日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

タウンゼント・ハリスからペリー提督への手紙

総領事・タウンゼント・ハリスが江戸の蕃書調所で、日本側全権の下田奉行・井上信濃守と目付・岩瀬肥後守と、ペリー提督による日米和親条約締結に続く日米修好通商条約と貿易章程の交渉を終えた。この直後からタウンゼント・ハリスは体調がすぐれず、江戸から下田に帰る途中の1858(安政5)年3月8日、幕府の用意した蒸気軍艦・観光丸の中でペリー提督宛に長文の手紙を書き送っている。この手紙が1858年12月12日付けのニューヨーク・ヘラルド紙の第8面に掲載さている。このペリー提督宛ての手紙いわく、

合衆国海軍、ペリー提督殿
1858年3月8日、江戸にて、

拝啓、ペリー提督殿、
1857年10月27日付けの貴提督宛て書簡で、その時点で、来月中に江戸に行くとお伝えしました。そのため私は下田を11月23日に出発し、ビッチンガー牧師( Chaplain Bittenger )が江戸に駆け登ろうとして到達した川崎での日曜日を挟んで、同月30日ここに到着しました。合衆国を出発する前に、大統領が私を日本と通商条約を交渉する特別全権に任じましたので、その事実を老中に通知しました。

従って私は旅行中、合衆国大統領の代理として迎えられて歓待され、その資格であらゆる名誉ある待遇に接しました。 尊敬が欠けた扱いに文句をつける隙もなく、その反対に、その多くを喜びと共に辞退するほどでした。下田からの道中ずっと、橋々が修理され多くの新しい橋が懸けられ、街道は整備され、私が通過する数時間前に掃き清められていました。各町や村の名主たちはその境界で私を待ち受け、その小さい管轄区域をずっと私の前を歩き通しました。街道の通行は完全に遮断され、私はケンペル( Kempfer筆者注:Engelbert Kaempfer )が記述した様な旅人や僧侶、尼僧等々の混雑に出会いませんでした。町や村中の商売も中止され、食事処や茶店が開いているのみでした。人々は祭りに着る着物姿で各家々の前に敷いた畳の上にひざまずいて居ました。ことりとも音を立てず、興味本位の物見の気配もなく、皆、敬いの静けさを保って居ました。

小田原を過ぎると村落や部落が多くなり、川崎で六郷川を渡ると街並みが続きます。品川を過ぎると日本橋まで5英マイルで、その間には特別にどんな区切りも有りません。若し場所を知らされなければ、私が何時江戸の入ったのか分かりません。私は第四曲輪かその外側かにある宿所に案内され、そこには快適に過ごすに必要なものが揃っていたました。椅子やテーブル、寝具や浴室等々、私の(筆者注:下田の)家に有った物と同様に造られていました。到着の3日後、日本の世襲大名即ち領主の一人である堀田備中守を表敬訪問しました。彼は老中の首座であり、最近設けられた外国掛けの大臣であります。

私が到着した八日後に大君(一般名称の将軍ではない)と公式に謁見し、この皇帝陛下に話しかけると直接返答があり、国書を手渡しました。私の知る限り謁見の儀式は如何なるヨーロッパの宮廷とも全く同じで、私の入室と退室時に三拝し、会見中はずっと立っていて、汚れのない新しい靴を履きました。謁見室には六人の老中と大君の兄弟と言う肩書の三人だけが控え、平伏して居ました。続き部屋には約三百人から四百人の領主たちと幕府内の高官が控えていました。他の行事とは違った「裃(かみしも)」と呼ぶ礼服を着て、下の足部分を除けば特に言う程のものではありません。下の足部分は足よりほとんど1ヤードも長く、着ている人が歩くと後ろに尾を引き、まるで膝で歩くように見えます。彼らは黒の紐の付いた冠をかぶり、それは言葉で表しようもないものですが、貴方が日本で見た神道の神主がかぶる様な冠です。大君は黒の紐の付いたベルをひっくり返した様な形の冠です。彼は黄色の絹の長い礼服を着ていました。ただ一つの真珠やダイアモンド、宝石、あるいは如何なる金銀(刀に付いた小型の金飾り以外)は何も見えません。全てが全く簡素で、この簡素さが最も印象的でした。古い時代の著者が見たと言って記述した様な金で葺いた屋根、格子細工の天井や金色の柱は何も見えませんでした。宮殿の内装の木組み材は塗装されていません。私はこの謁見の三日後に外国掛け大臣と業務上の会見をしました。それは非常に長時間にわたり、全く興味深いものでした。この時以来私は日本人へずっと、国際法、政治経済、国家資源の開発に寄与する通商方法としきたりと云った、これら重要課題から発生したり関係する全ての事象について教示する事に関わりました。ヨーロッパやアメリカの現状がその注目課題になりました。

その骨の折れる事は殆ど信じられない位で、私が日本には表現する語彙の無い新しい考えを述べると、その真意の説明に多方面にわたる実例を挙げねばならず、それに加え通詞の森山は前述した多くのオランダ語の語彙を知らず、そのため彼にあらかじめ教えておかねばなりませんでした。時には私の伝えたい意味の、それ以上の説明を殆どあきらめる程でしたが、私は辛抱し、私の最も楽観的な期待を超える骨折り仕事と我慢に対して見返りがあり、日本に、合衆国との自由貿易を効果的に開かせる通商条約を作る事が出来ました。ご承知のごとく私は、条約が批准されるまで交渉の細部を漏らす事は許されていません。しかしながら、一点だけ貴方に思い切って言いますと、それは宗教に関する事です。条約は日本に居るアメリカ人に対し、教会建設の権利と共に、彼らの信仰の自由を保障しています。更に条約は、踏み絵の習慣の廃止をも宣言しています。全体としてこの条約は、カッシング氏が支那と合意したものと同様に満足の行くものであると貴方はお考えになる事と思います。貴方以上に良く知っている人は居ませんが、この単一民族との条約締結に対する重大な障害でした。

心に浮かぶ事は、私の論拠としてどんな威嚇も使わなかった事、抵抗できない様な論争に持ち込む兵力を持たなかった事、最後に、領事館付きオランダ語通訳のヒュースケン氏という唯一つの例外を除き、私は支那人の下僕さえも連れず、全くの一人でした。貴方の1854年の偉大な仕事に対し、この様な形で私の名前を関係付けられ、光栄であります。それは常に欲した名誉でありましたが、私が日本に来て以来二十ヵ月も経たずに私の熱望した目的に到達する事が出来た中で、私が成功するとは少しも思っていませんでした。

私の到着以来一年以上も、日本の統治者を指して将軍( Zio-goon )と言う名前即ち称号で呼んできましたが、同様に、日本の「精神的皇帝」の住居を表現する時に、彼らが呼ぶように都( Miako )と呼んでいました。それはこの国の人々の完全な隠蔽体系を表していますが、今日に至るまで、彼らは両方の言葉は正しくなかった事を私に知らせませんでした。そして私が江戸に向かって出発する直前になって、私に彼らの政治的統治者の称号は大君即ち「偉大な統治者」で、大元帥( Generalissimo )を意味する将軍ではなく、同様に、「都」は「宮廷( The Court )」の意味で、正確な場所の名は京都( Kiota )であると言いました。ご承知のごとく、日本の鎖国と身分は同義語です。私がここに来る前に、私はここに従って行こうと決めていました。

下田を出る前に彼らは、私が日本の店や、あるいは江戸の商売や、彼らが言う所の「一般人が生活する場所には入らない」様に請け合ってくれるよう言っていました。

私はそんな約束はできないと言い、私は完全に自由に思うように私の宿所から出かけ、思うように何処へでも視察に出ると言う明確な了解の下に旅に出かけました。

同時に、私は運動の目当てもありませんでしたが、正しくは、私の謁見と三回の外国掛け大臣との会見以外、ただ二回の外出で、それはただ私の宿所の近くのカカ( ca-ca、 筆者注:ba-ba 、馬場か)即ち「Champ de Mars (筆者注:シャン・ド・マルス練兵場)」での乗馬だけでした。全ての(上述を除いた)会見と交渉は私の宿所で行われました。この全てから貴方は直ぐ推測なさると思いますが、私はこの実に広大な都市の全く不完全な説明以上のものをお伝え出来ません。城郭が主要な特徴的な話題ですが、それは四つの不規則な円形をした曲輪から成り立ち、その全ては堀すなわち水路で囲まれ、内側三つの曲輪には土手の面を石積にした石垣があり、その高さは12から30フィ−トで、それは構築した土地の形状によります。石垣を貫通する出入口は約50から60フィートある中庭に通じ、出口の門はこの入口の門に対し右側に位置しています。防御の観点に立てば、弓矢で武装した兵士に対する以外は、この造りの価値がありません。堀は渡れ、80から150フィート幅で、良くできた木製の橋が架かっています。内側の曲輪は大君と息子たちだけが住み、二番目には老中と主要な領主が住み、三番四番は大名やその他の領主、また政府の上級官僚たちです。

私は人口や戸数、城郭や街の大きさについて満足できる情報を入手できませんでした。彼らはこれらの点につき全く無関心を装い、無遠慮に、日本では人口調査などやったことが無いと明言しました。彼らは私に江戸の地図をくれましたが、縮尺に従い作られたとは言いながら、そこから満足できる見解を得る事は不可能です。もし私が彼らの陳述を当てにすれば、街の外周は約50マイルで、城郭の外側の曲輪の直径は7マイルから5マイル ― 全てイギリス単位です。私が入手できる最良の情報によれば、私は人口を二百万人と見ますが、これはむしろ実数以下と考えます。家々は皆木製で、瓦葺きであり、二階建て以上はありません。私の通過した街路は50から80フィートの幅ですが、城郭の外側の部分はもっと狭い道だと言われました。私はここにいる間ずっと兵士の一団は見ませんでしたが、私から慎重に隠したように見受けます。警官は数多く居て充分です。江戸は日本の他の町と同様、例えば360フィートの距離の「街路」に区切られていて、通りを横切り門付きの頑丈な柵が造られ、夕方早い時間に閉じられます。これらの各区域には「お殿( Ottono )」即ち隊長が居て、彼らは各区の平静に責任があります。多くの場所の関門柵は二重にあり、凡そ30フィートばかり離れて置かれていて、覆しにくい矢来が許可なしに通ろうとする兵力に備えてあります。江戸には8,000から9,000のこんな街路があると聞きました。ここから人口数の概算を導き出せるかも知れませんが、しかし内部の一区画の範囲が大きく違う事から、見積もりは少なくとも全く不完全なものでしょう。さて、私はこの手紙を終わりにしますが、全く法外に長くなり、貴方が読み終わるのにうんざりされたのかも知れないと懸念致します。
タウンゼント・ハリス

ここでタウンゼント・ハリス自身も言うごとく誠に長い手紙であるが、初めて江戸に行き将軍・徳川家定に謁見する当時のハリスの気持ちや観察眼、また意識を集中した事象について良く窺い知る事が出来る内容である。自尊心が高く負けず嫌いで、時に日本を見下す意見もあるが、単純明快さや公平さ、対等性を好むアメリカ人の観点からすれば、謙譲さが基本の一つである日本文化は理解しにくい面もあっただろう。本文に書くごとく、この時点での日米修好通商条約は、調印前の条約文が日本全権と合意された時点である。この日米修好通商条約の条約文合意直後の安政5(1858)年1月21日、外国掛けで老中首座・堀田備中守は自ら上京し、二ヵ月間も京都に留まり 朝廷の条約勅許を得ようと苦心したが、新興公家集団と結んだ孝明天皇の強力な抵抗にあい、失敗し江戸に帰る事になる。

ここで歴史の皮肉として、折角この手紙を宛てて書いたペリー提督は、ハリスがこの手紙を書いた日より3日早い1858(安政5)年3月5日、ニューヨークの自宅で亡くなっている。勿論ハリスの知るところではなかったが、日本を開国したとペリー提督の快挙を国を挙げて歓迎するアメリカの反応から見れば、「貴方の1854年の偉大な仕事に対し、この様な形で私の名前を関係付けられ、光栄であります」と書き、それに続く通商条約を締結するに至るタウント・ハリスの高揚感が分かるものだ。

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11/25/2018, (Original since 11/25/2018)