてはなりません。アメリカやその外の国々とは、一国との戦争であれば勝利することもありましょうが、外国同士が同盟し諸港へかわるがわる軍艦を派遣すれば、勝利したとしても日本は疲弊し、清国のごとく一旦戦争が始まれば、いまもって外冦内乱とも収束していないほどです。したがって外国の処置は、寛永以前へ立ち戻ることが当節の時勢に適うものであり、すでに寛永以前は外国商船の往来はもちろん、江戸へ夷人を滞在させることも有ったわけです。
この外にも、蝦夷地の事、ロシア人の事、若しアメリカ人が手を引いたとなるとイギリス人が必ず渡来する事、万国の形勢に同盟がある事、諸蕃の航海が盛んになった事などを申し上げます。これらに付きご不審の点については、お尋ね次第更にご説明します。
    12月        林大学頭   津田半三郎
(「孝明天皇紀」、安政四年十二月の記述からの口語訳)

この様に、林大学頭は自分の経験も踏まえ詳しく事実にもとずいた説明に勤め、その後この件について太閤・鷹司政道や関白・九条尚忠の検討があり、翌安政5年1月12日東坊城聡長が孝明天皇に、この概要を記した書翰と共に林大学頭の説明を伝えた。更に1月29日、武家伝奏・広橋光成と東坊城聡長が林大学頭を訪ね質問と再度の説明があったが、光成は朝廷側の最も心配事である「人心の折合い」について幕府の見解をただした。そんな会話の中で光成は、「京都の人心の折合いは難しい」と天皇の考えの違いを示唆したが、同行の目付・津田は、その折合いの難しさは、「異国人を禽獣と同一視している偏見があるためだ」と暗に朝廷あるいは孝明天皇の偏見を明確に指摘している。数日後、光成と聡長は孝明天皇に再度この会見の内容を伝えているが、結果的に、思い込みの強い孝明天皇の理解は得られなかった。

林大学頭が日本を取り巻く状況を朝廷に説明し説得を試みている間に、ハリスと日本側全権との間で交渉が進んでいた日米通商条約の草案が完成した。そこで老中・堀田正睦は自ら京都に行き、朝廷を説得し条約調印の勅許を得ようと、続いて堀田が上京してくることになる。

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07/04/2015, (Original since March 2009)