日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

エリシャ・E・ライス(Elisha E. Rice)の箱館への派遣

♦ 突然箱館に来航したエリシャ・E・ライス

エリシャ・E・ライス(イリシャ・ライスとも)は、アメリカ総領事・タウンゼント・ハリスが下田に赴任して来た8ヵ月後に、突然何の前触れもなく箱館にやって来た箱館駐在のアメリカ貿易事務官( Commercial agent )であり、後に箱館駐在のアメリカ領事になった人物である。箱館奉行の記録によれば、安政4(1957)年4月5日の午後3時頃、アメリカ捕鯨船・アンテリヨー号に乗り、香港経由で箱館にやって来たのだ。状況の全く分からない箱館奉行は、翌日4月6日の午前11時頃上陸し奉行所に現れたライスと面会し、挨拶代りに恒例のジャガイモ2俵と梨2箱を出すと、返礼としてライスは6連発の小道具付き拳銃一式を奉行への贈呈品として差し出した。そしてライスは奉行宛ての、マーシー国務長官署名のアメリカ大統領の任命證書と添付書簡とを提出し、上陸し止宿したいのでと、止宿場所の提供を求めた。またライスは、この英文の大統領の任命證書は日本側で直ちに翻訳できないことを見越し、オランダ語の翻訳書も併せて提出している。日本側は、書簡の翻訳が終わらなければ事が進まないことを述べ、翌日の会談を約束した。

筆者には、この間の会話がどう進められたのかはっきりしない。ライス自身はオランダ語は分からないと言っているので、日本側は箱館の蘭語通詞・品川藤十郎も同席し、ライス側から捕鯨船・アンテリヨー号の船長・トーカとゼネラルスコット号の船長・カラウが出席したと記録されているから、どちらかの船長がオランダ語を話した様に見える。

ライス自身が「貿易事務官」と言う肩書で箱館奉行に差出した箱館赴任の理由を述べた書簡によれば、ペリー提督が日本政府と締結した和親条約の規定により赴任して来た。職務とする内容は、遭難し救助された自国民とその財産を受け取り、箱館に来るアメリカ船舶と自国民を救援する事である。そして、船舶が必要とするが日本で入手できない物品はアメリカより取寄せる。また、出来れば箱館で入手できる物産のサンプルを入手したい。また費用は自分が出すが、船舶の修理をもしたい。和親条約締結以来、すでにアメリカ捕鯨船は21艘も遭難している。こんな多くの遭難事故のため、アメリカ政府は自分に命じ、この地に派遣したのである。この様にその派遣理由を述べていた。

そしてこのマーシー国務長官署名のアメリカ大統領のエリシャ・E・ライス任命證書の蘭文の和解いわく、

米利干文書翰和解
武田斐三郎
品川藤十郎
  この書を閲(けみす)る所の諸君を拝啓す。
エリサ・エ・リセ(筆者注:エリシャ・E・ライス)は合衆国マイネ産(筆者注:メイン州出身)の人なり。我が大統領の命にて、日本箱館の貿易に関係せるアケント(筆者注:エイジェント)に任ぜられ、貿易諸事の権を委任する事疑いあるなし。予は合衆国大史官ウイリアム・マルセイ(筆者注:国務長官ウィリアム・マーシー)なり。即ち予の名を記し、且つ合衆国官府の印章を款(しる)して其の證となす。
  米利干合衆国統政後第八十年即紀元一千八百五十六年六月二十六日
    印章       ウエ・エル・マルセイ(筆者注:W・L・マーシー)

と述べ、エリシャ・E・ライスはアメリカ合衆国政府が任命し、箱館に派遣した人物であることを証明している。この他に、4月7日付けで品川藤十郎と北村元七郎が翻訳した同じ内容の翻訳文も記録にあるが、これはこの2人が英文からの翻訳を試みたもので、蘭文からの翻訳と比べ少々ぎこちない。しかし4月7日、ライスは仮止宿場所の浄玄寺の下見に役人たちと出掛けたが、この時の通詞は品川藤十郎が務めた。ライスは浄玄寺を気に入り、早速浄玄寺に国旗を掲げたいとその場で申し出たが、役人たちは奉行の許可を取らねばならないと即答を避けた。こんな会話を処理できた通詞の品川藤十郎は、間違いなくある水準の英会話の通訳や英語翻訳が出来たようである。

そして箱館奉行が浄玄寺の法談をする別堂に仮止宿場所を決めると、4月8日、ライスは捕鯨船・アンテリヨーより浄玄寺に引き移った。また翌日のライスの苦情により、奉行所では浄玄寺の板塀を修理し、警護として同心1人、足軽2人を付け、その内の1人はライスの遊歩時に警護に当たる対策を取った。

♦ 箱館奉行の江戸への指示伺いと、下田の総領事・ハリスの見解

箱館奉行の堀織部正と村垣淡路守は4月6日早速、この大統領の任命證書の翻訳を見たが、日本語の日米和親条約に照らしても箱館にアメリカ人の官吏を置く規定はないので、ライスの提出した他の書簡類の翻訳が終わり状況が判明するまで仮に止宿を許す旨を述べ、以降の指示を仰ぐ上申書を江戸へ送った。更に4月10日付け上申書で、ライスの持って来た英文の和親条約第3条を箱館に滞在していたリュードルフにオランダ語に翻訳させ、オランダ語から日本語にした翻訳文を精査したが、「救助した漂民を下田又は箱館に送り交受の命を請けたる本国人に交附すべし」とある。「此の度エセント申立ての趣、この辺りに符号仕り候様存ざれ候」と述べ、英語の日米和親条約はライスの言い分に合致するから、当時条約を締結した役々に確認しご決定下さいと指示を求めた。

箱館に着き浄玄寺に居を定めたライスは、おそらく自身の箱館赴任その他を下田に居るというタウンゼント・ハリスに連絡したかったのだろう。4月9日、自身のハリス宛書簡を下田まで届けて貰いたいと奉行所に依頼した。 このハリス総領事宛に出した書簡がいつごろ下田に着いたか筆者には不明だ。一方のハリスは、下田に着任してから10ヵ月も経ってやっと下田協約をまとめ、日本代表の下田奉行・井上信濃守と中村出羽守との間で批准書を交換した。その後でこの日、安政4(1957)年閏5月5日、ハリスは下田奉行に向かい箱館に着任しているライスの話を始めた。これはライスがハリス宛の手紙の発送を箱館奉行所に依頼して以来、ほぼ2ヵ月後の事である。ハリス曰く、

西洋各国の仕来りは、官吏を置くと取り決めていない場所にはエージェントを置いている。このエージェントの身分は低く、主に自国商人の世話をし、政府間の交渉は行わない。しかしライスの派遣については、今迄我が政府から自分への指示は一切なく、その詳細は不明である。しかしライスから届いた書簡によれば、国事に関する事には無関係で、商売筋のみに関係する目的の派遣である。またライスからの書簡の封印は、アメリカ政府の印章に紛れもないものだから、我が政府が派遣した人物である。この様にアメリカ政府の印章を使用する者は決して疑わしい者ではなく、その要望内容を受け入れる事が日本の為になると思われる。

と、自身の見解を述べた。下田協約をハリスと締結したばかりの下田奉行・井上信濃守は、下田協約第2条に「箱館に下官吏を置く」と決めた如く、約1年2ヵ月後に下官吏が箱館に来ればライスは退去するのかと問い質した。ハリスは、ライスに付いて政府から直接の指示がないので何とも言えない。しかし、何れライスは箱館の下官吏に任命されるだろうから、この際あまり厳しい事は言わず、箱館に置いておく方が上手く行くだろう。和親条約第5条に「合衆國の漂民其他の者ども當分下田箱館逗留中・・・」とある如く、箱館でアメリカ人は逗留できないと言う事にはならないだろう、と締めくくった。

♦ 老中・堀田備中守の結論

幕閣は、この下田奉行・井上信濃守とハリス総領事との対話書や下田奉行の上申書を箱館奉行に送付し、また下田のハリスからも箱館のライスに宛てた書簡が届き、双方の意思疎通が出来た様である。更に、安政3(1856)年11月より外国事務取扱の専任になった老中・堀田備中守は、箱館に赴任し仮止宿しているエリシャ・ライスの処遇につき、安政4(1857)年7月4日付けの通達書を箱館奉行宛てに送付した。いわく、

  七月四日 備中守
    箱館奉行へ
箱館港へ来午年六月中旬より合衆国の下官吏差置き候積り、下田表に於て亜墨利加官吏と談判の上条約取結び、先達て相達し候通り規定書取替せも相済み候事に付き、ライス儀今更差戻し候儀も出来申す間敷く候間、右規定書取替せ相済み候段ライスへも篤と申し談じ、来午年六月亜墨利加国より別段下官吏差越し候わば、ライス儀は差戻し候積り兼て談判に及び置き候様致すべく候。尤もそれ迄は、先ず是迄の振合いを以て仮止宿致し置き申すべく候。且つまた下官吏住居向き、併せて亜墨利加土人差置き候場所等の儀は、後害相成らず地所見立て、取締り筋等の儀厚く勘弁を加え、猶伺い候様致され候事。

この老中・堀田備中守の明確な決定と指示で、期間は箱館駐在のアメリカ下官吏が赴任するまでと言う期限つきながら、公式にエリシャ・E・ライスの箱館滞在が保証されたのだ。アメリカ大使館の記録によれば、ライスは1865(元治1)年1月18日付けで初代箱館駐在アメリカ領事に任命され、1870(明治3)年11月2日までその職にあった。しかしそれ以前の、安政5(1858)年6月中旬に予想された新しい箱館領事の派遣はなかったわけだ。

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11/20/2018, (Original since 11/20/2018)